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亀の井 |
御神水「亀の水」・・・ペットボトルに頂戴していきます。 |
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霊亀の瀧へ・・・ |
瀧傍の岩が天狗の顔に見える・・・ |
霊亀の瀧 |
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大杉谷から吹き降ろしてくる風か涼しくてマイナスイオンいっぱいで涼しくて気持ちいい〜\(●⌒∇⌒●)/・・天狗の顔を見つけられますか・・・ |
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神使いの庭・・・鯉と亀は松尾大社の神使い |
なで亀さん |
説明パネル |
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一ノ井川は桂川用水(洛西用水) |
松尾大社案内図 |
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間もなく嵐山・・・ |
サイクリングロードの嵐山の起点(終点) |
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春は桜でいっぱい・・ |
中の島橋を渡ると嵐山公園 |
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日中不再戦碑 |
渡月橋と愛宕山 |
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霊峰・比叡山 |
亀山上皇に月が渡るが如くと言われたことで渡月橋に名づいたとか・・ |
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嵐山公園にはこんな茶店が何軒もあります・・ |
早速に・・カキ氷!
ヾ(≧▽≦)ノ |
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渡月橋 |
えぇなぁ〜(*^-^*) |
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ディーゼル機関車・DE10
1104に牽引されるトロッコ列車(嵯峨野観光列車)の平均時速は約25km!(=^・^=)/ |
光源氏のモデルと言われる左大臣・源融(みなもとのとおる)の別荘(棲霞観:せいかかん)跡・・清涼寺(せいりょうじ)
☆地図 |
清涼寺は嵯峨野でも有数の古刹で五台山清涼寺と号し源氏物語の光源氏のモデルとされる平安貴族の源融(みなもとのとおる)所縁の寺です。本尊の三国伝来の釈迦仏は有名で嵯峨釈迦堂(さがしゃかどう)として、人々に崇拝されています。左大臣・源融(みなもとのとおる)の別荘(棲霞観:せいかかん)を源融没後、寺に改め棲霞寺(せいかじ)と号し天慶8年(945年)、源融と血縁深い式部卿宮重明親王が亡室の為に新堂を建立し金色等身の釈迦如来一体を安置し42年後の永延元年(987年)、南都東大寺の僧・「念(ちょうねん)は宋より帰朝後、請来した釈迦如来像と摺本一切径を当寺に安置しました。「念は愛宕山を中国の五台山に擬えてその麓に大清涼字寺を建立しようと考えましたが長和5年(1016年)「念没後、弟子の盛算は師の遺志を継ぎ棲霞寺内に一宇を営み釈迦像を安置し五台山清涼寺と号し都下万民の信仰を集め隆盛し軒を貸した棲霞寺は衰徴し今は境内の阿弥陀堂に名を留めるに過ぎません。本尊の釈迦如来立像(国宝:宋)は、体内に五色の絹で作った五臓六腑(ごぞうろっぷ)とお経を持ち、生身(いきみ)のお釈迦様と称されています。近年、大阪城発掘時に見つかった豊臣秀頼の首塚が本堂横に祀られています。 |
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清涼寺(嵯峨釈迦堂) |
清涼寺と言うだけあって清涼な境内 |
多宝塔(府指定文化財:江戸期) |
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聖徳太子殿 |
光源氏のモデル?源融(みなもととおる)墓所 |
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光源氏のモデル?源融(みなもととおる)墓所 |
仏堂や仏塔の軒の四隅などに魔除に吊るす青銅製の鐘形の鈴を風鐸といい風鈴の原型 |
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清涼寺塔頭・薬師寺(三地蔵尊) |
左から夕霧地蔵、六道地蔵、るり光地蔵 |
薬師堂(生の六道:小野篁遺蹟) |
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大坂の陣戦没者供養碑(左)、豊臣秀頼公首塚 |
