安楽寿院
☆地図 |
本尊は鳥羽上皇の念持仏と伝わる阿弥陀如来座像(重要文化財)で、本堂、諸塔などは
後世の再建ですが、この本尊だけは台座の
修理銘により平安時代後期、造営当時の
本尊と伝わります。胸に卍が刻まれてある事から「卍の阿弥陀」とも知られています。鳥羽上皇が東殿の境内に建立した御堂など「鳥羽伏見の戦い」時、薩長軍の本営となった寺院です。また、明治5年(1872年)5月23日、明治天皇は行幸で伊勢、大阪を経て入洛し6月4日、再び大阪へ行幸途中に安楽寿院で休憩されました。 |
|
|
|
伏見百景・酒蔵 |
新高瀬川、疎水放水路合流地 |
安楽寿院 |
|
|
|
・・・ |
明治天皇御小休所安楽寿院石碑 |
こま札 |
鳥羽離宮 |
今の城南宮を中心とし、東は竹田〜西は小枝(鴨川畔)まで、北は名神高速道路〜南は久我橋筋に至る東西1km、南北1.2kmにも及ぶ広大な離宮であったと伝えます。白河上皇(法皇)が平安時代後期の寛治元年(1087年)2月、後院として造営した離宮で都の正南にあたるので一に城南(せいなん)離宮とも言い、地名によって鳥羽殿とも城南寺離宮とも言われました。離宮には、仏殿と寝殿を兼ねた壮麗な建物が「南北八丁、東西六丁、水深八尺」と伝える広大な苑池の畔に造られました。鳥羽天皇も譲位後にここを御座所とされ引き続き多くの仏殿や仏塔を建立されたので池水に映じた有様は、さながら極楽浄土をこの世に現したものだったと伝えます。広大な敷地に南殿、
北殿、泉殿、馬場殿、田中殿などが造られました。その光景は広大な池を有する
庭園、舟が行き交う遊園の地、浄土の地とも言われました。 |
|
|
|
鳥羽離宮のイメージ図 |
近衛天皇安楽寿院南陵(多宝塔)、三如来石仏 |
平安京の羅城門(正門)から「鳥羽の造り道(つくりみち:鳥羽街道)」を南進すると当地界隈に出ます。この所以から鳥羽離宮を城南(せいなん)離宮と称したと伝わります。鳥羽離宮として往時を偲べるのが安楽寿院です。安楽寿院は、鳥羽離宮の東殿でしたが、保延3年(1137年)、覚行法親王が寺院に改めました。三如来石仏・・・薬師三尊石仏、釈迦三尊石仏は質素な祠にありますが、平安時代(藤原時代)の作で薬師、釈迦、阿弥陀三尊の3面が江戸時代に出土し松香石で創られています。阿弥陀三尊石仏は京都国立博物館に保管されています。これら石仏には石仏の体を削って水で練り、子供の顔や体に塗るとクサが治癒するという信仰、歯痛治癒の信仰があった為に削られ結構傷んでいます。平癒のお礼に土団子を竹の皮に包み供える風習があったとも伝えます。 |
|
|
|
近衛天皇安楽寿院南陵(多宝塔) |
大師堂(左)、阿弥陀堂 |
薬師三尊石仏(左)、釈迦三尊石仏 |
|
|
|
本尊・阿弥陀如来坐像が祀られる?本御塔 |
調査で出土した石で再現された本御塔庭園 |
鳥羽離宮跡とその庭園解説 |
鳥羽、白河法皇院政之地碑、冠石、鳥羽天皇安楽寿院陵
☆地図 |
鳥羽、白河法皇院政之地碑・・・鳥羽上皇が三代(崇徳・近衛・後白河天皇の御代28年間)に渡って院政を執り行った離宮としても知られ、貴族から使用人に至るまで宅地が設備され、その様は「あたかも都遷
(みやこうつり)の如し」と記されています。広大な敷地に鳥羽殿と云われた東殿、南殿、北殿、泉殿、馬場殿、田中殿などが造営されました。冠石・・・保延7年(永治元年:1141年)、鳥羽上皇が法皇になった時この石の下に冠を埋めたと伝わります。★上皇が出家されると法皇(法王)と称します。鳥羽天皇安楽寿院陵・・・鳥羽天皇は鳥羽上皇となり白河上皇の院政を引き継ぎ
