|
|
|
竹田街道(R24号線)を北進・・・ |
城南宮道 |
裏鬼門(南西)のエンザサンザ |
竹田の延座参座(エンザサンザ:道切り)
☆地図 |
延座参座(エンザサンザ)とは道切りと言われる風習です。・・・道切りとは、村落に悪霊などが入れないよう縄を張り、村の境界に注連縄などを飾り結界を標す事を云います。村人の生活拠点である為、安全と清浄を祈願しました。昔は、単に耕地や隣村があると云うだけでなく、悪霊、祖霊、神仏などの住む他界とも考えられていました。特に悪霊、疫病神は道を伝ってやってくると考らえ、村境に注連縄などを飾って悪霊防除(結界)を祈願しました。注連縄などで道を区切る事を道切りと言います。村境を守る標し(結界)は、悪霊、疫病神の侵入禁止の意味で道祖神、御幣、藁細工、縄を張るなどと伝わります。道切りは結界の意味だけでなく、村中の災いなどを排除し、五穀豊穣・村内安全などを祈願したと伝えます。尚、竹田丈六町では古来、『延座参座』という講があり、毎年正月の8日に講の人達(地元9軒)で清浄なワラをもって15mあまりの注連縄(しめなわ)2本を作り、更に小さな注連縄に御幣(ごへい)を付けて12本(閏年は13本)垂らします。他に13神将の名を書いた絵馬(木札)を中央に掲げてあります。以前は全国的に行われていた風習ですが、現在は数少ない地域にしか伝承されていません。 |
|
|
|
表鬼門(北東)のエンザサンザは切れてました。 |
鴨川に架かる最新橋の大宮大橋 |
もう一つの恋塚寺・・・京都六地蔵めぐりの一・浄禅寺(鳥羽地蔵)
☆地図 |
平安京の表玄関の羅生門に通じる道筋にある寺で、恵光山と号し浄土宗西山禅林寺派の寺で本堂には、本尊の阿弥陀如来立像を安置し観音堂には等身の聖観音像(藤原期)を安置しています。地蔵堂にある鳥羽地蔵と呼ばれる地蔵尊は京都六地蔵の一とされます。当地に地蔵尊が安置されているのは昔、大阪から京都に入る街道口であった為と伝わります。当寺にも下鳥羽の恋塚寺と同じく、袈裟御前の首塚といわれる五輪石塔があり、遠藤盛遠と袈裟御前の悲恋を伝え恋塚浄禅寺と言われます。『雍州府志』(巻5)には「恋塚」は「鯉塚」であると記されています。近くに住む大鯉が妖怪に変化して現れた為、その大鯉を退治し埋葬した塚なので「鯉塚」だという一説もあります。 |
|
|
|
鴨川 |
・・・ |
京都六地蔵巡りの一・浄禅寺(鳥羽地蔵) |
|
|
|
阿弥陀石仏?(鎌倉期) |
林羅山の撰文による恋塚碑 |
袈裟御前塚(首塚) |
|
|
|
境内 |
京都六地蔵の一・鳥羽地蔵 |
|
|
|
石仏、石地蔵 |
井戸水が冷たくてマイウ〜(*´ο`*)=3ホッ |
|
|
|
・・・ |
桂川に架かる新久祥橋(十条通り) |
先の氾濫で水没した桂川河川敷の畑 |
|
|
|
久世橋下へ・・・ |
嵐山サイクリングロード |
前の堤外人道橋(天神川)を渡ります・・・ |
京都六地蔵めぐりの一・地蔵寺(桂地蔵)
☆地図 |
寺の創建は明らかでなく、地蔵寺と号する浄土宗の寺で京都六地蔵巡りの霊場です。桂地蔵尊は一木の最下部を刻まれたもので世に姉井菩薩と呼ばれ六地蔵尊の中で最大です。この辺りは桂の渡しに近く、平安歌人の桂大納言源経信や伊勢女の住居があったとも伝えます。 |
|
|
|
かっ飛びなミニベロや!バトルか?!(^^ゞ |
桂大橋 |
京都六地蔵巡りの一・地蔵寺 |
|
|
|
境内 |
手水が冷たくて気持ちいいヾ(≧▽≦)ノ |
地蔵石仏 |
|
|
|
六体地蔵(水塔婆供養) |
京都六地蔵の一・桂地蔵 |
桂川右岸堤防道(桂離宮東側) |
|
|
|
阪急京都線 |
・・・ |
・・・ |
松尾大社
☆地図 |
