祇園祭(祇園御霊会)後祭(あとまつり)山鉾町めぐり
かにかくに 祇園はこひし 寝るときも 枕の下を 水のながるる 吉井 勇
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日本三大祭りの一 ・祇園祭(無形文化財)・・・50年ぶりに復活する「前祭:さき祭:巡行」 、 「後祭:あと祭:巡行」 |
「さき祭:巡行」と「あと祭:巡行」・・・今年、50年ぶりに復活した前祭、後祭は昭和40年(1965年)まで、山鉾巡行は17日の「さき祭:巡行」と24日の「あと祭:巡行」に分けて行われていました。巡行が分かれていたのは、祇園祭の「御神輿」が17日に八坂神社から御旅所へ(神幸祭)、また、24日に御旅所から八坂神社へ(還幸祭)と渡御され、山鉾巡行は、その渡御の露払い(厄払い)的な役割を担っていたからです。去年まで24日に行われていた「花傘巡行」は、この「あと祭:巡行」に代わるものです。 |
2014年前祭(さきまつり)23基、後祭(あとまつり)10基の山鉾巡行順番 |
衹園祭は八坂神社の祭礼で、天神祭(大阪)・神田祭(東京)と共に、日本三大祭の一つで、祭りの歴史が長い事、祭りの絢爛豪華さ、祭事が1ヶ月にわたる長期の祭りであることでも広く知られています。約1100年前、神泉苑に日本全国の国数の鉾66本を立て、衹園の神を祀り災厄の除去を祈る衹園御霊会を行ったのが祇園祭りの起こりだと伝えます。 ★【後祭(あとまつり:24日)巡行】@、橋弁慶山(はしべんけいやま)※くじ取らず→A、北観音山(きたかんのんやま)※くじ取らず→B、八幡山 (はちまんやま)→C、浄妙山(じょうみょうやま)→D、鈴鹿山(すずかやま)→E、南観音山(みなみかんのんやま)※くじ取らず→F、鯉山(こいやま)→G、役行者山(えんのぎょうじゃやま)→H、黒主山(くろぬしやま)→I、150年ぶりの復活!!! 大船鉾(おおふなほこ)※くじ取らず |
★150年ぶりに大船鉾が復活し船型鉾が二基! 【出陣の船鉾と凱旋の船鉾】 |
150年ぶりに凱旋の船鉾こと、大船鉾が復活したことで船型鉾が二基になり、前祭と後祭でそれぞれ、くじ取らずのしんがりを巡行します。新町通りの綾小路を境に南の船鉾(船鉾)は前の祭、北の船鉾(大船鉾)は後の祭に巡行していました。二基の船鉾は同時に巡行することがなかったので、江戸時代以降は二基とも船鉾と呼ばれました。区別する場合は祭の日程から十四日船鉾と呼ばれたと伝えます。占出山、船鉾、大船鉾は神功皇后を祭神とし、それぞれが三韓征伐に因んだ山鉾です。神功皇后が戦況を占うために鮎を釣る姿を表しているのが占出山。戦に出陣する船を表しているのが船鉾。戦勝して凱旋する船を表しているのが大船鉾とされます。故に船鉾の神功皇后は鎧姿ですが、大船鉾の皇后は鎧ではなく狩衣を纏っています。また、船鉾には渡海の無事を願って住吉明神・鹿島明神・安曇磯良三神が随行しています。 |
近鉄・桃山御陵前駅 | 竹田駅で地下鉄・烏丸線に乗り換え | |
烏丸御池駅で下車 | こま札 | 設営中の鈴鹿山町会所 |
鈴鹿山(すずかやま)【舁山】 中京区烏丸通三条上ル場之町 ☆地図 | ||
伊勢国鈴鹿山で道ゆく人々を苦しめた悪鬼を退治した鈴鹿権現(瀬織津姫尊)を祀り、金の烏帽子をかぶり手に大長刀を持つ女人の姿であらわしている。後の山には赤熊で象徴した悪鬼の首が置かれている。山に立つ松には鳥居・松・木立と宝珠を描いた絵馬がつけられるのも珍しく巡行後に盗難除けの護符として授与される。前懸は平成元年に新調された、黄砂の道と称する駱駝の図。胴懸は、平成11年新調の桜図綴織と平成13年新調の紅葉図綴織は共に今井俊満氏原画。見送りは、文化13年購入の中国明代の雲龍文様、天啓2年(1622年)の年記を持つ紺紙金泥文字、明治35年(1902年)作の牡丹鳳凰文様刺繍を伝えるが、現在は昭和57年(1982年)新調の染彩ハワイの蘭花を用いています。欄縁金具は山鹿清華下絵の四季花鳥文様です。 |