ました。崇徳帝を退位させて
籠妃・美福門院が、生み奉った近衛天皇を3歳で即位させ、一方では後白河天皇を擁立するなど保元の乱因を作った事でも史上有名な天皇で保元元年(1156年)、鳥羽殿にて崩御されました。鳥羽離宮の金剛院別当となった所以から鳥羽僧正とも云われカエルやウサギを人物に見立てた絵巻物「鳥獣戯画」を描いた人として有名ですが戯画に鳥が全く描かれず「鳥羽戯画」が正しいという説もあります。 |
|
|
|
鳥羽、白河法皇院政之地碑 |
冠石 |
鳥羽天皇安楽寿院陵 |
五輪石塔
☆地図 |
如法経塚とも云われ鳥羽上皇が如法経を埋めたと伝わります。弘安10年(1287年)の年号が刻まれています。約3mもあり鎌倉時代の五輪塔で重要文化財に指定されています。微かに読める刻字から、阿弥陀信仰によって建立されたと言われています。 |
|
|
|
五輪石塔 |
石仏 |
北向山不動院 |
北向山不動院
☆地図 |
鳥羽上皇により大治5年(1130年)に建立された。不動明王像を建立し、王城鎮護(平安京鎮護)を祈願し、北向きに安置したと伝わる。応仁の乱ので焼失し、現在の本堂は、正徳2年(1712年)、東山天皇の旧殿が、移築され、ご本尊は、伝教大師作・不動明王坐像が、都の南にあたる為に北向きの都を守る寺として播磨国大国庄に寺領千石を賜り、北向きに安置したと伝えます。山門を潜ると東側に千手観音、虚空蔵(こくうぞう)、文殊、普賢菩薩が鎮座しています。 |
|
|
|
・・・ |
真北を向いている本堂 |
こま札 |
|
|
|
鳥羽上皇寵愛の松 |
お滝場 |
大日如来、不動明王 |
|
|
|
龍水泉(閼伽水) |
洗心井(せんしんい) |
地蔵菩薩 |
白河天皇成菩提院陵
☆地図 |
当地は藤原季綱(すえつな)の領地でしたが応徳3年(1086年)、季綱が白河天皇に献上し白河天皇が退位後の院として鳥羽離宮を造営しました。白河上皇、鳥羽上皇、後白河上皇の院政の地となりました。平清盛が後白河上皇を鳥羽殿に幽閉し院政は一旦中断しました。源平の争乱、南北朝の争乱など兵火に遭う事が多く急速に衰退したと伝えます。 |
|
|
|
六体地蔵尊 |
白河天皇陵(成菩提院陵) |
鳥羽離宮跡 |
西行寺跡碑(火消地蔵堂)、鳥羽離宮田中殿跡碑
☆地図 |
西行寺跡碑(火消地蔵堂)・・・口碑によれば西行法師が佐藤義清(のりきよ)と称し鳥羽殿の北面の武士であった頃の宅跡と伝えます。江戸時代、一宇の草庵があり境内には月見ノ池や剃髪塔などがありました。明治11年(1878年)、東竹田の観音寺に併合されました。観音寺に西行法師坐像が安置されています。鳥羽離宮田中殿・・・白河上皇没後、鳥羽上皇も継承し28年間に亘り院政を執りました。当時に建てられたのが田中殿でした。田中殿は皇女・八条院の御所として鳥羽上皇が造営し殿内には御堂(金剛心院・阿弥陀堂)などが附属していました。 |
|
|
|
西行寺跡碑(火消地蔵堂) |
鳥羽離宮田中殿跡碑 |
城南宮 |
城南宮
☆地図 |
