伏見〜久御山〜宇治散歩
麓をば 宇治の川霧 たちこめて 雲居に見ゆる 朝日山かな (新古今集)権大納言公実(きんざね)
巨椋池干拓地・向島、久御山東一口〜宇治・志津川〜炭山〜天ケ瀬ダム〜羽束師
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万葉の蓮見池・巨椋池干拓地 |
昭和8年(1933年)に干拓工事が始まり昭和16年(1941年)に干拓工事完成と共に姿を消しました・・・干拓工事の完成から12年後の昭和28年(1953年)の大洪水で元の大池のような姿に戻りました。この大水害を教訓として上流にダムを建設する事に決まり昭和39年(1964年)に天ケ瀬ダムが完成しました。干拓と埋め立ては違います。干拓とは、たくさんの水路を作りそこに水を集めていきます。その流れを一つにして大きな川の本流に送り出します。つまり干拓の基本は、排水です。今も巨椋池干拓地の中に何本もの排水幹線や古川、大内川が流れ巨椋池排水機場、久御山排水機場に集められポンプで宇治川に排水され地域を洪水から守っています。 |
幕末維新のステージ・寺田屋 | 島の弁天さん・長建寺 | 近鉄・京都線 |
かつて河原でセイバイ場(処刑場)があった辺りでキリスト教信者は死罪をもって罰せられた。 |
京阪宇治線・観月橋駅 |
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※ 伏見奉行所の南側に位置する平戸橋を渡った東側にセイバイ場なる処刑場が古文書や古地図に記されている。現在の平戸橋南側〜宇治川北側の辺りと推定され、当時、処刑された中には多くのキリシタン(キリスト教徒)も含まれていた。当時の宣教師が残した記録から、伏見はキリシタン弾圧の中心だったようです。 |
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観月橋 | 宇治川 | ・・・ |
巨椋池の太閤堤に造成された旧大和街道沿いの風情ある家並み | ||
明治天皇御駐輦所製工場跡 | 巨椋池の太閤堤を走る近鉄京都線 | |
広大な巨椋池干拓地 | 種智院大学 | すばる高校 |
巨椋池(おぐらいけ) | ||
かつて、京都市南部の宇治川左岸に広がっていた約800ha(周囲16km)の広大な巨椋池がありました。巨椋池は、太古の時代に京都盆地をすっぽり覆っていた「旧山城湖」の名残と伝えます。洪積世第三期末〜第四期にかけての大規模な地殻変動によって出来た凹地に水が溜まり、やがて周りの河川が運んでくる土砂の堆積によって、湖水は次第に狭められ、一番低地だった所が巨椋池として残りました。巨椋池の特徴は、淀川水系の中流域にあって洪水調節の機能を担い、水量によって大きくその形を変える遊水池という事です。巨椋池の由来は「大椋」、「巨椋」と称する部族がいたとか、巨椋神社の社号が地名となり、池名に転用されたとも伝えます。巨椋池は河川交通の中心であったのは勿論、魚貝類や水生植物の宝庫で、夏には蓮の花が咲き乱れるという自然の恵みに洪水の脅威があるにも関わらず、人々は沿岸に定住し農業、漁業や狩猟などを生業としました。明治後期、宇治川(澱川:よどがわ)などと分離され池の水位は著しく低下し、マラリアなどの疫病発生や水害が繰り返された為に昭和8年(1933年)、我が国初の国営干拓事業として着工され、昭和16年(1941年)に巨椋池干拓田が完成しました。戦中戦後は農地として貢献し近年は近隣の都市化が進み、交通の要衝ともなり、干拓田の様相も様変わりしてきました。 |
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広大な巨椋池干拓地 | 向島地域で唯一?のハス群生地 | |
巨椋池(おぐらいけ)のハス | ||
巨椋(おぐら)の入り江として万葉の和歌にも詠まれ、その昔、宇治川・木津川・桂川の三川が流れ込み、満々と水を湛えていた約800ha(周囲16km)の広大な巨椋池は、魚介類が豊かに棲息し、沿岸の村々では漁業が営まれていました。巨椋池が干拓される迄は、初夏になると大池に蓮花が咲き乱れ、蓮見舟が出るなど文人墨客の往来が絶えませんでした。巨椋池は水深が浅くて泥深く、蓮の生育には最適で約20万本の美しい紅白の蓮花が盂蘭盆(うらぼん)に出荷されたと伝えます。 |
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初夏になると大池に蓮花が咲き乱れ、蓮見舟が出るなど文人墨客の往来が絶えませんでした。 | ||
巨椋池は、約800ha(周囲16km)の広大な大池で魚介類が豊かに棲息し、沿岸の村々では漁業が営まれました。 | ||
久御山JCT | 「京都の自然200選」に選定されている前川堤左岸の桜並木が伐採されてしまった!( ̄□||||!! | |
前川橋 | 巨椋池排水幹線(前川) | 巨椋池の動植物を鎮魂する「大池神社」 |
巨椋池は水深が浅くて泥深く、蓮の生育には最適で約20万本の美しい紅白の蓮花が盂蘭盆(うらぼん)に出荷されたと伝えます。 | ||
大池神社 ☆地図 | ||
巨椋池に生息していた全動植物の鎮魂と農業の安全と繁栄を願って創建されました。昭和28年(1953年)に襲来した台風13号で宇治川左岸が決壊し、境内にある大池漁業記念碑の上端は、当時の洪水浸水線と伝えます。 |
