梅の里山・城南の青谷梅林
風かよう 綴喜(つづき)の里の 梅が香を 空にへだつる 中垣ぞなき 後醍醐天皇皇子・宗良親王
城陽・青谷梅林〜普賢寺谷
青谷梅林 ☆地図 |
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城陽市は、梅の実の生産量が京都府一。城陽市南部丘陵地に広がる青谷梅林は約20ha(200,000u)に約1万本の梅の木が植林され収穫される梅の実の量は約120t〜130tにも達する京都府下最大規模の梅林です。主な梅の品種は『城州白』と『白加賀』などの白梅で2月下旬〜3月中旬にかけての満開時は、梅林一面に白梅が咲き、その様は大きな白布を広げたような白く幻想的な風景が広がります。この時期の青谷梅林はほんのりと梅の甘い香に包まれて「梅まつり」の期間中に約2万人もの観梅客で賑わい、ひと足早い春の訪れを満喫しています。 |
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伏見百景・酒蔵 | いい天気やけど白霞み!?ヾ(≧▽≦)ノおろっ | 青谷梅林 |
・・・ | ワオ〜っ!(@_@;) 目の前が開け途端に辺り一面の梅林や〜\(●⌒∇⌒●)/ | |
見覚えのある道・・・山背古道でござる! | ほらっ、路面に山背古道の案内マークが! | |
青谷梅林の梅のほとんどが梅実を収穫するための白梅でござる!(*゜▽゜)/ | ||
先人達の自然への想いを今に受け継ぐ貴重な伝統行事・・・『山の神』を祀る三の口 | ||
解説によると、樫の木などが茂るこの林は中自治会の人々が毎年新春の初寅の日に『山の神まつり』を行う『聖なる林』です。山の神は、山の支配者・守護神であり、また里に豊作をもたらす田の守護神でもありました。この地域の山は土砂の多い地質で大雨の時、しはしば土砂流が里を襲いましたが、かつての人々は、それを山の神の怒りと受け止めてたことでしょう。中地区の人々は昔から、山と里との境界三ヶ所にある一の口、二の口、三の口で山の神を祀り、山の安全と豊かな暮らしを祈り続けてきました。一の口は、ここより600mほど南の場所に今もありますが、500mほど北にあった二の口は、高度成長期の山砂利採取によって消滅しています。まつりでは一の口と三の口の神木の前に竹を編んだ簡素な祭壇などが設けられ、その前で龍福寺の住職が神木に向かって読経します。自然を神として崇める素朴な里山のまつりは先人達の自然への想いを今に受け継ぐ貴重な伝統行事として、平成10年(1998年)4月、城陽市指定無形民俗文化財となりました。神を祀る空間としての雰囲気を保つ、この三の口は自然と人間の共生について私達に改めて考えさせてくれる大切な場所です。・・・平成12年(2000年)城陽市教育委員会 |
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祭壇を設けて山の神を祀る三の口 | 解説パネル | ・・・ |
・・・ | くださいな〜(*゜▽゜)/ おねーさん達は愛想よくてきぱき接客してくれたでこざる!(0 ^〜^)ノ | |
おっと・・お米のジュース?熱燗!(^▽^;) おでんはタマゴとこんにゃくのみだった・・キツネうどんもマイウ〜(^^♪花より団子か?!(^▽^;)おろろ〜 | ||
「梅まつり」会場は観賞用の綺麗な梅が多い気がしたでござる?!o(*^▽^*)o | ||
梅酔い、ほろ酔いで梅林をめぐります・・・(^▽^;)おろっ | ゲゲッ!グランドキャニオンか?!(@_@)おろろ〜 | |
この里山一帯は地質的にはとても良好な土質で、大阪万博の造成など高度成長期には、ここの山土砂が随分と搬出されました。美しい里山もグランドキャニオンのような露天掘りと禿山に化しました。乱開発が自然を破壊してしまった典型的な例で行政の責任が問われています。 |
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くださいな〜!(*゜▽゜)/・・・え〜っと。。。ワイン好きやけど、地酒・たれくち酒と素焼きのタンブラーを土産に購入しました〜。。。(^^ゞおろっ | ||
青谷産の梅干しや梅ジャムなども購入!オマケに切干し大根を頂きました!(*゜▽゜)/ | ・・・ | |
青谷梅林をあとに・・・ | ||
観音寺(普賢寺大御堂) ☆地図 | ||
当地にあった普賢寺の後身で天平時代の見事な観音像を安置することから観音寺と呼ばれる。寺伝によると普賢寺は天武天皇の勅願により義淵(ぎえん)僧正が創建、薬師・釈迦仏を安置して観心山親山寺(かんしんざんしんざんじ)と号した。次いで天平16年(744年)に聖武天皇の叡願によって良弁(ろうべん)僧正が再建し息長山(おきながざん)普賢教法寺と十一面観音像を安置したと伝える。義淵(ぎえん)、良弁(ろうべん)僧正が共に百済系の帰化人の子孫であったことは、注目される。創建当初は一に筒城(つずきの)大寺と言われ七堂伽藍は普賢寺谷一帯に渡って壮観を誇ったが、延暦13年(794年)に一山炎上の厄に遭った。仁寿3年(853年)、藤原良房によって再興され天暦6年(952年)には興福寺の定昭大僧都が再建にあたり、鎌倉時代に近衛基通(このえもとみち)を大檀那として伽藍の再造に努め嘉禎3年(1237年)に至って落成した。以来、近衛家の庇護を受けてきたが中世の戦国時代に近衛家が凋落し寺運もようやくに哀徴した。現在の本堂は昭和28年(1953年)の再建によるもので他に庫裡、鎮守社(地祇神社)を残すに過ぎない。元は奈良・興福寺に属していたが現在は、真言宗智山派・智積院に属している。 |
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春の桜と菜の花の風情は絶景でござる!・・・観音寺参道 | ||
こま札 | 境内 | |
二月堂竹送り復活の地碑 | 鐘楼 | 放生池? |
十一面観音(国宝)を安置する本堂 | 鬼瓦 | ご朱印をいただきました。O(-人-)O合掌 |
Tourist
2014.0 |