京街道の宿場町・橋本、八幡を歩く

 

石清水 清き流れの 絶えせねば やどる月さえ 隈くまなかりけり 能蓮法師

 

京(大坂)街道の宿場町・橋本〜戊辰役橋本砲台場跡/楠葉砲台(台場)跡〜石清水八幡宮(男山)〜與杼(よど:淀)神社

 

遺蹟探訪の町「八幡、男山」☆地図

石清水八幡宮の門前町として発展し八幡宮に因んで八幡市と言います。男山丘陵の北側に位置し淀川に面する低湿地で古来、洪水の被害を受ける事が多く人家は山麓に沿って建ち並び平地を盛土としています。元、綴喜郡に属し橋本、奥ノ町、大谷、八幡荘、川口、志水、東林、西山、幣原(しではら)、南山などからなっていましたが昭和29年(1954年)10月、付近の有智郷(うちごう)、都々城(つづき)のニヶ村と合併しました。当地は京阪間の交通の便もよく、都市近郊の野菜供給地でしたが近年はベットタウンとして大きく変貌していますが街道筋には今もひなびた旧家が軒を連ね街道脇には古墳を記した多数の道標があり遺蹟探訪には楽しい処とされます。男山は「雄徳山」、「牡山」とも記し、石清水八幡宮の鎮座に因み一に「八幡山」とも言います。標高142m、山頂を鳩ヶ峰と称し南は生駒山、北は淀川を隔てて天王山に相対しています。

伏見と言えば・・・酒蔵のある風情 名水・伏水
坂本龍馬ゆかりの寺田屋 かつて三十石船発着場だった寺田屋浜に立つ龍馬とお龍像
細かな格子窓や欄干など建築意匠が素晴らしい!
・・・ 中書島駅前通り レトロチックな建築意匠の銭湯
京阪・中書島駅 宇治線を走る13000系普通車 6000系中之島行き準急
伏見港@宇治川派流鉄橋 新高瀬川 外は冷たい雨降り・・快適な車内(*゜▽゜)/
JRA京都競馬場 高架から眺める淀の町 京阪電車・淀車庫
宇治川 木津川 男山
京(大坂)街道の宿場町だった橋本地図

かつて京(大坂)街道の宿場町として栄え地名の由来は、僧・行基が淀川の対岸・山崎に架した橋のタモトに由来します。行基が架橋した山崎橋は宇治橋、瀬田の唐橋と並んで日本三大橋の一つに数えられました。その後、何度も流出と架橋を繰り返し橋が無い期間は渡船で代用されました。やがて元禄年間に再び架橋されたのが現在の観音寺前辺りと伝えますがこの橋も流された後は、再び架橋される事はありませんでした。以後の橋本は渡船場として賑わい、橋本の渡しは昭和33年(1958年)4月1日、売防法が施行されるまで続いていたと伝えます。また旧街道沿いには、かっての傾城町(遊郭)の名残の建築意匠の建物が現存しています。近年、そんな家屋も徐々に取り壊されて姿を消し空き地が目立つようになってきました。橋本は、かつての宿場町の面影が色濃く残っている数少ない町です。

京阪橋本駅で下車 2013年3月31日引退予定3000系テレビカー 橋本・八幡市界隈案内図
京阪橋本駅前にある道標「湯澤山茶久蓮寺(ゆたくさんちゃくれんじ)跡」

道標石正面に「橋本渡舟場三丁」、「山崎停車所十丁」の碑文がある。当時、対岸の山崎間に渡し船が運航(昭和37年/1962年まで存続)されており、対岸にある鉄道停車場(現JR東海道本線・大山崎駅)の道案内石碑。また道標石側面には「湯澤山茶久蓮寺(ゆだくさんちゃくれんじ)跡」と記されている。これは、羽柴秀吉が山崎の合戦で明智光秀と戦った時、当地の寺に立ち寄りお茶を所望した。寺の住職は、秀吉が茶人であることから、下手にお茶を差し出したら文句を言われるだけと苦慮して白湯(さゆ)のみを差し出した。秀吉は、住職が聞き間違えたのか・・と今一度お茶を所望するが、同じように白湯が差し出された。秀吉は、立て続けに白湯のみを差し出された事の次第を察し「この寺は、お湯ばかりでお茶をくれなくてもよい、今後は寺の名を『湯たくさん茶くれん寺』とするがよい」と洒落(しゃれ)たとの伝承による。現在、湯澤山茶久蓮寺跡には浄土宗・西遊寺があるが、この湯澤山茶久蓮寺とは、妙見宮旧常徳寺の話と伝えられており常徳寺は曹洞宗の禅寺で、元は石清水八幡宮の麓にありました。その後、橋本の当地に移されたが、文化10年(1813年)正月に焼失したと伝えます。

