洛南・伏見の桜花繚乱

 

わがきぬに ふしみの桃の 雫せよ  芭蕉

 

高瀬川〜宇治川派流〜伏見港〜長建寺〜宇治川派流〜寺田屋浜〜西岸寺(油懸地蔵尊)

 

日本を代表する酒処・・・洛南・伏見

醍醐山西方〜桃山の西方、宇治川の北に位置する京都市南郊の最大行政区で東は醍醐、日野、小栗栖。西は新高瀬川を隔てて下鳥羽、横大路、淀。鴨川、桂川を隔てて羽束師、久我に連なり、南は宇治川を隔てて向島。北は竹田、深草、稲荷に至ります。近世以降、城下町として発展し往古は芦萩(ろてき)の生い茂る極めて侘しい水郷地でした。これは、伏見を伏水と記す事によっても想像できると思います。伏見の先住民は当初、桃山丘陵台地によって原始生活を営んだが流出する土砂の堆積によって漸次、西方に進出し耕地化する事によって舟戸荘、久米荘などの聚落ができ総称して紀伊郡石井郷と呼び伏見とは言いませんでした。『日本書紀』雄略天皇17年の条にみえる「俯見村」を伏見とする説がありますが、これは大和国(奈良県)俯見村を言ったもので『万葉集』巻9に掲げる「巨椋(おおくら)の 入江響(どよ)むなり 射部人(いめびと)の 伏見が田井に 雁渡るらし」の伏見も田井に係る語で固有名詞ではなく、史上における伏見の初見は延久年間(1069〜73年)、橘俊綱が指月山に山荘を構えて伏見長者と言われた事だとされます。以来、景勝地として知られ王朝時代には、歌、詩、物語、将、日記に伏見の名が随所に散見し仔細に検討すると何れも今の桃山丘陵を称したものとされ当時の伏見は、山城盆地の湖水の残る低湿地であったと推定されています。伏見が町になったのは、文禄3年(1594年)、豊臣秀吉が桃山に伏見城を築き周囲に全国の大名屋敷を造り多くの商工業者を集めた時からで伏見の町は一躍天下に冠絶しました。しかし、徳川家康が元和9年(1623年)、伏見城を破却し一時、哀徴しましたが伏見奉行を設置し幕府の直轄地とした事から政治都市から商工都市として暫次発展し江戸中期頃には町数も263町、舎屋6300を数えるに至りました。当時の町屋は今も樽屋町、指物町、塩屋町、紺屋町、魚屋町、瀬戸物町、車町、材木町として残り大名屋敷跡として伯耆町、肥後町、丹波橋、毛利橋、阿波橋などが現存しています。特に慶長16年(1611年)、角倉了以の開削した高瀬川が伏見を起点とし淀川を航行する過書船と共に高瀬舟によって京阪間の物資交流を速やかに行った重要な河港(伏見港)となり都市交通上の要衝地になりました。水上運輸による伏見の発展は明治における蒸気船の登場にも影響を受けなかったが明治10年(1877年)、京都〜大阪間に鉄道が開通し貨客が鉄道輸送に奪われ淀川運航はパッタリと途絶え伏見の町も寂れました。明治27年(1894年)に私鉄・奈良鉄道(現、JR奈良線)が開通、明治28年(1895年)には、日本初のチンチン電車(京都電気鉄道:七条〜油掛町)が開通、明治44年(1911年)、京阪電鉄も開通、次いで明治天皇桃山御陵の造営などがあり人口も追々と増加し昭和6年(1931年)、京都市に編入されました。

濠川は、かつての伏見城外堀を利用して琵琶湖疏水から繋がり伏見港〜宇治川に合流する。 朝ドラ・カーネーションに登場していた酒蔵
とあるマンションの桜も毎年、見事な桜花繚乱を楽しませてくれます!今年も見事な桜花繚乱!!! ☆⌒(*^∇゜)v
ユキヤナギも綺麗!(*゜▽゜)/ ・・・ 角倉了以が開削とした旧高瀬川
人で混雑する桜の名所へわざわざ出向かなくても身近な所で見事な桜見が、ゆっくり満喫できるでござる!\(●⌒∇⌒●)/おろろ〜
Beautiful! (・_・)☆ヾ(^^ ) 欧米か?!
見事な桜の天幕でござる!(*゜▽゜)/おろっ
浄土真宗・光徳寺の桜も美しい!(*゜▽゜)/
・・・ 宇治川派流と旧高瀬川合流地 宇治川派流に架かる出あい橋
高瀬川と角倉了以水利記功碑

