ちょっと北山てくてく

 

白雲の たえずたなびく 峯にだに すめばすみぬる 世にこそありけれ (古今945) 惟喬親王

 

京都一周トレイル(北山西部コース)をちょっと歩く・・・山の家の店長・セラピー犬のビックスくんに会いに京見峠を越える?!(*゜▽゜)/

 

かつては、夜景の名所だった京見峠(きょうみとうげ)地図

長坂峠(ながさかとうげ)とも呼ばれる。京都府道31号西陣杉坂線(長坂)上に位置する、標高446mの峠です。西賀茂鑓磨岩(にしがもやりとぎいわ)と大宮釈迦谷とを隔てている。若狭国方面から上洛する際、最初に京の街を見下ろす事ができる峠として知られ、そこから峠名がついたと伝える。軍記物語『太平記』には、「京中を足下に見下ろせる峠」という記述があり、また「延元元年(1336年)、後醍醐天皇方の兵が、室町幕府を開いた足利尊氏らとの洛中合戦にあたり、京都への北の要所として京見峠に陣を張った。」という文章が記されている。また南北朝時代「北朝文和2年(1353年9月)、供御人等が毎夜多量の材木を荷担いして都へ運び、夜中売買をなし、或いは買手を官木御用地の小野山に入れて毎日伐採して数百荷を販売(盗伐販売)したと記録報告がある。さらに応仁の乱(1467年)以降、鷹峰から長坂口を経て若狭、丹波方面へ通じる戦略上の拠点とされ、城が各所に構えられ、その1つが長坂城と後にこの峠から氷室道を登ったところに別の山城が構築された。室町時代には、関所も置かれた古くからの要所であった。かつては夜景スポットしても有名でしたが、平成17年(2005年)頃以降、京見峠では杉を始めとする針葉樹が生い茂り、かつては京都市街地が一望できたという眺望が、完全に遮られている。これは、眺望目的に訪れる人々が増えることにより、ごみなど不法投棄の一層の増加を懸念する地権者が、杉などを植えて眺望を閉ざす一方で、その伐採を見送っているためで今のところ伐採される予定はないという。マナーの悪さが名所を消してしまうことがある一つの事例で残念至極。またいつの日か京見ができる峠に復活できますよう・・・

伏見奉行所跡 ☆地図

関が原の戦後の慶長5年(1600年)9月18日、徳川家康の伏見城入城後に桃山清水谷(桃山御陵石段下)に奉行所を設置しました。松平下野守忠吉の支配下に属し、臣舎人源左衛門に司した為、慶長の動乱によって荒廃した伏見は次第に回復し慶長7年(1602年)12月、伏見城在番制を定めその指揮は京都所司代の管轄とされました。慶長12年(1307年)4月29日、掛川城主・松平隠岐守定勝を初代伏見城代に任命し「伏見は天下概要の地なるを以ってここに在城せんと欲するも思う所ありて駿府を坐城とせしかば伏見の警備の為には譜第勇敢の士を以って当たらしめ武具兵糧の貯えたり若し不慮の事あらんには汝固く守り怠る勿れ。」と武器、鎧などを優遇しました。寛永2年(1625年)7月、時の奉行・小堀遠江守が富田信濃守邸跡地に奉行所を移転したと伝える。・・・奉行所が廃止される慶応3年(1867年)12月迄、44代奉行・永井主水正(もんどのしょう)が赴していました。翌年正月2日、会津・桑名藩の幕軍が京橋に上陸し大阪町の本願寺別院(伏見幼児園)に入り、新撰組は伏見奉行所に布陣していた。一方、薩長軍は西郷隆盛の指揮下にあり御香宮東方の桃山筑前台(龍雲寺)に大砲列陣を布いて伏見奉行所を眼下に見下ろしていた。3日、午後4時頃、鳥羽に於いて薩摩藩が機先を制し大砲を一発を発射。この砲声により高台の大砲列陣が一斉に伏見奉行所に向けて砲撃を開始。会津藩、新撰組など応戦準備をする間もなく砲火を浴び大火を起こした。旧幕府軍も新撰組などの活躍で現JR桃山駅辺り迄反撃し大接戦となったが、大山弥助(大山厳元帥)が大ニ砲隊を率いて来援し薩長軍が勝利し旧幕府軍は体制を立て直すべく淀へ退却した。この戦いで伏見は奉行所始め、大手筋以南は殆ど焼滅しました。