京阪橋本駅前にある道標 戊辰戦時に会津、桑名藩、土方歳三率いる新選組ら旧幕府軍の弾薬庫だった浄土宗・西遊寺
傾城町(けいせいまち)

遊郭、郭(くるわ)、遊里、色街のこと。有名所では京・島原、伏見・柳町、八幡・橋本、江戸・山谷(吉原)等、かつて全国に傾城町が点在していました。歴史を重ねた町には、その表通りがあれば裏通りもある。すべてに表裏、陰陽、光と影が存在するように京(大坂)街道の宿場町だった橋本の街道沿いに一大傾城町が存在していたのも事実である。今も強烈に異彩を放つ木造建築は見るからに傾城町特有の建物であるが建築意匠の素晴らしさに目を惹かれます。

橋本検番跡(集合住宅に転用された天寿荘) 京阪電車・橋本駅 橋本宿へ・・・
京阪・橋本駅西側の旧街道筋には当時を偲ばせる古い家並みが今も残っている。
橋本は、京(大坂)街道の宿場として賑わい、歌舞伎『双蝶々曲輪日記』の六段目「橋本の段」の舞台になった遊郭街だった。
夏目雅子の主演映画『鬼龍院花子の生涯』でのロケ地としても知られる。 珍しい防火用水槽
かって、橋本宿は京都〜大坂を結んだ京街道(大阪街道)が通り、宿駅にも指定され多くの人々が往来し栄華を極めていました・・・
風情ある銭湯・橋本湯と旧街道筋の風情がええ感じや〜(*゜▽゜)/
・・・ 土方歳三率いる新撰組、会津藩など旧幕府軍の橋本本陣になった久修園院
日本で唯一残る河川台場・楠葉砲台の遺跡発掘か?
戊辰役橋本砲台場跡/楠葉砲台(台場)跡地図

元治元年(1864年)、徳川幕府は大阪湾から淀川を通って京都に侵入する外国船に備えて、淀川左岸の橋本と右岸の高浜に砲台を築きました。両砲台に設置された大砲は、カノン砲4門ずつだったと推考されます。慶応4年(1868年)1月6日、鳥羽・伏見の戦いで伏見、淀から敗走してきた幕府軍(会津藩、新撰組など)は、橋本に本陣を構えて薩長軍を迎撃しました。ところが、正午頃、対岸の高浜砲台を守っていた津藩藤堂家が寝返り、小浜藩酒井家が守る橋本砲台に砲撃を浴びせました。淀川を挟んで両砲台は交戦する事となり、橋本を守備していた幕府軍は、側面からの砲撃を受けて混乱に陥り、遂に大阪城へ向けて退去し鳥羽・伏見の戦は薩長軍の勝利に終わりました。橋本砲台の守備兵は、砲弾を全て撃ち尽した後、大砲を破壊して大阪城へ退去しました。

