荏胡麻油で栄えた大山崎
待つ宵に ふけゆく鐘の 声きけば あかぬわかれの とりはものかは (新古今和歌集 巻第十三)小侍従
明治天皇桃山御陵、昭憲皇太后桃山東陵〜乃木神社〜御香宮〜宝積寺(宝寺)〜観音寺(山崎聖天)〜離宮八幡宮
かつて日本最大規模の油座で栄えた大山崎・・・油祖離宮八幡宮と荏胡麻(えごま)油 |
離宮八幡宮は日本における製油発祥の地であり、日本唯一の「油の神様」として親しまれています。かつて日本で油といえば、荏胡麻(えごま)油が主流でした。油は、主として照明用の灯油として用いられ、灯油の最大の需用は寺社の灯明用でした。江戸時代に菜種油が普及するまでは日本で植物油と言えば、この荏胡麻(えごま)油で、山崎には、大山崎油座という鎌倉時代〜戦国時代にかけて、山崎地域で荏胡麻(えごま)油を、原料の仕入れから製油・販売までを独占して販売し発展していた油座がありました。しかし、戦国期の織田信長の楽市・楽座の制によって山崎の油業は衰退していきました。 |
京阪・伏見桃山駅 | 近鉄・桃山御陵前駅 | 御香宮一の大鳥居 |
御香宮 | JR奈良線・桃山駅 | 桃山御陵へ・・・ |
桃山御陵参道・・・今朝はもやっております。(~ヘ~;)おろろっ | ||
伏見城跡残石 | ・・・ | |
明治天皇桃山御陵、昭憲皇太后桃山東陵 ☆地図 | ||
山丘陵の頂に明治天皇陵、昭憲皇太后陵がある。伏見桃山陵は、明治天皇が生前からこの土地(指月丘陵)を大変に気に入られていたとの事で御陵地となりました。当地は、伏見城本丸跡を陵墓としたものと言われ少し離れて名護屋丸跡には昭憲皇太后御陵がある。明治天皇陵への230段もある石段ですが、登りきると眺望絶景のポイントです。 |
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明治天皇桃山御陵(伏見城本丸跡)・・平安遷都を成した桓武帝御陵の近くに明治維新で近代国家・日本の礎を成した明治帝の御陵 | ||
明治天皇桃山御陵(伏見城本丸跡) | 御陵階段上(伏見城四の丸跡)からの眺め・・・石段は230段!(@_@;) | |
かつては伏見城天守閣から巨椋池や四月(空、河、池、杯に映る月)が眺められた?!(*゜▽゜)/ | 昭憲皇太后伏見桃山東陵へ・・・ | |
明治天皇桃山御陵東隣にある昭憲皇太后伏見桃山東陵(ふしみももやまのひがしのみささぎ) | 桃山御陵に繋がる230段の大階段 | |
乃木神社(勝運・勉学の神) ☆地図 | ||
陸軍大将だった乃木希典(まれすけ)と妻・静子を祀る神社です。日清戦争では歩兵第一旅団長として参加。日露戦争では第3軍司令官として旅順攻撃をし多くの犠牲者を出し作戦に対する非難が生じたが明治天皇の信任厚く明治40年に学習院院長に任命され明治天皇の大喪には静子婦人とともに殉死。境内に、ロシアのステッセル将軍から贈られたという愛馬「璞号(あらたまごう)」と「寿号」の銅像があり、希典の生家や旅順の第3軍司令部舎も復原されています。 |
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桃山御陵に繋がる230段の大階段 | ・・・ | 乃木神社(勝運、勉学の神) |
乃木神社(勝運、勉学の神) | 乃木希典(まれすけ)胸像 | 国家・君が代にも登場するさざれ石 |
・・・ | 拝殿の絵馬額は欅の一枚板に乃木将軍の愛馬が彫られている。(後藤貞行作) | |
乃木の名水・勝水 | 全てに勝ちま栗とは(@_@;) おろろ〜 | 山城えびす神社 |
えべっさんたのんます!(^▽^;)おろっ | 幸せに成りタイ?!(*゜▽゜)/ | 本殿(静魂七福社合祀) |
