宇治、久御山、八幡を訪ねる
山門を 出れば日本ぞ 茶摘うた 菊舎(きくしゃ)
伏見〜源氏物語とお茶の街・宇治〜久御山〜八幡をめぐる! (*゜▽゜)/ |
十石舟が運行する宇治川派流 | 伏見は名水と酒処・・・酒蔵の風情が、えぇなぁ〜(*゜▽゜)/ | |
かつて、伏見の地場産業として48を超えた酒蔵・蔵元の数も現在は24に半減したと理解しております・・・もし、間違っていたら m(__)m | ||
・・・ | 両替商旧跡 | |
大手筋商店街 | 伏見奉行所遺跡の石垣 | |
源氏と平家の棟梁の子を生んだ謎多き美女で源義経の母・常盤御前 ☆地図 | ||
平治元年(1160年)12月、平治の乱で源義朝は敗走中に立ち寄った先で裏切りにあって入浴中に暗殺されました。義朝の愛妾であった常盤御前は、今若、乙若、牛若(のちの源義経)ら三人の子どもたちを連れ、雪中を大和国まで逃げましたが、都で母親が捕えられたと聞き、六波羅の平清盛のもとに出頭しよとする途中、当地で平家に捕らえられたと伝える。かつては常盤に因んでか近くに名水が湧く常盤井もありました。 |
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常盤御前就捕処の碑 | 伏見奉行所跡 | 伏見工兵第十六大隊跡 |
御香宮(開運・安産・厄除けの神) ☆地図 | ||
縁起には諸説があり社伝によれば貞観4年(862年)9月9日、境内に清泉が湧き出し水が芳しく四方に香り病者がこの水を服用すれば病気がたちどころに癒ゆるといわれ、これに因んで御香宮と称し地名も石井郡(紀伊郡)と称したと伝えています。又、御香宮は、旧伏見町の産土神(うぶずながみ)として古来から最も信仰されている洛南屈指の大社です。筑前国糟屋郡(福岡市香椎(かしい)町)にある香椎宮(祭神・神功皇后・仲哀天皇)を勧進し御香椎の椎を略し御香宮となったという説が、あります。"延喜式に記す御諸(みもろ)神社"であると言う説もあります。御諸(みもろ)とは、森と同義で神の鎮座する森をいい神の降臨する山や森を神格化したものを御諸(みもろ)神社と言います。豊臣秀吉は、征韓の役に際し肥前長光(重要文化財)の名刀を戦勝祈願時に奉納し今も社宝とされています。伏見城築城に際し深草大亀谷に移され城惶神(伏見城の鬼門除けの守護神)とし社領300石を寄進されました。その後、慶長10年(1605年)に徳川家康によって現在地に移され、徳川御三家(尾張・紀伊・水戸藩)藩祖と2代将軍・秀忠の娘(千姫)らが伏見で誕生し、御香宮を産土神(うぶずながみ)として社領も豊臣秀吉同様の深草地方など300石が、与えられました。豊臣秀吉、徳川家康を始めとし特に徳川御三家藩祖らが特別の崇敬を払った洛南最大社です。また鳥羽伏見の戦いでは、薩摩軍が陣取りました。同神社には最初に旧幕府軍が陣取っていましたが、勤皇思想の三木(そうぎ)宮司が退去させ、仕方なく旧幕府軍はすぐ南側の伏見奉行所に入りました。御香宮と伏見奉行所の攻防戦は伏見戦のなかでも最も激戦となりました。3日早朝、薩摩、長州、土佐の各藩兵が御香宮に入り大砲四門を設置、薩摩軍は伏見奉行所が見下ろせる龍運寺にも大砲を据えた。旧幕府軍は伏見奉行所で軍議を開き、表門は会津藩兵、南北門は伝習兵、新撰組を京町筋に配備する布陣などが決められました。夕刻、鳥羽方面の砲声が合図となり御香宮より大砲が打ち掛けられ、砲撃戦が繰り広げられたと伝える。 |
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伏見奉行所跡 | 御香宮一の大鳥居@大手筋 | 御香宮 |
伏見城大手門と伝える表門 | 境内 | 伏見義民事跡 |
境内 | 夏祓い神事の茅の輪の製作中 | 伏見城の車寄せとも伝える拝殿 |