城南宮の由緒は、上古の時代、神功皇后は出陣に当たり、軍船の御旗に八千矛神を招き寄せて戦勝を祈願され、戦が終わると御旗は宮中で大切に保管されていました。桓武天皇が平安京に都を定めた時、御旗を城南の当地に御神体として納め、八千矛神(やちほこのかみ=大国主命:おおくにぬしのみこと)、国常立尊(くにのとこたちのみこと)、息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと=神功皇后:じんぐうこうごう)の三柱、伊勢、石清水神社など七社が合祀され、都の南を鎮護する神として祀られた。御旗の日月星の紋章が城南宮の三光の神紋の由来と云われています。平安時代末期、交通の要衝でもあった風光明媚な当地に白河上皇が壮大な城南離宮(鳥羽離宮)を造営し院政を開始、歌会や宴、船遊びや競馬(くらべうま)が、しばしば行われ王朝文化が開花しました。承久3年(1221年)、後鳥羽上皇が流鏑馬揃えと称して兵を集め「承久の乱」を起こし、慶応4年(1868年)正月、城南宮に陣取った薩摩藩のアームストロング砲が鳴り響き、「鳥羽・伏見の戦」が開戦しました。 |
|
|
|
・・・ |
えぇなぁ〜(*^▽^*) |
|
|
|
境内 |
伏見名水「菊水若水」 |
|
|
|
清々しい境内 |
参拝しました・・・(^-^)v |
源氏物語花の庭とも言われる城南宮神苑 |
春の山 |
椿、枝垂れ梅、三つ葉ツツジ、ササユリと春の草木が次々と景色を彩るのが春の山です。6月末、半年間の穢を小川に流して心身を清める「人形(ひとがた)流し」が禊(みそぎ)の小川で行われます。白河上皇は城南離宮を築く際に、「源氏物語」に描かれた光源氏の四季の庭を備えた六條院をモデルにしたと伝わり、「春の山」と対を成す「秋の山」が国道1号線を隔てた西側にあり、史蹟公園になっています。 |
|
|
|
楽水苑(城南宮神苑)へ・・・ |
椿の花美しい! |
城南離宮「秋の山」に対する「春の山」 |
|
|
|
今年は満開のピークを少し過ぎてしまったようです・・・ |
|
|
|
綺麗やんか〜(*^-^*) |
|
|
|
えぇなぁ〜
(@^▽^@) |
|
|
|
Beautifulだぜ!!!\(●⌒∇⌒●)/
スギちゃんか?!(・_・)ヾ(^o^;) |
|
|
|
えぇなぁ〜(*^▽^*) |
|
|
|
Wonderfulだぜ!!!\(●⌒∇⌒●)/
スギちゃんか?!(・_・)ヾ(^o^;) |
|
|
|
・・・ |
・・・ |
えぇなぁ〜(*^▽^*) |
|
|
|
本殿 |
平安貴族の寝殿造の邸宅庭園に倣った「平安の庭」 |
曲水の宴「平安の庭」 |
平安貴族に扮した人達が「遣水(やりみず)」と呼ばれる曲がりくねった小川の畔に座して上流から流れてくる朱色の酒杯が目前にくるまでに、一首詠んで短冊にしたため、酒を飲みます。流れの上手の者が上の句を詠んで流し、下手にいる者がそれを受け下の句を詠む「曲水の宴(うたげ)」が、平安の庭において春(4月29日)と秋(11月3日)に行なわれ、王朝の雅を再現します。 |
|
|
|
春と秋に平安王朝絵巻な「曲水の宴」が催され王朝の雅を楽しめませてくれる曲水の宴鑓水(平安の庭) |
室町の庭 |
茶道、生花、能楽など日本文化が大成されたのが室町時代でした。作庭技術も画期を迎え庭園史上黄金時代を迎えました。室町時代の作庭手法で築かれた池泉廻遊式の静寂な庭で、茶室〜楽水軒の前には礼拝石、池中央の蓬莱島の奥には三尊石と、峻厳で風格のある石組みが配されています。入口に雌滝、奥まった所に雄滝があり、その横の舟付き場の藤の花、色とりどりのツツジなどが楽しめます。 |
|
|
|
可憐な花を咲かせる馬酔木(あしび) |
室町時代の作庭手法で築かれた池泉廻遊式の静寂な室町の庭 |
|
|
|
茶室・楽水軒 |
室町の庭 |
