巨椋池干拓地のハス群生地を自転車ポタ
巨椋おほくらの 入江響とよむなり 射目人いめひとの 伏見が田居たいに 雁渡るらし 柿本朝臣人麻呂
伏見向島〜城陽市まで巨椋池干拓地のハス群生地を自転車探訪
豊臣秀吉の治水工事によって姿を変えた巨椋池 |
天下統一を果たした豊臣秀吉は、天正20年(1592年)、自身の隠居所として指月山に伏見城を築城し伏見に居を移した。 それに伴い宇治川(巨椋池)に堤防を築き、河川改修を行った。※槇島堤の造築・・宇治橋下流で巨椋池に直接流れ込んでいた宇治川を、槇島堤によって伏見に向かって導いた。これによって、宇治川から巨椋池に直接流入する形から、洪水時にのみ伏見より下流で流入する形になった。槇島堤は宇治堤とも称された。※淀堤の造築・・伏見から納所(現・京都市伏見区)に向けて宇治川の右岸に堤防を築き、宇治川の流路を定めた。これによって、横大路沼(現在の伏見区横大路の京都市南清掃工場を中心とする一帯に位置した。)が宇治川・巨椋池と分離された。堤上は伏見と淀城(江戸期)とを結ぶ道にもなり、江戸時代には京都通らずに大津と大坂を結ぶ東海道五十七次の一部となった。淀堤は文禄堤とも称された。※小倉堤の造築と豊後橋の架橋・・巨椋池の中を縦断する小倉堤を造り、伏見城下から向島に宇治川を渡る豊後橋(現在の観月橋)を架橋し、堤上を通り伏見と奈良の距離を縮める大和街道を造った。小倉堤は巨椋堤、太閤堤とも称された。この3つの堤のほか、大池堤、中池堤がこの時期に築かれ、巨椋池は、大池、二の丸池、大内池、中内池に分割された。そのため、江戸時代には一般に大池(おおいけ)と呼ばれており、巨椋池という名が広く使われるようになったのは近代に入ってからである。 |
京橋・竹田街道 | 旅籠・寺田屋 | 宇治川派流 |
伏見らしい酒蔵と柳の風情・・・朝ドラ・カーネーションのロケにも使われていました。 | ||
島の弁天さん・長建寺 | 十石舟弁天橋乗り場 | |
近鉄京都線 | 京阪宇治線・観月橋駅 | 観月橋 |
宇治川 | 巨椋池の太閤堤に造成された旧大和街道沿いの風情ある家並み | |
明治天皇御駐輦所製工場跡 | 巨椋(おぐら)池太閤堤は小倉堤とも言われた・・・ | |
巨椋池(おぐらいけ) |
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かつて、京都市南部の宇治川左岸に広がっていた約800ha(周囲16km)の広大な巨椋池がありました。巨椋池は、太古の時代に京都盆地をすっぽり覆っていた「旧山城湖」の名残と伝えます。洪積世第三期末〜第四期にかけての大規模な地殻変動によって出来た凹地に水が溜まり、やがて周りの河川が運んでくる土砂の堆積によって、湖水は次第に狭められ、一番低地だった所が巨椋池として残りました。巨椋池の特徴は、淀川水系の中流域にあって洪水調節の機能を担い、水量によって大きくその形を変える遊水池という事です。巨椋池の由来は「大椋」、「巨椋」と称する部族がいたとか、巨椋神社の社号が地名となり、池名に転用されたとも伝えます。巨椋池は河川交通の中心であったのは勿論、魚貝類や水生植物の宝庫で、夏には蓮の花が咲き乱れるという自然の恵みに洪水の脅威があるにも関わらず、人々は沿岸に定住し農業、漁業や狩猟などを生業としました。明治後期、宇治川(澱川:よどがわ)などと分離され池の水位は著しく低下し、マラリアなどの疫病発生や水害が繰り返された為に昭和8年(1933年)、我が国初の国営干拓事業として着工され、昭和16年(1941年)に巨椋池干拓田が完成しました。戦中戦後は農地として貢献し近年は近隣の都市化が進み、交通の要衝ともなり、干拓田の様相も様変わりしてきました。 |
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近鉄京都線・向島駅 | 種智院大学(左)、すばる高校前通過・・・ | 広大な巨椋池干拓地 |
万葉の巨椋池(おぐらいけ)のハス | ||
巨椋(おぐら)の入り江として万葉の和歌にも詠まれ、その昔、宇治川・木津川・桂川の三川が流れ込み、満々と水を湛えていた約800ha(周囲16km)の広大な巨椋池は、魚介類が豊かに棲息し、沿岸の村々では漁業が営まれていました。巨椋池が干拓される迄は、初夏になると大池に蓮花が咲き乱れ、蓮見舟が出るなど文人墨客の往来が絶えませんでした。巨椋池は水深が浅くて泥深く、蓮の生育には最適で約20万本の美しい紅白の蓮花が盂蘭盆(うらぼん)に出荷されたと伝えます。 |
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向島地域で唯一?のハス群生地 | ||
初夏になると大池に蓮花が咲き乱れ、蓮見舟が出るなど文人墨客の往来が絶えませんでした。 | ||
巨椋池干拓地 |