桃山様式の豪華な建築意匠 | 「名水百選」に選ばれた石井(いわい:御香水) | |
本殿・・・しかと参拝させていただきました!O(-人-)O | ||
神鑒(かん)静井(石井)と御香水碑 | 伏見戦石碑 | 御香宮東神門 |
JR奈良線・桃山駅 | 桃山御陵参道 | |
桃山御陵参道 | 伏見城跡残石 | |
伏見城跡残石 | ・・・ | 御陵階段上(伏見城四の丸跡) |
御陵階段上(伏見城四の丸跡)からの眺め・・・(*゜▽゜)/やっほ〜 | ||
明治天皇桃山御陵、昭憲皇太后桃山東陵 ☆地図 | ||
山丘陵の頂に明治天皇陵、昭憲皇太后陵がある。伏見桃山陵は、明治天皇が生前からこの土地(指月丘陵)を大変に気に入られていたとの事で御陵地となりました。当地は、伏見城本丸跡を陵墓としたものと言われ少し離れて名護屋丸跡には昭憲皇太后御陵がある。明治天皇陵への230段もある石段ですが、登りきると眺望絶景のポイントです。 |
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明治天皇桃山御陵(伏見城本丸跡)・・豊臣秀吉が築城した伏見城跡に設営された明治維新で近代国家・日本の礎を成した明治帝御陵 | ||
昭憲皇太后伏見桃山東陵(ひがしのみささぎ) | ||
桃山御陵に繋がる230段の大階段 | ・・・ | |
乃木神社(勝運・勉学の神) ☆地図 | ||
陸軍大将だった乃木希典(まれすけ)と妻・静子を祀る神社です。日清戦争では歩兵第一旅団長として参加。日露戦争では第3軍司令官として旅順攻撃をし多くの犠牲者を出し作戦に対する非難が生じたが明治天皇の信任厚く明治40年に学習院院長に任命され明治天皇の大喪には静子婦人とともに殉死。境内に、ロシアのステッセル将軍から贈られたという愛馬「璞号(あらたまごう)」と「寿号」の銅像があり、希典の生家や旅順の第3軍司令部舎も復原されています。 |
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乃木神社(勝運、勉学の神) | 蒼海に眠る若人の碑と吾妻の主錨 | |
乃木希典(まれすけ)胸像 | 日露戦争時の日本軍第三軍司令部 | 国家・君が代にも登場するさざれ石 |
狛犬ならぬ狛馬と本殿 | ||
乃木の名水・勝水 | 山城えびす神社 | |
幸せになりタイ!(^-^)v | 乃木希典が少年時代に住んでいた長州の家が移築されている。 | |
長府乃木旧邸 | 乃木神社をあとに・・・ | 宇治川派流 |
中書島駅前通り | ||
京阪・中書島駅 | 宇治行き普通車に乗車 | 車内は快適でござる!(^^♪ |
黄檗駅 | 探偵ナイトスクープでも紹介された黄檗新生市場 | |
今はシャッター市場と化し6軒のみが営業されているが、市場施設の規模から以前は、かなり隆盛を誇っていたと思われる黄檗新生市場 | ||
萬福寺塔頭・宝蔵院 | 鉄眼一切経保存庫(重文・江戸期) | |
霊園からの宇治俯瞰 | 龍の目を表す竜目井 | |
黄檗山萬福寺 ☆地図 | ||
寺伝によると隠元隆g禅師は、中国明代末期の臨済宗を代表する費隠通容(ひいんつうよう)禅師の法を受け継ぎ、臨済正伝32世となられた高僧で、中国福建省福州府福清県の黄檗山萬福寺(古黄檗)の住持でした。日本からの度重なる招請に応じて、承応3年(1654)、63歳の時に弟子20人他を伴って来朝。のちに禅師の弟子となる妙心寺住持の龍渓禅師や後水尾法皇そして徳川幕府の崇敬を得て、宇治大和田に約9万坪の寺地を賜り、寛文元年(1661年)に禅寺を創建。古黄檗(中国福清県)に模し、黄檗山萬福寺と名付けて晋山されることになりました。禅師の道風は大いに隆盛を極め、道俗を超えて多くの帰依者を得られました。禅師は「弘戒法儀」を著し、「黄檗清規」を刊行して叢林の規則を一変されるなど、停滞していた日本の禅宗の隆興に偉大な功績を残されたことにより日本禅宗中興の祖師といえるでしょう。