本来、神殿は南面か東面ですが、桃山御陵に背を向けずに北面している。 | 乃木夫妻(希典、静子)胸像 | |
乃木大将の歌碑 | 解説 | 十三重石塔 |
解説 | 家族の干支瓦(*゜▽゜)/ | |
家族の干支瓦(*゜▽゜)/ | 和み地蔵(*´ο`*)=3ホッ | |
エビス&大黒 | カメさん | 乃木大将の歌碑 |
解説 | スイレンなど水生植物 | |
本殿(静魂七福社合祀) | 拝殿 | 創建者の実業家・村野山人(さんじん)像 |
長府乃木旧邸 | 乃木希典が少年時代に住んでいた長州の家が移築されている。 | |
解説 | 日露戦争時の日本軍第三軍司令部 | |
御香宮(開運・安産・厄除けの神) ☆地図 | ||
縁起には諸説があり社伝によれば貞観4年(862年)9月9日、境内に清泉が湧き出し水が芳しく四方に香り病者がこの水を服用すれば病気がたちどころに癒ゆるといわれ、これに因んで御香宮と称し地名も石井郡(紀伊郡)と称したと伝えています。又、御香宮は、旧伏見町の産土神(うぶずながみ)として古来から最も信仰されている洛南屈指の大社です。筑前国糟屋郡(福岡市香椎(かしい)町)にある香椎宮(祭神・神功皇后・仲哀天皇)を勧進し御香椎の椎を略し御香宮となったという説が、あります。"延喜式に記す御諸(みもろ)神社"であると言う説もあります。御諸(みもろ)とは、森と同義で神の鎮座する森をいい神の降臨する山や森を神格化したものを御諸(みもろ)神社と言います。豊臣秀吉は、征韓の役に際し肥前長光(重要文化財)の名刀を戦勝祈願時に奉納し今も社宝とされています。伏見城築城に際し深草大亀谷に移され城惶神(伏見城の鬼門除けの守護神)とし社領300石を寄進されました。その後、慶長10年(1605年)に徳川家康によって現在地に移され、徳川御三家(尾張・紀伊・水戸藩)藩祖と2代将軍・秀忠の娘(千姫)らが伏見で誕生し、御香宮を産土神(うぶずながみ)として社領も豊臣秀吉同様の深草地方など300石が、与えられました。豊臣秀吉、徳川家康を始めとし特に徳川御三家藩祖らが特別の崇敬を払った洛南最大社です。 |
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乃木神社をあとに・・・ | 御香宮 | 伏見義民碑(勝海舟撰文、三条実美筆) |
豪華な桃山様式の建築意匠の拝殿 | 「名水百選」に選ばれた石井(いわい:御香水) ※手水の方は飲用不可になりました。 | |
神鑒(かん)静井(石井)と御香水碑 | 天然記念物のソテツと本殿 | 伏見戦石碑 |
・・・ | 道真公が祭神の桃山天満宮 | |
芭蕉、去来の句碑 | 竹田街道に使われていた車石と道標石 | 白菊石 |
伏見城跡残石 | 京阪・伏見桃山駅 | 伏見百景・酒蔵 |
宝積寺(宝寺) ☆地図 | ||
真言宗智山派の寺で寺宝に竜神が伝来したという「内出の小槌」を有する事から俗に宝寺と呼ばれ山号も古くから補陀落山と号しましたが後に銭原山と改めました。創建は明らかでないですが神亀4年(727年)、聖武天皇の御願により僧・行基が開創した山崎院を継承したと伝わり一条天皇の長徳年間(995〜8年)寂昭和尚が中興し定額寺となりました。中世には寺運興隆し多くの塔頭子院を有する大寺となりましたが兵火にしばしば遭い明治維新後は衰退しました。多くの古文化材を有し乙訓屈指の名刹として現在に至ります。 |
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淀川三川合流、淀川となり大阪湾に注ぐ | 宝積寺(宝寺)参道 | 一寸法師が修行した伝える宝積寺(宝寺) |
待宵の鐘(まちよいのかね) | ||