隠元筆「栴壇瑞像」の扁額を掲げる釈迦堂 |
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献香して合掌 |
宝篋印塔(源昇公墓碑) |
四面石仏 |
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経蔵 |
じゃんけんぽん?!左からグ〜、チョキ、パ〜 |
解説 |
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清涼寺伽藍案内図 |
弥勒多宝石仏 |
仁王門と法然上人「求道青年像」 |
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嵯峨野豆腐で知られる森嘉豆腐店 |
嵯峨野田園地帯は「特別風土保全地区」。のどかな風景は将来に残したい自然美や! |
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ワオッ!(@_@;)
あっ!!かかし!!!ビューティフル〜?!これがほんまの・・・A(あっ!!)K(かかし!!!)B(ビューティフル〜?!)48やんか〜(^▽^;)爆 |
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広沢池の西側に広がるのどかな嵯峨野田園地帯、ほんまにええ感じや〜\(●⌒∇⌒●)/ |
嵯峨野田園地帯の絵地図 |
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広沢池と遍照寺観音堂(観音島) |
観音島にある南向きに立っている広沢池観音石仏の姿は、池を見守っているようにも見える。 |
広沢池
☆地図 |
周囲約1.3kmにも及ぶ大池で伝説によると平安時代の中期、永祚元年(989年)に宇多天皇の孫・寛朝僧正が遍照寺を建立する時に開削したとされますが修築拡張を行った池で上古嵯峨野が野沢池であった名残を留める池とされます。異説として、嵯峨野一帯を開墾し渡来系豪族・秦(はた)氏一族が溜池がとして造ったとも言われている。秦氏のハダはハリダ(墾田)の約言であるというのもこれに因みます。平安時代に作られた池は、遍照寺と共に廃れて行ったが明治時代に、地元の人々の協力で修復された。 |
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広沢池は、別名『遍照寺池』とも呼ばれる。 |
遍照寺観音堂(観音島)に建つ壹美白弁財天社 |
広沢池の背後にある遍照寺山 |
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平安中期の永祚元年(989年)、遍照寺建立にあわせ庭池として本堂の南に造営された周囲は約1.3kmの広沢池は観月の池としても知られる。 |
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広沢池は周囲約1.kmにも及ぶ大池で池周りには桜並木が続きます・・・池と山の風情が、ええ感じや〜(*^-^*) |
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愛宕山と広沢池 |
丸太町通りを東進・・・ |
嵐電白梅町線・常盤駅 |
京都六地蔵巡りの一・常盤御前ゆかりの源光寺(常盤地蔵)
☆地図 |
京の六地蔵めぐりの一「源光寺」は源光庵とも呼ばれる臨済宗天龍寺派の尼寺です。昔、小野篁が冥土で生身の地蔵尊を拝し、蘇って後、一木から刻んだ六地蔵の一とされ世に常盤谷地蔵、北区の上等寺の姉子地蔵に対して乙子地蔵とも呼ばれる。寺伝によると弘仁2年(811年)、勅旨によって建立され嵯峨天皇の皇子・源常を創業開基とします。後に後白河法皇が深く帰依され中興開山され、本尊に全ての救済を願われ宗教宗派に関係のない庶民の信仰の根源地と定められている。毎年、春夏秋冬の4回、全国地蔵信仰の唯一の総本山・天地万霊総菩提寺として、源光寺神聖霊場大祭が行われます。この地は、源義経の母、常盤御前の生地で御前が営んだ庵の跡地と伝えられ境内には常盤御前の墓があります。 |
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京都六地蔵巡りの一・源光寺 |
地蔵堂 |
厄除け・観世音菩薩 |
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極楽絵 |
都六地蔵の一・常盤地蔵(乙子地蔵) |
地獄絵 |
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福徳観音菩薩 |
美薬大菩薩 |
常盤御前墓 |
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とげ抜き地蔵 |