薩長軍と戦った新選組終焉の地になっ橋本砲台場跡淀川対岸の高浜砲台を守備していた津藩藤堂家が寝返って窮地になって撤退・・・
日本で唯一残る河川台場・楠葉砲台跡・・砲台の土塁や石垣か?
解説 かなり大掛かりな遺跡発掘作業現場
明治末期の京阪電車施設に伴って楠葉砲台の土塁の土砂などが運び去られた。
2013年3月31日をもって引退する旧3000系特急『テレビカー』・・・現在、一編成八両のみ現存しサヨナラ運転されている。
遺跡発掘作業現場 橋本宿へ戻りました・・・
時が巻き戻されてタイムスリップしたような風情が素晴らしい!(*゜▽゜)/
旧街道沿いの橋本は、時間が止まっているような別世界の趣がある町並み
透かし彫りなど建築意匠が素晴らしい!\(●⌒∇⌒●)/
ええ感じや〜(*^▽^*) モダンなステンドグラスの窓
かつて旅人で賑わった旧街道の町並み
道標石(淀川対岸の山崎への渡し場痕) 映画・鬼龍院花子の生涯で夏目雅子がこの橋と堤防に立っていた場所からの眺め!
小橋の上から大谷川 ええなぁ〜(*^▽^*)
細工など建築意匠も素晴らしい!(*゜▽゜)/
小金川地蔵(水嫌地蔵)

明治の頃、当地の住人辻本家の当主の夢枕に御立ちになり「ここの井戸から出してくれ」と告げられ、早速に井戸さらえをしたところ、お姿を現され、御祀りしたのが始まりで、それまでこの辺りは淀川の氾濫による被害が多く、平穏に過ごすことが出来ない事があったが、お祀りして以来、幾度かの水害があったが不思議と当地近辺には害がなく、以来『水嫌地蔵』として祀られている。

・・・ 小金川地蔵(水嫌地蔵)の祠 ・・・
妓楼と呼べない異様に巨大な木造建築は橋本検番跡?後に集合住宅に転用された天寿荘?? 橋本駅前
昭和チックな洋食・喫茶店・・入ろうか随分迷ったけど空腹でなかったもので(^^ゞ 京阪電車・橋本駅
京街道沿いにある道標石(石清水八幡など) ・・・ 右の建物は出る?と言われる霊スポット
石清水八幡宮の石灯籠 樹齢800年とも1000年とも伝える楠木の大木 
・・・ ・・・ 水と共存してきた面影を感じる家屋の石垣
石清水八幡宮(男山) ☆地図

応神天皇、神功皇后、比(ひめ)神を祭神とする旧官幣大社で男山八幡宮とも呼ばれ伏見稲荷大社と共に京都南郊屈指の大社として崇敬されています。初め男山々中に湧き出る清泉を神社化したとされますが平安時代初期、貞観元年(859年)、奈良・大安寺の行教という僧が豊前国(今の大分県)の宇佐宮に篭られた時、八幡大神の御託宣(お告げ)を蒙り、同年男山の峯に八幡三所の神霊を奉安し、この年、清和天皇の御命令を承けた木工寮権・允橘良基は、当地に本殿三宇・礼殿三宇から成る六宇(ろくう)の宝殿を造営した事から始まります。翌年の貞観2年(860年)4月3日、八幡三所大神が正式に鎮座されました。創建以来、朝野の崇敬が篤く伊勢神宮に次ぐ第二の宗廟と崇められ天元2年(979年)、円融天皇の行幸以来、歴代天皇の行幸数多く特に源氏は、この神を氏神と仰いだので武家間で大いに広まりました、「延喜式」にその名を見ないのは神社としてよりも寺院として栄えていたからで往時は山上、中、下に多くの堂舎僧坊が瓦を並べ江戸末期においても尚23坊を数えましたが明治の神仏分離によって神社一色に改されました。往時を物語る石灯籠は320余基を数え奈良の春日大社の1800余基、大阪の住吉大社の560余基に次いで多いですが江戸時代以降のものが多く関心を持たれませんでしたが近年、鎌倉後期の石灯籠(永仁(えいにん)の石灯篭(重文:鎌倉期)が見つかりました。社殿(重文:江戸期)は山上と山下の二ヶ所に分かれていますが、主なる社殿は山上にあり上院とも言います。何れも創建以来、度々兵火によって焼失したが寛永11年(1634年)、徳川家光の造営によるもので廻廊に囲まれた中に楼門、幣殿、本殿、神庫などが複雑に入り混じっています。本殿は外陣(外殿)と内陣(本殿)に分かれ両方の屋根が接する所に織田信長寄進の黄金の雨樋を架けその下を合の間とし三間社を一間づつ開けて一棟とする八幡造りの形式になっています。山腹にある石清水社(末社)は当社発祥の所以となった清泉が今も湧き出しています。

