嵐山・奥嵯峨野路
小倉山 峰立ち馳らし 鳴く鹿の へにけむ秋を 知る人ぞなき (古今集) 紀 貫之
嵐山サイクリングロード〜嵐山〜奥嵯峨自転車散歩
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源氏物語・平家物語の舞台・・・嵐山、嵯峨野 |
史跡名勝指定地で大堰川(おおいがわ:保津川/桂川)の右岸に聳える山を称しますが、広域的には左岸も嵐山と称します。松尾大社の鎮座する荒子山(あらしやま)が訛ったと伝えますが山の桜、紅葉を吹き散らす事からとも諸説あり定かでありません。標高383mでさして高くはないですが、全山青松などに覆われ桜、楓が点在し古くは小倉山と称されました。後嵯峨上皇が亀山殿(天龍寺)を造営し吉野の桜を移植されてから桜の名所になりました。嵐山は眺める山で登る山ではないと言われます。この両岸を渡す渡月橋は全長が約150mの木造の橋で亀山上皇が、くまなき月の渡るに似ていると名付けられたと伝えます。大堰川(おおいがわ:保津川/桂川)は古くは葛野川と称し東の鴨川に対し西川とも呼ばれました。おおよそ嵐山ほど四季折々の風光に恵まれ自然の探勝に適した所はなく山紫水明とは嵐山を称するとまで言われます。 |
寺田屋で負傷した龍馬を薩摩藩の舟で運び込んで匿われた薩摩伏見藩邸跡 | 道しるべ石 | |
伏見らしい酒蔵のある街並み (*゜▽゜)/ | ||
浄土宗知恩院派、松顔山と号する大栄寺。創建が天正14年(1586年)と伝える以外は由緒などは不詳 | 四面石仏(鎌倉期:釈迦(右)、薬師(左) | |
水島幸庵墓所 | 竹田街道 | 竹田へ・・・ |
竹田の延座参座(エンザサンザ:道切り) ☆地図 | ||
延座参座(エンザサンザ)とは道切りと言われる風習です。・・・道切りとは、村落に悪霊などが入れないよう縄を張り、村の境界に注連縄などを飾り結界を標す事を云います。村人の生活拠点である為、安全と清浄を祈願しました。昔は、単に耕地や隣村があると云うだけでなく、悪霊、祖霊、神仏などの住む他界とも考えられていました。特に悪霊、疫病神は道を伝ってやってくると考らえ、村境に注連縄などを飾って悪霊防除(結界)を祈願しました。注連縄などで道を区切る事を道切りと言います。村境を守る標し(結界)は、悪霊、疫病神の侵入禁止の意味で道祖神、御幣、藁細工、縄を張るなどと伝わります。道切りは結界の意味だけでなく、村中の災いなどを排除し、五穀豊穣・村内安全などを祈願したと伝えます。尚、竹田丈六町では古来、『延座参座』という講があり、毎年正月の8日に講の人達(地元9軒)で清浄なワラをもって15mあまりの注連縄(しめなわ)2本を作り、更に小さな注連縄に御幣(ごへい)を付けて12本(閏年は13本)垂らします。他に13神将の名を書いた絵馬(木札)を中央に掲げてあります。以前は全国的に行われていた風習ですが、現在は数少ない地域にしか伝承されていません。 |
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表(北東)鬼門のエンザサンザ | 最近、不幸な事にご神木の横に伸びた大枝が折れて二台の車が被害に遭いましたが・・・ | |
十三神将の名を書いた絵馬(木札)は安楽寿院の庫裏(以前は薬師堂でご祈祷されていたが焼失した。)で天下泰平、悪役退散のご祈祷を受けています。その際、住職が梅の杖で床をバンバン叩きながら薬師経を読む。昔は住職の打つ音に合わせて外で子供達が縁を叩いたそうです。北は竹田小学校の正門前、南は近鉄竹田駅の東南傍にあり、町の鬼門位置に祀られています。これをくぐると1年間は悪疫にかからないと伝わります。「エンザサンザ」と呼ばれるのは、注連縄を綯う時の掛け声からきたとも伝えます。 |
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ご神木の大きさがわかると思いますが・・ | 御神木のクスノキの傍にある鳥居と山王権現大宮社?の小祠(国分寺跡辺り) | |
