淀川三川(宇治川・木津川・桂川)合流地探訪
春くれば 浮田の杜に 引くしめや 苗代水の 便りなるらん 家隆
妙教寺(秀吉、淀の君の淀古城跡)〜宇治川、木津川合流地〜宇治川、桂川合流地〜橋本〜石清水八幡宮〜田中神社〜三栖神社
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淀川三川合流地 ☆地図 |
現在の宇治川、木津川、桂川の三川は順次合流していますが、昔の三川合流とは姿が異なります。木津川、宇治川については明治時代になってから河川道を変えるという大規模な河川改修工事が行われました。淀は三川が合流する為、度々の大洪水で大被害が発生する水郷地帯でしたから江戸時代から多くの治水工事が繰り返されてきました。明治元年(1868年)、5月末日、山城盆地全域に及ぶ大洪水が起こり、木津川は生津付近の堤防が決壊し八幡方面に出水、宇治川も氾濫して巨椋池に出水した大水害で京都府と淀藩は御牧・佐山の村々が要求し続けてきた木津川の付け替え工事を決定。共同事業によって木津川と宇治川の合流点を下流側に付け替えた事で木津川から巨椋池に向けて洪水時の逆流を防げるようになった。旧河道は新河道の代替地として八幡に払い下げられ、現在も淀地区内に八幡の飛び地が残っている。明治18年(1885年)、枚方で淀川が決壊し、大阪府全域に被害。明治29年(1896年)、宇治川が向島で決壊、巨椋池も大曲で決壊。この2つの大水害の経験から、滋賀・京都・大阪の要望で、明治30年(1897年)から「淀川改良工事」が14年間の継続工事として行われることになった。この工事は、宇治川の水路を全面的に付け替えるという大工事が含まれ観月橋〜木津川合流点まで新堤防を築き、桂川の流出口を拡げて山崎地域まで引き下げ現在の水路に付け替えた。尚、この間を澱(よど)川と呼び、三川合流後の淀川と区別している。以降、国による淀川改修工事が本格的になり明治32年(1899年)〜同36年(1903年)、桂川の改修工事が始まり宇治川と桂川合流地点を淀の納所〜八幡まで引き下げ難工事とされていた桂川・宇治川・木津川の合流点が現在のように完成したのは昭和5年のことです。 |
伏見百景・酒蔵 | 新高瀬川右岸堤防を南進 | 新高瀬川、宇治川合流地 |
宇治川右岸堤防道を西進 | ・・・ | 京阪8000系特急・エレガントサルーン |
薩長軍と新撰組(旧幕府軍)が激戦を展開した千両松(淀堤)を今は京阪電車が疾走します・・当時、この辺りから京阪に沿って宇治川が流れた。 | ||
千両松慰霊碑「戊辰役東軍戦死者埋骨地」 ☆地図 | ||
淀千両松堤の戦いで戦死した東軍(新撰組隊士など旧幕府軍)の千両松慰霊碑「戊辰役東軍戦死者埋骨地」です。新撰組幹部・井上源三郎も淀千両松堤の戦いで戦死しました。現在の慰霊碑は昭和45年(1970年)、新しく建立されました。当初は新撰組の隊旗である誠の旗も立てられていましたが現在は旗は立っていません。花なども毎日取り替えられ綺麗に手入れされています。 |
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JRA京都(淀)競馬場 | いつ訪ねても献花、手入れが行き届いている千両松慰霊碑「戊辰役東軍戦死者埋骨地」 | |
この埋骨地には幽霊伝説があります・・・千両松の激戦で戦死した多数の新撰組隊士と幕府軍兵の慰霊碑が建てられていましたが競馬場拡張工事の為に碑が削られました。その後、事故が続出しました。紫地に誠の隊旗を持った新撰組隊士の幽霊が「元の所に返せ!」と夜な夜な現れるという・・・驚いた工事関係者は慰霊碑の管理寺の妙教寺に依頼し、盛大に供養を行いました。拡張工事の終了後、同所に碑を据え直し、墓を整備しました。それ以後、幽霊は出没しなくなったそうです。傍に建立された記念碑に「・・・一瞬の時差により、或る者は官軍となり或る者は幕軍となって士道に殉じたのであります。」と記された一説が鳥羽・伏見の戦の本質だとも言われます。 |
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建立由来不明の鳥羽伏見戦跡地慰霊塔・・・ここにも幽霊話があるのです。 | オバQ?(^▽^;) 淀古城薬師堂跡碑 | |
