西山の古刹・楊谷寺
乙訓の 都は狭き 夏野かな 木母庵
御香宮〜明治天皇桃山御陵〜楊谷寺(ようこくじ:柳谷観音寺) |
恵心僧都の浄業地・浄土谷(浄谷) |
海印寺より柳谷へ至る山道(R79)の中程より南へ500mばかり山中に入った山村集落で、民家は僅かに8軒(現在は?)、他に「西山大仏/乗願寺大仏」で知られる乗願寺、御谷(みたに)神社があるだけです。ここから南へ下ると尺代(大阪府三島郡島本町)に至り、東へ山道を登ると天王山頂を経て大山崎の宝寺に出ます。ハイキングコースとしてハイカーが訪ねるぐらいで、まったくの幽邃境です。浄土谷は、一に浄谷とも言い、昔、恵心僧都が閑居し浄業修行した地と伝えます。付近の山中一帯には、往時の寺院跡と思われる字名が多数残っています。釈迦堂、観音堂を始め、デンズコ、タイコンドなとがあります。東の山中には、恵心僧都の妹・安養尼が住持していたと伝える安養ヶ谷、西方には丹屋(にや)ノ谷、行道石(座禅石)があります。又、西方山上には院ノ墓と称し、天子陵と言われた古墳がありましたが、現在は所を明らかにしません。村の入口(柳谷との分岐点)には、「弥勒谷十三仏」の弥勒、大日、釈迦を始め、十三仏(江戸期)が安置され、当地が仏縁浅からぬ事を思わしめます。浄土谷が恵心僧都の浄業地であったかは別として、早くから仏徒の目をつけるところとなり、西山浄土宗の勃興によって中世以降は、多くの寺院が建立されたと思われ、楊谷寺(柳谷観音寺)もその一と思われます。江戸時代には、禁裏御預地となり、当地名産の楊梅は毎年、宮中に献上する慣わしになっていたと伝えます。 |
・・・ | 御香宮の大鳥居 | |
御香宮(開運・安産・厄除けの神) ☆地図 | ||
縁起には諸説があり社伝によれば貞観4年(862年)9月9日、境内に清泉が湧き出し水が芳しく四方に香り病者がこの水を服用すれば病気がたちどころに癒ゆるといわれ、これに因んで御香宮と称し地名も石井郡(紀伊郡)と称したと伝えています。又、御香宮は、旧伏見町の産土神(うぶずながみ)として古来から最も信仰されている洛南屈指の大社です。筑前国糟屋郡(福岡市香椎(かしい)町)にある香椎宮(祭神・神功皇后・仲哀天皇)を勧進し御香椎の椎を略し御香宮となったという説が、あります。"延喜式に記す御諸(みもろ)神社"であると言う説もあります。御諸(みもろ)とは、森と同義で神の鎮座する森をいい神の降臨する山や森を神格化したものを御諸(みもろ)神社と言います。豊臣秀吉は、征韓の役に際し肥前長光(重要文化財)の名刀を戦勝祈願時に奉納し今も社宝とされています。伏見城築城に際し深草大亀谷に移され城惶神(伏見城の鬼門除けの守護神)とし社領300石を寄進されました。その後、慶長10年(1605年)に徳川家康によって現在地に移され、徳川御三家(尾張・紀伊・水戸藩)藩祖と2代将軍・秀忠の娘(千姫)らが伏見で誕生し、御香宮を産土神(うぶずながみ)として社領も豊臣秀吉同様の深草地方など300石が、与えられました。豊臣秀吉、徳川家康を始めとし特に徳川御三家藩祖らが特別の崇敬を払った洛南最大社です。 |
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徳川頼房(水戸藩祖)が寄進した表門(重文:桃山期) | 伏見義民碑(勝海舟撰文、三条実美筆) | 道真公を祭神とする桃山天満宮 |
伏見義民(天明義挙)石碑(勝海舟碑文撰、三条実美書) | ||
伏見義民は天明義挙とも言われ、天明5年(1785年)伏見奉行・小堀政方(まさみち)の悪政に抗議、伏見町民を救わんと死を賭して、直訴をした文珠九助など7名の義挙である。直訴は成功し、小堀奉行は失脚、一万余石の大名を失い、祖先の名園家・小堀遠州の名を汚しました。 |
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伏見城跡残石 | 金札宮創建伝承に出てくる白菊石 | 芭蕉、去来の句碑 |
竹田街道に使われていた車石と道標石 | 伏見戦石碑 | 伏見城の車寄せとも伝える拝殿 |
・・・ | 見事な京都市登録天然記念物・ソテツ | 「名水百選」に選ばれた石井(いわい:御香水) |
本殿 | 神鑒(かん)静井(石井)と御香水碑 | ・・・ |
JR奈良線・桃山駅 | 桃山御陵参道・・・マイナスイオンシャワー |
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近辺から出土した伏見城の石垣に使われていた伏見城跡残石 | ||
伏見城跡残石に刻されている薩摩藩の家紋 | ・・・ | |
・・・ | 御陵階段上(伏見城四の丸跡)からの眺め・・・石段は230段あります!(@_@;) | |
明治天皇桃山御陵(伏見城本丸跡)・・平安遷都を成した桓武帝御陵の近くに明治維新で近代国家・日本の礎を成した明治帝の御陵がある。 | ||
かつて伏見城から眼下に巨椋池(おぐらいけ)が広がっていました・・・(*゜▽゜)/ | ||
学生時代、230段の大階段で野球部のトレーニングをしたな〜 | 桃山御陵の峠 | |
乃木神社(勝運・勉学の神) ☆地図 | ||
