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紫式部墓所(左)、小野篁卿墓 |
紫式部顕彰碑 |
参議小野公塋域(えいいき)碑 |
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なぜ、二人の墓が仲良く並んでいるのだろう??? |
「源氏物語」の作者・紫式部墓所 |
冥界の番人で六地蔵ゆかりの小野篁卿墓 |
京都六地蔵めぐりの一・上善寺(鞍馬口地蔵) |
貞観5年(863年)、慈覚大師円仁によって現地名の千本今出川の地に天台密教の道場として建立されたそうです。一時は衰微しましたが、文明年間(1469〜1487年)に春谷盛信上人が天台念仏道場として中興開基し、後土御門、御柏原の両天皇が当寺で授戒されてから隆盛しました。その後、後柏原天皇が当山に行幸され、勅願所不断道場の宣旨ならびに山号である千松山の勅額を賜りました。文禄3年(1594年)、第十二世・善照上人の時に現在地の寺町鞍馬口へ移り、第十三世の肝誉上人になって浄土宗知恩院末に転じました。江戸時代の正徳2年(1712年)に、松平越前守が当山を菩提寺と定めて不断念仏を再興したと伝えます。
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京都六地蔵巡りの一・上善寺 |
駒札 |
大日如来石仏(鎌倉期) |
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境内 |
本堂 |
六地蔵めぐりの準備中・・・ |
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石仏群 |
地蔵堂(鞍馬口地蔵) |
京都六地蔵の一・鞍馬口地蔵 |
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都富士と称される霊峰・比叡山 |
突然の雨にもマケズ・・・出雲路橋 |
五山の送り火・大文字山 |
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加茂川上流 |
出雲路橋と霊峰・比叡山 |
加茂川下流 |
世界文化遺産・下鴨神社(賀茂御祖神社:かもみおやじんじゃ) |
正しくは賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)と称し祭神は上加茂神社の祭神・別雷命(わけいかづちのみこと)を生んだ玉依姫命(たまよりひめのみこと)と祖父・加茂建角身命(かもたけつぬのみこと)を祀る加茂氏の氏神社です。地勢によって上加茂神社を上社と言うのに対し当社は下社と言いますが行幸、斎王、式年造営などは同日に行われます。両社を称して加茂神社と言います。鎮座地は糺の森の中にあって朱の鳥居や楼門が緑に映えて一しお目立ち、桧皮葺の典雅な社殿と相俟って王朝時代さながらの景観を呈しています。本殿(国宝:江戸期)は三間社、流造り、桧皮葺で上加茂神社本殿と同形式からなる流れ造りの典型で文久3年(1863年)の再建です。他に幣殿を始め55棟からなる多々の社殿(重文:江戸期)は何れも寛永5年(1628年)の造替ですが全体に古式を留め、昔の貴族住宅を偲ばせています。境内には摂社、末社が多く中でも三井神社は「山城国風土記」に記された蓼倉里三身(たでくらのさとみ)社とあるのは当社とされます。井雲井於(いづものいのえ)神社は一に比良木社とも呼ばれ下鴨の地主神ですが厄除けの神としも崇敬され願いが叶うとお礼に柊を献ずる慣わしがあります。御手洗社は井上社とも言い井泉の神瀬織津姫を祀り社前の池で御手洗会、夏越の祓が行われます。河合神社は本社より南、糺の森中に鎮座する摂社の一で玉依姫命と上下加茂社の苗裔(びょうえい)神を祀る延喜式内の大社です。 |
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世界文化遺産・賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ:下鴨神社) |
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手水石は舟形の磐座(いわくら)石 |
奈良の小川の御手洗 |
史跡・糺の森 |
史跡・糺の森(ただすのもり) |
糺の森は、高野川と鴨川が合流する三角州地帯の森林を総称します。かつて、約495万u(約150万坪)の原生林でしたが中世の戦乱や明治4年の上知令によって現在の約12万4千u、東京ドームの約3倍に縮小されました。現在、全域を国の史跡として保存されています。旧山代原野の原生樹林の植生を残す唯一の森林で、ケヤキ、ムク、エノキなど約40種、樹齢200年〜600年の樹木約600本が生い茂り樹林の間には奈良の小川、瀬見の小川、泉川、御手洗(みたらし)川の清流があり市民の憩いの場として古くから親しまれています。源氏物語、枕草子を始め数々の物語や詩歌管弦に謳われた名所旧跡です。 |
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幽邃な史跡・糺の森 |
四ノ宮地蔵堂(徳林庵)へ@川端通り |
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日本最大で高さ24.4mある平安神宮の大鳥居 |
琵琶湖疏水の噴水@岡崎 |
カメハメハ〜(^▽^;) |
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蹴上インクライン |
蹴上〜四ノ宮地蔵堂(徳林庵)へ |
煉瓦積みが捻れているので「ねじりまんぼ」 |
琵琶湖疏水 |
明治14年(1881年)2月、京都府知事に就任した北垣国道は琵琶湖に着目し疏水を開削する事で琵琶湖と宇治川を結ぶ舟運を開き同時に動力(水車)、灌漑、防火などに利用して京都の産業を振興しようとしました。明治23年(1890年)に完成した琵琶湖疎水(第一疎水)は当時の京都市年間予算の十数倍という膨大な費用を投入した大事業の主任技師として北垣知事に選ばれたのが、工部大学(東京大学)を卒業したばかりの田辺朔郎(さくろう:当時21才)が設計し僅か5年で完成し水力発電などに利用され日本初の電気鉄道(伏見線)を開通させるなど京都の近代化に大きな役割を果たしました。当時は我が国の重大工事は全てを外国人技師の設計監督に委ねていた時代にあって日本人の手によって行った我が国最初の大土木事業でした。 |
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蹴上インクライン |
田辺朔郎像 |
解説 |
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船を貨車に乗せて傾斜を上り下りして運んだインクライン |
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解説 |
折りたたみのチャリ?
