おキツネこんこん稲荷山
深草や 竹の下道 わけすぎて 伏見にかかる 雪の明けぼの (続千載) 前関白太政大臣
早朝ウォーキングコース(高瀬川〜御香宮)〜伏見稲荷山〜八幡橋本旧街道筋〜中書島・長建寺
伏見稲荷大社 ☆地図 |
京都市における最古社の一で伝承によると、和銅4年(711年)2月の創建と伝える。「山城風土記」の逸文によれば、秦の中家(なかつけ:本家)の遠祖・秦伊侶具(はたのいろぐ)は奢福のあまり、餅を的に矢を討った時、餅は一羽の白鳥と化して山の頂に飛び去った。その白鳥が留まった所に稲がなったのでイナリという名になりました。これ以来、秦氏の家運が傾くに至り、子孫は、この事を懺悔し社の木を家に植えて祀ったところ再び冨栄えるに至ったと伝えます。稲荷大社背後に聳える稲荷山は、東山三十六峰の最南端に位置し、神奈備型と言われる円錐形の優美な霊峰として親しまれています。海抜:232mで山頂に一ノ峰(上之社)、二ノ峰(中之社)、三ノ峰(下之社)の三つの峠(峰)からなり神の降臨地として崇められています。古代人は神は白鳥と化して人間に飛び来り、人間は、これを祀る事によって幸福を得ると信じました。これを神話化したのが先記した伝承話ですが、稲荷社を創祀した古代豪族の秦氏との関係を説いたものてす。稲荷は伊奈利とも記し、イナリとはイネナリ(稲生、稲成、飯成)の約言で祭神が農耕神である事を端的に表しています。神像が稲を荷っているところから稲荷という字が用いられたが、一にミケツノ神、ウガノミタマノ神とも言われるのは、時代の推移によって神の観念の変化を表したもので正しくは、稲荷神です。一説にイナリのイは、イカシ、イカヅチなどのイカの意をもつ接頭語で、ナリは雷の鳴りと読む事で、むしろイナリ神は雷神であるとも言われます。古代人にとって雷神は稲作にあたって水を給与する神として最も崇敬したので稲荷社は当地にあった先住民が雷神を祀って農耕神とし奉斎したのが起こりとされ、後に秦氏の来住によって氏神と崇められるに至ったと伝えます。平安遷都以来、当社は稲荷神の中央的神格になり真言宗と結びつき農民の咒術(じゅじゅつ)宗教的要請と相俟って信仰を広めました。延喜の制には、名神大社に列し四度の官幣並びに祈雨祭の幣に与かり二十二社に班せられ、神階は正一位の極位を賜るなど上下貴賤の信仰を集めました。特に他の多くの神社が一部の特権階級と結びついて勢力を振るい、それと栄枯盛衰を共にしたのに比して今も昔と変わりなく多くの人々から信仰を得ているのは、単に商売繁盛、招福除災の神としてのみならず庶民の神社として広く親しまれてきたからです。 |
継続は力なり?!目覚ましなしの自然体で早朝に目覚めた時は、約5kmの行程を50分ペースでウォーキングを敢行! (*゜▽゜)/おろっ | ||
京阪電車高瀬川鉄橋 | 昨年9月の台風18号で赤線まで増水! | 宇治川右岸堤防 |
宇治川右岸堤防 | ||
常盤御前就捕処の碑 ☆地図 | ||
平治の乱(1159年)で源義朝が敗死、常盤御前は3人の子供(今若8歳〔阿野全成〕、乙若6歳〔愛智円成、後に義円と改名〕、牛若2歳〔源義経〕)を連れ大和街道を逃げ落ちる時に当地で平清盛の追っ手に捕まったと所とされています。源氏の棟梁(義朝)の子を産み、後に平家の棟梁(清盛)の子を産むという波乱万丈な人生を送りました。 |
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平戸樋門(宇治川派流、宇治川合流点) | 伏見奉行所遺構の石垣 | 牛若丸(源義経)の母・常盤御前拿捕の地碑 |
鳥羽・伏見戦前に新撰組が布陣した伏見奉行所 ☆地図 | ||