陸軍大将だった乃木希典(まれすけ)と妻・静子を祀る神社です。日清戦争では歩兵第一旅団長として参加。日露戦争では第3軍司令官として旅順攻撃をし多くの犠牲者を出し作戦に対する非難が生じたが明治天皇の信任厚く明治40年に学習院院長に任命され明治天皇の大喪には静子婦人とともに殉死。境内に、ロシアのステッセル将軍から贈られたという愛馬「璞号(あらたまごう)」と「寿号」の銅像があり、希典の生家や旅順の第3軍司令部舎も復原されています。 |
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乃木神社(勝運、勉学の神) | ||
蒼海に眠る若人の碑と吾妻の主錨、 | 乃木希典(まれすけ)胸像 | 国家・君が代にも登場するさざれ石 |
・・・ | 本殿 | 創建者・村野山人 |
乃木希典が少年時代に住んでいた長州の家が移築されている。 | ||
乃木の名水・勝水 | 日露戦争時の日本軍第三軍司令部 | |
陸軍大将・乃木希典(まれすけ)自画像など | 暖房施設のオンドル | |
山城えびす神社 | 祈念しながら撫でる幸せに成りタイ?! | ・・・ |
引退間近?ウグイスこと103系 | JR奈良線・桃山駅 | 御香宮 |
楊谷寺(ようこくじ:柳谷観音寺) ☆地図 | ||
立願山(一に柳岩山に作る)楊谷寺と号する西山浄土宗光明寺派の寺です。昔、山中から清泉が湧き出し眼病治癒に応験があり、井水の傍に観音像を祀ったのが当寺の起こりとされます。平安末期の承保年間(1064年〜76年)、水観(一に水願)上人の開創と伝えますが、寺伝によると京都東山清水寺開創の延鎮僧都によって、大同元年(806年)に開山され、僧都はある夜、夢の中に観音菩薩が現れ京都西山へ行けば生身の観音菩薩を仰ぐ事が出来るとのお告げを受けて西山に踏み入りました。柳の生い茂る渓谷の巌上に夢告の観音菩薩(十一面千手千眼観世音菩薩)を発見し僧都は、その場所に堂宇を建て日夜給仕しましたが、清水寺の本尊を刻む為に帰洛したとされます。後世、荒廃していたが、元禄年間に再興したとされ建物は新しいです。毎月の17日の縁日のみ阪急バスが運行され参拝者で賑わいます。庭園は京都府指定名勝、本堂、庫裡、書院、山門は京都府登録文化財に指定されています。 |
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大手筋 | 京阪・伏見桃山駅 | 楊谷寺(ようこくじ:柳谷観音寺) |
楊谷寺境内前景案内図 | ・・・ | 風神・雷神が奉られる山門(府登録文化財) |
境内 | 本堂(京都府登録文化財) | |
阿弥陀堂 | 石仏さま | |
アジサイの道から楊谷寺を俯瞰 | ||
奥ノ院 | ||
寺伝によると、江戸時代、112代・東山天皇の皇妃・新崇賢門院(四条の局)が、度々、皇子を出産されましたが、不幸にも皆、幼くで亡くされ、楊谷寺の本尊に無事出産できますようにと祈願されました。そして、無事に出産されたのが113代・中御門天皇です。天皇9歳の時、両親が崩御され、その追善菩提の為に造られたのが奥の院の観音と伝えます。本堂は、大正元年(1942年)に建立されましたが、大正4年(1915年)に焼失、昭和5年(1930年)に再建されました。 |
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奥ノ院・・・参拝しました。 | ||
モリアオガエル生息地 | 稲荷社 | 今年の干支、馬の扁額 |
楊柳水(ようりゅうすい) | ||
弁財天堂の傍らにある水井は、弘法大師が加持修法に用いた水と伝え、一に供御水とも言います。毎朝、この霊水で顔を拭くと、ご利益があると伝えます。 |
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楊柳水 | 弁財天堂 | 弁財天、淀君像が祀られる。 |
地蔵堂 | 本堂(京都府登録文化財)に戻ってきました。 | |
独鈷水(おこうすい) | ||
開山・延鎮僧都が清水寺に帰られた後、弘法大師が当寺に参詣した時、堂傍のたまり水でサルの親が子猿の目を一生懸命洗っていました。そして17日目に子猿の目がパッチリ開いたところを見て、弘法大師はその不思議な水を眼病に悩む人々の為に霊験あらたかな霊水にしようと、日夜加持祈祷を施し独鈷(古代インドの武器、現在は仏具)で掘り広げられました。そして大師の法力による霊験水「独鈷水(おこうすい)」が湧き出ています。★ 「独鈷水(おこうすい)」は、普段自由に汲めますが少しずつ溜められている貴重な水で、眼病平癒の霊水としても信仰を集めています。決して粗末に扱わないで汲んだ水を一度観音様にお供えしてから持ち帰るのが慣わしです。 |
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庫裡 | 独鈷水 | ペットボトルに頂戴しました。m(_ _)m |
弘法大師像、観音像 | 四国八十八ヶ所御砂踏みでござる!(*゜▽゜)/ | 本堂(京都府登録文化財) |
最近、左目に少し違和感があるので楊谷寺(ようこくじ:柳谷観音寺)に参拝したくなりました。。。ご利益はあるか?!(^^ゞおろろっ | ||
Tourist 2014.06.02(M) |