伏見〜宇治〜宇治田原探訪
奥山に 紅葉踏みわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋は悲しき 『古今集』秋上・215 猿丸太夫(5番)
伏見〜宇治〜宇治田原自転車めぐり
|
日本緑茶発祥の地・宇治田原 ☆地図 |
宇治田原町が文献上に初めて登場するのは、10世紀中期に書かれた「和名抄」の「田原郷」の記載とされます。集落は、奈良盆地から近江へと抜ける古道沿いにありました。この古道は、現在の国道307号線、及び府道宇治田原大石東線とほぼ重なります。奈良・平安時代には金胎寺(現和束町内)、湯原寺、医王寺等多くの寺院が建立され、仏教修学のための拠点の様相を呈していました。古刹・禅定寺が正暦2年(991年)に創建されています。しかし、近世に入ると、世の争乱から多くの寺院が荒廃、廃絶し、禅定寺もその寺領を失い、相当衰退しました。なお、鎌倉期に茶の生産方法がこの地に伝えられています。江戸時代に入ると、一旦幕府直轄領となった後、宮廷の禁裏御料となり、栗や松茸等を多く産出、上方の副食物類の主産地となりました。御料林の名残は、現在も御林山一帯の町有林として残っています。集落は安定期を迎え、延宝8年(1680年)に、禅定寺が、曹洞宗の僧・月舟によって再興されました。また、元文3年(1738年)、湯屋谷の茶農・永谷宗円が「青製煎茶法」を考案したことで、茶の大衆化が進むと同時に、「宇治の煎茶」の名は全国に広がっていったことは有名な話で、現在も宇治田原が日本緑茶発祥の地と呼ばれる所以であります。明治維新後は、京都府管轄下となり、昭和31年(1956年)に田原村と宇治田原村が合併し現在の宇治田原町が誕生しました。 『お茶の日本への渡来と宇治田原での栽培』・・・日本にいつお茶がもたらされたのか定かではありませんが、遣唐使などによる大陸との交流で、当初は製品として、やがて実や苗がもたらされたと考えられます。平安時代の文献には茶を点てたことが記載されており(「日本後紀」)、宋に渡り修行した栄西が帰国後「喫茶養生記」を記して喫茶の習慣を奨励します。当初は主に寺院等で健康・薬用飲料とされたお茶は嗜好品となり、各地で栽培されるようになります。文化的にも洗練される一方で、景品をかけてお茶の種類を飲み当てる「闘茶」に熱中したり、庶民の間でも日常的な飲料として浸透していきます。拇尾の明恵は親好のあった栄西から贈られた茶により茶園を造り、さらに宇治など各地に植栽したと伝えます。伝承によれば、奧山田茶屋村にある寄代坊の光賢が、拇尾のお茶の実を、明恵の弟子・光音から譲り受け、大福谷の辺りに畠を拓いて植え、さらに湯屋谷の湯原寺の賢永がこれを田原郷に移したとされます。大福谷は地味・気候ともにお茶の栽培に最適で、お茶の味も優れていたので、大福の穂先茶は宮中や鎌倉将軍へも献じられ「もっとも茶香深し」と賞賛されるほどだったと伝えます。 (宇治田原町より) |
坂本龍馬、お龍ゆかりの旅籠・寺田屋 | 酒蔵 | 近鉄京都線・澱川鉄橋(有形文化財:昭和期) |
平戸樋門と観月橋 | 悠々と流れる宇治川 | 巨椋池の名残と伝える木幡池 |
隠元禅師が上陸した事に因む隠元橋 | 「黄檗開山隠元禅師渡岸之地」記念碑(功徳碑) | 宇治と言えば・・・お茶、お茶畑 |
黄檗新生市場 | シャッター市場化しているが市場の規模からかつて、かなりの隆盛を誇っていたと推測できる。 | |