新撰組六番隊々長・井上源三郎の首級と刀を埋葬したと伝える欣浄寺(廃寺) ☆地図 | ||
文久2年(1862年)2月、浪士組に近藤勇、土方歳三らと参加。文久3年(1863年)、芹沢鴨一派が粛清されると副長助勤に就任。元治元年(1864年)、池田屋事件では土方隊の支隊を指揮。近藤隊が斬り込んだという知らせを受けて隊士と共に池田屋に突入、8人の浪士を捕縛。慶応元年(1865年)6月、組織再編成で六番隊々長に就任、慶応3年(1867年)6月、新撰組が幕府直参に取り立てられ副長助勤として七十俵三人扶持を与えられる。慶応4年1月3日、鳥羽・伏見の戦いが勃発、新撰組は伏見奉行所から淀まで退却。1月5日、淀千両松で薩長軍と戦闘中、敵の銃弾を腹部に受けて戦死。甥の井上泰助が源三郎の首を持ち帰ろうとするも、あまりに重かった為、仲間の隊士から諭されて戦場近くの寺院の門前に首と刀を埋葬したと伝えていた。後に息子・覚太郎の妻・ケイに、大阪の方に行くことがあればお参りするようにと、寺の名前(欣浄寺)を告げたが失念して今に至っていた。(源三郎生家の隣にも欣浄寺が存在しケイが失念したと思われていた。)欣浄寺のあった場所は、明治になって廃寺になり、更に淀川河川改修などにより町並みが一変してしまい不明となっていたが、近年に古地図などから欣浄寺の場所が判明。泰助の宇治川に架かる橋近くの寺だという言葉なども一致、日野から縁者が来られました。因みに源三郎は、八番楳木(千両松埋骨地)に眠っていると伝える。 |
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欣浄寺跡 | 淀小橋旧跡は一段と高くなった道が堤跡・・そこから淀小橋が宇治川に架かっていた。 | |
唐人雁木(とうじんがんぎ)旧跡 ☆地図 | ||
雁木とは、雁行形の階段の事で唐人雁木は、江戸時代に李氏朝鮮王から徳川幕府へ派遣した朝鮮通信使が、上陸した船着場の石の階段でした。当時は宇治川がながれており、宇治川右岸にあった唐人雁木は道路舗装にあたって撤去されました。 |
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かつて、宮前橋の方向に宇治川が流れた。 | 唐人雁木跡碑 | |
鳥羽(大阪)街道(府道13号線) | 洛南9号水路(旧宇治川河川道)に明治45年6月架橋された頑丈な石造りの五番ノ橋 | |
法華宗・妙教寺(豊臣秀吉、淀の君ゆかりの淀古城跡) ☆地図 | ||
元は、細川氏綱の居城で、天正16年(1588年)に豊臣秀吉が「淀君」の為に修築を行った「淀城」です。混同をさける為「淀古城」とも呼ばれています。築城時期は、はっきりしませんが、「細川両家記」などに、永正元年(1504)摂津の守護代薬師寺元一が管領・細川政元に反抗して「淀之城」に篭城し攻め落とされたとあります。元亀3年(1572年)三好三人衆の一人である岩成友通が淀城にあって、足利義昭と呼応して織田信長に対抗したが信長の武将・細川幽斎に攻略されました。淀城は一時小野木重次があずかり、天正17年(1589年)、秀吉は側室・茶々(淀殿)の出産の為、弟の秀長に修築させました。伏見城建設とともに文禄3年(1594年)破却された。 |
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法華宗・妙教寺 | 秀吉、淀殿ゆかりの淀古城跡碑 | |
蝋梅のいい香りが漂います。 | 鳥羽伏見の戦いの慰霊碑(榎本武揚筆) | 歌碑(木村久夫) |
鳥羽伏見の戦いで砲弾が貫徹した本堂 | 桂川左岸堤防沿いにあった戊辰役戦場跡碑(元・愛宕茶屋碑) | |
京阪淀駅方面 | 東軍戦死者埋骨地碑(光明寺跡) | |
伊勢向神社 ☆地図 | ||
天照大神を祀る旧村社で元、淀小橋の東方、宇治川の中島(浮田の杜)にあったが、古来、和歌の名所となり神社より杜の方が有名でした。中島(浮田の杜)は淀川の改修工事で埋没し現在地に移転されました。因みに伊勢は五十瀬(いつせ)の意味で祭神は、水神と思われます。 |
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京街道 | 元は宇治川中島にあった伊勢向神社 | 浄土真宗大谷派・大専寺 |
