河原町三条〜新京極〜四条〜祇園を歩く
かにかくに 祇園はこひし 寝るときも 枕の下を 水のながるる 吉井 勇
寺田屋→豊臣秀次墓所・瑞泉寺→蛸薬師堂→錦天満宮→八坂神社→東大谷(大谷祖廟)→吉水弁天社→めやみ地蔵・仲源寺
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豊臣秀吉の都改造後に開通した河原町通り |
京都市街地東部の南北幹線路で豊臣秀吉の京都改造後に開通したと伝え、通り名は鴨川の河原であったことに由来するという。明治以降に南北へ延びたが、現在の三条通と四条通間は京都の中心繁華街である。・・・この通りは平安京の域外にあり、豊臣秀吉の御土居の東外を沿うように走っており、江戸時代初期に市街地が鴨川まで拡大された際に開通したと見られている。北は葵橋西詰から南は十条通まであり、葵橋西詰以北は下鴨本通と名前を変える。三条通〜四条通にかけては、京都で有数の繁華街となり、商店街である歩道にはアーケードが設けられている。四条通 - 上珠数屋町通間は、鴨川と並行しているため北北東-南南西方向に通りが曲がっており、そのため純粋に南北方向に走っている寺町通・御幸町通とは交差している。平安京の東端である東京極大路、また豊臣秀吉が築いた御土居内側の東辺である寺町通の外側にあたるこの河原町通開削の時期ははっきりしないが、御土居がこの河原町通の西側に沿って築かれていることから、それ以降であると考えられる。1762年(宝暦12年)刊の『京町鑑』には、「中古まで寺町より東は川原なりしゆへに号す。古老曰、天正年中に開けり」とある。都市化の契機は、角倉了以・素庵親子による高瀬川の開削であり、現在の日本銀行京都支店の場所に角倉屋敷があったことからから南は、かつて「角倉通」と呼ばれていた。1670年には「寛文の新堤」が鴨川に築かれ、それまで鴨川の堤防の役割を果たしていた御土居は無用のものとなり、取り壊されて住宅地等になった。ちなみにこの時代、北は荒神口通周辺、南は松原通(18世紀中頃)まで伸びている。明治時代に入り、京都市三大事業に続く「京都市区改正設計」による街路整備で、現在の形の河原町通が形成された。当時並行する木屋町通には、京都電気鉄道による路面電車が走っており、整備計画では単線であったこの軌道を含めた木屋町通を高瀬川を埋め立てることによって拡幅することと、河原町通の拡築及び市電の敷設するという両論があったが、高瀬川の文化財保護の観点による反対運動もあり、最終的には今出川通から塩小路通までの間の河原町通の拡築及び市営電気鉄道の敷設整備として行われることとなり、大正末年から昭和初年に掛けて行われ、1924年(大正13年)に今出川通・丸太町通間、1927年(昭和2年)に、丸太町通・七条通間、1928年(昭和3年)に七条通・塩小路通間が竣工した。この時に塩小路通から今出川通まで整備された京都市電の河原町線は1978年まで走っていた。1961年(昭和36年)からは、四条通から御池通まで並行する寺町通を北上していた祇園祭の山鉾巡行の経路が、この通りを北上するように改められた。2007年(平成19年)11月1日には、禁煙志向と健康増進法の観点から、御池通から四条通までの間が、京都市により路上喫煙等禁止区域に指定された。 |
かつては、伏見の錦市場と言われるほど買い物客で賑わった納屋町商店街・・・ | 竜馬通り商店街 | |
坂本龍馬とお龍さんがキャラ | 坂本龍馬とお龍さんゆかりの寺田屋は幕末維新のステージ ☆地図 | |
十石舟、三十石船が巡航する宇治川派流 | 中書島駅前通り | |
昭和チックな建築意匠の銭湯 | 京阪中書島駅 | 京阪3000系特急 |
2600系普通電車 | 宇治線(中書島−宇治)の新型車両13000系 | 京阪8000系特急『エレガン都 エクスプレス』 |
三条大橋 ☆地図 |