中書島の弁天さん・長建寺 近鉄京都線 伏見奉行所遺構の石垣
常盤御前就捕処の碑

平治の乱(1159年)で源義朝(1123〜60年)が敗死、常盤御前は3人の子供(今若8歳〔阿野全成〕、乙若6歳〔愛智円成、後に義円と改名〕、牛若2歳〔源義経〕)を連れ大和街道を逃げ落ちる時に当地で平清盛の追っ手に捕まったと所とされています。常盤御前は、源氏の棟梁(義朝)の子を産み、後に平家の棟梁(清盛)の子を産むという波乱万丈な人生を送りました。

牛若丸の母・常盤御前拿捕の地碑 伏見奉行所跡 伏見奉行所跡碑
御香宮(開運・安産・厄除けの神) ☆地図

縁起には諸説があり社伝によれば貞観4年(862年)9月9日、境内に清泉が湧き出し水が芳しく四方に香り病者がこの水を服用すれば病気がたちどころに癒ゆるといわれ、これに因んで御香宮と称し地名も石井郡(紀伊郡)と称したと伝えています。又、御香宮は、旧伏見町の産土神(うぶずながみ)として古来から最も信仰されている洛南屈指の大社です。筑前国糟屋郡(福岡市香椎(かしい)町)にある香椎宮(祭神・神功皇后・仲哀天皇)を勧進し御香椎の椎を略し御香宮となったという説が、あります。"延喜式に記す御諸(みもろ)神社"であると言う説もあります。御諸(みもろ)とは、森と同義で神の鎮座する森をいい神の降臨する山や森を神格化したものを御諸(みもろ)神社と言います。豊臣秀吉は、征韓の役に際し肥前長光(重要文化財)の名刀を戦勝祈願時に奉納し今も社宝とされています。伏見城築城に際し深草大亀谷に移され城惶神(伏見城の鬼門除けの守護神)とし社領300石を寄進されました。その後、慶長10年(1605年)に徳川家康によって現在地に移され、徳川御三家(尾張・紀伊・水戸藩)藩祖と2代将軍・秀忠の娘(千姫)らが伏見で誕生し、御香宮を産土神(うぶずながみ)として社領も豊臣秀吉同様の深草地方など300石が、与えられました。豊臣秀吉、徳川家康を始めとし特に徳川御三家藩祖らが特別の崇敬を払った洛南最大社です。

伏見工兵第十六大隊跡碑 平成11年(1999年)9月に再建された大鳥居 表門(重要文化財)
表門は伏見城大手門 境内 伏見義民事跡
・・・ 道真公を祭神とする桃山天満宮 伏見戦石碑
解説 伏見城の車寄せとも伝える拝殿 手水現在は飲用不可
「名水百選」に選ばれた石井(いわい:御香水) 本殿
京都守護職屋敷跡(京都府庁)地図

京都守護職は江戸末期の文久2年(1862年)、京都の治安維持を主務とし朝廷の動向探索、尊攘志士取締などの目的で設立された幕府の役職で京都所司代、町奉行などの上層部でした。当初、島津久光(ひさみつ)を守護職に就けようとしましたが外様大名をこの任に就けると政治混乱を招くとして福井藩主・松平春嶽(しゅんがく)に依頼しますが辞退され文久2年(1862年)8月1日、会津藩主・松平容保(かたもり)が拝命する事になりました。孝明天皇から絶大な信頼を得ていた容保が後に朝敵とされ会津戦争(鳥羽伏見の戦い/戊辰戦争)に至る悲劇の始まりとなりました。当初、黒谷の金戒光明寺に設立されましたが文久3年(1863年)末、当地に移転し大政奉還、小御所会議などで慶応3年(1867年)12月に廃止され跡地に京都市中取締所が設けられ明治元年(1868年)2月に京都裁判所に改められ次いで京都府庁と改称し現在に至ります。