爾来、禅師のかかげられた臨済正宗の大法は、永々脈々と受け継がれ今日に至っています。また、幕府の政策等により、宗派を黄檗宗と改宗し現在に至ります。日本でいう「禅宗」は、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗の三宗に分類されています。行と徳を積まれた禅師は、在世中、物心両面にわたり、日本文化の発展に貢献され、時の皇室より国師号または大師号を宣下されています。萬福寺の伽藍建築・文化などはすべて中国の明朝様式です。美術・建築・印刷・煎茶・普茶料理、隠元豆・西瓜・蓮根・孟宗竹(タケノコ)・木魚なども隠元禅師が来られてから日本にもたらされたものであり、当時江戸時代の文化全般に影響を与えたといわれています。 中でも中国風精進料理である「普茶料理」は日本の精進料理(禅僧が日常食する質素な食事)とイメージが異なっています。見た目も美しく盛りつけられる料理の数々は、高タンパク・低カロリーで栄養面にも優れ、席を共にする人たちと楽しく感謝して料理を頂く事に普茶料理の意味が込められています。・・・以上、萬福寺解説より引用。萬福寺の建造物は、中国の明朝様式を取り入れた伽藍配置です。正面 一間を吹放しとした主要伽藍を中心軸上に置き、同じ大きさの諸堂が左右対照に配されています。このように創建当初の姿そのままを今日に伝える寺院は、日本では他に例が無く、代表的禅宗伽藍建築群として主要建物23棟、回廊、額、聯などが国の重要文化財に指定されています。 |
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駒の蹄影園跡碑 | 解説 | 黄檗宗大本山・萬福寺総門(重文:江戸期) |
JR東海【そうだ、京都いこう。】(夏) 萬福寺 | ハス池(放生池)と三門 | |
菊舎の歌碑 | 龍を模した中国の明朝様式の伽藍配置 | 左右に裳階(もこし)、山廊がある三間三戸の三門 |
山門〜天王殿への龍の鱗を表す参道 | ハスを模った水盤? | |
弥勒菩薩(布袋)坐像を祀る天王殿(重文:江戸期) | 都七福神の一・弥勒菩薩(布袋)坐像 | |
都七福神の一・弥勒菩薩(布袋)坐像 | 韋駄天さま!(*゜▽゜)/ | 仏殿(大雄宝殿:だいおうほうでん/重文:江戸期) |
仏殿(大雄宝殿:だいおうほうでん/重文:江戸期) | 伽藍堂 | 異国情緒が漂う広大な境内 |
朝昼の食事と朝課の時に打つ青銅製の雲版 | 禅悦堂 | 日常の行事や儀式の刻限を報じる開梆((かいぱん) |
生飯台 | 中国様式の回廊をめぐります・・・ | |
ハス | 桃を模った香台 | |
月台と擯罰石(ひんばつせき) | 釈迦如来坐像(大雄宝殿) | 十六羅漢さま |
十六羅漢さま | 獅子に乗っている隠元禅師? | |
卍くずしの匂欄(こうらん)と法堂(江戸期:重文)・・・この広場は、映画・壬生義士伝のOPロケ場 | ||
法堂(江戸期:重文) | 仏殿(大雄宝殿:だいおうほうでん/重文:江戸期) | |
異国情緒が漂う萬福寺 | ||
回廊にある合山鐘 | 開山碑 | 中国様式の回廊をめぐります・・・ |
寿蔵(寿塔、真空塔/重文:江戸期) | 卍くずしの匂欄(こうらん) | ・・・ |
開山堂(江戸期:重文) | ・・・ | 萬福寺をあとに・・・ |
世界文化遺産・宇治平等院前通り | ||
宇治へ来ると毎度立ち寄る○十屋号の店 | ||
いただきマンモス!(^^♪ | 川底の浚渫工事が完了した宇治川浮島辺 | ハスとスイレン |
世界文化遺産・平等院 | Pちゃんも大好きな抹茶ソフトの店 | おぉ〜ウドちゃんも食べてるでござる!!(^^)! |