山王権現大宮社の跡碑 | 裏(南西)鬼門のエンザサンザ | 十三神将の名を書いた絵馬(木札) |
近鉄京都線踏み切り | 線路内に近衛、鳥羽、白河天皇御陵道標石 | 同じく線路内に北向不動院道標石 |
安楽寿院 ☆地図 | ||
本尊は鳥羽上皇の念持仏と伝わる阿弥陀如来座像(重要文化財)で、本堂、諸塔などは 後世の再建ですが、この本尊だけは台座の 修理銘により平安時代後期、造営当時の 本尊と伝わります。胸に卍が刻まれてある事から「卍の阿弥陀」とも知られています。鳥羽上皇が東殿の境内に建立した御堂など「鳥羽伏見の戦い」時、薩長軍の本営となった寺院です。また、明治5年(1872年)5月23日、明治天皇は行幸で伊勢、大阪を経て入洛し6月4日、再び大阪へ行幸途中に安楽寿院で休憩されました。 |
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近鉄・竹田駅 | 安楽寿院 | 近衛天皇安楽寿院南陵(多宝塔) |
・・・ | 鳥羽離宮のイメージ図 | 弘法大師を祀る大師堂 |
冠石(かんむりいし) | ||
鳥羽天皇は譲位後、白河上皇が創建した鳥羽離宮に入り、殿舎や仏殿を増築した際、この石の上に冠を置き、これを中心に造営したとも鳥羽上皇が法皇になられた時に、冠を納めた所とも伝えます。 |
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薬師三尊石仏(左)、釈迦三尊石仏 | 調査で出土した石で再現された本御塔庭園 | 鳥羽、白河法皇院政之地碑 |
冠石 | 鳥羽天皇安楽寿院陵 | 五輪石塔 |
道しるべ石 | 明治10年(1877年)、城南宮に合祀された式内真幡寸(まはたぎ)神社跡(若宮宮) | |
白雲弁才天 | 竹田の家並み | |
竹田四十八塚の一・南天塚 | 近鉄・竹田駅 | 京都市営地下鉄・竹田車両基地 |
阪神高速8号京都線下から大宮大橋(新大宮橋)まで鴨川沿いを走ります・・・ | ||
鴨川に架かる最新橋の大宮大橋 | ・・・ | 桂川に架かる新久祥橋(十条通り) |
桂川左岸堤防(嵐山サイクリングロード) | 久世橋の下へ・・・ | ここから嵐山まで9km・・・約20分ほど |
・・・ | 前方の堤外人道橋(天神川)を渡ります・・・ | 日陰がないから・・・(;´д`)ゞあちぃ。。。 |
桂大橋の下へ・・・ | 阪急電車桂川橋梁 | 西大橋(五条通り) |
西大橋を桂川左岸から右岸へ渡ります・・・ | サイロを離脱して桂川右岸堤防道へ・・・ | 一般道路とサイロが並走します。 |
愛宕山と桂川 | 用水を正確に分水する円形分水(円筒分水) | きたがはら人道橋を渡り右(桂川)へ・・ |
比叡山とケンカした時に叩かれてできた?コブが特徴的な愛宕山の稜線 | ||
松尾橋 | 阪急嵐山線・松尾駅 | 松尾大社 |
松尾大社 ☆地図 | ||
大山咋神(おおやまくいのかみ)、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと/中津島姫命(なかつしまひめのみこと))を祭神とする旧棺幣大社で京都最古の神社の一です。文武天皇の大宝元年(701年)、秦忌寸都里(はたのいみきとり)が松尾山大杉谷の磐座(いわくら)の神霊を勧請し社殿を造営しその女・知満留女(ちまるめ)を斎女として奉仕させたのが当社の起源で代々秦氏が奉祀しました。平安遷都後、賀茂社と供に王城鎮護神となり賀茂の厳霊、松尾の猛霊と東西並び称されました。大山咋神(おおやまくいのかみ)は上賀茂神社の祭神・賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)の父神とされ賀茂社とは姻戚関係にあり延喜の制には名神大社となり二十二社の制には第四に班し中世を通して上七社の一に列せられる有数の大社です。寛弘元年(1004年)、一条天皇の行幸以来歴代の行幸、行啓すこぶる多く中世以降は酒造の神として崇敬が篤く氏子地域は京都市の1/3にも及びます。 |