ここの洋菓子屋さんのケーキなどが、お気に入りでいつも買いま〜す!\(●⌒∇⌒●)/ | 黄檗新生市場 | |
萬福寺塔頭・宝蔵院・・・墓参りへ | 光の君と葵の上?紫の上??(≧▽≦)ぷっ | |
菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)陵墓 ☆地図 | ||
四世紀初頭の応神天皇の皇子と伝え、日本書紀によると応神天皇は数多の皇子の中でも秀俊の誉れ稚郎子を皇太子と定めて亡くなった。しかし、稚郎子は自分よりも年長の大鷦鷯(おおささぎ:仁徳天皇)こそが皇位を継ぐべきだとし、大鷦鷯も父の言葉に背くことはできないとし、お互いに譲り合うこと三年、ついには兄をたてて自らの命を断ったという逸話を今に伝えます。 |
||
雛人形でした!(^▽^;)おろろ〜 | 宇治川右岸堤防を疾走中!(; ̄ー ̄A | 菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)陵墓 |
菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)陵墓 | 太閤・豊臣秀吉によって築かれた宇治川堤防を発掘調査して復元された太閤堤の一部 | |
太閤堤解説パネルと航空写真 | 京阪・宇治駅 | |
橋寺放生院 ☆地図 | ||
雨宝山と号する真言律宗の寺で一に常光寺として地蔵尊を祀り道路交通の安全を祈る寺として古くから知られます。寺伝によれば大化2年(646年)、僧道登が宇治橋を架けた時に宇治橋の守り寺として併せて建立したとされるが弘安9年(1286年)西大寺の僧叡尊が宇治橋の架け替えにあたり橋供養をした時だとされます。断碑は、上下二つに割れたものを一つに繋ぎ合せ碑文は大化2年(646年)、僧道登によって宇治橋が初架橋されたと記します。元橋畔にあったのがいつの世にか流出し行方不明でしたが寛政3年(1791年)、たまたま付近土中から断片が発見され、失った部分を補ったのが現在の石碑で日本最古の石碑とされますが近年、古さを誇示する為に平安初期頃に偽作されたという説もあります。 |
||
日本三古橋の一つと伝える宇治橋 | 橋寺放生院 | とっても気持ちのいい境内\(●⌒∇⌒●)/ |
十二支の守り本尊祠 | 私と葵の上?紫の上??の守り本尊!(*゜▽゜)/ | PちゃんとOちゃん姉妹の守り本尊!(*゜▽゜)/ |
橋かけ観音さま | 切支丹、マリア灯篭 | 日本最古?の石碑「断碑」 |
回すと徳積みになるという摩尼車 | 合掌!O(-人-)O | 宇治十帖モニュメント |
宇治神社 | 浮島(塔の島)に立つ高さ約15m、現存する日本最大で最古の十三重石塔 | |
興聖寺(こうしょうじ) ☆地図 | ||
仏徳山と号する曹洞宗永平寺派の寺で道元禅師を開山とします。道元禅師は当初、深草極楽寺の境域に一宇を建て興聖寺と号したが興聖寺は、比叡山延暦寺の弾圧を受け、寛元元年(1243年)、道元が越前に下向して以降荒廃し、住持4代で寺は廃絶しました。その後の慶安元年(1648年)、淀城主・永井信濃守尚政が万安英種を招聘して5世住持とし、朝日茶園のあった現在地に興聖寺を再興しました。 山吹、桜、ツツジやサツキなどが多く対岸の平等院に匹敵する名所で宇治十二景の一つとされます。法堂(はっとう:本堂)にある平安時代中期の木像聖観音立像は、源氏物語「宇治十帖」古跡(手習の社)に祀られている事から手習観音ともよばれてます。本堂には伏見城の遺構を移築したもので血の手形が残る天井や鴬張りの廊下などがあります。参道の脇を流れるせせらぎが琴の音に似ていることから琴坂と呼ばれ、紅葉の名所として知られる琴坂は宇治十二景の一つに数えられ、多くの人に親しまれている。 |
