大和路探訪【大納言秀長百万石の城下町・金魚のふるさと大和郡山U】
言葉の 葉には秋なし 神の森 巌谷小波
東岡町(遊郭跡)〜洞泉寺町(遊郭跡)〜源九郎稲荷神社〜稗田環濠集落・賣太(めた)神社〜大納言塚〜金魚資料館〜御香宮
稗田環濠集落(ひえたかんごうしゅうらく) ☆地図
集落(村)の周囲に濠を巡らせ、外敵を防いだ中世の環濠集落の遺構。形成期など詳細は不明だが、集落全体を濠が囲む形は、室町時代に形成されたと推察され、ほぼ原型を留めているようです。環濠の規模は東西、南北共に260m、北東側は七曲と呼ばれる形をしています。また水の少ない当地に聖徳太子が水路を造ったという伝承も残る全国的に有名な環濠集落で、奈良市の文化財にも指定されている。稗田環濠も戦国時代に外敵から集落を守る為に造られ、環濠内の稗田集落に関する最も古い資料は、文安元年(1444年)の経覚私要抄の記事で、古市胤仙が稗田の陣を敷いた事が記され、文明11年(1479年)には筒井氏が稗田を攻めて焼いたと記録されている。環濠内は家屋が密集し、東西南北に大きな道がとおり、そこから細い道が延びてT字に交差したり、袋小路になったりと、遠くが見渡せない防御に適した構造は室町時代のまま現存している。
傾城町(けいせいまち)とは遊郭、郭(くるわ)、遊里、色街のこと。有名なのは京島原、伏見柳町、八幡橋本、江戸山谷(吉原)等、全国に傾城町が点在していた。歴史を重ねた町には、その表通りがあれば裏通りもある。すべてに表裏、陰陽、光と影が存在するように大和郡山は郡山城を中心とした城下町が築かれたが、その一角に傾城町が存在していたのも事実である。今も強烈に異彩を放つ木造建築は櫓風の三階建てなど細い格子が目に留まる。見るからに傾城町特有の建物であるが建築意匠の素晴らしさに、目を惹かれます。
表窓に細い格子がはまった家並み、重厚な木造三階建てなど傾城町の面影が現存する町。奈良市木辻町と大和郡山市の洞泉寺町、東岡町の三ヶ所が奈良三大遊郭と呼ばれていた。この遊郭街は元和7年(1621年)頃、士風に悪影響ありと全て取り払われたが降りて延宝、元禄の相次ぐ大火に際し、再びこの町に傾城町が出現したと伝える。
かつて伏見稲荷(京都市)・豊川稲荷(愛知県)と並び、日本三社稲荷の一とされました。現在の社殿は大正時代に建てられたと伝え、鳥居・社殿ともに神社建築としては珍しく北向き(正確にはやや北北西向き)になっています。社名にある「源九郎」とは、源九郎判官義経(みなもとのくろうほうがんよしつね)に関わることから名づけられたと伝えるため、本来は稲荷神社であるが源九郎稲荷神社と呼ばれています。・・・童謡に『大和の大和の源九郎さん遊びましょう』というのは当社のことで、その名は広く世に伝わり神徳広大であります。日本三大稲荷の一つに数えられ、北向きの本殿に白狐源九郎が祀られている。千本桜の狐・忠信というのは、この源九郎稲荷の化身である。源九郎判官義経は日頃 深くこの明神を信仰し、神護によりしばしば奇異の戦功を著されたことは、人のよく知る所である。その奥羽に下られた時、訣別の徴として源九郎の名を贈られたというのが、源九郎稲荷と称する所以である。(真鳥実記巻八、二十三丁)
地元では「やこうさん」と呼ばれ親しまれ、元は天平勝宝2年(750年)に塩町の御旅所に薬園荘の鎮守として創祀されました。延徳3年(1491年)、郡山城築造に際して現在地に移されたと伝える。祭神は誉田別命、息長足媛命(薬園八幡神社略記では、八幡大神と比盗_)で境内には薬草見本園(約50種類)があります。本殿は一間社隅木入春日造桧皮葺(宝暦9年の改築・奈良県の文化財)。天平勝宝(749年)、大仏完成擁護の神託を奉じ宇佐から平城京(東大寺)への遷座の際に御分霊を新宮内の神殿に留め奉斎し薬園(やくおん)の地名を関して由緒とする。(社略記より)
佐保川西岸堤防沿いの榎の大木下辺りに稗田集落の埋め墓があります。埋め墓とは遺体を埋葬する墓地で墓石がなく、こんもりとした土山に卒塔婆が立っています。普段お詣りする墓は詣り墓として別にあり、このような埋め墓という遺体埋葬地と詣り墓という遺体のない墓参用墓地の二つの墓地が存在することを両墓制といいます。
かつては奈良に多く存在した環濠集落。中世の戦乱期に自衛手段の他に防水、利水を目的に村の周囲に堀を廻らしたのが環濠集落。賣太(めた)神社を中心に壕が廻らされた稗田の環濠集落は大規模でありながら、ほぼ完全な形で現存している。東西、南北共に約260mの広さを有し、北東側は七曲りと呼ばれる特異な形をしている。東西、南北に大道があり、そこから細い道が伸びてT字形に交差したり、袋小路になっていたりと、遠くが見通せないような構造となっている。史料が殆ど残っていない為、どのように形成されたのか詳細は不明だが、室町時代には現在の形になったと伝える。