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二の鳥居 | 楼門 | |
解説 | ・・・ | 境内 |
手水の亀さん(#^.^#) | 撫で亀さん(#^.^#) | 撫で鯉さん(#^.^#) |
相生の松 | 本殿 | |
神使いの庭・・・鯉と亀は松尾大社の神使い | 霊亀の滝と瀧御前社(四大神三宮社) | 天狗の顔が分かります?? |
御神水「亀の水」 | ||
大杉谷の崖下から湧出する清泉でこの水を醸造の時に加えれば酒が腐敗しないと伝わり古来醸造家が汲んで持ち帰る慣わしがあり当社の信仰はこの井泉によるものです。亀の井とは松尾神の神使いが亀である事に因りますが神の井に通じます。清泉は飲料水として古代住民にとって神の水で水を求めて聚落が営まれ当社を始め松尾に座す水の神であったのが大山咋神(おおやまくいのかみ)を信奉する信者によって斉い込められ本来の神格が失われたと考えられています。 |
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御神水「亀の水」 | お酒の神様だけに神輿庫の壁面にズラ〜っと並ぶ酒樽!!\(●⌒∇⌒●)/ | |
私的に気に入ったデザインの酒樽 | ||
ご朱印を頂きました!(^-^)v | お酒の資料館 | |
酒造りに関する資料展示されています。 | ||
今はお酒より・・・こっちですがな!(^^ゞ | サイクリングロード | |
・・・ | サイクリングロードの嵐山起点(終点) | 春には桜が満開!\(●⌒∇⌒●)/ |
中の島橋を渡ると嵐山公園 | 渡月橋と亀山、小倉山〜愛宕山 | |
月が渡るの如く・・嵐山のシンボル・渡月橋 | 山紫水明な嵐山の風情 | |
・・・ | 平家物語で知られる小督(こごう)旧跡 | 小倉百人一首の殿堂・時雨殿 |
園庭に見事な座禅石、獅子吼岩、碧岩、響岩などが点在している天龍寺塔頭・宝厳院 | 源氏物語ゆかりの大堰の館候補地 | |
解説 | 嵐山にイースター島のモアイ石像出現か???(≧▽≦)ぷっ | |
嵐山羅漢 | ||
世界文化遺産・天龍寺 ☆地図 | ||
世界文化遺産にも登録されている臨済宗天龍寺派の大本山です。後嵯峨天皇の亀山離宮を暦応2年(1339年)、足利尊氏が吉野で崩御された後醍醐天皇の菩提を弔う為に夢窓疎石(むそうそせき)を開山として創建した禅寺です。天龍寺造営資金に困窮し、天龍寺船による対元貿易での利益を造営資金に充てたと伝わります。創建以来650余年、その間に8度の兵火にかかり、殆ど古建築を見る事が出来ません。現在の諸堂は明治時代に再建されました。特別名勝に指定されている曹源池庭園は夢窓国師の作庭で嵐山、小倉山、亀山などの借景を見事に取り入れた回遊式庭園は独特の優美さがあります。 |
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ええ感じや〜(*^▽^*) | 加山又造画伯の雲龍図で知られる法堂(はっとう) | |
解説 | 改修工事中?の庫裏(くり) | ご朱印を頂戴しました!(^-^)v |
八幡大菩薩社・・・青もみじが涼やかや〜 | ||
切支丹?マリアさま??十字架を身に着けている飛雲観音 | 解説 | |
天龍寺塔頭・松厳寺 | 坂本龍馬先生遺徳之像、顕彰碑、船中八策宣言碑 | |
船中八策宣言碑 | 福禄寿天 | 放生池の蓮群生 |
放生池のハスの花が咲き乱れる時は見事でしょうね・・ | ||
勅使門 | おまたせ〜( ̄ー ̄; | 臨済宗の禅刹・天龍寺をあとに・・・ |
嵯峨野といえば・・・嵯峨野竹林道 | ||
源氏物語『賢木の巻』ゆかりの野宮(ののみや)神社 ☆地図 | ||