名勝・双ケ丘(雙ケ岡) |
JR花園駅@丸太町通 |
千本閻魔堂(引接寺:いんじょうじ)
☆地図 |
光明山と号する古義真言宗高野山金剛寺に属する寺で閻魔王を祀る事から世に「千本閻魔堂」と言います。後一条天皇の寛仁年中、定覚律師が法界四生の為に大念仏を始めたのが当寺の起こりと伝えますが、明らかではありません。初め、真言宗に属しかっては付近の上品蓮台寺や大報恩寺に属した事もありましたが現在は独立寺院で、昔は方一町に亘る寺域を占めたと伝えます。平安時代、死者の埋葬が洛中で禁じられていた為、洛外との境界に当たるこの地で供養されたとも伝え、境内奥にある紫式部供養塔は国の重要文化財に指定されています。春の京都三大念佛狂言の一「ゑんま堂狂言」、夏の盂蘭盆会の精霊迎えなどで市民に親しまれる古刹。 |
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丸太町通りを東進中〜(; ̄ー ̄A |
千本通りを北上中〜(; ̄ー ̄A |
千本ゑんま堂(引接寺) |
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こま札 |
境内 |
閻魔法王がお出迎え |
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閻魔堂 |
閻魔法王の湯飲み茶碗「萬倍碗」 |
法の番人・閻魔法王 |
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たくさんの石仏群と先祖の精霊を迎える為に水塔婆を流す池 |
大黒さんと戎さん |
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紫式部像 |
紫式部供養塔 |
大原女?昔ながらの野菜の行商や〜 |
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大正12年に料理旅館「船岡楼」として創業、その後、銭湯・船岡温泉になった。 |
藤の森湯という銭湯だったカフェさらさ西陣 |
『源氏物語』の作者・紫式部(むらさきしきぶ)墓所、冥界の番人で六地蔵ゆかりの小野篁(おののたかむら)卿墓
☆地図 |
★紫式部・・・平安時代中期の女性作家、歌人。『源氏物語』の作者で中古三十六歌仙の一人。『小倉百人一首』に「めぐりあひて
見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし
夜半の月かな」で入選しています。藤原為時を父として,天延元年(973)頃に生まれた。祖父、父共に歌人、詩人だった事から彼女も幼少の時から学芸に親しみ、その類まれな才能は早くから認められていた。寛弘3年(1006)、一条天皇の中宮彰子に仕え、呼び名を父の官名にちなんで式部と称して、高貴な人に仕え講義する役職で漢文学を教える傍ら、『源氏物語』を執筆し、寛弘6年頃に完成させた。★小野篁・・・遣隋使を務めた小野妹子の子孫で、父は小野岑守。孫に三蹟の一人小野道風がいます。若年の頃、父に従って陸奥国へ赴き、弓馬をよくしたが、嵯峨天皇の言葉に触れて発奮し大学へ進学、官途に就きました。巡察弾正、弾正忠、弾正少弼などを歴任、法理に明るく『令義解』の編纂にも深く関与しました。承和元年(834年)、遣唐副使に任ぜられるが、承和5年(838年)に正使・藤原常嗣との諍いから、病気と称して職務を拒否し朝廷を批判する詩を作した為、嵯峨上皇の怒りに触れて隠岐に流されました。1年半後に許されて帰京した後に従三位参議に至りました。伝説では、篁は夜ごと井戸を通って地獄に降り、閻魔大王の元で裁判の補佐をしていたという。この井戸は、京都東山の六道珍皇寺にあり、また珍皇寺の閻魔堂には、篁作と言われる閻魔大王と篁の木像が並んで安置されています。 |
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紫式部、小野篁卿墓所 |
紫式部墓所(左)、小野篁卿墓 |
冥界の番人で六地蔵ゆかりの小野篁卿墓 |
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参議小野公塋域(えいいき)碑 |
「源氏物語」の作者・紫式部墓所 |
紫式部顕彰碑 |
京都六地蔵めぐりの一・上善寺(鞍馬口地蔵)
☆地図 |
貞観5年(863年)、慈覚大師円仁によって現地名の千本今出川の地に天台密教の道場として建立されたそうです。一時は衰微しましたが、文明年間(1469〜1487年)に春谷盛信上人が天台念仏道場として中興開基し、後土御門、御柏原の両天皇が当寺で授戒されてから隆盛しました。その後、後柏原天皇が当山に行幸され、勅願所不断道場の宣旨ならびに山号である千松山の勅額を賜りました。文禄3年(1594年)、第十二世・善照上人の時に現在地の寺町鞍馬口へ移り、第十三世の肝誉上人になって浄土宗知恩院末に転じました。江戸時代の正徳2年(1712年)に、松平越前守が当山を菩提寺と定めて不断念仏を再興したと伝えます。 |