戊辰役東軍戦死者埋骨地 | 本堂 | 浄土真宗本願寺派・文相寺 |
戊辰役東軍戦死者埋骨地 | 本堂 | 京街道 |
天満宮 | 淀の三軒寺(高福寺、長円寺、東運寺) | 浄土宗・高福寺 |
浄土宗・長円寺 | 戊辰役東軍戦死者埋骨地 | 閻魔堂のえんま法王 |
東軍傷病者の野戦病院だった伝える。 | 戊辰役東軍戦死者埋骨地 | 曹洞宗・東運寺 |
吾唯足知(われ ただ たるを しる)のつくばい | 珍しい?寄木造の本堂 | 戊辰役東軍戦死者埋骨地 |
淀の三軒寺(高福寺、長円寺、東運寺)をあとに | 京街道 | 導石 |
この通りの方向に淀大橋が架かっていた。 | 美豆町は京街道が通った所で旅籠や木津川旧河道に面した納屋(浜納屋)や蔵がありました。 | |
木津川旧河道に面していた美豆町の浜納屋(はまなや) ☆地図 | ||
淀宿は本陣もない小さな宿場町だったので関係史跡が少ないですが旧淀大橋南詰界隈には浜納屋と呼ばれている俵物(たわらもの)納屋や蔵の姿を残しています。かって木津川に面していたので川に間口を開けた納屋や蔵が建ち並び、石段から浜から船に荷物を積み降ろしました。この辺りは淀川船運で賑わった往時を彷彿させてくれます。 |
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安政2年(1855年)創業の木田醤油 | かつて、木津川旧河川道左岸に位置した浜納屋と直接船に荷物を積み降ろしていた石段 | |
涼森(すずもり)神社 ☆地図 | ||
旧淀美豆(みず)町の産土神で白鬚大神(猿田彦)他、四柱を祀ります。社伝によると菅原道真が筑紫へ左遷の途次、当社に立ち寄り鈴と自画像を寄進した事から鈴身神社と言ったのが後に涼森神社に転じたと伝えます。 |
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涼森神社 | 美豆城跡 | 解説 |
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宇治川に架かる御幸橋 |
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木津川に架かる御幸橋 | 木津川左岸堤防 | 木津川に架かる御幸橋 |
・・・ | ・・・ | 宇治川(上)、木津川(手前)合流地 |
かつての橋本渡舟場跡の再現か?(@_@) | ||
橋本〜対岸の山崎を右写真のように人力で渡舟していた。・・・しかし、川風が思いっきり痛いほどに冷た〜い!(@_@;) | ||
往時の橋本を描いた図会 | 宇治川(上)、木津川(手前)合流地 | ・・・ |
淀川改良工事(三川合流) |
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明治元年5月末日、山城盆地全域に及ぶ大洪水が起こり、木津川は生津付近で決壊、八幡方面に出水、宇治川も氾濫して巨椋池に出水した。この災害を期に、京都府と淀藩は、これまで御牧・佐山の村々が要求しつづけてきた木津川の付け替えに踏み切った。 旧河道は新河道の替え地として八幡に払い下げられ今も淀地区内に八幡の飛び地が残っている。 土地は花崗岩の砂地で耕地に適さず、当初桃や梅などが植えられた。 |
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宇治川(上)と木津川(手前)合流地 | ||
宇治川と木津川の水流がぶつかり合ってうねっりを作り出して勢いよく流れていきます・・・水の流れとうねりが脅威です。 | ||
淀川の始まり | ||
宇治川、木津川、桂川の三川が天王山と男山に挟まれた地域で順次合流し淀川となります。かつては宇治西部〜伏見(現在の京都競馬場)に大きな巨椋池(おぐらいけ)があり、巨椋池に三川が流れ込んでいました。三川の左岸に石清水八幡宮のある男山、右岸には豊臣秀吉が明智光秀を破った天下分け目の天王山に挟まれた地域で、宇治川、木津川、桂川の三川が順次合流し淀川となり約37km下流の大阪湾に流れ込んでいます。 |
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二川合流後の宇治川 |
