大和路探訪【大納言秀長百万石の城下町・金魚のふるさと大和郡山】

 

菜の花の 中に城あり 郡山    許六

 

大和郡山城跡〜紺屋町〜郡山八幡神社〜洞泉寺町(遊郭跡)〜源九郎稲荷神社〜金魚資料館〜東岡町(遊郭跡)〜御香宮

城下町・金魚のふるさと大和郡山 地図

奈良盆地北部に位置し、佐保川や富雄川が南流している。市域は概ね平坦だが、富雄川以西では矢田丘陵が広がるため起伏が大きくなっている。昭和29年(1954年)1月1日、郡山町が市制施行した際、市名については福島県郡山市と区別するために大和郡山市と定められた。また市内には池が数多く見られるが、これはため池や金魚の養殖池として用いられていたものである。古来、市街地は近鉄郡山駅やJR郡山駅周辺に広がり、現在でも細かな路地が入り組んでいる。佐保川の東側の稗田集落は、中世的な環濠集落の姿を留めていることで知られている。古代の大和国添下郡村国郷、矢田郷、添上郡大宅郷、平群郡額田郷の地である。延喜式内の矢田坐久志玉比古神社(矢田町)や菅田神社(八条町)、賣太神社(稗田)が鎮座する。都市の形が形成されたのは、戦国時代末期に筒井順慶が郡山城に拠り、その城下町が発達してからである。順慶亡き後1585年に豊臣秀長(当時羽柴秀長)が郡山城に入り、郡山はこの時期大和国の中心都市として栄えた。江戸時代に入ってからは一時奈良奉行所の管轄となったが荒廃する。大坂夏の陣後に同戦役で活躍した水野勝成が入り、以後松平忠明に始まる松平家、本多政勝に始まる本多家と続き、享保9年(1724年)には、享保の改革における幕府直轄領拡大政策に際して甲斐国が幕領化され甲府藩藩主であった柳沢吉里が転封され、明治維新まで柳沢氏が郡山藩藩主家として一帯を統治した。同時に金魚養殖も持ち込み推奨したと伝える。また、片桐且元または片桐貞隆に始まる片桐氏が市内、小泉町の小泉陣屋に入り、小泉藩(片桐藩)藩主となった。版籍奉還・廃藩置県に始まる紆余曲折を経て、1887年に奈良県が再置された。1889年の町村制実施で8つの町村(郡山町、筒井村、矢田村、本多村、平端村、治道村、平和村、片桐村)が誕生。1896年に添下郡と平群郡が合併、生駒郡が成立、現在の大和郡山市役所に生駒郡役場が置かれた。金魚・・・ 愛知県の弥富、山形県の庄内金魚とともに金魚の生産地として知られる。大和郡山における金魚養殖の由来は、享保9年(1724年)に柳澤吉里が甲斐の国(山梨県)から郡山へ転封してきた時に家臣の一人が持ってきた金魚が始まりと伝え、幕末には、藩士の副業としても養殖に力を入れた。ちなみに弥富の金魚は、郡山の金魚商人が熱田宿への道中、弥富の田で金魚を休ませたのが始まりとも伝える。最近では後継者不足や市場の低迷から、廃業して養殖池を宅地などに転用する業者が相次ぎ、かつては市内のあちこちに見られた養殖池が年々減少し現在では、養殖農家60戸で年間で金魚が5800万匹、錦鯉は約600万匹が生産されている。近年、市の後援や地元の業界団体などにより「全国金魚すくい選手権大会」などが開催されるなど、市場の活性化に向けた様々な試みが行われています。

本日は冷たい雨が強く降っています。(>_<) 京阪バス発祥之地碑 橿原神宮前行き急行@桃山御陵前駅
宇治川派流 宇治川 広大な巨椋池(おぐらいけ)干拓田
垂仁天皇菅原伏見東陵(すいにんてんのうすがわらのふしみのひがしのみささぎ) 地図

水濠を廻らせた墳丘が美しい全長:227mの前方後円墳です。歴史の道探訪の合間、緩やかな時間を過ごすのにオススメです。濠の南東部に浮かぶ小島は、垂仁天皇の命で常世(とこよ)の国へ不老不死の果物を探しに行った忠臣・田道間守(たじまのもり)の墓と伝えます。海を渡り異国(伝、韓国済州島)へ渡り、10年後にようやく非時香菓(トキジクノカグノミ:橘の実)を手に入れて持ち帰ったが、垂仁天皇は既に崩御、景行天皇の御代になっていました。天皇の崩御を知った田道間守(たじまのもり)は慟哭のあまりに絶命しました。景行天皇は、忠節心を慎んで、垂仁天皇の側に葬らせて橘の木を植えたと伝え、これに因んで、御所に「右近の橘(うこんのたちばな)」が植えられる様になったとも伝えます。非時香菓(ときじくのかぐのみ:橘の実)木は田道間守(たじまのもり)の名に因んで「田道間花:たじまはな」と呼ばれ、それが訛って「橘:たちばな」になったと伝え、日本のミカンの始まりだとか・・・田道間守は、果物、お菓子の神になったとも伝えます。濠の外側に陪塚(ばいちょう)が6基あります。