伊勢神宮に仕える伊勢斎宮(さいぐう/いせのいつきのみや)が身を清める為に建立された神社で皇大神宮の奉仕に赴く前に長からぬ間、篭られた斎(いつき)の跡と伝え天照大神を祀る旧村社で縁結びの社です。伊勢斎宮は崇神天皇の御代、皇女・豊鋤入姫命(とよすきひめのみこと)に勅して天照大神を大和の笠縫邑(かさぬいのむら)に祀られ垂仁天皇の御代に倭姫命(やまとのみこと)が天照大神を奉じて諸国を巡り遂に伊勢の五十鈴川の畔に皇大神宮を営み仕えたのが起こりとされ歴代天皇は斎宮を置かれ後醍醐天皇の皇女・祥子内親王まで続いたが中世の兵乱によって根絶しました。斎宮は天皇即位の時、未婚の皇女、女王から選ばれ一に斎王と言います。今の野宮神社は何時の野宮か明らかではないが簡素な黒木の丸太組の鳥居、小柴垣は往時の野宮を偲ばせています。源氏物語「賢木の巻」の舞台にもなり恋の清算に訪れた源氏を忘れえぬ六条御息所の煩悶が描かれています。 |
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恋愛など縁結びのパワースポット?!野宮神社 | 珍しい黒木鳥居 | 一年以内に願い事が成就?!神石(お亀石) |
斎宮行列 | ||
社伝によると斎宮(斎王)とは、天皇が新たに即位 する度に、天照大神の御杖代(みつえしろ)と して伊勢神宮に遣わされた斎王(未婚の内親王もしくは女王)のこと。この歴史は飛鳥時代の天武天皇の頃にはすでに確立されており、南北朝時代の後醍醐天皇の頃まで およそ660年間、64人の姫君が遣わされていたと言い伝えられています。斎王が任命を受け、都から伊勢の斎宮へと向う旅は斎王群行と呼ばれる もので、斎王以下監送使、官人や女官など数百人にも及びました。勢多頓宮、甲賀頓宮、垂水頓宮、鈴鹿頓宮、壱志頓宮を経て斎宮に到着するまでに、 五泊六日ほどかかったと伝えます。 |
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艶やか!もしや才色兼備の六条御息所?(^^ゞ | 10月、華やかな装束を着飾った斎宮(斎王)ら百人の人々が嵐山で往時の斎宮行列再現します。 | |
嵐山を表す野宮の苔庭 | 白福稲荷大明神 | 野宮大神(天照皇大神)を祀る本殿 |
涼やかな竹林のトンネル・・・ | 吉村寅太郎、半平太、龍馬、中岡慎太郎土佐四天王像 | おぉ〜空が抜けたような感じや〜(*゜▽゜)/ |
俳人・松尾芭蕉の高弟・向井去来の落柿舎 | ||
清涼寺(嵯峨釈迦堂) ☆地図 | ||
嵯峨野でも有数の古刹で五台山清涼寺と号し源氏物語・光源氏のモデルとされる嵯峨天皇皇子で左大臣・源融(みなもとのとおる)所縁の寺。当地は、元、左大臣・源融の別荘・栖霞観(せいかかん)があった所で寛平8年(896年)、源融の一周忌に融が生前に造立発願して果たせなかった阿弥陀三尊像を子息が造り、これを安置する阿弥陀堂を建てて寺に改め棲霞寺(せいかじ)と号した。天慶8年(945年)、源融と血縁深い式部卿宮重明親王が亡室の為に新堂を建立し金色等身の釈迦如来一体を安置。42年後の永延元年(987年)、南都東大寺の僧・「念(ちょうねん)は宋より帰朝後、請来した等身大の釈迦如来像と摺本一切径を当寺に安置しました。一説に釈迦堂の名起はこの時であるとも伝える。本尊の三国伝来の釈迦仏は有名で嵯峨釈迦堂(さがしゃかどう)として、今も多くの人々に崇拝されています。「念は愛宕山を中国の五台山に擬えて、その麓に大清涼寺を建立しようと考えました。長和5年(1016年)、「念没後、弟子の盛算は師の遺志を継ぎ棲霞寺内に一宇を営み釈迦像を安置し五台山清涼寺と号し都下万民の信仰を集め隆盛したが、軒を貸した棲霞寺は衰徴し、今は境内の阿弥陀堂に名を留めるに過ぎません。本尊・釈迦如来立像(国宝:宋)は、体内に五色の絹で作った五臓六腑(ごぞうろっぷ)とお経を持ち、生身(いきみ)のお釈迦様と称されています。近年、大阪城発掘時に見つかった豊臣秀頼の首塚が本堂横に祀られています。 |
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嵯峨の釈迦堂といわれる清凉寺 | 清涼寺塔頭・薬師寺(三地蔵尊) | 鎌倉期作と思われる石仏 |