慶長5年(1600年)に設置された徳川幕府の出先機関で伏見町の民政、宇治川の船舶の監督、京都御所や西国大名の監視にあたった。幕末の動乱下では、徳川方の根拠地となり慶応3年(1867年)12月16日に新撰組が移り翌、慶応4年・1月3日、鳥羽伏見の戦いに薩長軍と激戦を交わしたが、薩摩軍の砲撃により奉行所は焼滅した。新撰組は14代将軍・徳川家茂の上洛に伴って将軍警護、京都の治安維持の目的で結成された浪士組をルーツとして大政奉還を機に京都の治安維持、警察活動から徳川(旧幕府軍)の一員として戊辰戦争を戦った軍事組織へと変貌していった。伏見奉行所を撃破された旧幕府軍は、総崩れとなり伏見の地を追われ淀へ撤退しました。伏見奉行所は薩摩軍の砲火によって焼け、伏見の薩摩藩邸は旧幕府軍によって放火され伏見の町の南半分のほとんど焼けました。伏見の住民は、深草の大亀谷や宇治川、巨椋池の中州などに、御香宮・三木宮司も古御香宮に避難したと伝える。3日、鳥羽・伏見両方面で薩長軍が勝利しました。 |
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伏見奉行所跡(桃陵団地) | 伏見奉行所跡碑 | 伏見工兵第16大隊跡碑(伏見奉行所跡) |
御香宮(開運・安産・厄除けの神) ☆地図 | ||
縁起には諸説があり社伝によれば貞観4年(862年)9月9日、境内に清泉が湧き出し水が芳しく四方に香り病者がこの水を服用すれば病気がたちどころに癒ゆるといわれ、これに因んで御香宮と称し地名も石井郡(紀伊郡)と称したと伝えています。又、御香宮は、旧伏見町の産土神(うぶずながみ)として古来から最も信仰されている洛南屈指の大社です。筑前国糟屋郡(福岡市香椎(かしい)町)にある香椎宮(祭神・神功皇后・仲哀天皇)を勧進し御香椎の椎を略し御香宮となったという説が、あります。"延喜式に記す御諸(みもろ)神社"であると言う説もあります。御諸(みもろ)とは、森と同義で神の鎮座する森をいい神の降臨する山や森を神格化したものを御諸(みもろ)神社と言います。豊臣秀吉は、征韓の役に際し肥前長光(重要文化財)の名刀を戦勝祈願時に奉納し今も社宝とされています。伏見城築城に際し深草大亀谷に移され城惶神(伏見城の鬼門除けの守護神)とし社領300石を寄進されました。その後、慶長10年(1605年)に徳川家康によって現在地に移され、徳川御三家(尾張・紀伊・水戸藩)藩祖と2代将軍・秀忠の娘(千姫)らが伏見で誕生し、御香宮を産土神(うぶずながみ)として社領も豊臣秀吉同様の深草地方など300石が、与えられました。豊臣秀吉、徳川家康を始めとし特に徳川御三家藩祖らが特別の崇敬を払った洛南最大社です。 |
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平成11年(1999年)9月に再建された大手筋に建つ大鳥居 | 表門(重要文化財) | |
伏見義民(天明義挙)石碑(勝海舟碑文撰、三条実美書) | ||
伏見義民は天明義挙とも言われ、天明5年(1785年)伏見奉行・小堀政方(まさみち)の悪政に抗議、伏見町民を救わんと死を賭して、直訴をした文珠九助など7名の義挙である。直訴は成功し、小堀奉行は失脚、一万余石の大名を失い、祖先の名園家・小堀遠州の名を汚しました。 |
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表門は伏見城大手門 | 伏見義民事跡・・碑文は勝海舟の撰、題字は三条実美の書による伏見義民石碑塔 | |
境内 | 道真公を祭神とする桃山天満宮 | 伏見城城石 |
伏見戦石碑 | 伏見城の車寄せとも伝える拝殿 | |
絢爛豪華な桃山様式の社殿 | 本殿 | 日本名水百選の一・御香水 |
神鑒(かん)静井(石井)と御香水碑 | 幕末の英傑・坂本龍馬とお龍で知られる竜馬通り商店街 | |
京阪・中書島駅 | ||
※中書島駅は宇治線乗り継ぎ駅 | 7002系出町柳行き・準急に乗車!(*゜▽゜)/ | 伏見稲荷駅下車 |
修学旅行生だけでなく外国人の観光客が多いな〜 | 深草トレイル案内図 | |
かつて市電・稲荷線の稲荷駅(琵琶湖疎水に架かる橋駅)があった所と線路跡と敷石の石畳 | 稲荷大社界隈の観光案内図 | |
全国約4万社の稲荷神社の総本宮・伏見稲荷大社 ☆地図 | ||