近鉄奈良線に相互乗り入れする阪神電車 雨に煙る垂仁天皇菅原伏見東御陵 外は雨でも車内は快適や〜!!(^^)!
近鉄郡山駅に到着! 近鉄名物!二階建て特急・ビスターカーが通過 郡山駅前商店街
郡山城跡へ ・・・ 案内図
大和郡山城 地図

奈良県大和郡山市にあった城。豊臣政権の中初期に秀吉の異父弟・羽柴秀長の居城となり、その領国であった大和・紀伊・和泉100万石の中心であった。江戸時代には郡山藩の藩庁が置かれた。10世紀後半、郡山衆が雁陣の城を築いたという記録が郡山城の初見とされる。奈良時代には薬園が営まれていた。郡山城は、秋篠川と富雄川の中間に突き出た西京丘陵南端上に位置する。平山城または平城として明智光秀や藤堂高虎らが普請に携わり、筒井順慶や羽柴秀長らの主導によって改修された。奈良は良質な石材が乏しかったため、奈良一帯の各戸に五郎太石20荷の提供を義務付け、寺院の石地蔵や墓石、仏塔なども徴発され石垣石として使用された。中には、平城京羅城門のものであるといわれる礎石が使われていたり、8世紀頃の仏教遺跡である頭塔(奈良市)の石仏が郡山城の石垣の中から見つかっている。17世紀初頭、増田長盛が改易された後、一時廃城となるが、水野勝成入封時に徳川幕府よって改修を受けた。その後は譜代大名が歴代城主を務め、柳沢吉里が入封後は柳沢氏が明治維新まで居城とした。桜の名所として、日本さくら名所100選に選定されている。

五軒屋敷池 鉄門楼跡(枡形) 内堀に金魚がいっぱいいそうやな(^▽^;)
内堀の水を真珠貝で綺麗にしているようです・・・真珠の養殖も兼ねて一石二貝?(^▽^;) 解説
天守閣ではなく復元された追手向櫓(やぐら)と追手門(梅林門) 解説
見張りや追手門を守備する追手向櫓(やぐら) こちらも復元された追手門(梅林門)
久護門跡 盆梅展開催中の城址会館(市民会館/旧県立図書館) 大和また 新たなる国 田を鋤けば (山口)誓子
明治初年に城の建物は破壊されたが、石垣や堀が当時の面影を今に伝えています。
内堀と本丸の石垣 馬場先門跡 ・・・
本丸堀は本丸と毘沙門郭間の空堀 立派な本丸の石垣と内堀 五拾間馬場碑
再建された仕切り塀 内堀 裏門(長屋門跡)
奈良県立郡山高校(二の丸跡) 柳沢神社参道(竹林橋跡) 竹林橋跡
柳澤神社

明治13年に創建されました。大和郡山城の本丸跡に鎮座している。祭神は徳川五代将軍・綱吉の御用人だった柳沢吉保。

城掘りから続いていたお舟入跡 ・・・ 本丸跡に鎮座する柳沢神社
境内 明治13年に徳川五代将軍・徳川綱吉の治世に権勢を振るった柳沢吉保を祭神として創建。
柳沢美濃守吉保公を祀る本殿 本丸からの追手向櫓、柳沢文庫の眺め(*゜▽゜)/
埋門跡 天守台
天守台の石垣には、墓石、さかさ地蔵、羅城門の礎石など、転用石があるので石垣の前に供養塔を配置して供養をおこなっています。
秀長の築城は急ぎ普請だったので石が不足し、城石として逆さまに用いられたさかさ地蔵さま(@_@;)
御厩向櫓跡 追手向櫓方面 柳沢文庫へ・・・
本丸(左)・毘沙門曲輪(右)・・・堀は船入り跡 本丸と毘沙門郭に架かっていた極楽橋跡
柳澤文庫
昭和35年(1960年)に開設されました。毘沙門郭跡にあり柳澤家から引き継がれた貴重な資料や書物が展示されている。
柳沢文庫(毘沙門郭) 郡山城案内絵図 柳澤文庫庭園
追手向櫓 解説 ・・・
追手向櫓 追手門(梅林門) 二の丸堀も綺麗な緑水
二の丸堀越しに梅林門の枡形と追手向櫓と本丸石垣など本降りの冷たい雨に煙る郡山城跡
五軒屋敷池際を近鉄電車・京都線が走る・・・ 五軒屋敷跡
雨降りの大和郡山をテクテクテクシー・・・ええ感じや〜(*^▽^*) ・・・
建築意匠が面白い建物が目に付きます。 大納言豊臣秀長菩提寺・高野山真言宗 如意山春岳院(非公開?)
建築意匠が面白い!(*゜▽゜)/ 雨が強くなってきた。。。ヽ( ̄ー ̄*)ノ 歩道に埋め込まれた金魚なタイル
紺屋町

