洛西の名残り桜
花見んと むれつつ人の くるのみぞ あたらさくらの とがにはありける 西行法師
城南宮〜西山宮門跡・善峯寺〜西行桜で知られる花の寺・勝持寺〜大原野神社
|
西山の古刹・西行ゆかりの花の寺・勝持寺〜大原野神社 ☆地図 |
西山々麓にのどかな風情を残すエリアで春日大社(奈良)の分霊を祀る大原野神社、「伊勢物語」の主人公・在原業平(ありわらのなりひら)ゆかりの十輪寺、境内に西行桜を始め約100本もの桜木があり春には桜花が見事に咲き乱れ世に花の寺と呼ばれる西行ゆかりの古刹・勝持寺など見所は、山裾や山中に点在しています。私的には山間の桜、楓が色づく春、秋の頃がオススメです。 |
桜はどこで咲いてもサクラやな〜(゜O゜)\(--; 当たり前やろっ?! | ||
さくらは、どこで咲いても見事やな〜♪♪v(⌒o⌒)v♪♪イエーイ | ||
(*゜▽゜)/ウイッス! | ボタン桜・・・八重桜も満開です! | |
城南宮 ☆地図 | ||
上古の時代、神功皇后は出陣に当たり、軍船の御旗に八千矛神を招き寄せて戦勝を祈願され、戦が終わると御旗は宮中で大切に保管されていました。桓武天皇が平安京に都を定めた時、御旗を城南の当地に御神体として納め、八千矛神(やちほこのかみ=大国主命:おおくにぬしのみこと)、国常立尊(くにのとこたちのみこと)、息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと=神功皇后:じんぐうこうごう)の三柱、伊勢、石清水神社など七社が合祀され、都の南を鎮護する神として祀られた。御旗の日月星の紋章が城南宮の三光の神紋の由来と云われています。平安時代末期、交通の要衝でもあった風光明媚な当地に白河上皇が壮大な城南離宮(鳥羽離宮)を造営し院政を開始、歌会や宴、船遊びや競馬(くらべうま)が、しばしば行われ王朝文化が開花しました。承久3年(1221年)、後鳥羽上皇が流鏑馬揃えと称して兵を集め「承久の乱」を起こし、慶応4年(1868年)正月、城南宮に陣取った薩摩藩のアームストロング砲が鳴り響き、「鳥羽・伏見の戦」が開戦しました。 |
||
方除けの社・城南宮 | ||
伏見名水の菊水若水 ※自己責任で | 清々しい境内と社殿・・・参拝しました!(0 ^〜^)ノ | |
西山宮門跡「善峯寺」 ☆地図 | ||
釈迦岳支峰の善峰の中腹にある西山(せいざん)と号する天台宗延暦寺派の寺院で伽藍は険しい山崖に建っていて山麓から仁王門迄の山道の途中に座禅石と称する大石があり源算上人が座禅修法中、一老翁から仏寺の建立を頼まれ地形の険しさに困窮していると野猪の群れが現れ土地を均したので伽藍を建立できたと伝わります。寺伝によると平安中期の長元2年(1029年)、源算上人によって開かれました。源算上人は「往生要集」を著した恵心僧都の高弟で、因幡(鳥取)に生まれ横川(比叡山)の恵心僧都に従い顕密の蘊奥を極め47歳の時、当山に入り小堂を結び、十一面千手観音像を刻み本尊とし仏法を興隆しました。長元7年(1034年)9月、後一条天皇より鎮護国家の勅願所に定められ「善峯寺」の寺号を賜り歴代天皇の崇敬篤く、長久3年(1042年)、後朱雀天皇の時、洛東鷲尾寺の仁弘法師作・十一面千手観世音菩薩像を当山に遷して本尊となし先の十一面千手観音像を脇壇とし白河天皇が諸堂を建立しました。中世には「西山宮」と号する門跡寺院となり、室町時代には後花園天皇が伽藍を改築され僧房52の多きを有する大寺院となりましたが応仁の乱(1467〜77年)の兵火で焼失し現在の諸堂の多くは江戸時代に徳川5代将軍・綱吉の生母である桂昌院によって再建されました。元和7年(1621年)、再建の多宝塔は山内最古のもので「大元帥明王軸(鎌倉時代)」と共に重要文化財に指定されています。京都府指定の文化財としては「善峯寺曼荼羅」二幅があります。日本一の松とも称される樹齢約600年の五葉松は「遊龍の松」と呼ばれ、国の天然記念物に指定されています。西国三十三所観音霊場の第二十番札所、洛西一番札所でもあります。 |