稲荷山は、「東山三十六峰」の最南端に位置する霊峰(海抜239.3m)で、古くから三ケ峰と称されてきたように三つの峰が西から東へと段々に高く連なり、これを山麓から仰ぐと、まさしく降臨の地にふさわしい山容をそなえています。欽明天皇が即位(531年又は539年)される前の事について「日本書紀」では次のように書かれています。稲荷大神のご鎮座は秦(はたの)伊呂巨(具)(いろこ(ぐ))によって和銅4年(711年)2月初午の日に、なったと伝えられており秦大津父と伊呂巨(具)との200年足らずの脈絡についてはほとんど不明です。太秦の秦氏族は、記録上では大宝元年(701年)、桂川畔にそびえる松尾山に松尾神を奉鎮、深草の秦氏族は、和銅4年(711年)、稲荷山三ケ峰の平らな処に稲荷神を奉鎮し、山城盆地を中心にして御神威赫々たる大神があたかも鼎立する結果となりました。一千年前に清少納言も足を運んだと伝えます。・・・また、稲荷山には奉納鳥居が、約一万本ほどある他、お塚や神祠も多々とあり、これらを巡拝して周ります。伏見稲荷大社奥宮から更に奥の稲荷山(標高233m)には、様々な神様が祀られたお塚・神祠があり、これらを周ることを、お山めぐり、お山をするとも言います。お山めぐりは、一周約4kmで、所用約2時間です。お山めぐりの起点となる四ツ辻からは、京都市内の絶景も俯瞰できます。お山の参道に延々と朱色の鳥居のトンネルが続いています。鳥居のトンネル道は、神様の世界に続いており、鳥居は、お山に神様が居続けていただくための結界にもなっているとも言われ、元来、稲荷山自体が信仰の対象で、神が宿る神奈備山です。近年は、伏見稲荷大社のお山が京の都でも屈指の霊性の高いエリア、パワースポットとして老若男女、外国人にも人気が高い山です。 |
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JR奈良線・221系普通車 | 店の建築意匠・・えぇ感じや〜(*^-^*) | 伏見稲荷大社神幸道(裏参道) |
神権の交代を物語る龍頭太伝説(『稲荷大明神縁起』) | ||
伏見は渡来系の秦氏によって開拓された地域で、稲を中核にすえた農耕にとって水利は欠かせない条件でした。稲荷山から流れ出た水が大きな川に注ぐこの地域は、確かに稲作に適している。また東山三十六峰南端の稲荷山の峰々は神が宿る神奈備山に相応しい姿形をしています。昔の人は稲荷山を神格化し、神霊が宿る山と信仰して不思議はない。稲荷山の神は水を支配する神でその姿は大蛇(龍神)であったと思われるが、それを立証できる確かな伝承は残っていない。しかし、遥か後世の『稲荷大明神縁起』の類に語られている「荷田龍頭太」の伝説が残っている。荷田龍頭太という者が稲荷山の麓に長年にわたり住んでいて、昼は田を耕し、夜は山に入って薪を求める仕事をしていた。その顔は龍のごとくで頭の上に光放つものがあり夜でも昼のように明るかった。この龍頭太が稲荷神で、その子孫が秦氏と並ぶ有力な神職家の荷田氏であると伝える。ここに描かれている稲荷山の神は龍の頭をした翁の姿をしており、その姿には稲荷の古層に農耕、林業双方に関わる龍神信仰があったことが刻まれている。夜でも昼のように照らす「光」とは仏の眉間にあって光輝く白毫(びゃくごう)であったかもしれない。この話に続いて伝説は、さらに示唆に富んだ話を語る。弘法大師が稲荷山で修行していた時に、山の神と名乗る翁(龍頭太)が現れ、この山を大師に譲り、自分はその鎮守になろう・・と言ったので大師は翁の面を作って神社の竈殿(かまどでん)に安置したと伝える。古来、稲荷神が仏教に従属していく様が描かれている。・・残念ながら、竈殿(かまどでん)に祀りこめられた翁の面はいつの頃からか失われたと伝える。 『京都魔界案内』より |
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伏見稲荷大社表参道 | 二の鳥居と楼門 | |
秀吉が造営した楼門(重文:桃山期) | 拝殿 | 十二星座(ふたご座)が記された釣り灯篭 |