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桂川と宇治川合流地 |
桂川(上)と宇治川(手前)合流地 |
・・・ | ここを入っていきます?!(>▽<;; |
ワオッ!道なき道や!!まじっすか?!(@_@;) |
桂川(上)と宇治川(手前)合流地 |
三川合流後に淀川となる。 |
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桂川(上)と宇治川(手前)合流地 |
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ワンド? | 京阪樟葉パブリックGC | 三川合流地と天王山 |
戊辰役橋本砲台場跡/楠葉砲台(台場)跡 ☆地図 | ||
元治元年(1864)、徳川幕府は大坂湾から京都に侵入する外国船に備えて、淀川左岸の橋本(楠葉)と右岸の高浜(島本町)に砲台(台場)を築き、翌年に楠葉関門を設けました。高浜砲台にカノン砲4門が設置されていたので、橋本(楠葉)砲台にもカノン砲4門が設置されていたと考えられています。慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いで、高浜砲台を守っていた津藩藤堂家は、旧幕府軍の不利を見て薩長軍に内応、小浜藩酒井家が守る楠葉砲台に砲撃を加えたので、淀川を挟んで両台場で交戦状態になった。楠葉砲台は、伏見、淀から敗走した旧幕府軍兵で混乱を極め、砲弾が尽きたのでカノン砲を破壊して退去しました。久修園院の南西方に砲台跡の土塁が残っていましたが、明治末期の京阪電車敷設に伴い土塁の土砂は運び去られました。 (楠葉台場跡案内板) |
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R13号線(旧京阪国道) | 京阪電車 | 戊辰役橋本(楠葉)砲台場跡 |
カノン砲4門が設置されていたと伝える日本で唯一残る河川台場・橋本(楠葉)砲台跡 | ||
解説パネル | 当時、対岸の寝返った高浜砲台と淀川を挟んで激しい砲撃戦が展開された・・・ | |
・・・ | かなり大掛かりな遺跡発掘作業現場 | |
遺跡発掘作業現場 | 京阪電車 | |
傾城町(けいせいまち) | ||
遊郭、郭(くるわ)、遊里、色街のこと。有名所では京・島原、伏見・柳町、八幡・橋本、江戸・山谷(吉原)等、かつて全国に傾城町が点在していました。歴史を重ねた町には、その表通りがあれば裏通りもある。すべてに表裏、陰陽、光と影が存在するように大和郡山は郡山城を中心とした城下町が築かれたが、その一角に傾城町が存在していたのも事実である。今も強烈に異彩を放つ木造建築は見るからに傾城町特有の建物であるが建築意匠の素晴らしさに目を惹かれます。 |
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風情ある銭湯・橋本湯と旧街道筋の風情がええ感じや〜(*゜▽゜)/ | 歓迎アーチの根元部分? | |
・・・ | 妓楼と呼べない異様に巨大な木造建築は橋本検番跡?後に集合住宅に転用された天寿荘?? | |
検番跡?は集合住宅(天寿荘?)に転用されていたようだが、既に集合住宅としての役目を終えた様相を呈しているが・・・詳細は不明`s(・'・;) | ||
屋根の上にはTVアンテナがいっぱい乱立 | 橋本渡舟場三丁(橋本〜山崎渡舟)道標 | 浄土宗・西遊寺 |
京阪電車・橋本駅前 | ||
昭和39年(1964年)発売のアサヒ瓶ビールの商品名・アサヒスタイニーとは超レトロな看板!(@_@;) 洋食の店 やをりき | ||
珍しい防火用水槽 | 当時は80軒以上の妓楼(ぎろう)、30軒の飲食店があって、大変賑わっていたようです・・・。 | |
京阪・橋本駅西側の旧街道筋には当時を偲ばせる古い家並みが今も残っている。 | ||
橋本は、京(大坂)街道の宿場として賑わい、歌舞伎『双蝶々曲輪日記』の六段目「橋本の段」の舞台になった遊郭街だった。 | ||
橋本の傾城町のロケーションは、夏目雅子の主演映画『鬼龍院花子の生涯』でのロケ地としても知られる。 | ||