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昭和8年(1933年)に干拓工事が始まり昭和16年(1941年)に干拓工事完成と共に姿を消しました・・・干拓工事の完成から12年後の昭和28年(1953年)の大洪水で元の大池のような姿に戻りました。この大水害を教訓として上流にダムを建設する事に決まり昭和39年(1964年)に天ケ瀬ダムが完成しました。干拓と埋め立ては違います。干拓とは、たくさんの水路を作りそこに水を集めていきます。その流れを一つにして大きな川の本流に送り出します。つまり干拓の基本は、排水です。今も巨椋池干拓地の中に何本もの排水幹線や古川、大内川が流れ巨椋池排水機場、久御山排水機場に集められポンプで宇治川に排水され地域を洪水から守っています。 |
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巨椋池は水深が浅くて泥深く、蓮の生育には最適で約20万本の美しい紅白の蓮花が盂蘭盆(うらぼん)に出荷されたと伝えます。 | ||
広大な巨椋池干拓地は排水幹線によって干拓地の水を排水処理して洪水を防いでいます。 | ||
城陽市へ入りました・・・ | ||
巨椋池は、約800ha(周囲16km)の広大な大池で魚介類が豊かに棲息し、沿岸の村々では漁業が営まれました。 | ||
あちらこちらに規模の大きいハス群生地が点在しています。 | ||
寺田西小学校界隈にもハス群生地があります。 | ||
寺田西小学校近辺にはハスの群生地が点在しています・・・ | ||
強い突風と稲光と共に雷鳴が轟いてきました。気温34℃。。。(;´д`)ゞあちぃ | ||
雷鳴と突風が凄い!(@_@) | 向かい風が強烈やけど、晴れてきたのでGo!(*゜▽゜)/ | |
長池の駅碑 | 山背古道(やましろこどう) | JR奈良線・長池駅 |
長池の大蛇伝説(城陽市) ☆地図 | ||
JR奈良線・長池駅(城陽市長池)前広場には東に蛇の頭をかたどった人工池があり、そこから地面に敷き詰めた黒砂利の胴体が西駐輪場まで80mうねっている。銘板によると昔、奈良街道沿いに端から端まで300mはあろうかという長い池があった。そこに悪い大蛇が池の主として棲んでいて、姿を現しては、住民に悪さをはたらく。若い娘は、大蛇がじろりとにらんだだけで、腰を抜かすほど怖かった。困った村人は「このままでは、池の主にみんな丸のみされてしまう」と神社に退治を祈願した。すると、どこからともなく、刀を持った人が現れ、大蛇を切り捨て、消え去った。村人は「行基菩薩の化身に違いない」とありがたがった。 銘板は、死んだ大蛇の尾から剣が見つかり、石上神宮(奈良県天理市)に奉納された。また、退治後について「池も静かになり村は栄えましたとさ」と伝える。 |
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長池の大蛇伝説にちなんで蛇の頭をかたどった人工池がある。 | 旧長池郵便局舎 | |
甘藷(サツマイモ)元祖の地・大蓮寺 ☆地図 | ||
故あって琉球鬼界ヶ島に流され享保元年(1716年)に赦免され帰国に際し密に甘藷(サツマイモ)の苗を持ち帰り青木昆陽より十数年も早く寺田の地で栽培に成功したと伝えられる島利兵衛の墓所があり墓石はサツマイモを模っています。この辺りは寺田イモの産地として名をはせました。 |
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古い町風情を醸しだす山背(やましろ)古道 | 大蓮寺 | 境内 |
甘藷翁利兵衛墓所(甘藷元祖の碑) | 花の小径へ・・・ | ハス池 |
今もご利益があるという「雨乞い地蔵さん」 | ||
荒見神社 ☆地図 | ||
平安中期に編されて「延喜式」神名帳に記されている旧富野村の産土神とし崇敬されてきた名社。本殿は慶長9年(1604年)の再建で三間流造、檜皮葺き、丹塗りの美しい神殿で桃山時代の建築様式を伝え重要文化財に指定されています。祭神は天火明(あめのほあかり のみこと)、天香語山尊(あめのかごやまのみこと)、天村雲尊(あめのむらくものみこと)、阿比良依姫尊(あひらよりひめのみこと)、木花開耶姫尊(このはなさくやひめじんじゃ)を祀る。式内社とされる。平安時代、『延喜式神名式(延喜式神名帳)』(927)中「久世郡 二十四座 大十一座 小十三座」の「荒見神社」に比定されている。 |
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荒見神社 | ||
近鉄京都線 | 近鉄京都線・澱川鉄橋(有形文化財:昭和期) | |
近鉄京都線・澱川鉄橋(有形文化財:昭和期) | 宇治川 | 観月橋 |
とある民家に湧き出る井戸 | 町屋 | 軒屋根には魔よけの鍾馗(しょうき) |
伏見らしい酒蔵の風情 | ||
酒蔵 | 大手筋商店街 | 風呂屋はないけど風呂屋町 |
Tourist 2013.8.13(M) |