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伊勢国鈴鹿山で道ゆく人々を苦しめた悪鬼を退治した金の烏帽子をかぶり手に大長刀を持つ女人の姿鈴鹿権現を祀る鈴鹿山 | ||
役行者山(えんのぎょうじゃやま/舁山) 中京区室町通三条上ル役行者町 ☆地図 | ||
応仁の乱以前から存在する日本に古くからある修験道を主題にした舁山(かきやま)。山の御神体として修験道の開祖・役小角(えんのおずぬ)と一言主神(ひとことぬしのかみ)と葛城神(かつらぎのかみ)の三体を安置するのは、役行者が一言主神を使って葛城山と大峰山の間に橋を架けさせたという伝承による。正面の洞に役行者が帽子・掛絡・経巻・錫杖を持って座し、 葛城神は女体で手に台つきの輪宝を持ち、一言主神は鬼形で赤熊をかぶり 手に斧を持っている。水引は綴錦の名手西山勘七作の唐子遊図、二番水引は萌黄(もえぎ)地龍文図に正面に壽を織り出し、前懸は岩牡丹胡蝶図(さわぼたんこちょうず)を中央に、左右に雲龍文様の三枚重ね、胴懸は真向龍文様、見送りは袋中上人請来(たいちゅうしょうにん)の朝鮮軍旗で、昇龍波濤文様の二枚重ねを紅地古金欄安楽庵裂(あんらくあんきれ)で縁取ったものと、中国明朝官工場で織られた金地唐美人園遊図と、それを昭和57年に復元新調した三種がある。欄縁の黒漆塗に高浮彫雲龍と輪宝文様の鍍金金具は見事である。平成20年には、浅葱色(あさぎいろ)と朱色の飾り房30本が復元新調された。宵山の7月23日には本山修験宗総本山・聖護院による護摩焚が行われます。 |
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・・・ | こま札 | 役行者山 |
上段中央の洞の中にご神体の役行者が経典と錫杖を手にして鎮座しており、左に一言主神、右に葛城神が鎮座します。 | ||
朱印も長蛇の列でござる!(>▽<;; | ビルの谷間に文化財級の町屋が軒を連ねているでござる〜(*゜▽゜)/! | |
京都らしい町並みでござるな〜(*゜▽゜)/えぇなぁ〜 | ||
黒主山(くろぬしやま/舁山) 中京区室町通六角通上ル烏帽子屋町 ☆地図 | ||
謡曲「志賀」に因み、大伴黒主が桜花を仰ぎ眺める姿が表されている。ご神体(人形)は寛政元年(1789年)5月に辻又七郎狛澄作の銘を持ちます。山に飾る桜の造花は、粽と同じく戸口に挿すと悪事除けのお守になると言われます。水引は雲龍文の繍珍(しゅちん)、前掛は伝萬暦帝御服(1989年に復元)、胴掛は百華文の綴錦、見送は宝暦14年(1764年)記銘の牡丹双鳳凰文綴錦(ぼたんそうほうおうもんつづれにしき)と紅地唐子遊図(べにじからこゆうず)の二種類が隔年交替で用いられる。なお、旧前掛の波濤飛龍図(はとうひりゅうず)は中国綴織。これは琉球最後の君主・尚寧(ねい)王が師にあたる京の袋中(たいちゅう)上人に献上した16世紀の織物で、現在京都国立博物館に保管されている明時代の貴重な品です。 |
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しかし、暑いな〜。。。(; ̄ー ̄川 | 黒主山 | こま札 |
駒形提灯と黒主山の絢爛豪華な装飾が見事でこざるな〜(*゜▽゜)/ | ||
浄妙山(じょうみょうやま/舁山) 中京区六角通烏丸西入ル骨屋町 ☆地図 | ||
平家物語の宇治川の合戦に因んだ山。治承4年(1180年)、宇治川の合戦に三井寺の僧兵・筒井浄妙が橋桁を渡り一番乗りをしようとすると、一来(いちき)法師がその頭上を飛び越え「悪(あ)しゅう候、御免あれ」と前に進み出て先陣をとってしまったという。御神体(人形)は一来法師が浄妙の頭上を飛び越える一瞬をとらえ、木片の楔(くさび)で一来法師の人形を支えている。黒漆塗の橋桁にも数本の矢が刺さり、戦の激しさあらわしている。かつては「悪しゅう候山(そうろうやま)」とも呼ばれていた。水引は波涛文の彫刻、胴掛には、ビロード織の琴棋書画(きんきしょが)を用いていたが、昭和60年から、新しく、長谷川等伯筆の柳橋水車図綴錦に変わりました。見送はこの町に住んでいた本山善右衛門の「かがり織」である。そのほか、浄妙坊が着用している黒韋縅肩白胴丸(くろかわおどしかたじろどうまる)は室町時代の作で重要文化財に指定されています。 |