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京都六地蔵巡りの一・上善寺 |
境内 |
大日如来石仏(鎌倉期) |
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たくさんの石仏群 |
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京都六地蔵の一・鞍馬口地蔵 |
本堂 |
暑いときは・・やっぱ、これっしょ!(^^♪ |
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出雲路橋と都富士とも称される霊峰・比叡山 |
五山の送り火・大文字山 |
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加茂川上流@出雲路橋 |
加茂川下流@出雲路橋
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川端通り
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琵琶湖疏水
☆地図 |
明治14年(1881年)2月、京都府知事に就任した北垣国道は琵琶湖に着目し疏水を開削する事で琵琶湖と宇治川を結ぶ舟運を開き同時に動力(水車)、灌漑、防火などに利用して京都の産業を振興しようとしました。明治23年(1890年)に完成した琵琶湖疎水(第一疎水)は当時の京都市年間予算の十数倍という膨大な費用を投入した大事業の主任技師として北垣知事に選ばれたのが、工部大学(東京大学)を卒業したばかりの田辺朔郎(さくろう:当時21才)が設計し僅か5年で完成し水力発電などに利用され日本初の電気鉄道(伏見線)を開通させるなど京都の近代化に大きな役割を果たしました。当時は我が国の重大工事は全てを外国人技師の設計監督に委ねていた時代にあって日本人の手によって行った我が国最初の大土木事業でした。 |
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京都市岡崎動物園※月曜日休館日 |
琵琶湖疎水 |
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琵琶湖疏水の噴水@岡崎 |
疎水記念館 |
カメハメハ〜(^▽^;) 巨大な輝き像 |
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蹴上の峠をがんばり中。。。(; ̄ー ̄A |
蹴上インクラインの台車 |
おそらく、インクラインの架線柱跡? |
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煉瓦積みが捻れているので「ねじりまんぼ」 |
義経ゆかりの義経大日如来(疎水公園) |
義経所縁の地蔵尊(義経大日如来(粟田口)、大日如来(蹴上口)、延命地蔵大菩薩(蹴上地蔵)
☆地図 |
金売吉次に伴われ奥州への旅立つ途中、粟田口を過ぎ九条山の坂にさしかかった時、馬に乗った関原与市と従者9人の武士が、水溜りの泥水を蹴りかけました。咎めた牛若丸と争いになり相手が平家の武士と聞いた牛若丸は激怒し9人を切り倒したが不憫に思い、9体の地蔵尊を安置し菩提を弔いました。日ノ岡峠を境として山科よりを九体町と言い、斬り倒された関原与市ら9人の菩提を弔う為に牛若丸が石仏9体を安置したのが地名の由来と伝え、蹴り上げた場所は蹴上(けあげ)という地名として残っています。9体の石仏のうち6体は所在不明ですが、3体は街道筋に残されていると伝え義経大日如来(疎水公園)、大日如来(蹴上口)、延命地蔵大菩薩(蹴上地蔵)の3体だと思われます。 |
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義経と刻まれている・・ |
義経ゆかりの義経大日如来 |
蹴上インクライン跡 |
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船を貨車に乗せて傾斜を上り下りして運んだインクライン |
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インクライン解説 |
第1琵琶湖疎水の第3トンネル西口 |
蹴上の峠をがんばり中・・32℃(; ̄ー ̄A |
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これも義経ゆかりと伝える大日如来(蹴上口) |
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日ノ岡峠のピークを越えたとです・・・ヾ(≧▽≦)ノ |
これも義経ゆかり?延命地蔵大菩薩(蹴上地蔵) |
快適なダウンヒル〜ヾ(≧▽≦)ノ |