永正16年(1519年)、在銘の銅鐘(室町期作)です。近衛天皇皇后・多子に仕えていた歌人待小侍従(石清水別当清水光清女)が詠んだ「まつ宵の更け行く鐘の声きけば帰るあしたの鶏はものかは」の和歌に因んで待宵の鐘と称されます。 |
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待宵の鐘 | 三重塔 | 千年桜 |
本堂(京都府登録文化財)・・7/27 大河『軍師・官兵衛』のエンディングで紹介されるので是非、ご覧くださいとご住職に頼まれました。(^▽^;) | ||
おびんずる様・・・なで仏でござる! | 羽柴秀吉が腰掛けたと伝える出世石・・・ご住職に勧められて私も座らせて頂きました!(^-^)v | |
小槌の宮(こづちのみや:大黒天神) | ||
「打出」と「小槌」を祀ります。寺伝によれば聖武天皇が皇太子の頃、竜神より賜ったと伝えそれより75日後に天皇に即位したといいます。この伝説は唐より請来した事を竜神化したものと伝えます。これに因んで福を預かろうとする者は打出の小槌で男は左掌、女は右掌を叩いてもらうとご利益があるそうな・・・中には財布の口を叩いてもらう者もあるとか・・・(^▽^;)おろろっ |
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聖武天皇供養塔(九重石塔) | 小槌宮(大黒天神) | 閻魔堂 |
十七烈士の墓所 | ||
招魂碑を中央に十七士の墓石が建っています。真木和泉守・保臣は筑後国(福岡県)久留米の水天宮祇官の出でしたが文久3年(1863年)8月18日の政変後、三条実美らに従い長州に下ったが、元治元年(1864年)6月、長州藩主の/*委託を受け諸隊総督となり挙兵上京。7月18日、禁門の変では久坂玄瑞、来島又兵衛らと浪士隊を率いて長州軍に参加、御所に砲撃を加え都を戦火に巻き込みましたが御所(禁門)を守備する会津、桑名、彦根、薩摩藩に撃退されました。敗れた場合、一先ず天王山に集結との約に従いましたが形勢不利と見た長州藩は真木和泉守・保臣らを見捨てて帰国しました。7月21日、新撰組始め1500名もの討伐軍に包囲され十七士は孤軍奮闘の末に自刃しました。新政府誕生はこの4年後でした。十七烈士の墓所は明治維新後、有志によって建てられました。 |
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弁財天 | 十七烈士埋骨地導石 | |
宝積寺辺りから俯瞰できる淀川(宇治川+木津川)と桂川が合流し大阪湾に注ぎます。 | 観音寺(山崎聖天堂) | |
観音寺(山崎聖天堂) ☆地図 | ||
昌泰2年(899年)創建の真言宗単立寺院で正式には「妙音山観音寺」と号し開基は寛平法皇です。俗に山崎の聖天さんと呼ばれています。本尊は十一面千手観音菩薩で、聖徳太子の作です。延宝9年(天和元年:1681年)、木食以空(もくじきいくう)上人が歓喜天(聖天)を祀りました。山崎聖天は、江戸年間、天皇や諸大名の帰依が厚く栄えましたが、元治元年(1864年)7月19日の「禁門の変」の兵火で焼亡しました。現在のものは明治23年(1890年)に住友、鴻池、三井などの財閥の支援で再建されました。 |
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聖天宮の扁額が架かる石鳥居 | 仁王門 | 急な石段 |
・・・ | 境内 | 本堂 |
ご朱印をいただきました。@寺務所 | 聖天堂 | |
天王山登山道(観音寺:山崎聖天堂) | アジサイ | 庫裏 |
観音寺をあとに・・・ | 急な石段を気をつけて・・・ | |
山崎ノ関跡(関戸院跡) ☆地図 | ||