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巨椋池の動植物を鎮魂する「大池神社」 | 境内 | 巨椋池碑 |
当時の蓮を彷佛させてくれるのが、地元の蓮愛好家の内田蓮園 | ||
ハス見物させていただいたお礼を言って・・・宇治・志津川、炭山へ。。。 | ||
広大な巨椋池干拓地 | 1号線・宇治川大橋 | 宇治川 |
志津川 ☆地図 | ||
三室戸より東へ約1km、天ヶ瀬より志津川の渓流に沿って約1kmで達する山間地域で口碑によると、この地域の祖先は、平家の落ち武者で、その子孫は山林伐木を業として一村を成したと伝えます。神女神社の前に、その旨を記した「志津川村碑」が建っています。ひと昔前まで、村の長老十人を選び十老によって諸事万端を執り行ったとも伝えます。以前は山林や茶樹の栽培を主な生業としたが、近年は、道路整備によって交通も便利になり街へ勤める人が多くなりました。また三室戸寺が、はじめ志津川にあったことは「山城名勝志」に記すところですが、その寺跡については明らかにせず、おそらく志津川地域の東北、志津川に臨む山麓のやや平坦な所と推察され、そこは寺名の起こりとなった御諸(みもろ)山と呼ぶに相応しい巨大な岩山が背後に突兀と聳えています。 |
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・・・ | 笠取方面・・志津川に流れ込む仙郷川の土石流で埋まった土砂が少し浚渫されましたが・・ | |
神女(しんめ/しんにょ)神社 ☆地図 | ||
志津川に住んでいた平家の落武者の子孫が祀っていた祠が幾つかあり、明治に入ってから、これらの祠を一つに合祀した神社を作り、祭神が女性であることから、「神女神社」と名付けた。安芸の宮島にある平家ゆかりの厳島神社と同じく市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)を祭神とする志津川地域の産土神です。元は志津川地域の西南にあったが明治6年(1873年)、当地に移したと伝え、八幡神と三輪明神を合祀しています。境内の背後には、俗に伊勢講山と称する巨大な岩山がそそり立ち、前方は仙郷川の渓流に臨んですこぶる幽邃に富んでいます。この社前の渓谷を竜ヶ壷といい、喜撰法師が行を営んだ所とも伝えます。昔は、奇岩、怪石が渓流に横たわり水は数丈の滝となって奔流していたと伝えるが、今は道路改修などにより往時の面影はまったく見られません。 |
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復旧工事車両 | 宇治・志津川の神女神社 | 志津川村碑 |
参道 | ||
・・・ | 拝殿 | 合掌 O(-人-)O @本殿 |
ホタルが飛んでいそうな清流・志津川ですが、昨年のゲリラ豪雨では暴れ川に変化し大惨事になりました・・・ | ||
志津川に入ってみましたが、思ったより水温が高め。。。(O.O;)(o!o;) 清流やから小魚がたくさんいます・・・(*^▽^*) | ||
普段は、のどかな里山と清流の志津川ですが、昨年の豪雨の被害が残っています。一日も早い復興がされますように・・・ | ||
のどかな里山・志津川 | 陶器の里山・炭山 | 天ヶ瀬森林公園案内図 |
天ヶ瀬(あまがせ)ダム ☆地図 | ||
宇治橋の上流約2.5km、宇治川天ヶ瀬に水害防止と発電の二つを主目的に建造されたダムで高さ73m、長さ254mのアーチ式ダムで2000万㎥(東京ドーム7杯分) の貯水量で下流域の洪水を防ぎ新たに発電所を設け92000kwの電力を宇治市、城陽市などに送電し併せて宇治、城陽、久御山、八幡市など山城地域へ上水道(府営)の取水口も設けられています。総工費66億円と言われ当時、我が国土木技術の粋を結集して昭和32年(1957年)〜7ヵ年半の歳月を費やして同39年(1964年)11月に一応完成しました。ダムの完成により宇治川に延々24kmに渡って一大人造湖が出現し他所に見られない水上公園とされ鳳凰湖と名付けられました。 |
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天ヶ瀬ダムと鳳凰湖(天ヶ瀬森林公園) | ||
鳳凰湖碑(天ヶ瀬森林公園) | 私用のため再び伏見へ戻って・・・羽束師橋からの鴨川の眺め | |
住宅地開発が進む羽束師地域@桂川右岸堤防道 | ||
大空を見上げるとちょいやばなグレーな空模様・・天空は太陽と雲と風が空模様を描くためのデッカ〜いライブキャンバスや〜\(●⌒∇⌒●)/ | ||
大手筋 | わが町内の地蔵盆の設営@華頂宮の旧御殿を下賜されたと伝える桃山様式の大光寺薬師堂 | |
藤澤山と号する浄土宗黒谷派・大光寺 | 日限地蔵尊堂 | |
日限地蔵尊は「日を限って祈願すると願いが叶えられる」というありがたい地蔵菩薩 | ||
手水石 | 鎌倉後期作と伝える花崗岩製・四面石仏 | 南面・釈迦如来 |
西面・阿弥陀如来 | 東面・薬師如来 | 北面・弥勒如来(菩薩) |
Tourist 2013.8.20(M)、22(Wed) |