大山咋神(おおやまくいのかみ)、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと/中津島姫命(なかつしまひめのみこと)を祭神とする旧棺幣大社で京都最古の神社の一。文武天皇の大宝元年(701年)、秦忌寸都里(はたのいみきとり)が松尾山大杉谷の磐座(いわくら)の神霊を勧請し社殿を造営しその女・知満留女(ちまるめ)を斎女として奉仕させたのが当社の起源で代々秦氏が奉祀しました。平安遷都後、賀茂社と供に王城鎮護神となり賀茂の厳霊、松尾の猛霊と東西並び称されました。大山咋神(おおやまくいのかみ)は上賀茂神社の祭神・賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)の父神とされ賀茂社とは姻戚関係にあり延喜の制には名神大社となり二十二社の制には第四に班し中世を通して上七社の一に列せられる有数の大社です。寛弘元年(1004年)、一条天皇の行幸以来、歴代の行幸、行啓すこぶる多く中世以降は酒造の神として崇敬が篤く氏子地域は京都市の1/3にも及びます。 |
|
|
|
間もなく松尾 |
松尾大社 |
|
|
|
楼門 |
境内へ・・・ |
一ノ井川は桂川用水(洛西用水) |
|
|
|
亀さんの手水 |
なで亀さん!(*゜▽゜)/ |
拝殿 |
御神水「亀の水」 |
大杉谷の崖下から湧出する清泉でこの水を醸造の時に加えれば酒が腐敗しないと伝わり古来醸造家が汲んで持ち帰る慣わしがあり当社の信仰はこの井泉によるものです。亀の井とは松尾神の神使いが亀である事に因りますが神の井に通じます。清泉は飲料水として古代住民にとって神の水で水を求めて聚落が営まれ当社を始め松尾に座す水の神であったのが大山咋神(おおやまくいのかみ)を信奉する信者によって斉い込められ本来の神格が失われたと考えられています。 |
|
|
|
本殿 |
御神水「亀の水」・・・ペットボトルに頂戴していきます。 |
|
|
|
霊亀の瀧 |
瀧傍の岩が天狗の顔に見える! |
天狗の顔を見つけられますか? |
|
|
|
なで鯉さん |
お酒の神さんだけあってたくさんの酒樽 |
松尾大社一の鳥居 |
|
|
|
間もなく嵐山 |
サイクリングロードの嵐山の起点(終点) |
ええ眺めや〜\(●⌒∇⌒●)/ |
|
|
|
中の島橋を渡ると嵐山公園 |
亀山上皇に月が渡るが如くと言われたことで渡月橋に名づいたと伝える。(*゜▽゜)/ |
|
|
|
随分と復旧してきました!(*゜▽゜)/ |
嵐山に来たら、まずは・・これっしょ!(^^♪マイウ〜 |
|
|
|
キララくんも木陰でひと休み(*´ο`*)=3ホッ |
嵐山のシンボル的存在・渡月橋 |
|
|
|
えぇなぁ〜(*^-^*) |
・・・ |
丸太町通り |
|
|
|
・・・ |
嵯峨野田園地帯は「特別風土保全地区」 |
|
|
|
広沢池の西側に広がるのどかな嵯峨野田園地帯、ほんまにええ感じや〜\(●⌒∇⌒●)/ |
広沢池
☆地図 |
周囲約1.3kmにも及ぶ大池で伝説によると平安時代の中期、永祚元年(989年)に宇多天皇の孫・寛朝僧正が遍照寺を建立する時に開削したとされますが修築拡張を行った池で上古嵯峨野が野沢池であった名残を留める池とされます。異説として、嵯峨野一帯を開墾し渡来系豪族・秦(はた)氏一族が溜池がとして造ったとも言われている。秦氏のハダはハリダ(墾田)の約言であるというのもこれに因みます。平安時代に作られた池は、遍照寺と共に廃れて行ったが明治時代に、地元の人々の協力で修復された。 |
|
|
|
広沢池は、『遍照寺池』とも呼ばれる。 |
広沢池観音石仏 |
遍照寺観音堂(観音島)に建つ壹美白弁財天社 |
|
|
|
広沢池は周囲約1
.