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黒主山町会所も賑わっています!(*^-^*) | 浄妙山町会所 | こま札 |
駒形提灯と埒(らち)に囲まれていますが・・・浄妙山は未完成のようです。 | ||
筒井浄妙が橋を渡って一番乗りをしようとした時、一来法師がその頭上を飛び越えて先陣をとったという平家物語の一説に因んだ浄妙山 | ||
橋弁慶山(はしべんけいやま/舁山) 中京区蛸薬師通烏丸西入ル橋弁慶町 ☆地図 | ||
「くじ取らず」で、後祭の巡行の先頭(2012年〜くじ取らず)を行く。謡曲「橋弁慶」より取材、弁慶と牛若丸が五条大橋で戦う姿をあらわしています。弁慶は鎧姿に大長刀を斜に構え、牛若丸は橋の欄干の擬宝珠(ぎぼし)の上に足駄(あしだ)で立ち片足を曲げ右手に太刀を持っています。橋は黒漆塗で特に牛若丸の人形は足駄金具一本でこれを支えます。弁慶と牛若丸は永禄6年(1563年)、平安大仏師・康運(こううん)の銘を持ち、足駄金具は美濃国住人・右近信国の銘がある。前掛と後掛は、中国明時代の雲龍波涛文綴錦、胴掛の綴錦賀茂葵祭図は円山応挙の下絵である。水引は百児喜遊(ひゃっこきゆう)図の綴錦(つづれにしき)、後掛は龍文綴錦のものが用いられています。また、重要文化財指定の鎧「黒韋威肩白胴丸大袖付(くろかわおどしかたじろどうまるおおそでつき)」を蔵している。この山の人形組みの巧みさは浄妙山と共に山鉾のなかでも特別なものとして注目に値する。弁慶の手足にまかれた縄は心身壮健の願いを込め、宵山に授与される。 |
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烏丸通り・・・むっちゃ暑いな〜(; ̄ー ̄A | 蛸薬師通り | 橋弁慶山町会所 |
『おぬしの腰の刀を頂戴〜』鎧姿に大長刀を持つ弁慶と、『あっかんべ〜』右手に太刀を持つ牛若丸 | ||
橋弁慶山は、山建ての真っ最中でござる・・・ | ||
鯉山(こいやま/舁山) 中京区室町通六角下ル鯉山町 ☆地図 | ||
鯉山の起源は正しくは不詳ですが、室町時代後期の京都の姿をあらわした狂言「籤罪人(くじざいにん)」には 「毎年出る山」として趣向と町内が固定した山として登場しています。中国黄河の難所である龍門の滝を登り切って龍となった鯉が出世開運の神としてまつられたという中国の故事(登龍門)の言葉を表している山。御神体の木彫りの鯉は全長1.5mもある木彫の見事なもので、左甚五郎作と伝えられています。大きな鯉が跳躍し、龍門の滝を登る鯉の奔放な雄姿を表しています。 朱塗鳥居を立て、奥の祠に素盞鳴尊を祀ります。鯉山の象徴である木彫の鯉と波は江戸時代の名工・左甚五郎作と伝えられてきました。 近年の研究の結果、木片の材質調査から製作された年代を江戸時代前期と裏付ける結果が判明しました。鯉山の周囲を飾る毛綴(タペストリー)は、B・Bのイニシャルに依って、16世紀にベルギー(当時はブラバン州)のブリュッセルで織られた壁掛であることが判明した。元は1枚の壁掛から「見送」「胴掛」「前掛」「水引」が作られている。また、最近の調査により、この壁掛の図柄は、古代ギリシャの詩人・ホーマー作で、トロイ戦史を綴った叙事詩「イリアッド」物語の中のプリアモス王と后がゼウスの神に鳥占いを乞うという重要な場面を描いたもので16世紀の毛氈で重要文化財に指定されています。別に旧胴掛として更紗のものも保存されています。 |
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室町通り | こま札 | 鯉山 |
鯉山町会所 | 龍門の滝を登った鯉は龍になるという立身出世を意味する「登龍門」の言葉を表している鯉山 | |