左から夕霧地蔵、六道地蔵、るり光地蔵 | 薬師堂(生の六道:小野篁遺蹟) | 大坂の陣戦没者供養碑(左)、豊臣秀頼首塚 |
清々しい境内 | 境内 | 仁王門(府指定文化財:江戸期) |
多宝塔(府指定文化財:江戸期) | 清涼寺伽藍案内図 | 四面石仏 |
弥勒多宝石仏 | 聖徳太子殿(夢殿) | |
源氏物語、光源氏のモデルと伝える左大臣・源融(みなもとのとおる)墓所 | 源昇供養塔 | |
隠元筆「栴壇瑞像」の扁額が掲げる本堂・・・ご朱印を頂きました!(^-^)v | ||
献香して合掌 | 阿弥陀堂 | 一切経蔵 |
傅大士像はグ〜、チョキ、パ〜?(^▽^;) | 夕霧太夫墓所 | 里山の風情やな〜 |
・・・ | 愛宕街道(町並み保全地区) | |
愛宕街道(町並み保全地区) | ||
奥嵯峨・鳥居本・・左は六丁峠(京都府道50号線/京都日吉美山線) ☆地図 | 愛宕鉄道遺構の清滝隧道と試峠(右) | |
心が和む手作り千二百羅漢の寺・・愛宕念仏寺(おたぎねんぶつでら) ☆地図 | ||
天台宗の古刹で奈良時代以前に東山の地に建立されました。当時は東山を愛宕(おたぎ)郡と言い、聖武天皇の娘・称徳天皇が愛宕の地に寺を建てたので愛宕寺と号しました。その後、平安時代初期に洪水で堂宇が流失しましたが、醍醐天皇の命で天台宗の僧・千観によって六波羅蜜寺の近くに再興されました。千観はいつも念仏を唱えていたので、民衆から念仏聖人とよばれたことから愛宕念仏寺とよばれるようになりました。大正時代に現在地に移されました。鎌倉時代に造られた本堂(重要文化財)周辺の境内には、参詣者の手で彫られた表情豊かな1200体もの羅漢石像が並んでいます。 |
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解説 | 愛宕(おたぎ)念仏寺 | 解説 |
ユーモラスな羅漢石仏めぐり | ||
ワイルドだぜ?!ヾ(´Д`;●) スギちゃんか? | あたご本地仏火除地蔵尊を祀る地蔵堂 | 鎌倉中期に再建された本堂(重文) |
釈迦の弟子となり仏教を広め伝えた僧達を阿羅漢といい親しく羅漢さんと呼びます。 | 汗をぬぐいます。。。(*´ο`*)=3ホッ | |
表情豊かでユーモラスに喜怒哀楽を表す千二百羅漢石像 | ||
ますば・・一献!やめられまへんな〜(>▽<;; | 伝教大師立像と先代住職作の釈迦石仏 | 十三参り・受験合格祈願にご利益! 虚空菩薩 |
一般人が彫って奉納された千二百羅漢石仏 | ||
苔むしている千二百羅漢石仏もいい味出してます・・・ | ||
心が和むユーモラスな表情の千二百羅漢石(*´ο`*)=3ホッ | ||
二面石仏か?(>▽<;; | Pちゃん背比べ観音だった、ふれ愛観音 | 三宝の鐘(三鐘)を撞く! (@^▽^@) |
千二百羅漢石仏 | 十八羅漢さん | |
ホンワカな表情の千二百羅漢石像にホッと息抜き(*´ο`*)=3ホッ | 私的に一番のお気に入りのオニさん? | |
・・・ | かつて愛宕鉄道が走っていた清滝街道 | 愛宕鉄道遺構の架線柱の一部が残る |
奥嵯峨野俯瞰 | 絹こし、カラシ豆腐ゲット!(^^♪ | 嵯峨の釈迦堂といわれる清凉寺 |
Tourist.2013.7.01(M) |
関連サイト |
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霊峰・愛宕山探訪 | |||
愛宕山のパワースポット・空也瀧、ひぐらしの瀧探訪 | |||
嵐山・嵯峨野〜高雄三尾名残の紅葉チャリてち探訪 | |||
嵐山、嵯峨野、愛宕山ケーブル遺構探訪 | 愛宕山ミステリー散策(リベンジ編) | ||
愛宕山ミステリー散策 | 積雪の愛宕山詣 | ||
愛宕山散策「空也滝・月輪(つきのわ)寺編」 | 愛宕山散策「愛宕神社散策」 | ||
山紫水明散策「松尾〜奥嵯峨野散策」 | 山紫水明散策「奥嵯峨野〜小倉山散策」 | ||
嵯峨野路散策「嵐山編」 | 嵯峨野路散策「嵯峨野編」 |