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最初の三条大橋は何時頃に架けられたか定かでなく天正18年(1590年)、豊臣秀吉が増田長盛を奉行として改築したと伝える。紫銅で作られた擬宝珠(ぎぼし)を冠した長さは101m、幅約7mの石柱木造大橋でした。現在も風情のある橋として広く親しまれ欄干の擬宝珠14個は当時の物が使われています。東海道五十三次の起点であり、西詰にはその事を示す里程元標や弥次郎兵衛、喜多八像もあります。三条大橋が架かる三条河原で豊臣秀次の一族39人が処刑され、また天下の盗賊・石川五右衛門が釜ゆでにされたのもこの三条河原と伝える。明治元年(1868年)、新撰組局長・近藤勇は下総国(千葉県)流山で大久保大和と名乗って倒幕軍に出頭したが薩長軍にいた元・御陵衛士(元・新撰組隊士)によって近藤勇だと発覚し板橋の刑場で斬首刑になり首は京都に送られて三条大橋の河原に晒されました。現在の橋は昭和25年(1950年)に改修されました。 ☆東海道五十三次・・・慶長6年(1601年)、徳川家康によって定められた東海道五十三次の西の起点。 ☆弥次喜多像・・・江戸時代に出版された『東海道中膝栗毛』の主役である弥次郎兵衛と喜多八像があり、像の側にある撫で石を旅の無事を願って撫でると縁起がいいらしい。 ☆三条大橋擬宝珠に新撰組・池田屋事件の刀傷跡・・・元治元年6月5日(1864年7月8日)の池田屋事件で付いたと伝える刀傷が、橋の北側と南側の2か所(西から数えて2つめの擬宝珠)に現存する。 ☆三条高札事件・・・三条大橋の西詰め北側には、江戸時代に藩や幕府の高札を立てた「高札場跡」がある。この場所をめぐる特に有名な事件として、慶応2年(1866年)8月28日に発生した三条高札事件がある。なお、天正年間の大改造の際に使用された石の柱が現存する。 ☆駅伝の碑・・・日本で最初の駅伝競走が、ここからスタートしたことを記念する説明碑「駅伝の碑」がある。大正6年(1917年)4月27日から3日間にわたり開催された。 |
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三条駅で下車 | 東海道五十三次の西の起点・三条大橋 | 以外に知られていない駅伝の碑 |
かつて三条河原と呼ばれ処刑や晒し首が行われた!(>_<) | 池田屋騒動の刀痕の残る天正年間の擬宝珠 | 弥次・喜多像の場は生首の晒し場だった(>_<) |
瑞泉寺(ずいせんじ) ☆地図 | ||
山号を慈舟山と号する浄土宗西山禅林寺派の寺院。桃山時代、当地は三条河原中洲だったと伝える。高瀬川の開削工事中に秀次悪逆塚と刻まれた石塔が発見された。文禄4年(1595年)、謀反の疑いで高野山で切腹させられた、豊臣秀次の石塔でした。高瀬川の開削責任者だった京都の豪商、角倉了以の実弟・吉田宗恂は、奇しくも豊臣秀次に仕えていた。秀次謀反の連座は免れたが、慶長15年(1610年)に亡くなっていた。宗恂の一周忌の慶長16年(1611年)に、了以は秀次の菩提を弔うために、秀次の戒名・瑞泉寺殿から名を取り、瑞泉寺を建立した。瑞泉寺は建立以来400年間にわたり秀次事件により死罪となった秀次と連座した一族・家臣の菩提を供養している。 |
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旅の無事を願って撫でられた撫で石 | 解説 | 瑞泉寺(ずいせんじ) |
こま札 | 大河なとで演じられた豊臣秀次の解説 | 境内 |
世にも恐ろしく悲しい歴史が秘められている・・豊臣秀次墓所(秀次悪逆塚、畜生塚) | ||
豊臣秀次と妻妾子39人の遺骸が埋められた京都三条河原にあった塚で、秀次の悪称とされた殺生関白から殺生塚とも畜生塚ともいわれた。天正19年(1591年)、秀次は叔父・豊臣秀吉から関白を譲位され豊臣の後継者としての地位を確立した。しかし、2年後の文禄2年(1593年)、秀吉の実子・秀頼が生まれると、次第に秀次は疎んぜられ立場は微妙なものへと変わり、石田三成らの策謀もあり文禄4年(1595年)7月、謀反の疑いを理由に叔父・豊臣秀吉の命を受け、関白職を剥奪され高野山へ追放後、その地で切腹させられた。山本主殿、山田三十郎、不破伴作などの5人も賜死し、秀次の首は伏見城で秀吉の首実検に供され、三条河原で梟首(キュウシュ:さらし首)された。