古都の桃源郷・原谷

 

散る花を 惜しむ心や とどまりて また来む春の 誰になるべき  西行法師

 

壇ノ浦の戦いで源氏に敗れた平家の落人が開村したと伝える原谷(はらだに) 地図

原谷・・・京都市北区大北山原谷乾(おおきたやまはらだにいぬい)町を中心とする地域の名称。古代より葬送の地として知られる蓮台野(れんだいの)、衣笠山、宇多野と呼ばれた山野の外側にある原谷地域は、京都の中心からほど近くに位置しながら、歴史の表舞台に登場することはなかった。当地で祀られる「原谷弁財天」の縁起には、 壇ノ浦の戦いに破れた 平家が、都に近い当地に落ち延びた旨を記載し、その後400年の間に水田8反歩(約7,933m²)、畑3町歩(約29,752m²)を開墾したものの、後に住民が次々と離れ、過疎地帯になったと伝えている。京野菜で著名な辛味大根は、原谷大根と呼ばれており、元禄年間(1688年〜1704年)までに、当地で栽培されていたとされる。当地は近世までは葛野郡大北山村の一部であったが、明治22年(1889年)に周辺各村が合併し衣笠村の一部となった。同年に発行された陸軍部測量局「明治京都中部実測図」では、衣笠山官有地の北方に、鷹峯、宇多野、そして金閣寺西側へ伸びる小道とともに字原谷の文字が記載されている。なお、この地図を含め、昭和初期までに発行された地図からは、当地内に集落の存在を確認することはできない。先の縁起には、明治初期以降「恐慌と不便さのため、(中略)70年間、人の住まない山林と化した」と記されている。大正7年(1918年)に京都市上京区に編入されるも、民有地ながら手入れされない状況は変わらなかった。太平洋戦争の激化に従って山林の一部が乱伐されながら、昼なお暗い山林と化し、原野が広がるばかりの状態であったと伝える。入植と開拓農協・・・昭和20年(1945年)に太平洋戦争が終結。在外日本人約600万人が帰国することとなり、彼らを国土へいかに収容するかについての計画が必要となった。国民の食糧確保が内政上の最緊急課題とされ、耕地の量的拡大による食糧増産および戦地からの引揚者の帰農を図るために、11月に緊急開拓事業実施要領が閣議決定された。この要領に従って、京都府が当地を開拓農地として選定し、国が不在地主の土地を買い上げることとなった。しかし、すべてが民有地であったため、買収は難航。当初計画の約80余町歩(約0.8km²)は困難となり、入植時は約30余町歩(約0.3km²)に留まった。その後、時間をかけて所有地主の理解と協力を得ながら、追加買収を進めることとなった。それでも、一世帯当たり農地1.5haや宅地180坪が割り当てられる計算で、食糧難の時代に行き場を探していた引揚者にとっては「御の字」ともいえる条件ではあった。昭和23年(1948年)、洛北開拓農業協同組合(開拓農協)が設立され、満蒙開拓青少年義勇軍京都第三中隊長の前原関三郎を組合長として、開拓計画を策定。19世帯が入植した。地域内外を結ぶ幅員4mの幹線道路は全額国庫で敷設されたものの、入植者たちは木を伐採し、直径50cm近い切り株を一日に一、二株ずつ取り続けた。それが終わると家の建築、井戸掘り、畑の開墾を同時並行で進めた。家が建つまでは、どの入植者も自宅から通いながら作業を続けた。昭和24年(1949年)に開拓農協事務所が落成し、換金かつ栄養確保のため、畜産動物の導入と、野菜栽培を軸とした営農計画を策定。しかし、苦心して畑を開墾するも、 酸性度の強い土壌のために、種すら取れない状況が続いた。また、仔豚を購入して豚舎を急造するも、その年の秋には豚肉相場の暴落で、価格は購入時の3分の1にも満たず、多くの組合員が失意のうちに養豚に見切りをつけたという。それでも土づくりのため、開墾と酪農を続けざるを得なかった。昭和25年(1950年)5月より、その後の建設事業について、京都府の失業対策事業で行われることが決定。連日100名を超える作業員に支えられ、幅員2、3m前後の支線道路や山腹水路、排水路が次々と設けられることとなった。同年12月には当地内に待望の電気が開通した。京都市内にありながら、当初は電気も水道も通じておらず、まして開拓に必要となる初期投資さえも得ることができなかった中で、入植者は困難を極めつつ、荒地の開墾や居住地の譲受、そして農地開発のための基盤整備を進めていった。入植者の子供たちも、家畜の飼料を得るために、毎日のように峠を越えて魚屋などを巡ったという。1950年代の写真や映像記録などからは、養鶏、養豚、果樹園や、畑を歩く牛と酪農設備などの営農風景が映し出されている。この頃にようやく農地が完成し、酪農や養鶏も本格化。市内の農家の中でも高い収入を得られるようになったとされる。昭和37年(1962年)に、就労延べ人員90万人超、事業費3億7,887万円に達した失業対策事業は完了することとなり、地域内の道路、水路、広場などの施設は、開拓農協に有償で引き渡された。開拓農協解散へ・・・居住環境に改善がみられることで、昭和40年(1965年)頃から、徐々に一般住宅の建設が増加し始めた。昭和46年(1971年)に市街化区域に指定され、2年後に都市計画上の原谷特別工業地区に指定されると、西陣織の職人やマイホームを求める人たちが次々と引っ越してきた。さらに、昭和51年(1976年)に上水道の給水と京都市営バスの(M1系統・原谷線)運行が開始され、地域内の既耕地が急速に居住地に変わるなど、地域内各所で宅地開発、住宅建設が顕著に見られるようになった。さらに、1980年代のバブル景気が入植者の代替わりの時期とも重なった。酪農施設に対する臭いや鳴き声などの苦情が相次ぐ中、入植以来携わってきた農業を止め、相続税対策を兼ねた分譲やマンション建設、貸工場経営などへ転業する動きが進んだ。平成に入り、平成9年(1997年)に市道衣笠緯40号線(氷室道)の拡幅改良工事、平成13年(2001年)に下水道の敷設工事がそれぞれ完了したことで人口増のピークを迎えた。平成20年(2008年)、ほぼ完全に京都市中心部へのベッドタウンと化した今日、町づくりの役割を終えた開拓農協は解散総会を行い、初代組合長・前原関三郎の子である、開拓農協最後の組合長・前原英彦が府に解散申請を届け出て、60年に及ぶ開拓史に幕を下ろした。ただし、開拓農協が所有していた財産(袋小路の道路11か所)の一部は「公共性が低い」とされ、京都市への移管を拒まれたままで、今日に至るまで処分が確定していない。現状は開拓農協解散と同時に設立された認可地縁団体に所有権を移転し、地域で補修などの維持管理を実施する体制が採られている。  ※By wikipedia