大きな鯉が跳躍し、龍門の滝を登る鯉の奔放な雄姿をあらわし 朱塗鳥居を立て、奥の祠に素盞鳴尊を祀ります。 | ||
風鶴山か?!(>▽<;; おろっ | 見てるだけで楽しくなります・・・切子細工のガラス器がほしくなりました。(^^ゞおろろっ | |
八幡山(はちまんやま/舁山) 中京区新町通三条下ル三条町 ☆地図 | ||
町内に祀られている八幡宮を山の上に勧請したもので、 常には町会所の庭にお宮を祀っている。山の上の小祠は総金箔の美麗なもので天明年間(1781〜88年)の作と伝えます。八坂のお祭に八幡宮を山に祀っているのは不思議だが、当時から八幡宮信仰が厚かったということが伺えます。祭神は応神天皇像で夫婦円満を象徴する雌雄の鳩が向かい合って鳥居に止まっている鳩は左甚五郎作と伝える。水引は金地花鳥総縫仙園図唐織、前掛はかつて上下詩文と人物風景文の慶寿裂が用いられたが、現在は円山応祥下絵の飛鳩図綴錦に変わりました。胴掛は雲龍文の綴錦の継ぎ合せ、見送(みおくり)は日輪双鳳人物文蝦夷錦(えぞにしき)と藍地雲龍文綴錦のものとがある。欄縁(らんぶち)の彫金飛鶴は河原林秀興作と伝える。前面をかざる朱塗鳥居の上には木彫胡粉彩色の鳩がとまっている。そのほか、著名な美術品として海北友雪(かいほうゆうせつ)筆の祇園祭礼図屏風六曲片を蔵している。 |
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ほんまに。。。(;´д`)ゞあちぃ | 八幡山 | こま札 |
夫婦円満を象徴する雌雄の鳩が向かい合って鳥居に止まっている。 | ||
八幡山町会所も大賑わい(; ̄ー ̄A | 立派な鉾のように見えますが、曳き山の北観音山 | |
北観音山 (きたかんのんやま/曳山) 中京区新町通六角下ル六角町 ☆地図 | ||
「上(のぼ)り観音山」ともいわれ、「くじ取らず」で、後祭の巡行で橋弁慶山に次いで二番目を行く。山の上には楊柳観音像(ようりゅうかんのんぞう)と韋駄天立像(いだてんりつぞう)を安置する。もと舁山(かきやま)であったものを後に曳山(ひきやま)に改め、その名残りとして真木には松の木が立てられている。真木の代わりに立てる松の木は、毎年鳴滝から2本届けられ、南観音山と北観音山の代表がクジを引いて良い方の松を選ぶ。松に飾られている鳥は尾長鳥なのだが、尾が短くなってしまったため鳩のように見える。 破風(はふ)の彫刻は天保4年(1833年)、片岡友輔(かたおかゆうほ)の作で、上水引、下水引は雲龍文(うんりゅうもん)及び人物風景の巧緻(こうち)な刺繍である。胴掛はトルコ花文の緞通が用いられ、天水引は観音唐草と雲龍図を各年に使用。見送(みおくり)は雙鳳群児文(そうほうぐんこもん)の綴錦であり、欄縁(らんぶち)などの錺金具(かざりかなぐ)の精巧さと絢爛さは一層この山を華麗なものとしている。巡行時には見送の横から観音懺法(かんのんさんぽう)の主旨にちなんで大きな柳の枝をさし出している。 |
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こま札 | 松に飾られる鳥は尾長鳥なのだが、尾が短くなってしまったため鳩のように見えるとか(>▽<;; | |
曳き山ですが、鉾のように立派でござる〜(*゜▽゜)/ | 屏風などお宝をご開帳されてるいるでごさる・・ | |
冷たいビール飲みてぇ〜(^^ゞおろっ | おぉ〜!!新町通りに聳える様な南観音山〜!\(●⌒∇⌒●)/ | |
南観音山町会所 | くまもんグッズでござる〜(^▽^;) | 山鉾のミニチュア・・お値は万単位!(>▽<;; |
南観音山(みなみかんのんやま/曳山) 中京区新町通錦小路通上ル百足屋町 ☆地図 | ||