秀次の妻妾(さいしょう)は多く、子供などを合わせて39人が捕らえられ、公開斬首に処せられ、遺骸はその場に掘られた大きな穴へまとめて投げ込まれたという。穴は大きな塚となり、頂上には高野山から取り寄せた秀次の首を入れた石びつが置かれ秀次悪逆塚文禄四年七月十四日と刻された。いつしか畜生塚、殺生塚と呼ばれるようになった。また、秀次の居城となっていた聚楽第も徹底的に破棄された。その後、塚も鴨川の氾濫などにより次第に荒廃し、かえりみる者は無かったというが、順慶という行者は傍らに草庵を結び、菩提を弔った。順慶の死後、慶長16年(1611年)、角倉了以が石塔の悪逆の2文字を削り、その上に6角形の無縁塔を建て塚を再建、江戸幕府に請い求めて堂も建立して慈周山瑞泉寺と号した。 |
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豊臣秀次の墓と周囲に秀次の妻妾子、賜死した家臣の供養塔 | ||
豊臣秀次の墓 | 地蔵殿 | 角倉了以によって開削された高瀬川 |
坂本龍馬の海援隊京都本部だった酢屋 | 坂本龍馬寓居跡碑 | 河原町通り |
龍馬が寺田屋で幕吏に襲われて以降、近江屋で遭難する直前まで身を寄せていた材木商・酢屋嘉兵衛宅。海援隊京都屯所も置かれていた。 | ||
・・・ | 蛸薬師通り | 有名な焼き芋屋は定休日?(>_<) |
蛸薬師堂(永福寺) ☆地図 | ||
錦小路北の東西通りが蛸薬師通りで河原町通り西側の裏寺町にある浄土宗・妙心寺の本尊・石造薬師如来像の俗称が蛸薬師である。・・・永福寺(えいふくじ)は、浄土宗西山深草派の寺院で、通称を蛸薬師堂(たこやくしどう)と呼ばれる。寺伝によると、正しくは浄瑠璃山永福寺といい、本堂に蛸薬師と呼ばれる石造薬師如来を安置している。豊臣秀吉の時代、都の東端の城壁代わりに、大きなお寺ばかりが集められた時に蛸薬師堂(永福寺)が二条室町にあった頃、付近に池があったことから、水上薬師または澤(たく)薬師と呼ばれ、これが訛って蛸薬師となったと伝える。また、一説には、この寺にいた善光という親孝行な僧侶が、戒律に背いて病気の母のために蛸を買って帰るところを町人に見とがめられ、箱を開けるよう求められた時、薬師如来に「この難をお助けください。」と念じたところ、蛸の足が八巻の妙法蓮華経に変わり、難局を逃れたという。その後、母の病気も薬を飲まずに全治し、これは親孝行の僧侶を守った本尊の霊験であるとして、本尊の薬師如来を蛸薬師というようになったと伝えている。病気平癒のために参拝する人々でにぎわった参道は、蛸薬師通と呼ばれるようになった。 |
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たけしの元気が出るテレビを思い出すな(^^ゞ | 新京極通り | 蛸薬師堂(永福寺) |
蛸薬師堂(永福寺) | こま札 | 手水 |
参拝します・・ | なで薬師(御賓頭盧蛸:おびんずるだこ) | 左手で触れると全ての病が癒される!(@_@) |
同じく苦患を消除してくれるかざし蛸さん | 出鐘(金)でなく参拝前に撞く入り鐘?(^▽^;) | 三州法性山妙心寺の梵鐘 |
阿弥陀堂(三州法性山妙心寺) | 新京極通り | |
錦天満宮 ☆地図 | ||
長保5年(1003年)、菅原道真の父親である菅原是善の旧邸「菅原院」を源融の旧邸・六条河原院の跡地に移築して「歓喜寺」が創建され、その鎮守社として天満天神を祀って創建されたのに始まる。天正15年(1587年)、豊臣秀吉の都市計画のため、寺とともに錦小路東端の現在地に移転した。その所在地名から「錦天満宮」と呼ばれるようになった。明治の神仏分離により歓喜寺は東山五条に移り、神社だけが残された。境内末社として、源融を祀る塩竈神社・日乃出稲荷神社・白太夫神社などがある。境内には京の名水と言われる錦の水が湧き出しています。 |
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デカイ!スティッチくん(@_@) | 鳥居の両端がビルにめり込んでいる。(@_@;) | 錦天満宮 |
境内 | 京の名水・錦の水 | 道真さま、知恵をおくれやす〜?!(^^ゞ爆 |