東丸神社 ☆地図 | ||
稲荷社祠官・羽倉家に生まれた荷田春満(東丸)を祀っています。荷田春満は、大石内蔵助らに吉良邸の屋敷図を手渡し討ち入りの手助けをしました。僧契沖に始まる近世国学を発展させて「万葉集」、「古事記」、「日本書紀」研究の基礎を作り、門下生の賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤らと共に国学四大人と言われました。学業向上、受験合格などのご利益があります。 |
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十二星座(しし座)が記された釣り灯篭 | 荷田春満(東丸)旧宅(非公開) | 東丸神社 |
本殿 | いよいよお山めぐりのスタート!(*゜▽゜)/ | |
稲荷信仰と千本鳥居(奉納鳥居) | ||
秦氏の先祖が稲や粟を栽培しあまりに富み栄えた奢福のあまり、餅を的に矢を討った時、餅は一羽の白鳥と化して山の頂に飛び去り、とある峰に舞い降りた所に稲が生えた。そこに社を建て、餅を的に弓矢で射った事を反省し、社の木を自宅に持ち帰り庭に植えた。この木が生きているうちは繁栄するが、枯れると家が傾くという。(「山城国風土記逸文」に見える伝説) 白鳥が舞い降りて稲が生えた所(稲荷山)に社が建てられ発展したのが現在の伏見稲荷大社であると伝える。稲荷大社は商売繁盛の神として知られるが、この伝承が物語るように元々は農耕の神、とりわけ「稲」を祀る神社でした。おそらく秦氏が稲を早い時期から栽培していたので稲荷大社を名乗ったと思われている。伝承の意味深いところは稲の霊をしっかり祀れば長者になれるが、疎かにすれば没落するという点にある。家の盛哀は稲霊の祭祀の善し悪しによることになる。ならば一生懸命で「稲の神」を祭祀しようとする。実際、そうして「いなり」信仰が盛んになっていった。やがて、密教などの影響を受けて農業神の枠を超えて、人々は一時であれ権力や財産を手に入れて栄華を極めたいという願いも叶えてくれる霊験をも求め、稲荷神信仰の内容も過激になっていった。限られた富を奪い合う競争社会において、最も頼りにされたのが稲荷信仰と言われ近世の商人たちに絶大な支持を得たのもこの点にあると思われ、本殿背後から延々と続く参道の千本鳥居を始め稲荷山中の鳥居もそんな人々が祈りを込めて奉納したと思われる・・・。 『京都魔界案内』より |
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珍しいチュチュ(*^・^*)狐? 和合狐??(^▽^;) | 千本鳥居 | |
幽邃で幻想的な朱の世界を醸し出している鳥居のトンネルが続く千本鳥居 | ||
命婦社(奥の院奉拝所) | 神占石「おもかる石」 | 稲荷大神(御神石) |
白キツネの奉納絵馬 | 伏見稲荷大社境内案内図 | 四つ辻へ・・・ |
かぐや姫伝説?!伏見神宝神社 ☆地図 | ||
神社の由緒によれば、稲荷神社が山上に創祀された頃よりの奉拝所であったと云う。 天正17年(1589年)に里宮が造営されるとともに寂れたようであり、昭和の中期に再建された。天照大御神を主祭として稲荷大神を配祠、神宝神社と称されるのは十種の神宝を奉安しているからと伝え、創祀 は平安期にさかのぼり、かつては稲荷山上に祀られていた。仁和年間(885〜89)宇多天皇は、大神宝使を発遣するなど、皇室の信仰も篤かったが、政変などにより中世以降は廃れていった。1957年(昭和32)に再建される。社名の「神宝」は奉安の十種の神宝(興津鏡、辺津鏡 、八握剣、生玉、死反玉、足玉、道反玉、蛇比礼、蜂比礼、品物比礼)をいい、物部氏の祖神、饒速日尊が天上よりもたらしたとされる。 |
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膝松さん(根上りの松) | 参道を外れて竹の下道へ・・・ | 伏見神寶神社 |
神寶神社 | 文学散歩・竹の下道の解説 | 竹の下道をテクテク・・・ |