||
浮島と朝霧橋 | 興聖寺 | 紅葉で知られる琴坂は琴の音色 |
いつ訪ねても清楚に手入れされている境内は清々しい気持ちになります!(*゜▽゜)/ | 伏見城遺構と伝える本堂(法堂)に血天井 | |
三面大黒天 | 朱印を頂きました!(^-^)v | 門を額縁に見立てて琴坂を眺める!(*゜▽゜)/ |
茶筅塚 | 宇治川右岸を疾走中!o(*^▽^*)o | 亀石くん |
天ヶ瀬ダムのすぐ下流に架かる天ヶ瀬吊橋 | ||
天ヶ瀬(あまがせ)ダム ☆地図 | ||
宇治橋の上流約2.5km、宇治川天ヶ瀬に水害防止と発電の二つを主目的に建造されたダムで高さ73m、長さ254mのアーチ式ダムで2000万㎥(東京ドーム7杯分) の貯水量で下流域の洪水を防ぎ新たに発電所を設け92000kwの電力を宇治市、城陽市などに送電し併せて宇治、城陽、久御山、八幡市など山城地域へ上水道(府営)の取水口も設けられています。総工費66億円と言われ当時、我が国土木技術の粋を結集して昭和32年(1957年)〜7ヵ年半の歳月を費やして同39年(1964年)11月に一応完成しました。ダムの完成により宇治川に延々24kmに渡って一大人造湖が出現し他所に見られない水上公園とされ鳳凰湖と名付けられました。 |
||
宇治川 | 志津川発電所と天ヶ瀬ダム | |
禅定寺 ☆地図 | ||
正しくは、白華補陀落山観音妙智院禅定寺(びゃくげ ほだらくさん かんのん みょうちいん ぜんじょうじ)と号し、元は天台宗でしたが、現在は曹洞宗の禅寺で福井県の永平寺と神奈川県の総持寺を両大本山とする寺院で曹洞宗中興・月舟宗胡禅師終焉の地でもある。『禅定寺造営年次目録』によれば、正暦2年(991年)東大寺五十三代別当であった平崇上人が関白太政大臣・藤原兼家の帰依を受け、私領の山野に5年の歳月を費やして堂を建て、十一面観音菩薩像を安置したのが始まりと伝える。ついで長保三年 (1001年) 上人は田畑一千町歩を寺に施入。この禅定寺領は延久元年(1071年)、平等院に寄進され、禅定寺は平等院の末寺となり大きく発展したが、鎌倉、室町、戦国時代の兵火などで創建当初の伽藍は壊滅。その後、江戸時代の延宝8年(1680年)加賀の国、曹洞宗大乗寺の月舟宗胡禅師を迎え曹洞禅の道場として復興が果たされこれ以来宗旨を曹洞宗に改めて現代に至っている。収蔵庫には平安時代の仏像が多数安置されている。 木造十一面観音菩薩立像(国重文)、木造日光・月光菩薩立像、木造四天王立像、木造文殊菩薩騎獅像、木造地蔵菩薩半跏像(いずれも国重文・平安時代)。書跡に禅定寺田畠注文・流記帳、禅定寺文書125通(いずれも国重文) など多数あります。 |
||
宇治川 | ・・・ | 小高い丘にある宇治田原・禅定寺 |
山門 | ・・・ | 浩宮殿下参拝記念碑 |
仁王門 | 歴史を感じる阿吽の仁王像 | |
わおっ!巨大わらじ?!(@_@;) | 町指定文化財の禅定寺五輪塔(南北朝期) | 宇治田原町最大の茅葺建築の客殿・本堂 |
十八善神堂 | 悟りの窓 | 迷いの窓 |