「下り観音山」ともいわれ、「くじ取らず」で、後祭の巡行の6番目を行く。江戸時代は北観音山と隔年交代で巡行していたが、明治以来毎年出ることになり、後の祭の山鉾巡行の最後をしめくくる曳山でした。本尊・楊柳(ようりゅう)観音は、悠然と瞑想をする鎌倉時代の座像ですが、天明の大火に罹災し頭部だけが残り、他の部分は後の補修である。そのため、像は宝冠をかぶりながら坐像という型になってしまっている。脇侍(わきじ)には善財童子(ぜんざいどうし)を配し、 諸病を防ぐといわれ巡行には柳の大枝を差し四隅に木彫薬玉をつけます。真木の代わりに立てる松の木は、毎年鳴滝から二本届けられ、北観音山と南観音山の代表がクジを引いて良い方の松を選ぶ。真松の下枝には「尾長鳥」が止まっている。水引の舞楽図刺繍は土佐光孚(とさみつたね)の下絵で、前掛は異无須織(いむすおり)と伝える華麗なペルシャ絹緞通(だんつう)の逸品である。また胴掛にはペルシャ花文の緞通が用いられている。そのほか孔雀草花文インド更紗(さらさ)や貞享元年(1684年)在銘の花文インド更紗なども保存しています。見送は中国明時代の雲中青海波文(うんちゅうせいかいはもん)の綴錦です。 |
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こま札 | 一見、立派な鉾のように見えますが、北観音山と同じく曳き山の南観音山 | |
朱印や山搭乗など猛暑の中、長蛇の列。。。(>▽<;; | ||
間近で見る南観音山も圧倒されるでござる〜(@_@;) | 山鉾は埒(らち)で囲まれている。 | |
鉾町は見物人で溢れています。(+_+) | おろっ?!酒鉾か?!酒山か??(^▽^;) 元気が出たでござる〜?!(≧▽≦)ぷっ | |
2014年に町衆の尽力によって奇跡の復活! 大船鉾(おおふねほこ/鉾) 下京区新町通四条下ル四条町 ☆地図 | ||
大船鉾の起源は、四条町では「祇園社記」の記事に基づき、嘉吉元年(1441年)の建立されたと伝えます。「康富記」の記述から、応永29年(1422年)に既に存在したという説もあります。何れにしても応仁の乱以前からの古い歴史があります。元治元年(1864年)の蛤御門の変により一部を残し焼失。平成24年(2012年)に、御神面を入れた唐櫃(からひつ)による特別な形で、山鉾巡行に復帰し「くじ取らず」で、後祭の山鉾巡行のしんがりを行きます。前祭の船鉾が出陣船鉾と称されるのに対し凱旋船鉾といわれ、 幕末の禁門の変で焼失して以来の復興を図り、めでたく平成26年(2014年)に150年ぶりに巡行に復帰します。新町通りの綾小路を挟んで南の船鉾は前の祭、北の船鉾は後の祭に巡行したので、二つの船鉾が同時に巡行しなかったので江戸時代以降は共に船鉾と呼ばれました。大船鉾が焼失して居祭りになってから凱旋の船鉾と呼びました。 |
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今年の祇園祭最大の話題と注目!大船鉾の復活〜!\(●⌒∇⌒●)/ | こま札 | |
今年の祇園祭最大の話題!150年ぶりに復活した大船鉾の鉾町は押し寄せる大波のような人並みでござる〜!(@_@;) おろろっ | ||
休み鉾となり150年間が経った今年、三度目の復活でごさる!新造船らしく、杉のいい香りがしていたでごる!\(●⌒∇⌒●)/ | ||
元治元年(1864年)の蛤御門の変により焼失。平成24年に、御神面を入れた唐櫃(からひつ)による特別な形で、山鉾巡行に復帰した。 | ||
「くじ取らず」で、後祭の山鉾巡行の最後を行く。平成26年の後祭で150年ぶりに巡行に復帰します。 | ||
威風堂々な南観音山!(*゜▽゜)/ | 四条通り | 八坂神社(祇園社)へ・・・ |
八坂神社御旅所(祇園御旅所/四条御旅所) 下京区四条通寺町東入ル貞安前之町 ☆地図 | ||
御旅所は古くは、大政所御旅所・少将井御旅所の2ヶ所があったが、天正19(1591年年)に豊臣秀吉の命により四条京極一ヶ所に移転した。明治45年(1912年)、四条通りの拡幅に伴い現在の姿となった。毎年7月17日の神幸祭に八坂神社から三社(中御座:素戔嗚尊 (すさのをのみこと)/東御座:櫛稲田姫命 (くしいなだひめのみこと)/西御座:八柱御子神 (やはしらのみこがみ)の神輿が渡御し、24日の還幸祭まで留まります。 |