角倉了以が開削したのが高瀬川でした。慶長16年(1611年)、工事着手し慶長19年(1614年)、二条から伏見まで全長約10.5km程の運河を開削しました。完成した高瀬川の造りは合理的で、底の浅い高瀬舟(舟底の浅い、浅瀬用の舟)に合わせて浅く作られており、川幅も舟が通れば舟分だけ水位が上がるように計算された幅で作られていました。高瀬川を利用して高瀬舟が運んだものは、米、炭、材木、塩等でした。政治の中心が江戸に移り活気を失っていた伏見の町に活気を復活させました。

角倉了以水利記功碑 伏見港と水路の変換 であい橋
川沿いの桜花繚乱!まるで桜の天幕のような見事さでござる!\(●⌒∇⌒●)/
琵琶湖疏水〜濠川〜 十石舟、三十石船が遊覧する宇治川派流

琵琶湖疏水は京都市内を南流する人工水路で国道24号線南側(近鉄京都線・伏見駅東側)で豊臣秀吉のむ伏見城の外堀を利用した濠川に繋がり、であい橋で宇治川派流に水分し内陸河川港・伏見港を経て宇治川へ合流する。・・・こま札(解説)によると伏見港・宇治川派流は、文禄3年(1594年)、豊臣秀吉の伏見城築城に伴う建築資材を運ぶため、宇治川の流路改修工事によりつくられた内陸の河川港です。 伏見城の外堀であった濠川につながる宇治川派流沿いには江戸時代に問屋、宿屋、酒蔵が建ててられ、米や薪炭、できた酒などを運ぶ小舟が往来していました。現在も柳に酒蔵が映える往時の佇まいを残しています。 淀川三十石船をはじめとする大小の船で賑わった伏見港の中心地は現在の京橋付近でした。 前を流れる宇治川派流の両岸は総称して伏見浜と呼ばれる荷揚げ場で、辡天橋の西は主に材木を荷揚げしたことから本材木町という町名が残されています。 月桂冠旧本店のある付近は馬借前として、大阪からの旅人や船から荷揚げされた物資が馬や荷車に積み替えられ、陸路を行くための中継基地として繁栄を極めました。 なお、このあたりの浜は辡天浜とも言われています。

濠川、宇治川派流分岐?合流??地点に架かる出あい橋
伏見港、宇治川へ流れ込む宇治川派流
Beautiful! (・_・)☆ヾ(^^ ) 欧米か?!
Deep Impact! (・_・)☆ヾ(^^ ) 欧米か?!
肥後橋から眺める宇治川派流の桜も見事なり〜\(●⌒∇⌒●)/ 金井戸神社(三栖神社お旅所)
金井戸神社(三栖神社御旅所:加藤清正伏見屋敷跡) ☆地図

肥後橋の東南、宇治川派流の畔にあり天武、応神両帝、伊弉諾(いざなぎ)命を祀る旧村社で通称、三栖神社と呼ばれます。元は、横大路下三栖の三栖神社御旅所として付近の新中町にありましたが、氏子区域の発展により分離、地名にちなんで金井戸神社と改名しました。神社前の橋を肥後橋というのは、この辺りに虎退治、地震加藤で有名な肥後守・加藤清正の屋敷があった事に因みます。清正は朝鮮出兵(慶長の役)時に石田三成の讒訴により本国に召還された後、蟄居を余儀なくされていた慶長元年(1596年)閏7月13日、伏見に大地震が起こりました。清正は蟄居中にも関わらず、手勢300名を率いて秀吉、秀頼父子の警護を務め秀吉は清正の忠義を賞賛して蟄居処分を解いたと伝えます。

戦国武将で虎退治、地震加藤で有名な肥後守・加藤清正の伏見屋敷跡と伝える金井戸神社(三栖神社お旅所)
おぉぉ〜桜の天幕や〜\(●⌒∇⌒●)/
約120本のソメイヨシノが宇治川派流沿いに咲き誇る桜花繚乱の様は、正に桜の天幕でござる!(*゜▽゜)/おろろ〜
日本の春と言えば・・・やっぱ桜やね〜\(●⌒∇⌒●)/
秀吉が築いた河川内陸港・伏見港、伏見を水害から守るために建造された三栖閘門 ☆地図