kmにも及ぶ大池・・・池と山の風情が、ええ感じや〜(*^-^*)
|
|
|
|
遍照寺を建立した真言宗の寛朝を祀る児(ちご)神社は児社(ちごのやしろ)ともいう。 |
嵯峨富士とも称される遍照寺山 |
|
|
|
愛宕山と広沢池 |
しだれ桜 |
|
|
|
【京の桜守り(3代目)】、16代・佐野藤右衛門(さのとうえもん)さん私邸の見事なしだれ桜 |
|
|
|
ワオッ!秘仏?!お前立ち??(^^ゞ爆
ご立派な不動様?と観音様か??(@_@;) |
・・・ |
|
|
|
千代の古道 |
・・・ |
・・・ |
京都六地蔵巡りの一・常盤御前ゆかりの源光寺(常盤地蔵)
☆地図 |
京の六地蔵めぐりの一「源光寺」は源光庵とも呼ばれる臨済宗天龍寺派の尼寺です。昔、小野篁が冥土で生身の地蔵尊を拝し、蘇って後、一木から刻んだ六地蔵の一とされ世に常盤谷地蔵、北区の上等寺の姉子地蔵に対して乙子地蔵とも呼ばれる。寺伝によると弘仁2年(811年)、勅旨によって建立され嵯峨天皇の皇子・源常を創業開基とします。後に後白河法皇が深く帰依され中興開山され、本尊に全ての救済を願われ宗教宗派に関係のない庶民の信仰の根源地と定められている。毎年、春夏秋冬の4回、全国地蔵信仰の唯一の総本山・天地万霊総菩提寺として、源光寺神聖霊場大祭が行われます。この地は、源義経の母、常盤御前の生地で御前が営んだ庵の跡地と伝えられ境内には常盤御前の墓があります。 |
|
|
|
嵐電白梅町線・常盤駅 |
京都六地蔵巡りの一・源光寺 |
福徳観音菩薩 |
|
|
|
厄除け・観世音菩薩 |
美薬大菩薩 |
地蔵堂 |
|
|
|
極楽絵 |
地獄絵 |
都六地蔵の一・常盤地蔵(乙子地蔵) |
|
|
|
常盤御前墓 |
・・・ |
丸太町通りを東進・・・ |
|
|
|
名勝・双ケ丘(雙ケ岡) |
臨済宗妙心寺派大本山・妙心寺 |
牛若丸首途(かどで)の井(金売り吉次屋敷跡) |
|
|
|
千本通りを北上中〜(; ̄ー ̄A |
京都らしい店 |
千本通りを北上中〜(; ̄ー ̄A |
千本閻魔堂(引接寺:いんじょうじ)
☆地図 |
光明山と号する古義真言宗高野山金剛寺に属する寺で閻魔王を祀る事から世に「千本閻魔堂」と言います。後一条天皇の寛仁年中、定覚律師が法界四生の為に大念仏を始めたのが当寺の起こりと伝えますが、明らかではありません。初め、真言宗に属しかっては付近の上品蓮台寺や大報恩寺に属した事もありましたが現在は独立寺院で、昔は方一町に亘る寺域を占めたと伝えます。平安時代、死者の埋葬が洛中で禁じられていた為、洛外との境界に当たるこの地で供養されたとも伝え、境内奥にある紫式部供養塔は国の重要文化財に指定されています。春の京都三大念佛狂言の一「ゑんま堂狂言」、夏の盂蘭盆会の精霊迎えなどで市民に親しまれる古刹。 |
|
|
|
閻魔法王がお出迎え |
千本ゑんま堂(引接寺) |
閻魔堂 |
|
|
|
法の番人・閻魔法王 |
閻魔法王の湯飲み茶碗「萬倍碗」 |
ご朱印を頂きました!(^-^)v |
|
|
|
大黒さんと戎さん |
紫式部像 |
紫式部供養塔 |
|
|
|
先祖の精霊を迎える為に水塔婆を流す池 |
閻魔堂 |
風水四神の解説 |
|
|
|
大正12年に料理旅館「船岡楼」として創業、その後、銭湯・船岡温泉になった。 |
藤の森湯という銭湯だったカフェさらさ西陣 |
『源氏物語』の作者・紫式部(むらさきしきぶ)墓所、冥界の番人で六地蔵ゆかりの小野篁(おののたかむら)卿墓
☆地図 |
★紫式部・・・平安時代中期の女性作家、歌人。『源氏物語』の作者で中古三十六歌仙の一人。『小倉百人一首』に「めぐりあひて