道路の中央を紺屋川が流れ大和郡山城の堀につながっています。道路両側に軒の低い家々が続きます。現存する紺屋川で当時は13軒の紺屋が染め上げた布や糸をさらしていました。

雨の風情も、、、ええ感じや〜(*^▽^*)/
藍染商の町屋・箱本館『紺屋』 こま札 道路の真ん中を紺屋川が流れています・・
金魚グッズ専門のみやげ物店 寒いから?大きな金魚が転覆しています!(>_<) 懐かしさが漂う柳町商店街
柳町商店街 バッタリ床机や! 妓楼かと思ったら廃業された呉服屋さん
郡山八幡宮

柳八幡とも呼ばれ鎮座は、室町時代とも伝える。大和郡山城鎮護の八幡宮として郡山城主から庇護を受けていたと伝える。

呉服屋跡の和田徳邸は立派な木造三階建てで蔵などレトロな建築意匠 郡山八幡神社
郡山八幡神社は誉田別命(応神天皇)、比売大神(宗像三女神)、気長足媛命(応神天皇の母、神功皇后)を祭神として祀る
・・・ 蔵と塀の上に忍び返し? お〜面白い建築意匠の木造建物や!
洞泉寺町

表窓に細い格子がはまった家並み、重厚な木造三階建てなど傾城町の面影が現存する町。奈良市木辻町と大和郡山市の洞泉寺町、東岡町の三ヶ所が奈良三大遊郭と呼ばれていた。この遊郭街は元和7年()頃、士風に悪影響ありと全て取り払われたが降りて延宝、元禄の相次ぐ大火に際し、再びこの町に傾城町が出現したと伝える。

駒寄せや格子など異彩な建築意匠は妓楼のようです・・洞泉寺町はかつて傾城町として栄えました。
重厚な木造建築に見とれてしまいます・・・ 源九郎稲荷神社
源九郎稲荷神社 地図

かつて伏見稲荷(京都市)・豊川稲荷(愛知県)と並び、日本三社稲荷の一とされました。現在の社殿は大正時代に建てられたと伝え、鳥居・社殿ともに神社建築としては珍しく北向き(正確にはやや北北西向き)になっています。社名にある「源九郎」とは、源九郎判官義経(みなもとのくろうほうがんよしつね)に関わることから名づけられたと伝えるため、本来は稲荷神社であるが源九郎稲荷神社と呼ばれています。

鳥居の向うに元・妓楼が見える!(@_@;) 冷たい雨に打たれる狛狐さん 祓戸
源九郎狐の彫り物と白狐面 解説 本殿
中村勘九郎、市川猿之助参拝 中村勘九郎参拝記念写真 市川猿之助参拝記念写真
ご朱印をいただきます!(^-^)v 細かな格子窓など木造建築意匠が素晴らしい!(0  ^〜^)ノ
細い路地裏にどっしりと重厚な木造三階建て建築が雨に煙ってええ感じや〜(^-^)/
しかし妓楼の両隣が寺院と墓地とは!(@_@;) ななんと漆喰壁の下地窓?がハート(桃尻型) ハート(桃尻型)が3つ!!!(@_@;)
妓楼だった旧川本邸もどことなく懐かしい風情、なんとなく時間が穏やかに過ぎていく空間にホッとする。。。(*´ο`*)=3ホッ
雨脚だけでなく風も強まってきて足元がずぶ濡れや〜! ヽ( ̄ー ̄*)ノ 無っ茶寒〜い!
金魚群の赤い影が動いています・・・冷たい雨が寒いけど、春はすぐそこに来ている・・かな 養殖池の間を近鉄電車が走っていく・・・
近鉄橿原線と金魚養殖池 金魚資料館・・本降りの雨の中を濡れながら歩いて来ましたが・・・休館日やて!・゚・(つД`)・゚・
館内の様子 金魚養殖池 とある金魚養魚場
一面の水田のように見えるのは、全て金魚養殖池です。さすが金魚のふるさとや〜(@_@;)スゲ〜
養殖池に混じって田畑もあります・・しかし、横降りの雨に足元がすぶ濡れで冷たくて寒いよ〜(>▽<;; 
養殖池は案外と浅いようです。 221系大和路快速?が走り去っていきます・・・JR大和路線(JR難波駅〜奈良駅)
近鉄橿原線(大和西大寺駅〜橿原神宮前駅) テレビで見た金魚屋さんにお邪魔します・・・店内は暖かくてホッと一息!(*´ο`*)=3ホッ
広い店内にはたくさんの金魚が販売されています・・・しかし、色とりどりに泳ぐ金魚さんは優雅やな〜(*゜▽゜)/
綺麗な更紗和金? もしかして、玉さば?? 近鉄電車が走っています・・・ 金魚養魚場
・・・ JR大和路線(JR難波駅〜奈良駅) この大池も金魚養殖池かな???
大和郡山の傾城町(けいせいまち)