神鑒(かん)静井(石井)と御香水碑 神馬舎 京都府庁(京都守護職上屋敷跡)
明治天皇御駐輦所合薬会社阯

明治10年(1877年)、明治天皇の関西行幸が行われた時に視察された京都合薬会社(アポテーキ)は、京都の薬業界が設立した薬局で医師の処方箋による調剤を行ったと伝える。

京都府庁(京都守護職上屋敷跡) 明治天皇御駐輦所合薬会社阯 現代の京都守護職?新撰組??京都府警本部
京都府警本部をあとに。。。 北山へ・・・
京都府道31号西陣杉坂線に「杉阪の船水」という湧水があり、ありがたく頂戴致しました!(^-^)v ここにも湧き水か?
京見峠、氷室口(別れ)を越えた山の中に宿泊もできる立派なログハウスのレストランがあります!(^^♪
京都市内でハンバーグで有名なレストランの姉妹店で、テレビ・魔法のレストランで紹介されました。
今回は、グラスワイン&チーズハンバーグセット(スープ〜チーズハンバーグ〜ドリンク)をいただきました〜(^^♪
山の家で頂くコーヒーは格別でござる!(^^♪ セラピー犬の店長・ビックスくん、食べ終わったのを見計らって傍に来てくれました!(*゜▽゜)/
デッキテラス席など開放的なハウス内は涼しくて快適でござる。(*゜▽゜)/
ラブラトールレトリバー種のビックスくんにお見送りしてもらい、食後の運動?去年歩いた京都一周トレイル別ルートで山の家を一周します!
去年は雪がちらちらと舞う寒〜い時期を歩いたが、今回は初夏のような陽気で暑いござる。(>▽<;; おろっ
京都一周トレイル標識・北山-70 ・・・ 京都一周トレイル別ルートで京見峠へ・・
新京見峠からの京都市内俯瞰!京都タワーや伏見桃山城方面まで見えるでござる!\(●⌒∇⌒●)/
やっほ〜\(●⌒∇⌒●)/ 京都一周トレイル標識・北山-69 ・・・
氷室口(別れ)に到達!(*´ο`*)=3ホッ 京都一周トレイル標識・北山67-1 京都府道31号西陣杉坂線
鑓磨岩(やりとぎいわ)町のお地蔵さま(^^♪ ・・・ 山の家・はせがわへ戻ってきました〜!(^-^)v
・・・ こんな所にも水が湧いています!(*゜▽゜)/ チャリダー&ハイカーに人気!湧水・杉阪の船水
道風(とうふう)神社地図

京都府道31号西陣杉坂線沿い、杉阪地区(かつての上杉阪集落)のほぼ南端にあり、三跡の一人として知られた平安時代の名書家・小野道風(おのとうふう)を祭神とする神社で道風武大明神」(とうふうたけのだいみょうじん)、武明神社ともいい、同地区を中心とした産土神として知られる。平安時代中期の延喜20年(920年)に創建と伝える。書道の歴史は古いが、道風公は書道の巨匠、能筆家で殊に草書が堪能であった。平安中期の三跡の一人として有名です。道風公が杉阪、産土神・和香社より湧出する霊水を所望して宮僧の宿舎たりし明王寺に業を修め栄達の縁結により氏神に斎い祀られた。遺品には唐鏡、硯、唐筆、硯屏、卦算などがあり社宝とされている。境内には、禁中御修法用(天皇家が作法や日常生活における習い事)に献上された和香水と呼ばれる名水が湧く。道風が硯の水に用いたとされる積翠池(しゃくすいいけ) や、樹齢250年以上、高さ25mの杉木立、不動明王を祀る明王堂が存在する。当社の所在は杉阪道風町で、地名の由来にもなっています。