稲荷山に嵯峨野のような竹林がある事を知る人は多くないかと・・・えぇなぁ〜(*^-^*) | ・・・ | |
弘法ヶ滝社 | 弘法ヶ滝 | |
・・・ | ・・・ | 青木ヶ滝社 |
青木ヶ滝社 | ||
天正不動明王 | 青木ヶ滝 | ・・・ |
・・・ | 樹齢100年という桜 | ・・・ |
七面ノ滝社 | 白菊ノ滝社 | |
白菊ノ滝 | 御剱ノ滝社 | 御剱ノ滝 |
分岐を左へ・・・ | 末広ノ滝社 | |
末広ノ滝 | 南谷の強烈な急勾配の石段をあがります。。。(; ̄ー ̄A | |
・・・ | 白滝(白蛇)社神蹟 | 力お石と力お大明神 |
戻ります・・・ | 稲荷山参道と合流 | 稲荷山山頂に座する一ノ峰(上之社神蹟) |
一ノ峰(上之社神蹟) | ||
清少納言が「枕草子」に苦しい思いをしたと記した200段の石段 ( ̄▽ ̄;)!! | ||
・・・ | 釼石(雷石:長者社神蹟) | 刀の手水 |
謡曲「小鍛治」の舞台とされる御釼社(長者社)と社殿の裏上に鎮座する釼石(雷石:長者社神蹟) | ||
おせき社、薬力社 | おせき社 | 薬力の滝 |
・・・ | 薬力の滝は東福寺通天橋の下を流れる三の橋川の源流 | |
おせき社、薬力の滝社をあとに・・・ | 末廣大明神 | 稲荷山経塚発掘址碑 |
御膳谷奉拝所 | こま札 | |
御膳谷奉拝所のお塚(神蹟)をめぐります・・・ | ・・・ | |
お山詣で人気のある狐の手水 | 目にご利益がある眼力社 | 私的にお気に入りの龍の手水 |
大杉社 | 四つ辻へ・・・ | 四つ辻から市内の絶景\(●⌒∇⌒●)/ |
俳優・西村和彦さんの実家・にしむら亭 | にしむら亭自慢のきなことバニラのミックスソフトクリームをいただきま〜す!(^^♪ | |
・・・ | 荒神峰(田中社神蹟) | |
荒神峰(田中社神蹟) | 荒神峰 | |
四つ辻より市内の絶景が拝める荒神峰からの眺めは最高でござる!空気が澄んでいると伊丹を離発着するジェットが見れる! O(^◇^)O やっふぉ〜 | ||
荒神峰から白滝ノ社神蹟へ・・・ | 白滝ノ社神蹟 | |
わおっ!大蛇の口から流れ落ちる白滝 | せりあい地蔵?へ戻りました・・・ | |
御幸奉拝所 | 横山大観画伯の筆塚(御幸奉拝所) | 四つ辻 |
・・・ | おぉ〜空飛ぶキツネさま?!(^▽^;)おろろっ | 金ぴかな観音さま |
参道沿いにある宗教施設の釈迦堂など | ||
天が開いているので開運?珍しい開運鳥居とカエル | お産婆稲荷社 | |
短い蝋燭を持ち帰るとお産が楽だとか・・ | 灌漑池だった八嶋池、対岸にお田植えの神田 | 元々、山上の荒神峰(田中社神蹟)にあった |
大八嶋社 | 社殿が無く大八嶋大神石碑があるだけ | 境内 |
京都は朱色が映える街 | 縁起物なので買いました!(^^ゞおろっ | 稲荷名物?鶉の姿焼き?!(^▽^;)おろろ〜 |
伏見稲荷大社神幸道(裏参道) | おみくじ煎餅もゲット!(^^♪ | 建築意匠が素晴らしい! |
京阪電車・伏見稲荷駅 | 2254系淀屋橋行き準急に乗車 | 車内は快適やな〜(*゜▽゜)/ |
千両松慰霊碑「戊辰役東軍戦死者埋骨地」 ☆地図 | ||
淀千両松堤の戦いで戦死した東軍(新撰組隊士など旧幕府軍)の千両松慰霊碑「戊辰役東軍戦死者埋骨地」です。新撰組幹部・井上源三郎も淀千両松堤の戦いで戦死しました。現在の慰霊碑は昭和45年(1970年)、新しく建立されました。当初は新撰組の隊旗である誠の旗も立てられていましたが現在は旗は立っていません。花なども毎日取り替えられ綺麗に手入れされています。 |
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新撰組・井上源三郎が眠る千両松埋骨地 | 旧木津川河川道にある京阪電車淀車庫 | 橋本駅 |
道標「湯澤山茶久蓮寺(ゆたくさんちゃくれんじ)跡」 | ||