見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし
夜半の月かな」で入選しています。藤原為時を父として,天延元年(973)頃に生まれた。祖父、父共に歌人、詩人だった事から彼女も幼少の時から学芸に親しみ、その類まれな才能は早くから認められていた。寛弘3年(1006)、一条天皇の中宮彰子に仕え、呼び名を父の官名にちなんで式部と称して、高貴な人に仕え講義する役職で漢文学を教える傍ら、『源氏物語』を執筆し、寛弘6年頃に完成させた。★小野篁・・・遣隋使を務めた小野妹子の子孫で、父は小野岑守。孫に三蹟の一人小野道風がいます。若年の頃、父に従って陸奥国へ赴き、弓馬をよくしたが、嵯峨天皇の言葉に触れて発奮し大学へ進学、官途に就きました。巡察弾正、弾正忠、弾正少弼などを歴任、法理に明るく『令義解』の編纂にも深く関与しました。承和元年(834年)、遣唐副使に任ぜられるが、承和5年(838年)に正使・藤原常嗣との諍いから、病気と称して職務を拒否し朝廷を批判する詩を作した為、嵯峨上皇の怒りに触れて隠岐に流されました。1年半後に許されて帰京した後に従三位参議に至りました。伝説では、篁は夜ごと井戸を通って地獄に降り、閻魔大王の元で裁判の補佐をしていたという。この井戸は、京都東山の六道珍皇寺にあり、また珍皇寺の閻魔堂には、篁作と言われる閻魔大王と篁の木像が並んで安置されています。 |
|
|
|
藤の森湯という銭湯だったカフェさらさ西陣 |
紫式部、小野篁卿墓所 |
源氏物語作者・紫式部墓所(左)、小野篁卿墓 |
玄武神社
☆地図 |
社伝によると第57代陽成天皇の元慶年間(877〜884)、親王の母方の末裔で雲林院村に居住していた星野市正紀茂光が、悲運な生涯であった親王の御霊を慰め、王城北面の鎮護とこの地の守護神として、紀名虎の蔵していた御剣を親王が寵愛されていたことにより、これを「御霊代(みたましろ)」として奉祀したと伝えられ、その子孫が代々この地の郷士であることから、神職として明治の中頃まで奉仕しました。社号「玄武」は、王城の守護四神(青龍、朱雀、白虎、玄武)の一つで、北面の鎮護神を意味します。その図柄は亀に蛇が絡むもので、配色は黒。亀は長寿、蛇は商売繁盛にご利益があります。近年「高松塚古墳」や「亀虎古墳」の北面に玄武の図柄が発見され有名となりました。なお、一品〜四品までの親王の冠がそれぞれ四神にあたり、四品の親王は「玄武の冠」を着用したとの学説があります。昔は、玄武の亀との関係から境内の小池に亀が多く放育されていたので、「亀宮(かめのみや)」、あるいは御祭神の御名から「惟喬社(これたかしゃ)」とも別称されました。その根拠として宝永3年(1706年)、当社に奉納された石灯篭(三輪明神社前右側)に「亀宮」の文字が刻されていることや、江戸時代の拾遺都名所図会に「惟喬社」の文字が見られます。 |
|
|
|
参議小野公塋域(えいいき)碑 |
紫式部顕彰碑 |
玄武神社 |
祭神・惟喬(これたか)親王 |
惟喬親王は、道康親王(第55代文徳天皇)の第1皇子で、承和11年1月25日(844)にご誕生。母は紀名虎(きのなとら)の娘で紀静子(きのしずこ)でありました。惟喬親王は聡明で、父の愛情もことのほか深く、皇太子になる筈のところ、当時、権勢高い藤原良房の娘・藤原明子が、第4皇子惟仁親王を誕生すると、天皇は良房をはばかられて、生後9ケ月の惟仁(これひと)親王を皇太子とされました。この方がのちの第56代・清和天皇です。『大鏡』裏書にも、文徳天皇が惟喬親王を皇太子にと希望されながらも