山城、摂津国境に設けられた関所で長門国(山口県)の赤間と共に西国交通の要所で、一朝有事の際には派兵して警備に当たらせました。山崎ノ関が、いつ頃に廃棄されたかは不詳ですが、河陽離宮が造営された頃と伝えます。関の廃棄後、関戸院として残され平安時代に公館の宿舎になり、藤原道長も高野山参詣の途中にしばしば少憩した事があり、平家一門が都落ちの際に宝輦(ほうれん)を停めて男山八幡宮を遙拝したとも伝えます。 |
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関戸明神(山崎ノ関跡/関戸院跡) | 山城摂津国境碑・・この先、大阪府三島郡島本町 | 関戸明神(山崎ノ関跡/関戸院跡) |
離宮八幡宮 ☆地図 | ||
貞観2年(860年)、僧・行教が豊前の宇佐八幡神を勧請するにあたり当地に斎祀し翌年、男山に移したと伝わり、その所以で後に嵯峨天皇の河陽離宮旧跡に離宮八幡宮が誕生しました。平安時代末頃に当地で始まった荏胡麻油生産は中世に活発化し、生産者たちは八幡宮を本所として油座を組織し、全国の油専売権を握り、販売を独占しました。高さ1m、長さ2mを超える巨石で表面中央に円形の彫り込みがあり更に深さ45cmの扇形が刻まれています。 |
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油祖・離宮八幡宮 | 神領境標石(大山崎町指定文化財) | 神馬 |
扇形石(かしき石) | 社殿 | 河陽離宮跡碑 |
扇形石(かしき石) | ||
高さ1m、長さ2mを超える巨石で表面中央に円形の彫り込みがあり更に深さ45cmの扇形が刻まれています。一に「かしき石」とも呼ばれ出所を明らかにしません。元、当地には貞観年間、権僧正壱演が開創した相応寺という名刹がありましたが衰徴しこの石は相応寺の塔の心礎だといわれています。一説に彫り込み様式の古さから見てそれ以前の寺院のものを相応寺が利用したものとも伝えます。 |
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その昔、油座の司として油商人に特許を与えた | 全国油脂販売店標識全国油脂販売店標識 | 寺社の雑役、力仕事をする油祖像 |
荏胡麻油発祥の地碑 | 中門 | 拝殿 |
かつて、荏胡麻油で栄えた大山崎 | 石清水井 | 宝塔跡 |
・・・ | 解説 | 阪急京都線・大山崎駅 |
何年も前から気になっていた阪急そば大山崎店。やっと食せたと思ったら今日で閉店なんだと・・・(>▽<;; おろろっ | ||
・・・ | 大山崎瓦窯跡 | |
大山崎瓦窯跡 | ||
鳥羽作り道、久我畷(なわて:縄手) ☆地図 |
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羅城門(朱雀大路)から真っ直ぐ南下する鳥羽作り道は、現在の上鳥羽(鳥羽離宮跡)に至る道で、久我畷は鳥羽作り道(鳥羽離宮)と西国街道(山崎駅)を直結する直線道でした。久我畷と言われるのは、後世になってからで当初は京道(山崎道)と言われたようです。ともに平安京遷都後に造られた計画道と伝える。 ★関連コラム【平安の古道・久我畷の今をゆく・・・】 |
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地蔵尊と、歴史街道「山陽道(西国街道)と久我畷(こがなわて)」解説パネル |
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久我畷は大山崎町・松原交差点で西国街道と合して終わり(始まり)・・大きくカーブするのは、魔物は曲がれないので進入できないとか`s(・'・;) | ||
Tourist 2014.06.23(M) |