防災壁に鮮やかに描かれた巨大な釈迦涅槃図 | ||
平成11年に完成した巨大な釈迦涅槃図 | わおっ!独創的で素晴らしい!!(*゜▽゜)/ | 庭園 |
庫裡で朱印を頂きました!(^-^)v | えぇなぁ〜(*^▽^*) | |
えぇなぁ〜(*^▽^*) | 鐘楼 | |
皇太子・浩宮殿下参拝記念植樹 | えぇなぁ〜(*^▽^*) | |
合掌!O(-人-)O | えぇなぁ〜(*^▽^*) | |
猿丸神社 ☆地図 | ||
祭神は猿丸大神(猿丸大夫)で病気平癒、こぶ取り、癌封じの篤い信仰がある。創建、変遷の詳細は不明ですが、かつて、現在地の北、山城国綴喜郡曾束荘(そつかしょう/大津市大石曾束)に猿丸大夫の墓があり、後にその霊廟上に祀られたものという。曾束山の峰にあったともいう。平安時代末期、この地は猿丸大夫の隠棲地として知られていた。近世(安土・桃山時代-江戸時代)以後、瘤取りの神としての信仰を集めている。江戸時代、1645年、永年にわたる禅定寺との境界論争後に現在地付近に社地が遷される。禅定寺村の氏子中により社殿が再建されたという |
||
・・・ | 参道からの眺めも素晴らしい! | 瘤(こぶ)とりの神として有名な猿丸神社 |
・・・ | 猿丸太夫の歌碑 | ・・・ |
・・・ | 手水 | 夫婦猿 |
猿丸大夫故蹟 | さるみくじ | 烏帽子を被り神具を猿丸と言うだけあって、 |
狛犬ならぬ烏帽子を被り御幣を持った狛猿さまや〜!(*゜▽゜)/ |
奉納された病平癒御礼の木瘤 |
|
ペットボトルにありがたく頂戴しました!m(__)m | 宇治川 | おろろ〜?!通行止めやんか〜!( ̄□||||!! |
地蔵院 ☆地図 | ||
正しくは、延命山と号する浄土宗の小寺。弘治年間(1555〜58)に長柱法印によって開創され、道阿万福が中興。寛永年間(1624〜44)に天台宗から改宗しました。本堂に安置する阿弥陀如来立像(重文:藤原期)、観音坐像(重文:藤原期)、脇侍像(重文:白鳳期)、釈迦如来坐像(重文:白鳳期)、阿閦(あしゅく)如来立像(重文:白鳳期)、大威徳明王像(藤原期)、十一面観音立像(重文:藤原期)、梵鐘、大般若経(563巻:鎌倉期)など、明治初年廃絶した後冷泉天皇の皇后・藤原寛子が康和4年(1102年)に建立した白川金色院の遺宝など多数の重要文化財を所蔵しています。 |
||
白川へ・・・(; ̄ー ̄A | 地蔵院参道 | 地蔵院 |
解説 | こじんまりした清楚な境内 | 金色院の名が刻まれた銅鐘(吉野期) |
大般若経の解説 | 白川金色院の解説 | 宝庫 |
金色院遺構の総門 | ||
金色院跡碑 | 白川は小集落だが、中世には金色院という大寺院がこの辺りにあった。 | |
九重石塔(後冷泉帝皇后/四条皇太后・寛子供養塔/鎌倉期) | ||
後冷泉帝皇后・藤原寛子の墓と伝えるが、供養塔として建立されたと思われています。皇后は大治2年(1127年)、92才で亡くなられ遺骸は宇治一ノ坂東辺において荼毘に附され、遺骨は木幡の浄妙寺に葬られたと伝えます。 |
||
九重石塔(四条皇太后・寛子供養塔/鎌倉期) | もみじ谷は通行止め! | 白山神社 |
白山(はくさん)神社 ☆地図 | ||