京阪電車・橋本駅前にある道標石正面に「橋本渡舟場三丁」、「山崎停車所十丁」の碑文がある。当時、対岸の山崎間に渡し船が運航(昭和37年/1962年まで存続)されており、対岸にある鉄道停車場(現JR東海道本線・大山崎駅)の道案内石碑。また道標石側面には「湯澤山茶久蓮寺(ゆだくさんちゃくれんじ)跡」と記されている。これは、羽柴秀吉が山崎の合戦で明智光秀と戦った時、当地の寺に立ち寄りお茶を所望した。寺の住職は、秀吉が茶人であることから、下手にお茶を差し出したら文句を言われるだけと苦慮して白湯(さゆ)のみを差し出した。秀吉は、住職が聞き間違えたのか・・と今一度お茶を所望するが、同じように白湯が差し出された。秀吉は、立て続けに白湯のみを差し出された事の次第を察し「この寺は、お湯ばかりでお茶をくれなくてもよい、今後は寺の名を『湯たくさん茶くれん寺』とするがよい」と洒落(しゃれ)たとの伝承による。現在、湯澤山茶久蓮寺跡には浄土宗・西遊寺があるが、この湯澤山茶久蓮寺とは、妙見宮旧常徳寺の話と伝えられており常徳寺は曹洞宗の禅寺で、元は石清水八幡宮の麓にありました。その後、橋本の当地に移されたが、文化10年(1813年)正月に焼失したと伝えます。 |
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橋本渡舟場三丁(橋本〜山崎渡舟)道標 | 楠葉砲台の弾薬庫があった浄土宗・西遊寺 | |
かつて街道筋の宿場町で栄えた傾城町(けいせいまち) | ||
遊郭、郭(くるわ)、遊里、色街のこと。有名所では京・島原、伏見・柳町、八幡・橋本、江戸・山谷(吉原)等、かつて全国に傾城町が点在していました。歴史を重ねた町には、その表通りがあれば裏通りもある。すべてに表裏、陰陽、光と影が存在するように大和郡山は郡山城を中心とした城下町が築かれたが、その一角に傾城町が存在していたのも事実である。今は当時と一切関係のない町ですが見事な異彩を放つ木造建築は見るからに傾城町特有の建物であるが建築意匠の素晴らしさに目を惹かれます。 |
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妓楼と呼べない異様に巨大な木造建築は橋本検番跡?後に集合住宅に転用された天寿荘? | ・・・ | |
・・・ | 珍しい防火用水槽 | レトロな洋食店・やおりき |
当時は80軒以上の妓楼(ぎろう)、30軒の飲食店があって、大変賑わっていたようです・・・。 | ||
京阪・橋本駅西側の旧街道筋には当時を偲ばせる古い家並みが今も残っている。 | ||
ステンドグラスの窓や窓格子、欄間飾りや手すりの装飾など建築意匠がええ感じやな〜(*゜▽゜)/ | ||
道標石(淀川対岸の山崎への渡し場痕) | 大谷川 | 雨が強く降ってきた〜(~ヘ~;)・・・ |
窓格子、欄間飾りや手すりの装飾など建築意匠がええ感じや〜(*゜▽゜)/ | ||
橋本は、京(大坂)街道の宿場として賑わい、歌舞伎『双蝶々曲輪日記』の六段目「橋本の段」の舞台になった遊郭街だった。 | ||
昭和チックな銭湯・橋本湯 | 京阪・橋本駅 | 巨大な木造建築は橋本検番跡の天寿荘? |
京阪・橋本駅 | 車窓から見える淀城天守台上部 | |
新淀城?!淀競馬場(^▽^;) おろっ | 島の弁天さん・長建寺 | ・・・ |
かえる石 |
本堂 |
十石舟 |
Tourist 2014 .05.19(M) |
関連サイト |
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@-京都一周トレイル東山コース@-秋の東山三十六峰(稲荷山〜清水寺)を歩く | |||
古都の秋・東福寺、清水寺〜ローム、京セラX'masイルミ | |||
古都の秋・洛東 | 秋の古都・東福寺、清水寺 | ||
錦秋の古都・東福寺 | はんなり雅な古都迷走案内「名をきけば・・・」 | ||
錦秋の伏見界隈を歩く・・・ | 晩秋の東山々麓わびさび歩く | ||
東福寺、泉涌寺山内七福神めぐり | 新撰組幕末回廊散策その3 |