茶道、生花、能楽など日本文化が大成されたのが室町時代でした。作庭技術も画期を迎え庭園史上黄金時代を迎えました。室町時代の作庭手法で築かれた池泉廻遊式の静寂な庭で、茶室〜楽水軒の前には礼拝石、池中央の蓬莱島の奥には三尊石と、峻厳で風格のある石組みが配されています。入口に雌滝、奥まった所に雄滝があり、その横の舟付き場の藤の花、色とりどりのツツジなどが楽しめます。 |
|
|
|
侘び、寂びの中に明るさもある池泉廻遊式庭園「室町の庭」 |
桃山の庭 |
枯山水様式で、大きな刈り込みの前に芝生が広がる明るい庭園で、桃山時代の豪壮な気風を反映しています。城南宮から見晴るかす洛南の景色を表しているとも、あるいは、刈り込みが紀州の山並み、広々とした芝生が太平洋、点在する岩が小島を表しているとも称され、見る人によりその姿を変えます。紅枝垂れ桜が咲くと、一際華やかさを増し「桃山の庭」の奥の高台にある水石亭では、折々に城南宮や鳥羽・伏見の地に関わりのある特別展などが催されます。 |
|
|
|
豪壮な枯山水庭園で安土・桃山時代の気風を表している「桃山の庭」 |
|
|
|
紅梅 |
ひいな流し |
盃を乗せる鳥形の木船・羽觴(うしょう) |
城南離宮の庭 |
城南の地が最も華やかであった離宮時代を表す枯山水庭園です。玉砂利が離宮の池を、緑濃い龍の鬚(ひげ)が覆う部分が陸地を、そして岩組みが殿舎を表現しています。 |
|
|
|
神楽鈴(湯立神楽・鈴の舞) |
桃山の庭」 |
鳥羽離宮を枯山水で表した「城南離宮の庭」 |
|
|
|
白砂は離宮の池、龍の鬚の緑は陸、石は殿舎として城南離宮を表している枯山水庭園 |
|
|
|
城南離宮の庭 |
えぇなぁ〜(*^▽^*) |
|
|
|
白梅の香りが漂ってきます。。。(*^-^*)/ |
紅梅 |
|
|
|
えぇなぁ〜(*^▽^*) |
|
|
|
しだれ梅が咲き誇る春の山 |
油小路通りを南下ing・・・ |
飛鳥田(あすかた)神社(横大路)
☆地図 |
別雷・市杵嶋姫命を祭神とし、創建に関しては不詳ですが「日本紀略」には飛鳥田神社についての記載が見られる。ただし、式内飛鳥田神社が当社であるかどうかについては明確ではないが、「延喜式神名帳」に「一名柿本社」とあることから、
柿ノ本町に建つ当社が式内社である可能性は十分に考えられる。中世以降の状況について、享保19年(1734年)の『山城志』に記された上梁文からうかがうことができ、これによると応永25年(1418年)に社殿が造営され、その後文明9年(1466年)、天正4年(1576年)、慶長19年(1614年)に修理、また文禄5年(1596年)に屋根葺替がおこなわれた。更に17世紀半ば頃には境内の整備が進められたものと推定され、境内正面の鳥居に「慶安五壬申年/嶋潟弁財天御宝前」、また手水鉢には「島潟弁才天/御宝前/明暦3年/5月」の刻銘がみられる。覆屋の中に建つ本殿は大型の一間社流造の建物で、建築年代に関する史料を欠くものの、全体に木割が太くて装飾が少ない点、また蟇股や実肘木・虹梁の形状などから、境内の整備が行われた17世紀半ば頃までに造営されたものと考えられる。一部改変を受けているものの当所の姿を著しく損なうものではなく、また柱頭に舟肘木を落としこんで柱が直接桁を支持するという特異な手法が採用されている点に特色がみられる。 |
|
|
|
飛鳥田神社入り口の石橋は禊橋? |
境内 |
社殿 |
Tourist
2013.03.18(M) |