御香宮(開運・安産・厄除けの神) ☆地図

縁起には諸説があり社伝によれば貞観4年(862年)9月9日、境内に清泉が湧き出し水が芳しく四方に香り病者がこの水を服用すれば病気がたちどころに癒ゆるといわれ、これに因んで御香宮と称し地名も石井郡(紀伊郡)と称したと伝えています。又、御香宮は、旧伏見町の産土神(うぶずながみ)として古来から最も信仰されている洛南屈指の大社です。筑前国糟屋郡(福岡市香椎(かしい)町)にある香椎宮(祭神・神功皇后・仲哀天皇)を勧進し御香椎の椎を略し御香宮となったという説が、あります。"延喜式に記す御諸(みもろ)神社"であると言う説もあります。御諸(みもろ)とは、森と同義で神の鎮座する森をいい神の降臨する山や森を神格化したものを御諸(みもろ)神社と言います。豊臣秀吉は、征韓の役に際し肥前長光(重要文化財)の名刀を戦勝祈願時に奉納し今も社宝とされています。伏見城築城に際し深草大亀谷に移され城惶神(伏見城の鬼門除けの守護神)とし社領300石を寄進されました。その後、慶長10年(1605年)に徳川家康によって現在地に移され、徳川御三家(尾張・紀伊・水戸藩)藩祖と2代将軍・秀忠の娘(千姫)らが伏見で誕生し、御香宮を産土神(うぶずながみ)として社領も豊臣秀吉同様の深草地方など300石が、与えられました。豊臣秀吉、徳川家康を始めとし特に徳川御三家藩祖らが特別の崇敬を払った洛南最大社です。

