洛南、洛西花めぐり
乙訓の 都は狭き 夏野かな 木母庵
鳥羽水環境保全センター(鳥羽の藤)〜乙訓寺(ボタン)
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鳥羽の藤(120mの藤棚回廊)〜鳥羽水環境保全センター〜 |
公開エリア(975u)には、2種(ヤマフジ、ノダフジ | 3品種:シロカピタン、ナガフジ、シロバナフジ)37本の藤が植栽されています。・・・鳥羽水環境保全センターでは、市民に親しまれる『藤の名所』として、平成13年から春の一般公開を行い藤棚を公開しています。せせらぎ広場からグリーンアドベンチャーにかけて咲く藤の散策を楽しめます。※平成3年、福島県白河市から苗圃で10m程に成長したノダフジ33本を取り寄せ、グリーンアドベンチャー内に植栽され120mの見事な藤棚回廊となっています。 ☆ヤマフジ:花が大きく香りが強いが花房は10〜20cmと短く、葉はやや厚みがありツルは上から見て左巻き。ノダフジと比して開花が早く見応えがある。別名:花美短(カピタン)ち呼ばれ、主な種類は白花美短(シロカピタン)、紫花美短(ムラサキカピタン)、アケボノ花美短(カピタン)などがある。公園内には、シロカピタン2本が植栽されている。☆ノダフジ:ツルは上から見て右巻きで花は小型ですが花房は長く20〜60cmですが、中には九尺藤と言って2m近いものもある。一品仕立て、鉢植えもできるがツルが伸びやすいので棚作りに向き、古来各地に藤の名所や銘木がある。公園エリアでは、ナガフジ:29本、シロバナフジ6本の2品種が植栽されています。 |
鳥羽水環境保全センター ☆地図 | ||
昭和14年4月に稼動開始され敷地面積:460,460u、処理能力(平成22年度末現在):914,000㎥/日という下水処理場として京都市最大の規模で、全国有数の処理能力を有しています。また、施設の改築更新に合わせて高度処理の導入に努めています。吉祥院水環境保全センターと伏見水環境保全センターの汚泥も、ここで処理されています。毎年、GW(例年4月下旬)に、120mの藤棚の回廊とともに施設の一般公開があります。 |
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今年も鳥羽水環境保全センターの春の一般公開にやってきたでござる!(*゜▽゜)/おろっ | ||
せせらぎ広場 | ||
手入れの行き届いた見事な庭園をゆっくり回遊します・・・\(●⌒∇⌒●)/ | ||
グリーンアドベンチャーの藤棚と芝桜のコラボが美しい!\(●⌒∇⌒●)/ | ||
120mの藤棚の回廊めぐりをお楽しみください!(*゜▽゜)/ | ||
普段は見れない下水処理施設(最初沈殿池〜反応タンク)も少しだけ見学できました!(*゜▽゜)/ | ||
鳥羽水環境保全センターをあとに・・・ | ||
乙訓寺(おとくにじ) ☆地図 | ||
大慈山と号する真言宗豊山派寺で推古天皇の勅願により聖徳太子の開創と伝わる乙訓地方最古の寺で境内には2000余株のボタンが植えられ4月下旬には華麗な大輪を咲かせ世にボタン寺とも称されています。境内から奈良時代の遺瓦を出土する為、延暦遷都以前に寺院があった事が想像されます。「水鏡」によれば延暦4年(785年)、皇太子・早良(さわら)親王は淡路島に配流される前に当寺にしばらく幽閉されたとされます。弘仁2年(811年)、弘法大師が当寺の別当に任ぜられ鎮護国家の道場となり、宇多法皇が脱履の始め当寺を行宮とされたので一に法皇寺とも号しました。弘法大師がこの寺に在住している時、伝教大師・最澄がこの寺を訪れて真言について教えを乞うたとも伝えられています。中世には禅宗南禅寺派となり応仁元年(1467年)〜文明9年(1477年)、応仁の乱の兵火により焼失衰微しましたが元禄6年(1693年)、徳川綱吉の生母・桂昌院の援助により再び真言宗として再興しました。本堂に安置される本尊合体大師像は弘法大師と八幡菩薩の合作と伝わり毘沙門堂には毘沙門天立像(重文:藤原期)を安置し明応2年(1493年)の修理銘を墨記した狛犬(室町期)が一対あります。★中世を延暦13年(794年)、平安京遷都〜慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦い迄の時代範囲としています。 |
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薬医門(乙訓寺) | 乙訓八景の一「ぼたんの乙訓寺」 | |
奈良・長谷寺から取り寄せた二株のボタンが始まりと伝える二千余株のボタン | ||
長岡京を廃して平安京へ遷都させた早良親王(さわらしんのう)の怨霊 | ||
早良親王は、奈良時代末期〜平安時代初期の皇太子。父は光仁(こうにん)天皇、母は贈皇太后・高野新笠(たかののにいがさ)、同腹の兄弟に桓武天皇、能登内親王がある。母は百済(くだら)系の卑母であったので、若いとき奈良の寺に入れられた。藤原百川(ももかわ)らの努力により光仁天皇が即位すると、親王となり、兄が桓武天皇となると、父の希望により皇太子にたてられた。天皇は大事は自分で決したが、平常の事務は皇太子と百川の甥・藤原種継(たねつぐ)にゆだねた。長岡造宮のことが進むと、皇太子と種継の仲がしだいに悪くなっていった。皇太子の役所の長官・大伴家持(おおとものやかもち)が死ぬと、大伴氏の若人や皇太子の役所に仕える人々が、延暦4年(785年)9月種継を暗殺した。天皇は大いに怒り皇太子を廃し、乙訓(おとくに)寺に幽閉し、ついで淡路島へ流した。無実を訴える廃太子は自ら飲食を絶って抗議していたが淡路島へ配流される途中の高瀬橋(大阪府門真市付近)で絶命した。のち多々と起こる怪奇な出来事は早良親王の怨霊と恐れた天皇は、廃太子に崇道(すどう)天皇の号を贈り、奈良南方の奈良市八島町に八嶋陵を改葬した。また京都市の上御霊神社にも祀りました。 |
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悲運の早良親王(さわらしんのう)供養塔 | 解説パネル | |
仏石塔 | えぇなぁ〜 (@^▽^@) | |
ボタンは直射日光、風雨に大変弱く日傘など大切に育てられている。 | 乙訓寺 | |
方除けの社・城南宮 | 諸病治癒と若返りの名水・菊水若水 | 巫女さんたちが神事を務めてます?! |
Tourist.2014.4.28(M) |