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四条寺町にある八坂神社御旅所(祇園御旅所/四条御旅所)・・・三社の神輿が鎮座しています。(*゜▽゜)/ | ||
神輿は、前祭で渡御し後祭で八坂神社へ帰ります。 | 鴨川の流れ | |
日本最古の劇場と言われる南座 ☆地図 直美さんやっ!お元気そうでご活躍!もしもし〜(^▽^;) | 友達の京扇子店でござる〜(*゜▽゜)/ご贔屓に! | |
祇園社(八坂神社) ☆地図 | ||
創建は甚だ古く、諸説多く明らかでないが、斉明天皇2年(656年)2月、我が国に来朝した高麗の調進副・伊利之使王(いりしのおおきみ:八坂氏祖)が朝鮮の牛頭山(ごずやま)に祀る素戔嗚尊(すさのおのみこと)の神霊を移し、子孫代々当社の祀官として奉仕したと伝える事から初め、八坂氏の氏神として創祀されたと思われます。天智天皇の御世、社号を感神(かんじん)院と名付けられ、以来、明治元年(1868年)、八坂神社と改める迄、この社号を用いました。平安初期の貞観年中に僧・円如が播磨国広峰より牛頭天王を勧請し下河原の地に一宇を建てて祇園天神社と号し、朱雀天皇の承平4年(934年)に、傍らに薬師堂を創建し観慶寺と号し、別に祇園寺とも呼んだ為に甚だ紛らわしくなりました。その後、八坂氏が哀徴するに及び中世には、感神院は延暦寺の別院となり、祇園社は日吉の末社となり叡山の僧徒が神輿を奉じて朝廷へ強訴する基地になりました。当社は古来、疫病除けの神として朝野の崇敬篤く、延喜式外社ではあるが、二十二社の内に列せられました。神領は60余ヶ所の多きに及んだが、明治の神仏分離令にあたり寺院を廃し神社のみ残った旧官幣大社です。 |
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祇園と言えば・・・花見小路 | 祇園祭が行われている八坂神社(祇園社) | |
祇園石段下 | 縁結びのパワースポットで人気の大国主社は縁結びの神様・・・大国主命と白うさぎ | |
祇園蛭子社 | ふれあい蛭子さまっ! (-人-) 蛭子さま、頼んます! なでなで。。。(^^ゞ | |
境内 | 八坂社のご朱印を頂きました〜!(^-^)v | 祇園祭限定朱印と厄除け粽もゲット!(^-^)v |
拝殿、本殿 | 本殿・・・参拝しました。(-人-) | |
美のパワースポット! 美容水 |
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美人の誉れ高き市杵島比売命(イチキシマヒメノミコト)、多岐理毘売命(タキリヒメノミコト)、多岐津比売命(タキツヒメノミコト)の宗像三女神を祀られており、近年は美のパワースポットとして女性に大人気です!綺麗になるということで・・・美容水で顔など肌を濡らしました!(^-^)v |
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・・・ | 身も心も美しくなるという美容水(飲用不可) | 美のパワースポット! 美御前社(うつくしごぜんしゃ) |
忠盛燈籠 | ||
解説によると永久年間の頃(12世紀)、白河法皇が祇園女御の許に赴かれようとしてこのあたりを通られた時、折しも五月雨の降る夜で前方に鬼のようなものが見えた。法皇は供の平忠盛に射取ることを命じたが、忠盛は正体を見定めての上とこれを生捕りにしたところ、油壺と松明とを持ち燈籠に燈明を献ろうとしていた祇園の社僧であった。雨を防ぐ為に被(かぶ)っていた蓑(みの)が灯(ともしび)の光を受けて銀の針のように見えたのであった。忠盛の思慮深さは人々の感嘆するところであったという。この燈籠はその時のものといわれている。 |
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悪王子社の祭神は「素戔嗚尊の荒魂」 | 忠盛灯篭 | 忠盛灯籠のこま札 |
祇園社乱闘事件 |