ジャ〜ン!抹茶がかけられた抹茶ソフト!(^^♪ | 続いて・・・後日、ハス畑へワープ?!(≧▽≦)ぷっ | |
巨椋池干拓地 | ||
昭和8年(1933年)に干拓工事が始まり昭和16年(1941年)に干拓工事完成と共に姿を消しました・・・干拓工事の完成から12年後の昭和28年(1953年)の大洪水で元の大池のような姿に戻りました。この大水害を教訓として上流にダムを建設する事に決まり昭和39年(1964年)に天ケ瀬ダムが完成しました。干拓と埋め立ては違います。干拓とは、たくさんの水路を作りそこに水を集めていきます。その流れを一つにして大きな川の本流に送り出します。つまり干拓の基本は、排水です。今も巨椋池干拓地の中に何本もの排水幹線や古川、大内川が流れ巨椋池排水機場、久御山排水機場に集められポンプで宇治川に排水され地域を洪水から守っています。 |
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かつて、この辺りは広大な巨椋池でした。 | ||
初夏になると大池に蓮花が咲き乱れ、蓮見舟が出るなど文人墨客の往来が絶えませんでした。 | ||
大池一面に花ハスが広がっていたのかもしれませぬ・・・ | ||
巨椋池は水深が浅くて泥深く、蓮の生育には最適で約20万本の美しい紅白の蓮花が盂蘭盆(うらぼん)に出荷されたと伝えます。 | ||
広大な巨椋池干拓地 | ||
大池神社 ☆地図 | ||
巨椋池に生息していた全動植物の鎮魂と農業の安全と繁栄を願って創建されました。昭和28年(1953年)に襲来した台風13号で宇治川左岸が決壊し、境内にある大池漁業記念碑の上端は、当時の洪水浸水線と伝えます。 |
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巨椋池がいかに大きかったか一目瞭然でこざる!!(^^)! | 巨椋池の動植物を鎮魂する「大池神社」 | |
当時の巨椋池に自生していた蓮を彷佛させてくれるのが、地元の蓮愛好家の内田蓮園 | ||
とあるホームセンターへ | コイさんでござる。!(^^)! | |
水族館のようでござるな!(*^-^*) | ||
気づいたら、自宅に連れて帰っておりました。(^^ゞおろろっ | ||
カレー中華で知られるK谷食堂 | 暑い日は、カレー中華ではなく冷し中華とおにぎりでござる?!(^^♪ | |
城南宮 ☆地図 | ||
城南宮の由緒は、上古の時代、神功皇后は出陣に当たり、軍船の御旗に八千矛神を招き寄せて戦勝を祈願され、戦が終わると御旗は宮中で大切に保管されていました。桓武天皇が平安京に都を定めた時、御旗を城南の当地に御神体として納め、八千矛神(やちほこのかみ=大国主命:おおくにぬしのみこと)、国常立尊(くにのとこたちのみこと)、息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと=神功皇后:じんぐうこうごう)の三柱、伊勢、石清水神社など七社が合祀され、都の南を鎮護する神として祀られた。御旗の日月星の紋章が城南宮の三光の神紋の由来と云われています。平安時代末期、交通の要衝でもあった風光明媚な当地に白河上皇が壮大な城南離宮(鳥羽離宮)を造営し院政を開始、歌会や宴、船遊びや競馬(くらべうま)が、しばしば行われ王朝文化が開花しました。承久3年(1221年)、後鳥羽上皇が流鏑馬揃えと称して兵を集め「承久の乱」を起こし、慶応4年(1868年)正月、城南宮に陣取った薩摩藩のアームストロング砲が鳴り響き、「鳥羽・伏見の戦」が開戦しました。 |
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・・・ | ・・・ | 城南宮 |
Tourist.2014.07.28(M)、08.04(M)、11(M) & 18(M)、 |