京の食いだおれ?!スター食堂 | 新京極と四条通りをつなぐ花遊小路 | |
四条通り | 河原町四条 | 先斗(ぽんと)町 |
鴨川 | 出雲の阿国(いずものおくに)像 | 解説 |
日本最古の劇場と言われる南座 ☆地図 | 4月12日、花見など人で賑わう四条通大和大路交差点付近で悲惨な暴走事故が起こりました・・ | |
お友達の和雑貨店・・ご贔屓に!(*゜▽゜)/ | 忠臣蔵で知られる一力茶屋と花見小路 | 新撰組が池田屋騒動で終結した祇園会所があった辺り |
祇園社(八坂神社) ☆地図 | ||
創建は甚だ古く、諸説多く明らかでないが、斉明天皇2年(656年)2月、我が国に来朝した高麗の調進副・伊利之使王(いりしのおおきみ:八坂氏祖)が朝鮮の牛頭山(ごずやま)に祀る素戔嗚尊(すさのおのみこと)の神霊を移し、子孫代々当社の祀官として奉仕したと伝える事から初め、八坂氏の氏神として創祀されたと思われます。天智天皇の御世、社号を感神(かんじん)院と名付けられ、以来、明治元年(1868年)、八坂神社と改める迄、この社号を用いました。平安初期の貞観年中に僧・円如が播磨国広峰より牛頭天王を勧請し下河原の地に一宇を建てて祇園天神社と号し、朱雀天皇の承平4年(934年)に、傍らに薬師堂を創建し観慶寺と号し、別に祇園寺とも呼んだ為に甚だ紛らわしくなりました。その後、八坂氏が哀徴するに及び中世には、感神院は延暦寺の別院となり、祇園社は日吉の末社となり叡山の僧徒が神輿を奉じて朝廷へ強訴する基地になりました。当社は古来、疫病除けの神として朝野の崇敬篤く、延喜式外社ではあるが、二十二社の内に列せられました。神領は60余ヶ所の多きに及んだが、明治の神仏分離令にあたり寺院を廃し神社のみ残った旧官幣大社です。 |
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八坂神社 | 西楼門(重文:室町期) | 大国主社は縁結びの神様 |
縁結びのパワースポットで人気 | うさぎと大国主命(オオンニヌシノミコト) | 本殿(重文:江戸期) |
忠盛灯籠 | 忠盛灯籠のこま札 | 祇園社乱闘事件のこま札 |
ご神水・・・自己責任でペットボトルに汲みます。 | 美のパワースポット! 美御前社(うつくしごぜんしゃ) | |
美人の誉れ高き市杵島比売命(イチキシマヒメノミコト)、多岐理毘売命(タキリヒメノミコト)、多岐津比売命(タキツヒメノミコト)の宗像三女神を祀られており、近年は美のパワースポットとして女性に大人気です! |
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身も心も美しくなるという美容水(飲用不可) | 悪王子社 | こま札 |
美御前社前に、神水が湧き出ており、肌の健康はもとより、心から美しく磨かれる「美容水」として参拝者に喜ばれてい ます。 2〜3滴お肌につけましょう。 ※飲用不可 |
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拝殿 | 南楼門(正門) | 祇園社一の鳥居(八坂神社正門)@南参道 |
東大谷(大谷祖廟) ☆地図 | ||
浄土真宗宗祖・親鸞聖人の遺骨を安置する。慶長7年(1602年)、東西二派に分かれた本願寺は祖廟を本山の東北隅に築いたが、承応2年(1653年)、徳川家綱が今の地を寄進したことで当地に移転してから東大谷とと言った。本堂は元禄17年(1704年)の造営になり、本尊・阿弥陀如来像を安置する。祖廟は本堂の東方山腹にあって、墳は長方形で全て花崗岩で畳み、その上に親鸞寵愛の虎石を置く。その他に楼門、鼓楼、鐘楼、書院、納骨所がある。 |
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東大谷(大谷祖廟) | 東大谷参道 | |
山門 | 解説パネル | 全景図 |
涼しげな桔梗の花 | 見事な龍の手水 | 境内 |
境内 | 本堂 | 親鸞聖人御廟への石段 |
親鸞聖人御廟 | 境内 | |
吉水弁天社 ☆地図 | ||