☆伏見港・・・文禄3年(1594年)豊臣秀吉が伏見桃山城築城の為に堤防などの治水工事をして開いた河川内陸港です。現在は公園になっおり春と秋には十石、三十石船が巡航しています。三十石船は、坂本龍馬始め東海道膝栗毛の弥次・喜多も利用したという話もあり、大阪・天満八軒家〜伏見・京橋迄の淀川を巡航し大阪と京都を結ぶ水運の重要な中継港として伏見は発展しました。☆三栖閘門・・・伏見を水害から守る為に大正11年(1922年)、宇治川右岸の観月橋〜三栖の堤防工事が始まり宇治川と伏見港が分離されました。昭和4年(1929年)、三栖閘門が建設され、宇治川と濠川との約4.5mの水位差を一定にして船を行き来させるようにしました。完成当初から、旅客を乗せた蒸気船や石炭の輸送船など年間2万隻以上が通航していましたが昭和30年代に入り、陸上交通の発達で貨物船による輸送が減少し、昭和37年(1962年)、淀川の舟運はなくなり昭和39年(1964年)、宇治川上流に天ヶ瀬ダムが完成してからは水位が大幅に減少し、閘門はその役目を終えました。

京阪電車 かつての内陸河川港・伏見港にかかる伏見みなと橋と対岸に三栖閘門が見える。
伏見港公園の桜も美しい〜!!!\(●⌒∇⌒●)/ 京阪電車・中書島駅
伏見五福の一・長建寺(弁財天/開運・商売繁盛の神) ☆地図

真言宗醍醐派の寺で東光山と号する。元禄11年〔1698年〕時の伏見奉行・建部内匠頭が、中書島を開拓するにあたり深草大亀谷の多聞院を移しその姓の一字をとり長建寺と改めたと伝える。本堂に安置する本尊弁才天は、世に音楽を司る神とし古来花柳界の信仰を集めました。7月下旬の祭礼は「伏見の弁天祭」と言われます

島の弁天さんと親しまれる長建寺(弁財天/開運・商売繁盛の神)
椿〜桜〜ツツジへ・・・花の移ろいは季節の移ろいでござる!(*゜▽゜)/
弁天橋十石舟乗船場
十石舟、三十石船に乗るなら・・・今でしょ?!運賃は\1,000-(税込み)でござる!
満開になった宇治側川派流のサクラの天幕で船覆いされてゆっくり進む十石舟からの花見はサイコー〜!\(●⌒∇⌒●)/
現在運航されている船は、滋賀県の船大工に依頼して作った十石舟4隻と三十石船1隻十石舟・三十石船。
十石舟と三十石船は昨秋の台風18号の豪雨で破損したが、無事に修復され運行されています!(^-^)v
伏見・寺田屋浜〜大坂・八軒家を結んでいた三十石船

大坂には4カ所の船着き場(八軒家、淀屋橋、東横堀、道頓堀)があり、朝早く出発した上り船は夕方、伏見に到着。反対の下り船は夜に出て、早朝に大坂着というパターン。下り船は川の流れに乗って進むことができましたが、川の流れに逆行していく上りは大変でした。11里余り(約45km)の航程のほとんどを人を綱で曳き、大変な労力と時間をかけて、川を遡りました。そのため大坂行きは6時間、伏見行きは倍の12時間も要したと伝えます。※「石(こく)」・・・1石(約180ℓ)=1000合(コップ)=100升(ビン)=10斗(カン)、酒なら300斗(カン)、米なら30石を運べる大きさの船が三十石船で、往時には五十石船などの大型船もあったと伝えます。江戸時代には三十石船は主に旅客船として利用され、この客を目当てに途中の枚方あたりで食べ物を売る「くらわんか舟」も出ていました。江戸時代の最盛期には約160隻もあった三十石船ですが、明治になり蒸気船の発達によって姿を消していきました。

平成19年に、十石舟・三十石船は経済産業省の「近代化産業遺産」の認定を受けました。
酒蔵 幕末当時、寺田屋のすぐ前の寺田屋浜に三十石船が発着し龍馬も利用したと伝える。
・・・ 坂本龍馬とお龍が見守る寺田屋浜
坂本龍馬の定宿だった幕末維新のステージ・寺田屋 寺田屋にある坂本龍馬像
西岸寺(油懸地蔵尊) ☆地図

昔、大山崎から一人の油商人が油桶をになって西岸寺の門前にさしかかった時に転んでしまい、油桶がひっくりかえり、油はほとんど流れ出てしまいました。大切な油を失った商人が、これも災難とあきらめ、気をとりなおして、桶の底にわずかに残っていた油を地蔵尊にかけて帰りました。その後、商人の商売が繁盛し大金持ちになったという事です。地蔵尊は「油懸地蔵尊」と呼ばれ、この辺りの地名の由来になっています。この地蔵尊は、この鎌倉期に作られたものです。

西岸寺(油懸地蔵尊)・・寺田屋で幕吏に襲撃された龍馬が、ここに身を隠したという伝承がある。 油掛地蔵尊
松尾芭蕉句碑 えぇなぁ〜(●⌒∇⌒●)

Tourist.2014.03.31(M)

 

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