鬱蒼たる樹木の生い茂る山の中腹にある古社で8世紀後半に疱瘡が流行した際、治癒を願って創建されたと伝えますが、後に藤原頼通(ふじわらのよりみち)の娘、四条宮寛子(しじょうのみやかんし)が建立したといわれる金色院の鎮守として加賀の白山(菊理媛、伊弉奈枳命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いぎなみのみこと)の三神)を勧請しました。小社ですが古建築として見るべきものを留めています。因みに「山城史」によると当社を式内室城(むろき)神社に当てていますが定かではありません。 |
||
急勾配の石段 | 藤原末期の様式を今に伝える田舎造のような拝殿(重文:鎌倉期) | |
茅葺と障子戸がいい風情の拝殿 | 砲弾二発!!!(@_@;) 狛砲弾?!(^^ゞおろろ〜 | 本殿(室町期) |
白川をあとに・・・ | 激坂上りや〜(; ̄ー ̄川 おろろ〜 | |
茶業研究所 | 茶畑 | ・・・ |
首のない白川の肩切り地蔵〜寺侍の不信心戒め〜 | ||
むかし、むかし、白川の里のとある寺に若い寺侍がいたそうな・・・寺侍は碁が好きでのめり込んでしまい、仕事もおろそかにして夕方になると、碁の相手を宇治の町に探しに出歩くようになったそうな・・・そんな寺侍に婚約者だった住職の娘は心を痛め、勧請坂の地蔵に「まじめに戻ってほしい」と毎日お参りしたそうな・・・ある夜のこと、若者が碁を打ち終えて勧請坂に来ると、暗がりの中に住職の娘を見つけたが様子が違う。「こんな夜更けに奇っ怪な、物の怪がたぶらかそうとしているに違いない」と刀で斬りつけた。その夜のこと、娘の夢枕に地蔵が立ち、娘からその話を聞いて驚いた住職が翌朝に勧請坂に出向いてみると谷底に袈裟懸けに切られた首のない地蔵が転がっていた。住職と村人によって地蔵は無事に引き揚げられて手厚く祀られたそうな・・・それから改心した寺侍はめでたく娘と結ばれて幸せに暮らしたと伝える。 |
||
・・・ | 白川の肩切り地蔵 | ・・・ |
一本杉緑地は長年、地域の生活水源として利用されてきた湧水(善法のおおもと)だった。 | ・・・ | |
県(あがた)神社 ☆地図 | ||
平等院の鎮守と言われ江戸時代迄は近江三井寺円満院の管理に属しましたが明治の神仏分離によって独立したと伝えます。祭神に関しては古来種々の節がありましたが木花開耶比売命(このはなのさくやひめのみこと)を主祭神とします。延喜式にはその名を見ないがその創祀は古いとされます。6月5日の夜にある「あがた祭り」は近畿圏の信奉者による梵天渡御があり「暗闇の奇祭」として有名です。境内にある県井戸は「都人きても折らなむ蛙なく あがたの井戸の山吹の花(橘公平女(たちばなのこうけいのおんな)作)」など、平安時代以降の和歌に詠まれました。良質な水が湧き出ていることから、神社の神事である献茶式や、皇族の女性が出産する際の産湯などにこの井水が使われるようになり、江戸時代には井水が、安産祈願や下半身の病気に効くとされ水を汲みに多くの人々に親しまれてきました。 |
||
・・・ | ・・・ | 県(あがた)神社 |
和歌に詠まれた県井戸(あがたのいど) | 境内 | 立派な御神木 |
「暗闇の奇祭」の主役・梵天 | 本殿 | 県(あがた)神社通り |
橋姫神社 ☆地図 | ||
小さな境内には橋姫神と同じ水神の住吉神が並んで祀られています(写真左:橋姫社、右:住吉社) 。元は宇治橋の鎮守神として橋上(三の間)に祀られていましたが、明治3年(1870年)の洪水で流され、現在の場所に移された時に橋の西詰めにあった住吉社もここに移して合祀されました。橋姫神社前に宇治七名水の一つの「公文水」が湧き出ていましたが現在は埋没し石碑があるだけです。 |