安養寺の飛び地境内にあって弁財天女を祀る。慈鎮和尚が比叡山より勧請したと伝え、技芸上達祈願の信仰があり祇園花街などの信仰を集めている。刀工・粟田口藤四郎吉光は当社に祈誓し当山の石をもって鑢盤とし、吉水をもって刀の水として名剣を作ったと伝え、社壇の下に彼が用いた鉄砧(かなとこ)石がある。 |
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東大谷(大谷祖廟)をあとに・・・ | 平家物語、建礼門院ゆかりの長楽寺 | 吉水弁才天社 |
吉水の井 | 本殿 | |
お滝場 | 慈鎮和尚塔(重美・鎌倉期) | 吉水弁才天社をあとに・・・ |
円山公園へ・・・ | 坂本龍馬、中岡慎太郎像 | 円山公園 |
祇園小唄歌碑 | 円山公園と言えば・・・銘木・枝垂れ桜 | |
解説碑 | 八坂神社へ戻ります・・ | 本殿(重文:江戸期) |
祇園ならではの奉納提灯 | 祇園えびす社 | ふれあい「えびす」 |
こま札 | ・・・ | 祇園四条界隈@八坂神社西楼門 |
レトロチックにホテル | 祇園と言えば・・花見小路 | 漬物店 |
仲源寺(ちゅうげんじ)の目やみ地蔵は鴨川の氾濫を防ぐための雨やみ地蔵だった。 ☆地図 | ||
京都を代表する花街で繁華街の祇園にある仲源寺に安置されているのが目やみ地蔵で目の病気でお困りの方や健康にご利益があると信仰されています。安置された時は目やみ地蔵ではありませんでした。昔、鴨川は氾濫が多かった怒り川として人々に恐れられ鴨川の管理を行う防鴨河使(ぼうおうかし)という役人もいました。かつて、後白河法皇が思うままにならな いものとして「鴨川の水、双六の賽、山法師」の3つを挙げましたが、鎌倉時代初期の安貞2年(1228年)、大雨が降り続き鴨川が氾濫した時、当時の防鴨河使・勢多判官為兼(せたのほうがんためかね)が、地蔵菩薩のお告げにより洪水を防いだと伝えます。地蔵菩薩に深謝した為兼は、この地に雨やみ地蔵というお地蔵様を安置し人々は雨止み地蔵を厚く信仰していました。また、他説では八坂神社などに来た参拝者が雨に降られたときに、ここで雨宿りをしたことからそう呼ばれるようになったのではないかともいわれています。いつしか「あ」が取 れて「目やみ地蔵」と呼ばれるようになり、眼病を治してくれるお地蔵さ まとして現在に至るまで全国各地の人々から信仰されるようになりました。 |
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お友達の京扇子店、ご贔屓に!(*゜▽゜)/ | 鴨川の氾濫を防ぐための「雨やみ地蔵」→眼病などにご利益がある「目やみ地蔵」(仲源寺) | |
石仏 | 参拝しました・・ | 日本最古の劇場と言われる南座 |
京阪沿線マップ | 今日歩いたエリアマップ | 酒と水の町・伏見エリアマップ |
三条京阪駅 | 準急が丹波橋まで先着するので乗車しました・・各停だけど空いていてのんびり快適でした! | |
京阪6000系準急・伏見桃山駅 | 京阪8000系特急『エレガン都エクスプレス』 | 今年も飾られている仙台の七夕飾り |
七夕に願いを・・・東北が一日も早く復興できますよう!<m(__)m> | ||
アーケード内は自転車の乗車は禁止です。よい子の皆さんは?下車して押しましょう!(^_-) | 風呂屋はないけど・・風呂屋町?!(≧▽≦)ぷ |
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Tourist.2012.07.30(M) |
関連サイト |
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祇園祭で賑う河原町、新京極、錦市場、四条界隈を歩く | |||
祇園祭(祇園御霊会)の山鉾めぐり | 祇園祭(祇園御霊会)宵山 | ||
祇園祭(祇園御霊会) | Pちゃん、宵山の山鉾町を行く・・・2005年 | ||
東山々麓「わび、さび」チャリ探訪 | きらら坂ウォーキング大比叡散策 | ||
三条大橋〜逢坂山峠越え | 桃山、山科・・・洛東探訪 | ||
新撰組幕末回廊散策その3 | 新撰組幕末回廊散策その4 |