かって、橋本宿は京都〜大坂を結んだ京街道(大阪街道)が通り、宿駅にも指定され多くの人々が往来し栄華を極めていました・・・ | ||
モダンなステンドグラスの窓や二階の欄間飾りや手すりの装飾、三〜四間一面のガラス窓 | 道標石(淀川対岸の山崎への渡し場痕) | |
映画・鬼龍院花子の生涯で夏目雅子がこの橋と堤防に立っていた場所からの眺め! | ||
ステンドグラスの窓とピンク色の壁 | 窓格子、欄間飾りや手すりの装飾など建築意匠がええ感じや〜(*゜▽゜)/ | |
前から見るとええ感じやけど横見は悲惨な状態や・・・ | 京街道と道標石(石清水八幡など) | |
大谷川を渡る・・・ | 旧街道筋にある樹齢800年とも1000年とも伝える楠木の大木 | |
何年ぶりかで開いている時に遭遇!たこ焼きのいっちゃん。。。ここのたこ焼きは、ほんまに熱々でやけど覚悟の逸品や?!(^^ゞ | ||
じゃ〜ん!あんかけたこ焼き!(^^♪ | さざなみ公園 | 八幡八景の一・安居橋(あんごばし/太鼓橋) |
航海記念塔(石清水八幡宮五輪塔/重文:鎌倉期) ☆地図 | ||
日本最大(高さ6m)の五輪石塔(鎌倉時代作)で重要文化財に指定されています。石塔部分は下から地・水・火・風・空の五大要素を表しています。摂津・尼崎の商人が宋(中国)との貿易の帰途、石清水八幡宮に祈って海難を逃れ、その恩に報いる為に建立されたと伝わり航海の安全を祈って参拝され「航海記念塔」とも称されています。一説には、石清水八幡宮を創祀した行教律師の墓とも伝えます。 |
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石清水八幡宮 | 頓宮南門と頓宮回廊 | 大きさ日本一の五輪石塔!(@_@) (航海記念塔) |
神応寺 ☆地図 | ||
当地に八幡宮を勧請した奈良・大安寺の行教(ぎょうきょう)律師が開創しました。文禄元年(1592年)、豊臣秀吉が朝鮮出兵に際し、岩清水八幡宮にて戦勝祈願し、水先案内人の協力を神社に依頼したが拒否され秀吉は立腹したが、その取り成しをしたのが当寺の住職で以来、秀吉から寺領200石を賜ったと伝わり、本堂には衣冠束帯姿の豊臣秀吉の坐像が安置されています。 |
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解説 | 神応寺 | ・・・ |
境内 | 鐘楼 | 神応寺てらこや |
神応寺からの俯瞰 | ||
「百万石の大名を凌ぐ」豪商・淀屋辰五郎一族の墓所と解説 | こもれびルートで石清水八幡宮の上院へ・・・ | |
鉄道ではなく索道ですが男山ケーブルの杉山谷鉄橋は全長111m、高さ50mで日本一の高さ! | こもれびルートで石清水八幡宮の上院へ・・・ | |
こもれびルートで石清水八幡宮の上院へ・・・マイナスイオンをたっぷりいただきます!(^^♪ | 小社 | |
鳩ヶ峰二等三角点(点名:八幡 はちまん 142.48m) | 国分寺跡 | |
男山リクレーションセンター | ・・・ | 竹林のトンネルや〜(*゜▽゜)/ |
エジソン記念碑 | 涌峯塔(ゆうほうとう:シンボルタワー) | あっ!Oさんの店や!!(0 ^〜^)ノいつもおおきに〜 |
石清水八幡宮(男山) ☆地図 | ||
応神天皇、神功皇后、比(ひめ)神を祭神とする旧官幣大社で男山八幡宮とも呼ばれ伏見稲荷大社と共に京都南郊屈指の大社として崇敬されています。初め男山々中に湧き出る清泉を神社化したとされますが平安時代初期、貞観元年(859年)、奈良・大安寺の行教という僧が豊前国(今の大分県)の宇佐宮に篭られた時、八幡大神の御託宣(お告げ)を蒙り、同年男山の峯に八幡三所の神霊を奉安し、この年、清和天皇の御命令を承けた木工寮権・允橘良基は、当地に本殿三宇・礼殿三宇から成る六宇(ろくう)の宝殿を造営した事から始まります。翌年の貞観2年(860年)4月3日、八幡三所大神が正式に鎮座されました。創建以来、朝野の崇敬が篤く伊勢神宮に次ぐ第二の宗廟と崇められ天元2年(979年)、円融天皇の行幸以来、歴代天皇の行幸数多く特に源氏は、この神を氏神と仰いだので武家間で大いに広まりました、「延喜式」にその名を見ないのは神社としてよりも寺院として栄えていたからで往時は山上、中、下に多くの堂舎僧坊が瓦を並べ江戸末期においても尚23坊を数えましたが明治の神仏分離によって神社一色に改されました。