環濠を渡れば、稗田阿礼(ひえだのあれ)を祭神として祀る古社の賣太(めた)神社があるが、かつては平城京の羅城門付近にあって、道祖神としての役割を持っていたと伝える。賣太神社では8月16日に阿礼祭が行われる。稗田阿礼は天武天皇に仕えた舎人(とねり)で、日本最古の書物『古事記』編纂者の一人。阿礼は、一度目や耳にした事は決して忘れなかったと伝え、その記憶力を見込まれ、天武天皇から『帝紀』、『旧辞』等、古代からの伝承を誦習する事を命じられる。元明天皇の御代、稗田阿礼が声に出して読んだものを太安万侶が筆録するという方法で、『古事記』は編纂された。
前方部正面を東に面する三段築成の前方後円墳で、全長:122.5m。後円部径:67m。前方部幅:75m。周囲には馬蹄形の濠を廻らしていたと伝える。かつて、勾玉類が出土したと伝える。東西方向に延びる小支丘の西側を切断して後円部の仕切りとし、後円部のすぐ西側には陪墳と考えられる「帆立貝式古墳」の『三吉石塚古墳』が所在し陵墓参考地に指定されている。
豊臣秀吉の異父弟で大和郡山百万石城主・大和大納言秀長の墓所。奈良市文化財に指定されており、毎年四月に墓前供養が執り行われる。大和郡山城、城下町の基礎を築いた羽柴(豊臣)秀長は、天正19年(1591年)1月22日、郡山城内で51歳で没する。秀長の死が豊臣家の滅亡を早めたとも言われるほどの人格者だった。菩提寺だった大光院は藤堂高虎によって大徳寺塔頭として移されたため、墓だけがこの地に残った。墓の前にはお願いの砂箱があり、願をかけると学問の知将と言われた秀長にあやかることができるとか・・・
慶長4年、伊賀国荒木村の服部家に生れる。柳生兵庫助に入門後、柳生新陰流の印可を受く。故郷名の荒木姓を名乗り大和郡山藩の剣術師範役となった。天正12年、長久手の戦いで岡山藩主・池田忠雄の祖父が安藤直次に刺殺され、池田家と安藤家は不仲となっていた。後の寛永7年、岡山藩主・池田忠雄の世継(光仲)の誕生祝いの最中、河合又五郎が藩主の小姓・渡辺源太夫を殺害し旗本の安藤家に匿われた。池田家と安藤家の確執は益々熾烈となり外様大名と旗本の争いは熾烈を極める様相を呈し、調停に入った幕府も手を焼いたが、すぐに岡山藩主・池田忠雄が急死し岡山藩と鳥取藩の国替えが断行された。荒木又右衛門は、仇討を悲願とする源太夫の兄・渡辺数馬を助け、寛永11年11月7日伊賀上野鍵屋の辻において又五郎を迎え討ち、首尾よく本懐を遂げさせた。外様大名・池田の面目も立てた。この仇討ちは伊賀越仇討といい日本三大仇討の一つとして有名である。仇討後、藤堂家にお預けとなったが、鳥取藩の強い希望によって、寛永15年8月13日、鳥取・上野両藩の丁重な護衛の下、数馬と共に鳥取藩へ迎えられたが、鳥取に入って間なしの28日に急死したと伝える。
縁起には、諸説があり社伝によれば貞観4年(862年)9月9日、境内に清泉が湧き出し水が芳しく四方に香り病者がこの水を服用すれば病気がたちどころに癒ゆるといわれ、これに因んで御香宮と称し地名も石井郡(紀伊郡)と称したと伝えます。又、御香宮は、旧伏見町の産土神(うぶずながみ)として古来から最も信仰されている洛南屈指の大社です。筑前国糟屋郡(福岡市香椎(かしい)町)にある香椎宮(祭神:神功皇后、仲哀天皇)を勧進し御香椎の椎を略し御香宮となったという説があります。延喜式に記す御諸(みもろ)神社であると言う説もあります。御諸(みもろ)とは、森と同義で神の鎮座する森をいい神の降臨する山や森を神格化したものを御諸(みもろ)神社と言います。豊臣秀吉は、征韓の役に際し、肥前長光(重要文化財:桃山期)の名刀を戦勝祈願時に奉納し今も社宝とされています。伏見城築城に際し深草大亀谷に移され城惶神(伏見城の鬼門除け守護神)とし社領300石を寄進されました。その後、慶長10年(1605年)に徳川家康によって現在地に移され、徳川御三家(尾張、紀伊、水戸藩)藩祖と二代将軍・秀忠の娘(千姫)らが伏見で誕生し御香宮を産土神(うぶずながみ)として社領も豊臣秀吉同様の深草地方など300石が与えられました。豊臣秀吉、徳川家康を始めとし特に徳川御三家藩祖らが特別の崇敬を払った洛南最大社です。
Tourist 2013.02.25(M)
☆参考資料:大和郡山城下町マップ
るるぶ情報版 「奈良大和路'06」 JTBパブリッシング
るるぶ情報版 「京都 奈良'07」 JTBパブリッシング
「奈良を歩こう」 JR西日本
etc
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