傾城町(けいせいまち)とは遊郭、郭(くるわ)、遊里、色街のこと。有名なのは京島原、伏見柳町、八幡橋本、江戸山谷(吉原)等、全国に傾城町が点在していた。歴史を重ねた町には、その表通りがあれば裏通りもある。すべてに表裏、陰陽、光と影が存在するように大和郡山は郡山城を中心とした城下町が築かれたが、その一角に傾城町が存在していたのも事実である。今も強烈に異彩を放つ木造建築は櫓風の三階建てなど細い格子が目に留まる。見るからに傾城町特有の建物であるが建築意匠の素晴らしさに、ただただ目を惹かれる。

郡山城外堀(八幡堀跡) ・・・ 建築意匠が面白い木造三階建て建築
格子など変わった建築意匠建物は・・・やはり妓楼だったようです・・・
かつては傾城町としてかなりの賑わいを見せていたようですが・・・大衆酒場?の看板が今を物語っているようです。。。
妓楼から転業されたのか?旅館という看板があがっていますが・・・人の気配や活気を感じません・・・
・・・ ・・・ 荒れ果てた廃墟?・・・勿体ないな〜
・・・ よく見ていると妓楼のレトロな看板が現存しています・・・
次に稗田環濠集落へ向かう予定でしたが、風雨が強まり足元などが、ずぶ濡れになって体が冷えて寒いので予定変更して帰還することに・・・
ここは何?と覗き込んだら・・昔ながらのかしわ(鶏肉)屋さんです・・・(@_@;) ・・・
気のせいか、この辺りの商店街は、以前訪ねた時より整備されて活気を感じられる・・・
近鉄郡山駅前 惣菜をゲット!(^-^)v 京都行き急行に乗車!(*´ο`*)=3ホッ
徳川御三家の産土神(うぶずながみ)、伏見九郷の総鎮守社の御香宮神社 地図

縁起には、諸説があり社伝によれば貞観4年(862年)9月9日、境内に清泉が湧き出し水が芳しく四方に香り病者がこの水を服用すれば病気がたちどころに癒ゆるといわれ、これに因んで御香宮と称し地名も石井郡(紀伊郡)と称したと伝えます。又、御香宮は、旧伏見町の産土神(うぶずながみ)として古来から最も信仰されている洛南屈指の大社です。筑前国糟屋郡(福岡市香椎(かしい)町)にある香椎宮(祭神:神功皇后、仲哀天皇)を勧進し御香椎の椎を略し御香宮となったという説があります。延喜式に記す御諸(みもろ)神社であると言う説もあります。御諸(みもろ)とは、森と同義で神の鎮座する森をいい神の降臨する山や森を神格化したものを御諸(みもろ)神社と言います。豊臣秀吉は、征韓の役に際し、肥前長光(重要文化財:桃山期)の名刀を戦勝祈願時に奉納し今も社宝とされています。伏見城築城に際し深草大亀谷に移され城惶神(伏見城の鬼門除け守護神)とし社領300石を寄進されました。その後、慶長10年(1605年)に徳川家康によって現在地に移され、徳川御三家(尾張、紀伊、水戸藩)藩祖と二代将軍・秀忠の娘(千姫)らが伏見で誕生し御香宮を産土神(うぶずながみ)として社領も豊臣秀吉同様の深草地方など300石が与えられました。豊臣秀吉、徳川家康を始めとし特に徳川御三家藩祖らが特別の崇敬を払った洛南最大社です。

桃山御陵前駅 御香宮の大鳥居@大手筋通り 徳川頼房(水戸藩祖)が寄進した表門(重文:桃山期)
二の鳥居 伏見義民碑(勝海舟撰文、三条実美筆) 桃山天満宮
伏見戦跡碑 徳川頼宣(紀伊藩祖)が寄進した割拝殿 「名水百選」に選定された御香水 ※自己責任
本殿 観音寺 石仏群
本堂 大手筋 冷たい雨風の一日やった・・(*´ο`*)=3ホッ

Tourist 2013.02.18(M)

☆参考資料:大和郡山城下町マップ

るるぶ情報版 「奈良大和路'06」 JTBパブリッシング

るるぶ情報版 「京都 奈良'07」 JTBパブリッシング

「奈良を歩こう」 JR西日本

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