||
善峯寺 | 仁王門 | 観音堂(本堂) |
病気平癒、長寿、健康に霊験あり「お香水(閼伽水)」 | 山桜と遊龍の松(天然記念物)のコラボ! | 鐘があるから豪快に鐘を撞く!(^-^)v |
\(●⌒∇⌒●)/やっほ〜 | 境内俯瞰(0 ^〜^)ノ | 不動明王 |
遊龍の松(天然記念物) | ||
樹齢600年と伝える五葉松で安政4年(1857年)、花山前右大臣・家厚公が「遊龍」と言われたと伝えます。元は全長54mありましたが、平成6年括(1995年)、松喰い虫の被害に遭った為、15mに切られて現在に至ります。 |
||
樹齢600年と伝える「遊龍の松(天然記念物)」 | \(●⌒∇⌒●)/やっほ〜 | さくら苑 |
周りの人の幸せを願う幸福地蔵 | 木辺に春・・・椿とです。。。(^^ゞ | |
しだれ桜が見事です〜!(0 ^〜^)ノ | ||
えぇ感じやな〜(0 ^〜^)ノ | ||
薬湯場 | ||
源算上人作の釈迦如来像(石仏)を釈迦岳山頂に安置されていたのを、明治13年(1880年)に善峰寺に移され山頂から善峯寺へ移すのは、大変でお釈迦様も汗をかいて下山したと伝え、この時の霊汗が由来となり「善峯寺の薬湯」が始まった伝えます。薬湯場は、当山で採れる百日湯で神経痛、腰痛は勿論、諸病に特効があるとされ年2回(5月、10月)の第2日曜日の午前8時〜午後3時まで随時入浴できます。 |
||
白山名水をペットボトルに頂戴します・・・※自己責任 | えぇ眺めや〜\(●⌒∇⌒●)/ | 「薬湯場」にある竃やんか!(@_@) |
ほんまに、えぇ眺めや〜\(●⌒∇⌒●)/ | 釈迦堂の本尊・釈迦如来石仏は釈迦岳から下山したという。 | |
えぇなぁ〜(@^▽^@) | ||
ほんまに・・・えぇなぁ〜(@^▽^@) | ||
けいしょう堂に祀られる桂昌院 | 奥の院・薬師堂 | |
やっぱり高い所から下界を俯瞰するのは・・・えぇなぁ〜(@^▽^@) | ||
蓮華寿院庭池の鯉さんズ | しだれ桜 | 青蓮の滝 |
えぇなぁ〜(*^▽^*) | 阿弥陀堂 | |
・・・ | 桂昌院お手植えと伝えるしだれ桜 | |
桂昌院お手植えと伝えるしだれ桜 | 径堂(絵馬堂) | 山内最古の多宝塔(重要文化財:江戸期) |
樹齢600年と伝える「遊龍の松(天然記念物)」 | 観音堂(本堂) | |
花の寺(勝持寺:しょうじじ) ☆地図 | ||
創建は定かでなく諸説があります。伝教大師最澄が比叡山の坤(ひつじさる/西南)にあたる当地に霊威を感じ薬師如来像を安置し天台道場としたのが起こりとされ小塩山大原院勝持寺(しょうじじ)と号する天台宗の寺です。初め、小塩山大原寺(だいげんじ)と号したが仏陀上人(千観僧都:勝持上人)が文徳天皇の帰依を得て伽藍を再興し大原院勝持寺と改名し大原野神社の供僧寺とし、それより多くの伽藍が造営され塔頭子院だけで49院を擁する大寺院となりました。足利尊氏が六波羅攻略の時に当寺に立ち寄った折に時の住僧が機転を利かせ「勝持」と記した旗竿を献じたところ尊氏の戦勝の吉瑞として嘉納して以来、足利氏の庇護を受け寺運は隆盛しました。歴代の足利将軍の古文書を多数所蔵する所縁です。