往時を物語る石灯籠は320余基を数え奈良の春日大社の1800余基、大阪の住吉大社の560余基に次いで多いですが江戸時代以降のものが多く関心を持たれませんでしたが近年、鎌倉後期の石灯籠(永仁(えいにん)の石灯篭(重文:鎌倉期)が見つかりました。社殿(重文:江戸期)は山上と山下の二ヶ所に分かれていますが、主なる社殿は山上にあり上院とも言います。何れも創建以来、度々兵火によって焼失したが寛永11年(1634年)、徳川家光の造営によるもので廻廊に囲まれた中に楼門、幣殿、本殿、神庫などが複雑に入り混じっています。本殿は外陣(外殿)と内陣(本殿)に分かれ両方の屋根が接する所に織田信長寄進の黄金の雨樋を架けその下を合の間とし三間社を一間づつ開けて一棟とする八幡造りの形式になっています。山腹にある石清水社(末社)は当社発祥の所以となった清泉が今も湧き出しています。 |
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石清水八幡宮上院 | ||
拝殿・本殿 | 男山展望台 | 谷崎潤一郎文学碑『蘆刈』 |
男山展望台からの八幡市〜伏見〜京都市内俯瞰(*゜▽゜)/やっほ〜 | ||
八幡市〜伏見俯瞰(*゜▽゜)/やっほ〜 | ||
男山鋼索線(ケーブル線) ☆地図 | ||
八幡市駅〜男山山上駅の約400mの短路線高低差も82mと全国のケーブルの中では最も低く、所要時間も約3分。しかし、沿線の地形は起伏に富み、途中にトンネルや鉄橋もあります。ケーブルカーの鉄橋としては日本一の高さを誇る(最高部:50m、全長:111m)男山橋梁から八幡市〜京都市の眺望が広がります。 |
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男山ケーブル線・男山山上駅とケーブルカーの車内 | ||
男山山上駅前のトンネル | 出発進行!(*゜▽゜)/ | ええなぁ〜(*^▽^*) |
ケーブルカーの鉄橋としては日本一の高さを誇る(最高部:50m、全長:111m)男山橋梁を過ぎたトンネル辺りで上下線離合 | ||
男山ケーブル線・八幡市駅 | 駅前の飲食店 | 八幡ゆかりの発明王・トーマスエジソン胸像 |
名物・走井餅 | 石清水八幡宮 | 放生池 |
頓宮南門と頓宮回廊 | ・・・ | 土砂崩れでルート壊滅 |
大量の土砂で埋め尽くされている。(@_@;) | 八幡八景・安居橋(あんこばし:太鼓橋) | 京阪電車 |
夕暮れの男山 | 御幸橋(木津川) | |
御幸橋(宇治川) | 淀方面 | 淀名物?を買って帰ります!(^^♪ |
2013年3月31日で引退する3000系特急・テレビカー | 国道1号線の側道を北上・・・ | |
田中神社 ☆地図 | ||
下鳥羽、横大路の産土神として、冶暦年間(1065年)、八坂神社より、牛頭天王を勧請し、当初は、上流の鳥羽郷田中に社殿があったが、天正年間(1573〜1591年)、この地に大洪水が発生し、現在地に神社の本殿のみが、無傷のまま流れ着き村人達は、この奇跡に驚きお祀りしたと伝えられている。一説に田んぼのまん中にあったので田中神社という社名になったと伝える。 |
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下鳥羽、横大路の産土神(うぶずながみ)は虫の神様!田中神社 | ||
三栖神社 ☆地図 | ||
横大路下三栖の産土神で天武天皇を祀るところから天武天皇社、単に三栖ノ宮ともいいます。毎年10月に行われる祭礼では、世に炬火〔たいまつ〕祭りといい、直径1m以上もある大炬火一基を作り担ぎ回る慣わしがあります。※(昔は、2地域が、1本ずつを作り、奉納したとのことです。 |
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田中神社本殿 | 天武天皇の杜と呼ばれる三栖神社 | |
竹田街道大手筋交差点 | 大手筋商店街 | 風呂屋はないけど風呂屋町通り(≧▽≦)ぷっ |
Tourist 2013.02.11(M) |