大谷川と男山 京阪・八幡市駅 石清水八幡
頓宮(お旅所)地図

「徒然草」に、仁和寺の法師が石清水詣でにやって来て、本社と間違えて参拝者で賑わう頓宮、高良神社を参拝しただけで帰ってしまい「さすが八幡様は立派であったが、参拝者がぞろぞろと山へ登っていくのには合点がいかぬが・・・」と言って笑い者になったいう一説があります。「あらまほしきは先達(案内人)也」と話を結んでいますが、頓宮だけでも満足できる事は事実です。

八幡五水の一「筒井」と頓宮北門 頓宮南門と頓宮の回廊 頓宮殿
男山ケーブルカー 参道 徒然草ゆかりの高良神社
高良神社 頓宮南門 さざなみ公園
八幡八景の一・安居橋(あんごばし/太鼓橋) 駅前ローターリーのしだれ桜
発明王・トーマスエジソン胸像 京阪八幡市駅 8000系特急・エレンガントサルーン
大阪中ノ島行き準急 出町柳行き普通車に乗車 車内は快適や〜(*゜▽゜)/
木津川通過・・・遠くに天王山 宇治川通過・・・ 京阪電車・淀車庫
淀駅下車 本日の最重要任務遂行?!(^^ゞ爆
與杼(よど:淀)神社 ☆地図

淀・納所・水垂・大下津の産土(うぶすな)神です。祭神は、豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)、高皇産霊神(タカミムスビノカミ)、速秋津姫命(ハヤアキツヒメノミコト)の三柱です。僧・千観内供が応和年間(961年〜963年)に肥前国(佐賀県)佐賀郡河上村に鎮座の與止日女(ヨドヒメ)神社より、淀大明神として勧請したのに始まると伝えるが、延喜式(901年〜)第9巻「山城国乙訓郡」中に、與杼神社の名がある処からみて、応和年間より以前に鎮座していたと考えられます。元の鎮座地は、今の宮前橋の下流、桂川右岸の川原になっているあたりで、古来よりこのあたりを「大荒木の森」と呼ばれていた。桂川河川敷の拡幅工事が実施されることになったので、本殿以下の建物は、明治33年5月24日付の神社移転許可により、明治34年7月移転工事に着工、翌年5月完成、明治35年6月21日、神社のすべてが現在の淀城址内に遷座されました。※当社由緒書きより

淀で有名なヨクコさんでコロッケなど惣菜をゲッツ! (^^♪ 與杼(よど)神社
参道 境内 本殿
京都守護の目的で徳川によって再建された新淀城地図

元和9年(1622年)、徳川幕府2代将軍・徳川秀忠は伏見城を廃城とし、松平定綱が淀に新しく築城しました。伏見城天守閣を淀城に移す計画(二条城へ移築)で広大な天守台を築いたが、二条城の天守閣を移築した為に天守台が大き過ぎて天守の四隅に小櫓が急遽設けられました。宝暦6年(1756年)、落雷で天守閣は焼失しました。秀吉、淀君ゆかりの淀城は、淀城跡公園から北東へ約500m行った妙教寺辺りで淀古城と言われます。

淀城跡碑 天守台石垣と城堀
知る人ぞ知る・・こんな所に三等三角点 淀城!(@_@) 天守台石垣
薩摩・島津や長州・毛利の家紋が記された石垣
石垣に残るくさび跡(矢穴痕) 井戸跡 古老によると姫様が使った手水鉢だとか・・・
当初、淀城は伏見城天守閣を移築予定だったが天守台が小さいため二条城から天守閣を移築し、伏見城天守閣は二条城へ移築された。
淀藩、稲葉家祖・稲葉正成を奉る稲葉神社 淀小橋など京街道道標石、唐人雁木跡碑 唐人雁木解説
與杼神社境内 お神酒を頂きます。(^^♪ ご朱印をいただきます!(^-^)v
新しく高架になった京阪・淀駅 中書島駅
中書島駅前通り 大手筋商店街 風呂屋はないけど・・・(^▽^;)

Tourist 2013.02.04(M)

 

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