応仁の兵火に焼亡したが天正11年(1583年)、青蓮院宮尊朝法親王は当寺の再建に努め織田信長、豊臣秀吉も庇護しました。寺伝によると白鳳8年(680年)、天武天皇の勅によって神変大菩薩役行者(えんのぎょうじゃ)が創建したとされ延暦10年(791年)に伝教大師最澄が桓武天皇の勅を奉じて堂塔伽藍を再建し薬師瑠璃光如来を一刀三礼をもって刻まれ本尊としました。承和5年(838年)、仁明天皇の勅により塔頭19院を建立しましたが応仁の兵火に仁王門を除き全てを焼失し桂昌院(徳川5代将軍・綱吉生母)により再建され、やや旧観に復しました。境内には古来、桜の木が多く洛西屈指の花の名所とされます。 |
||
善峯寺をあとに。。。 | ・・・ | 花の寺(勝持寺)へ・・・ |
仁王門(花の寺/勝持寺) | 参道 | ・・・ |
参道 | 前日までの爆弾低気圧の通過で散花?西行桜 ( ̄□||||!! | |
本堂 | 不動堂 | 大師が眼病魔退散を祈願された石不動明王 |
鏡石、西行姿見池(瀬和井:せがい) | ||
鏡石は珪石質で光沢があり西行が剃髪に鏡として用いたとされます。その傍らに西行が姿見をしたと伝える小さな池泉があります。 | ||
花の寺の境内には約100本の桜の木々がある。 | 西行ゆかりの鏡石と瀬和井(せがい) | |
魚藍観音 | (0 ^〜^)ノ | |
Wonderfulだぜ! (・_・)☆ヾ(^^ ) スギちゃんか?! | ||
Beautifulだぜ! (・_・)☆ヾ(^^ ) スギちゃんか?! | ||
えぇなぁ〜(@^▽^@) | ||
Wonderfulとです! (・_・)☆ヾ(^^ ) スギちゃんか?!ヒロシです・・・ヒロシです・・・ヒロシとです。。。(>▽<;; | ||
冴野(さえの)の沼に注ぎ込む三春川 | えぇなぁ〜(@^▽^@) | |
花の寺の境内にある約100本の桜の木々 | ||
えぇ感じやなぁ〜(@^▽^@) | こま札 | |
えぇなぁ〜(@^▽^@) | ||
大原野神社 ☆地図 | ||
藤原氏の祖神を祀った氏神で平安遷都にあたり奈良への社参が不便である為当地に勧請されたのが起こりと伝えます。社伝によれば嘉祥3年(850年)、左大臣・藤原冬嗣の奏請によって社殿を造営したとされ地名に因って大原野神社と言います。藤原氏の覇権確立と共に氏神とし大きな地位を占め歴朝の行幸啓、奏幣、祈願の事も度々あり神領も多く寄せられました。伊勢の斎宮、加茂の斎院に倣って斎女をおいて奉仕するなど王朝時代には社運も隆盛を極めたが藤原氏の哀徴によって次第に衰え室町末期頃には祭儀さえ途絶えがちになりました。江戸時代の慶安年間(1648〜51年)、後水尾天皇の勅によって再興され明治4年(1871年)には官幣中社となったが戦後は、社格も廃され現在は大原野の産土神(うぶずながみ)として崇敬されています。 |
||
大原野神社 | 早くも見ごろの石楠花 | |
猿沢池(奈良)を模した鯉沢池 | 解説 | 美味しそうな匂いに誘われて?(^^ゞ |
どっこらしょっと。。。(*´ο`*)=3ホッ | 今が旬の長岡のタケノコ入りきのこそば(^^♪ | 抹茶と草もち(^^♪ |
瀬和井(せがい) | ||
大伴家持(おおとものやかもち)が愛飲した井水と伝え古来、多くの和歌の題材となった名水とされます。「大原や せがいの水を 手にむすび 鳥はなくても 遊びてゆかん」 家持。 |
||
瀬和井(せがい) | 雌雄の狛鹿?阿吽の鹿ちゃん?? | |
千眼桜 | 境内と社殿 | |
Tourist 2013.04.08(M) |