大鳥居のある大手筋通り 水戸藩々祖・徳川頼房寄進の表門(伏見城大手門) 中国二十四孝の故事に因んだ蟇股
境内 えぇなぁ〜(*^-^*) 伏見義民事跡
桃山天満宮 もっと賢くなりますように?・・(*≧m≦)ぷっ=3 芭蕉、去来の歌碑
伏見城の石垣に使われていた伏見城残石 竹田街道にあった車石 金札宮創建伝承に出てくる白菊石と歌碑
伏見戦石碑 解説 伏見城の車寄せとも伝える拝殿
拝殿 本殿
「名水百選」に選ばれた石井(いわい:御香水) 絵馬堂 有名な猿回しの絵馬
天然記念物「蘇鉄:ソテツ/伏見区民の木」 神鑒(かん)静井(石井)と御香水碑 えぇ感じやな〜(*゜▽゜)/
えぇなぁ〜(*゜▽゜)/おろろっ
常盤井の枠石が転用された弁財天社の石橋
えぇなぁ〜(*゜▽゜)/おろろっ
造園家としても世に名高かった伏見奉行・小堀遠州が絶賛した五色散り椿をおそらく椿という。
大手筋通り 伏見百景の菜の花と酒蔵
三栖公園グランドの桜も美しい〜!(*゜▽゜)/ 原谷へ・・・
ガイドブックに載らない原谷苑の入苑料は花の咲き具合で変動する時価相場?!ちなみに今日は満開の見ごろなので平日Maxの1200円でした。
京都で最後まで花見が楽しめるという夢の天国さくらの園・原谷苑 地図

例年、3月下旬〜4月下旬にかけて二十数種の桜を中心に椿・日向みずき・吉野ツツジ・馬酔木・木瓜・雪柳・レンギョウ・山吹・石楠花・桃ほか色々な花が楽しめることで知られます。
【昭和 初め】
花の好きな二代目が、鷹峯土天井町(松野醤油店の北側)に梅・桜・紅葉などの樹木を植え農園を創めるが、加賀前田公爵の別荘を建てたいとの要望によりその地をお譲りしたため、何処かに花を植える場所が無いかと探していたところ、原谷開拓団の方からお話があり現在の村岩農園の所在地を得ることとなった。
【原谷開拓団】
終戦後、満州から引き上げてこられた方々が国より山林とは言え京のゴミ捨て場状態の荒地の開墾を命じられ、開拓団として入植されたが、火葬場の裏山でもあり余りの辺境さに一夜にして逃げ出された家族もおられたし、残って開拓に一心不乱に取り組まれた方々も果樹園や農園、牛の放牧や養鶏等にも取り組まれたのですが,中々開拓の成果も上がらず、困り果てた方よりお話が有り原谷乾町の一角を譲り受ける事と相成りました。その際、阪急電鉄から原谷全地域を譲り受け第二の宝塚化計画の話も持上がっていたが、開拓団の都合により立ち消えになりました。
【昭和60年頃〜】
三代目・巌が、山で手入れし育てていた北山台杉を植木販売用に園内に植え込みました。この頃は、台杉の販売も順調でしたが、スギ花粉症の影響で売れ行きが落ち込みます。実際は、差し穂で育てた白杉の台杉は、花が付かないし花粉も出ないのですが。又、この頃から入重紅枝垂れ桜が弱ってきたので、大きく成り過ぎた関山等の人重桜を切る。台風や干ばつで枯死した木の植え替えを順次行う。
【平成元年頃〜】
四代目・浩司が中心になり、土壌の養分が無くなって来ているので土の入れ替えを順次始める。土場の改良で新しい品種の草木(山吹・つつじ・林檎・石楠花・ミズキ・桃・沈丁花・木瓜等)を植始める。  ※原谷苑パンフ引用