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車石が使われる京津国道改良工事紀念碑 |
題目碑 |
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解説 |
名号碑 |
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第38代・天智天皇山科陵 |
JR琵琶湖線(東海道本線) |
旧東海道へ・・・ |
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旧東海道 |
明治天皇御遺蹟碑(奴茶屋跡) |
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旧東海道標 |
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京都六地蔵巡りの一・徳林庵(四ノ宮地蔵)
☆地図 |
徳林庵は柳谷山(りゅうこくざん)と号する臨済宗南禅寺派の寺で門前の地蔵堂は四ノ宮地蔵と言われ京都六地蔵巡りの一として知られます。人康親王(さねやすしんのう)の菩提を弔う為に雲英正怡(うんえいしょうい)禅師が建立し天文年間、兵火にかかり現地に移転したと伝えます。親王は琵琶を弾く事に優れ後世、親王を琵琶の始祖と仰ぎ江戸時代には検校位を有する盲人が全国から集まり親王の霊を慰めたと伝えます。 |
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京都六地蔵巡りの一・四ノ宮地蔵堂(徳林庵) |
「定飛脚
宰領中
文政四年巳年六月吉日」と刻まれる飛脚遺蹟・・飛脚や馬の為に掘られた井戸 |
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飛脚や馬の為に掘られた井戸 |
返納された六地蔵めぐりのお幡(はた) |
京都六地蔵の一・四ノ宮地蔵尊 |
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四ノ宮地蔵のご詠歌 |
正式な六地蔵めぐり順?自由やけど・・ |
人康親王供養塔(蝉丸塔:吉野期) |
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かわいい六地蔵(わらべ地蔵尊) |
こま札 |
四体石仏(鎌倉期) |
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燃料補給?!(*´ο`*)=3ホッ |
外環状線を大善寺(六地蔵)へ・・・ |
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伏見に入りました。・・パセオダイゴロー通過ing |
・・・ |
京都六地蔵巡りの一・大善寺(六地蔵)
☆地図 |
地蔵堂に安置されている地蔵菩薩立像は平安時代の始め、小野篁(おののたかむら)が一度息絶えて冥土へ行き、そこで生身の地蔵尊を拝して蘇った後に一本の桜の木から刻んだ六体の地蔵の一つです。当初、ここに六体の地蔵尊が祀られていたのですが、後白河上皇の勅命により平清盛が西光法師に命じ、都に通じる主要街道の入り口に残りの五体を分祀した事から、これらの地蔵を巡拝する「六地蔵巡り」の風習が生まれたと伝えます。 |
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京都六地蔵巡りの一・大善寺(六地蔵) |
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いい手ぬぐいやんか〜(*゜▽゜)/ |
地蔵堂 |
京都六地蔵の一・地蔵菩薩立像 |
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返納された六地蔵めぐりのお幡(はた) |
京阪宇治線・桃山南口駅 |
山科川右岸堤防 |
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宇治川・山科川合流地 |
京阪宇治線 |
夕暮れの宇治川 |
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観月橋 |
京阪宇治線・観月橋駅 |
近鉄京都線・澱川鉄橋(有形文化財:昭和期) |
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夜のウォーキングで毎回立ち寄って、参拝している八千代大明神さん |
十石舟弁天橋乗り場@宇治川派流 |
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7年連続の六地蔵巡り、今年も無事に終えました〜。。。今年も無っ茶暑かったぁぁ〜(;´д`)ゞやれやれとです・・・(*´ο`*)=3ホッ |