周囲の反対をはばかられ、また、右大臣・藤原良房に気を遣われて、その娘・明子(あきらけいこ=染殿后)所生の惟仁(これひと)親王(=後の清和天皇)を皇太子に立てられたことが伝えています。また、『江談抄』や『平家物語』には、立太子を巡って、惟喬親王の母方である紀氏が惟喬親王を立てて真済僧正を、また、藤原氏が惟仁親王を擁して真雅僧正をそれぞれ祈祷僧に起用し、死力が尽くされた・・・という話まで伝えられており、こうした伝承が発生するほどに、生母(=紀名虎(きのなとら)の娘静子)の出自の低さにもかかわらず、惟喬親王への信望が高かったのです。 |
|
|
|
こま札 |
境内と社殿 |
|
|
|
祭神は惟喬(これたか)親王 |
今宮神社お旅社 |
京都六地蔵めぐりの一・上善寺(鞍馬口地蔵)
☆地図 |
貞観5年(863年)、慈覚大師円仁によって現地名の千本今出川の地に天台密教の道場として建立されたそうです。一時は衰微しましたが、文明年間(1469〜1487年)に春谷盛信上人が天台念仏道場として中興開基し、後土御門、御柏原の両天皇が当寺で授戒されてから隆盛しました。その後、後柏原天皇が当山に行幸され、勅願所不断道場の宣旨ならびに山号である千松山の勅額を賜りました。文禄3年(1594年)、第十二世・善照上人の時に現在地の寺町鞍馬口へ移り、第十三世の肝誉上人になって浄土宗知恩院末に転じました。江戸時代の正徳2年(1712年)に、松平越前守が当山を菩提寺と定めて不断念仏を再興したと伝えます。 |
|
|
|
京都六地蔵巡りの一・上善寺 |
大日如来石仏(鎌倉期) |
|
|
|
庫裏でお播を頂戴します!(^-^)v |
京都六地蔵の一・鞍馬口地蔵 |
石仏群 |
|
|
|
出雲路橋と都富士とも称される霊峰・比叡山 |
五山の送り火・大文字山 |
|
|
|
加茂川 |
川端通りを南進・・・ |
|
|
|
三条通りを東進・・・ |
|
|
|
蹴上(けあげ) |
煉瓦積みが捻れているので「ねじりまんぼ」 |
義経ゆかりの義経大日如来(疎水公園) |
|
|
|
船を貨車に乗せて傾斜を上り下りして運んだのがインクライン・運輸船 |
|
|
|
蹴上インクライン跡 |
解説パネル |
第一琵琶湖疎水の第三トンネル西口 |
|
|
|
義経ゆかりの義経大日如来(疎水公園) |
義経と刻まれている・・ |
これも義経ゆかりと伝える大日如来(蹴上口) |
|
|
|
日ノ岡峠のピークを越えたとです・・ヾ(≧▽≦)ノ |
これも義経ゆかり?延命地蔵大菩薩(蹴上地蔵) |
|
|
|
快適なダウンヒル〜ヾ(≧▽≦)ノ |
車石が使われる京津国道改良工事紀念碑 |
題目碑 |
|
|
|
名号碑 |
解説 |
第38代・天智天皇山科陵 |
|
|
|
JR琵琶湖線(東海道本線) |
旧東海道・・・ |
明治天皇御遺蹟碑(奴茶屋跡) |
|
|
|
旧東海道標 |
旧東海道・・・ |
|
|
|
道標石 |
京都六地蔵巡りの一・四ノ宮地蔵堂(徳林庵) |
|
|
|
こま札 |
かわいい六地蔵(わらべ地蔵尊) |
人康親王供養塔(蝉丸塔:吉野期) |
|
|
|
京都六地蔵の一・四ノ宮地蔵尊 |
四体石仏(鎌倉期) |
|
|
|
「定飛脚
宰領中
文政四年巳年六月吉日」と刻まれる飛脚遺蹟・・飛脚や馬の為に掘られた井戸 |
今も現役で井戸水が汲めます!(*´ο`*)=3ホッ |
|
|
|
夕焼け・・・ |
外環状線を南進・・・ |
東海道新幹線 |
|
|
|
名神高速道路 |
・・・ |
伏見に入りました・・パセオダイゴロー通過ing |
|
|
|
・・・ |
京都六地蔵巡りの一・大善寺(六地蔵) |
|
|
|
京都六地蔵の一・地蔵菩薩立像 |
観月橋交差点 |