上も下も色とりどりの花尽くし!花に埋もれるってこんな感じや〜(@_@;)
まさに百花繚乱や〜\(●⌒∇⌒●)/
メインの八重紅しだれ桜、一重の山吹・木瓜・花海棠・しだれ桃・利休梅なども綺麗に咲いて見事!
ここからは、映画・細雪のロケ地にもなった見事な百花繚乱をお楽しみください。(*゜▽゜)/
写真や言葉では表現できないけど・・・原谷苑は、桃源郷?花園?極楽浄土?百花繚乱?
埋もれるような花々のパワーに圧倒され花酔いしたような・・・(*´ο`*)=3ホッ
原谷弁財天

縁起によると、文治2年(1186年)、壇ノ浦の戦いで源氏に敗れて落ち延びた平家一門が当地の坤方向(北西)に弁財天を祀り、「戦いの神」として信仰したとされる。明治以降、当地の深刻な過疎化で、一端は仁和寺へ遷座されたものの、昭和26年(1951年)に近隣の民家へ出迎えた。昭和53年(1978年)に流造の新社殿が落成し、大護摩供養、遷座祭を実施され再び当地の氏神として祀られることとなった。本殿後方には「白龍大神」が祀られている。10月の第三日曜日に当社例祭が行われる。境内でフリーマーケットが開催される中、前夜から2日間にわたり、地元住民による花笠踊りや、太鼓、獅子舞による奉納が行われる。

落ち延びた平家一門が原谷の坤方向(北西)に祀ったのが始まりと伝える原谷弁財天

白龍大神

仁和寺を通過。。。 ヤマツツジか綺麗やな〜\(●⌒∇⌒●)/
               見事に咲き乱れている槙尾山(西明寺背後)の山ツツジ \(●⌒∇⌒●)/ Wonderful!! (・_・)☆ヾ(^^ ) 欧米か?!
Tourist 2014.04.14(M)

 

関連コラム

花萌える古都の隠れ里・原谷

花萌える古都の隠れ里・原谷

花萌える古都の桃源郷・原谷

花萌える古都の桃源郷・原谷

花燃ゆる初夏の古都

花燃ゆる初夏の古都

川端康成の小説『古都』の舞台、北山杉の里・中川

川端康成の小説『古都』の舞台、北山杉の里・中川

遅咲きで知られる名勝・御室桜を訪ねて仁和寺へ

遅咲きで知られる名勝・御室桜を訪ねて仁和寺へ 三尾(高雄(尾)、槙尾まきのお、栂尾とがのお、)華街道散策06年 三尾(高雄(尾)、槙尾まきのお、栂尾とがのお、)華街道散策06年

三尾(高雄(尾)、槙尾まきのお、栂尾とがのお、)華街道散策

三尾(高雄(尾)、槙尾まきのお、栂尾とがのお、)華街道散策

きぬかけの道散策(Pちゃんズ)

きぬかけの道散策(Pちゃんズ)

千代の古道(ふるみち)嵯峨の里散策

千代の古道(ふるみち)嵯峨の里散策

成就山「御室八十八ヶ所」スライドショー

成就山「御室八十八ヶ所」(スライド)

 

戻る 洛雅記2014年探訪メニュー

 

inserted by FC2 system