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久安3年(1147年)6月15日、祇園臨時祭の夜に平清盛は宿願の成就を祈って、田楽を奉納しようとした。田楽の集団には平氏の郎党が護衛として同行したが、祇園社の神人に武具の携行を咎められたことから小競り合いとなり、放たれた矢が宝殿に突き刺さり多数の負傷者が発生する騒ぎとなった。 |
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祇園社乱闘事件のこま札 | 祇園の名水・ご神水 | 祇園界隈の観光マップ |
日本書紀千三百年 | 古事記千三百年 | 境内 |
南楼門(正門) | 都名所図会拾遺に記される二軒茶屋 中村楼 | 祇園社一の鳥居(八坂神社正門) |
東大谷(大谷祖廟) ☆地図 | ||
浄土真宗宗祖・親鸞聖人の遺骨を安置する。慶長7年(1602年)、東西二派に分かれた本願寺は祖廟を本山の東北隅に築いたが、承応2年(1653年)、徳川家綱が今の地を寄進したことで当地に移転してから東大谷とと言った。本堂は元禄17年(1704年)の造営になり、本尊・阿弥陀如来像を安置する。祖廟は本堂の東方山腹にあって、墳は長方形で全て花崗岩で畳み、その上に親鸞寵愛の虎石を置く。その他に楼門、鼓楼、鐘楼、書院、納骨所がある。 |
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えぇなぁ〜(*^-^*) | 東大谷(大谷祖廟) | |
山門 | 全景図 | 境内 |
境内 | 本堂 | |
親鸞聖人御廟へ | 親鸞聖人御廟 | はいっ!忘れません?!(^^ゞ |
祇園女御と祇園女御塚 | ||
祇園女御・・・白河法皇の寵妃(ちょうひ)。蔵人(くろうど)源仲宗(なかむね)の妻とも宮廷に仕えた女房とも伝えるが、姓氏は不詳です。京都祇園に住まいしたので祇園女御とも白河殿とも呼ばれた。『今鏡』が「三千の寵愛、ひとりのみなり」と記すように、白河法皇の寵を一身に集め、『平家物語』では懐妊した女御が平忠盛に下されたのが清盛だと伝える。しかし滋賀県胡宮(このみや)神社文書によって、清盛の生母は女御の妹で、保安1年(1120年)、清盛が3才の時に没したので、女御の猶子(ゆうし)として養育されたとする説が有力である。崇徳(すとく)、後白河両天皇の母・待賢門院(たいけんもんいん)藤原璋子(しょうし)も女御の猶子となっている。祇園女御塚・・・源平盛哀記によると白河法皇が祇園感神院(八坂神社)へ参詣された時、道の辺に美しい女が御行を拝するのを見つけた。還御の後、宮中にお召しになり常に玉体に近づき参らせた。その後、祇園社の巽(東南)に御所を作り住まわせたので世に祇園女御と言ったと伝える。祇園女御は後に平忠盛の後室となり清盛を生んだと伝えるが出所生没は不詳です。古来、当地は触ると祟りがあると言われ久しく空き地のままだったが、近年に祇園寺が建ち地蔵堂も姿を消し、塚の面影はない。一説には、この辺りに三条天皇中宮・藤原研子、一条天皇中宮・藤原彰子の火葬地があったとも伝えるが真否は定かでない。京都御所御苑内(堺町御門西入)に斉祀される厳島神社に祇園女御を祀っています。 |
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祇園のシンボル祇園鉾?(^▽^;)祇園閣です。 | 祇園女御塚(祇園寺) | 解説 |
祇園石段前のコンビニは、かつて新撰組が池田屋騒動で集結した祇園会所があった所 | 祭りといえば・・・(^^♪ | |
忠臣蔵で知られる一力茶屋 | ・・・ | |
祇園のメインストリート・花見小路から一筋、二筋と路地に入ると・・・ | ||
広い道ばかり歩いていると見つからない、お茶屋さんなど祇園らしい町並みに出会えますえ〜(^-^)v | ||
祇園をあとに・・・しかし、(;´д`)ゞあちぃ | 京阪・祇園四条駅 | 丹波橋駅 |
Tourist.2014.07.21(M) |
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