Σ( ̄ロ ̄lll) ガビーン |
キララくんでつ(⌒▽⌒) |
義経所縁の地蔵尊(義経大日如来(粟田口)、大日如来(蹴上口)、延命地蔵大菩薩(蹴上地蔵) |
金売吉次に伴われ奥州への旅立つ途中、粟田口を過ぎ九条山の坂にさしかかった時、馬に乗った関原与市と従者9人の武士が、水溜りの泥水を蹴りかけました。咎めた牛若丸と争いになり相手が平家の武士と聞いた牛若丸は激怒し9人を切り倒したが不憫に思い、9体の地蔵尊を安置し菩提を弔いました。日ノ岡峠を境として山科よりを九体町と言い、斬り倒された関原与市ら9人の菩提を弔う為に牛若丸が石仏9体を安置したのが地名の由来と伝え、蹴り上げた場所は蹴上(けあげ)という地名として残っています。9体の石仏のうち6体は所在不明ですが、3体は街道筋に残されていると伝え義経大日如来(疎水公園)、大日如来(蹴上口)、延命地蔵大菩薩(蹴上地蔵)の3体だと思われます。 |
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第1琵琶湖疎水の第3トンネル西口 |
義経大日如来(疎水公園) |
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大日如来(蹴上口) |
日ノ岡峠のピークを越えたとです・・・ヾ(≧▽≦)ノ |
延命地蔵大菩薩(蹴上地蔵) |
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快適なダウンヒル・・・ |
題目碑 |
解説 |
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名号碑 |
JR琵琶湖線(東海道本線) |
明治天皇御遺蹟碑(奴茶屋跡) |
京都六地蔵巡りの一・徳林庵(四ノ宮地蔵) |
徳林庵は柳谷山(りゅうこくざん)と号する臨済宗南禅寺派の寺で門前の地蔵堂は四ノ宮地蔵と言われ京都六地蔵巡りの一として知られます。人康親王(さねやすしんのう)の菩提を弔う為に雲英正怡(うんえいしょうい)禅師が建立し天文年間、兵火にかかり現地に移転したと伝えます。親王は琵琶を弾く事に優れ後世、親王を琵琶の始祖と仰ぎ江戸時代には検校位を有する盲人が全国から集まり親王の霊を慰めたと伝えます。 |
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旧東海道標 |
京都六地蔵巡りの一・四ノ宮地蔵堂(徳林庵) |
駒札 |
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四体石仏(鎌倉期) |
「定飛脚
宰領中
文政四年巳年六月吉日」と刻まれる飛脚遺蹟・・・飛脚や馬の為に掘られた井戸は現役ヾ(≧▽≦)ノ |
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キララくんも一休みでつ(*^-^*) |
かわいい六地蔵(わらべ地蔵尊) |
人康親王供養塔(蝉丸塔:吉野期) |
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京都六地蔵巡りの一四ノ宮地蔵堂(徳林庵) |
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京都六地蔵の一・四ノ宮地蔵尊 |
突然の激しい雨
Σ( ̄ロ ̄lll) ガビーン |
小雨の中外環状線を大善寺(六地蔵)へ |
京都六地蔵巡りの一・大善寺(六地蔵) |
地蔵堂に安置されている地蔵菩薩立像は平安時代の始め、小野篁(おののたかむら)が一度息絶えて冥土へ行き、そこで生身の地蔵尊を拝して蘇った後に一本の桜の木から刻んだ六体の地蔵の一つです。当初、ここに六体の地蔵尊が祀られていたのですが、後白河上皇の勅命により平清盛が西光法師に命じ、都に通じる主要街道の入り口に残りの五体を分祀した事から、これらの地蔵を巡拝する「六地蔵巡り」の風習が生まれたと伝えます。 |
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大善寺(伏見六地蔵) |
境内 |
本堂 |
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観音堂 |
地蔵堂 |
京都六地蔵の一・地蔵菩薩立像@地蔵堂 |
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小さい秋見っけ!!!(*^-^*)秋桜 |
伏見城お船入り常夜灯 |
桃山御陵を走り抜けます・・・ |
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R24号線大手筋交差点 |
御香宮大鳥居 |
おけいはん(京阪電車) |
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伏見と言えば・・・酒 |
酒と言えば・・・酒蔵をライトアップする花灯篭 |
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雨が降ったり止んだりの中、伏見へ帰ってきました・・・酒蔵をライトアップする花灯篭が雰囲気を醸し出して・・・えぇなぁ〜(*^-^*) |
Tourist
2008.08.20&25(Tue)
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