 

『柳に小野道風』

11月の柳(雨)の花札『柳に小野道風』・・・花札をご存知の方は、有名な柳に飛びつく蛙を見つめている和傘を差した貴人の図柄の20点札ですが、この和傘を差している貴人が小野道風だと知る人は多くない?私は、20点札という事だけはよ〜く存じておりました・・・(>▽<;; おろろっ

道風神社へ・・・ 杉坂川に架かる思君橋(しくんばし)と道風神社一の鳥居
明王寺跡 道風碑
積翠池(池水を硯の水に使うと書道が上達する硯の水) ・・・ 今も井水が湧いている?和香水
境内には、樹齢250年以上の杉やサカキの大木があり、京都市の巨木に指定され、幹周り1.4m、高さ10m
和香水碑文 和香水碑文解釈木札 境内
不動明王堂 祭神は、平安時代の名書家・小野道風(おののみちかぜ/とうふう)を祀る。
道風神社、北山をあとに・・・(^_^)/~ 朝鮮通信使が上陸した淀・唐人雁木跡 淀本町商店街
がんばれ商店街!(*゜▽゜)/ 淀名物のコロッケ&惣菜をゲット!(^-^)v 壁に消費税込み価格の早見表!(@_@)
與杼(よど:淀)神社 ☆地図

淀・納所・水垂・大下津の産土(うぶすな)神です。祭神は、豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)、高皇産霊神(タカミムスビノカミ)、速秋津姫命(ハヤアキツヒメノミコト)の三柱です。僧・千観内供が応和年間(961年〜963年)に肥前国(佐賀県)佐賀郡河上村に鎮座の與止日女(ヨドヒメ)神社より、淀大明神として勧請したのに始まると伝えるが、延喜式(901年〜)第9巻「山城国乙訓郡」中に、與杼神社の名がある処からみて、応和年間より以前に鎮座していたと考えられます。元の鎮座地は、今の宮前橋の下流、桂川右岸の川原になっているあたりで、古来よりこのあたりを「大荒木の森」と呼ばれていた。桂川河川敷の拡幅工事が実施されることになったので、本殿以下の建物は、明治33年5月24日付の神社移転許可により、明治34年7月移転工事に着工、翌年5月完成、明治35年6月21日、神社のすべてが現在の淀城址内に遷座されました。※当社由緒書きより

・・・ 何の木?花がいっぱい咲いてる! 與杼(よど)神社
境内 拝殿 本殿
大坂・淀屋が奉納した高灯籠 解説 神心石
城内にある稲荷社 本丸跡 淀城跡碑
本丸北西隅櫓台上にある明治天皇御駐蹕之址碑 城堀には小判が埋没しているとか?!(>▽<;;
城堀 淀城の水車は有名だったようで・・・レプリカな水車が設置されている。

山城国の人々から「淀の川瀬の水車、だれを待つやらくるくると」と歌われ『都名詞画譜』に描かれた「淀城水車図絵」で知られる。淀城の西と北側に直径九間(約16m)の大型水車が二基設けられて二の丸の居間や西の丸の園池に水を取り入れ城内の生活水として使用されていたと伝える。

本丸跡の公園 知る人ぞ知る淀城三等三角点(17.53m)
亭保8年(1723年)、春日局の子孫である稲葉正成が佐倉城から入城後、明治維新まで稲葉氏10万2千石の居城となった。
天守台から見る本丸跡の公園 今も水が沸く?井戸跡 姫さまが洗顔などに使った手水石だとか
天守台 淀城の由来 以前の導石など
解説 宇治川、木津川の河川道も今と違う稲葉氏時代(江戸幕末)の淀城下町
新しく高架駅になった京阪・淀駅
出町柳行き準急 車内は快適やな〜(*´ο`*)=3ホッ 中書島駅

Tourist 2014 .05.19(M)

 

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