||
橋姫神社 | 橋姫社と住吉社 | [第四十五帖・橋姫(はしひめ)]之古跡 |
橋姫伝説 |
||
諸説ある橋姫伝説の中で最も有名な一説は「丑の刻参り」の原型とされるものです。嵯峨天皇の御宇にある嫉妬深き公家の娘が貴船神社へ詣でて鬼神になって妬しいと思う男女一類を取り殺し給えと願いました。そして七日目に貴船の神託があり、姿を変えて宇治川に三十七日間浸かれば鬼と化すという。そこで女は丈なす髪を五つに分け、五つの角を作り、顔には朱、身体に丹を塗り、頭に鉄輪をかぶり、その三本の足に松を燃やし火をつけた松明を口にくわえて大和路を南を指して急ぎました。その姿様は鬼神の形相そのもので途中で出会った人達は肝をつぶして倒れ伏し、死なすという事はなかった。そして念願通り、妬しいと思う男女一類を取り殺したという。(「源平盛哀記」剱の巻)この伝説は藤原為家の「古今為家抄」に記された物語の一説を修飾したオゾマシイ話です。。。(@_@;) |
||
こま札 | 福井県にある原発からの距離表示 | 宇治七名水の一「公文水」 |
抹茶豆腐を買いました!(^-^)v | 県(あがた)神社通り | 平等院通り |
鳳凰堂を改修中の世界文化遺産・平等院 | 宇治神社お旅所 | とある古民家の前にある井戸 |
宇治橋商店街通りには建築意匠が素晴らしい店舗が軒並み!(*゜▽゜)/ | ||
いい匂いがするでござる!(^▽^;)おろっ | [第五十四帖・夢浮橋(ゆめのうきはし)]之古跡 | |
世界最古の恋愛小説という源氏物語作者・紫式部 | 大吉山 | 宇治川で大規模な河川改修工事中 |
宇治橋 | かつては橋姫社が祀られていた三の間 | JR奈良線・宇治川鉄橋 |
[源氏物語:第五十帖・東屋]之古跡 | 茶畑 | 京滋パイパス側道で宇治川左岸へ・・ |
槇島城跡 | ||
この辺りには巨椋池という巨大な池沼が存在し、槇島はそこに浮かぶ島であった。この地には真木島氏(槇島氏、牧島氏、槇嶋氏など様々な表記あり)という豪族が根を張り、城郭を築いていた。それが槇島城である。1573年(天正元年)、時の公方足利義昭は織田信長に対して兵を挙げ、幕府奉行衆であった真木島昭光を頼り槇島城へ籠城した。信長は即座に入洛、城を包囲して義昭を屈服させた(槇島城の戦い)。その後、義昭は河内若江城へ退去させられ、名実ともに足利幕府は滅んだ。義昭退去後、塙直政、井戸良弘らが城将となったが、伏見城築城後はその戦略的価値を低下させ廃城となった。(By Wikipedia) |
||
宇治川下流 | 京滋パイパス側道で宇治川を渡りました。 | 公園にひっそりと佇む槇島城跡碑 |
槇島城跡の解説 | 槇島城跡界隈 | |
ぽつんと建っていたレトロな建物 | 公園にひっそりと佇む槇島城跡碑 | 解説 |
宇治川左岸堤防道 | 螺旋道を上って京滋バイパス側道へ合流し宇治川を渡ります・・・(; ̄ー ̄A | |
宇治川を渡りました・・・ | 快適な宇治川右岸堤防道 | ・・・ |
京阪・宇治線 | 宇治川右岸堤防 | 観月橋 |
近鉄京都線・澱川鉄橋(有形文化財:昭和期) | 京阪乗る人・・おけいはん?!(^▽^;)おろっ | 伏見らしい酒蔵の風情 |
Tourist 2014.02.24(M) |