京・六地蔵めぐり

 

めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな  紫 式部

 

浄禅寺(鳥羽地蔵)〜地蔵寺(桂地蔵)〜源光寺(常盤地蔵)〜上善寺(鞍馬口地蔵)〜徳林庵(四ノ宮地蔵)〜大善寺(六地蔵)

京都六地蔵めぐり

毎年8月22日と23日の二日間、「京都六地蔵めぐり」と言われる京都の旧街道口に安置された六体の地蔵尊を巡拝して、罪障消滅、無病息災、家内安全、五穀豊穣などを願う慣わしで、新仏の初盆に水塔婆供養をして三年間巡拝すれば六道(生前の罪により地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天道)の苦を免れると伝えます。京都の町で子供の地蔵盆が行われるのも六地蔵信仰に起因します。各寺で「お幡(旗:おはた 一幡\300)」と呼ばれるお札を授かり、六つのお幡を護符として家の玄関や軒に吊るすと厄を祓い、福を呼ぶとも伝えます。京都六地蔵めぐりは、伏見地蔵(大善寺)、鳥羽地蔵(浄禅寺)、桂地蔵(地蔵寺)、常盤地蔵(源光寺)、鞍馬口地蔵(上善寺)、山科地蔵(徳林庵)を巡拝しますが巡拝順序は、自由のようです。六地蔵の由来は、平安時代、小野篁(おののたかむら)が一度息絶えて冥土へ行き、生身の地蔵菩薩を拝して蘇り、一本の桜木から六体の地蔵菩薩を刻んで、伏見の大善寺(六地蔵)に六体の地蔵尊を祀りました。保元2年(1157年)、後白河上皇の勅命で平清盛が西光法師に命じ、都に通じる主要街道口の鞍馬口街道(上善寺)、東海道(四ノ宮地蔵:山科地蔵)、奈良街道(伏見地蔵)、大阪街道(鳥羽地蔵)、山陰街道(桂地蔵)、周山街道(常盤地蔵)に六体を分祀しました。これらの地蔵を巡拝する「六地蔵めぐり」の風習が生まれました。今は車で巡る人も多いですが、寺に寝泊まりしながら歩いて巡ったと伝え、夜通し開門する寺もあるようです。六地蔵めぐり・・・今年3年目の結願を迎えます・・・残念ながら22、23日に巡る事ができないので20日にお幡(おはた:お札)を頂く為に巡拝しました。後日、知り合いの方からどうしてもお幡が欲しいと頼まれたので25日に再度めぐりました。3年間で4度の六地蔵めぐりをしましたo(*^▽^*)o・・・お蔭様で結願+満願?往生しまっせ?!(*^m^)o==3ぷっ 知っとく情報:お幡は庫裡を訪ねれば、お留守でない限り年中いただけます。

新高瀬川、疎水放水路 城南宮 清々しい参道
伏見名水「菊水若水」 境内 新小枝橋
もう一つの恋塚寺・・・京都六地蔵めぐりの一・浄禅寺(鳥羽地蔵)

平安京の表玄関の羅生門に通じる道筋にある寺で、恵光山と号し浄土宗西山禅林寺派の寺で本堂には、本尊の阿弥陀如来立像を安置し観音堂には等身の聖観音像(藤原期)を安置しています。地蔵堂にある鳥羽地蔵と呼ばれる地蔵尊は京都六地蔵の一とされます。当地に地蔵尊が安置されているのは昔、大阪から京都に入る街道口であった為と伝わります。当寺にも下鳥羽の恋塚寺と同じく、袈裟御前の首塚といわれる五輪石塔があり、遠藤盛遠と袈裟御前の悲恋を伝え恋塚浄禅寺と言われます。『雍州府志』(巻5)には「恋塚」は「鯉塚」であると記されています。近くに住む大鯉が妖怪に変化して現れた為、その大鯉を退治し埋葬した塚なので「鯉塚」だという一説もあります。

京都六地蔵巡りの一・浄禅寺(千本通り)・・・遠藤盛遠と袈裟御前の悲恋を伝える「恋塚寺」としても知られます。 駒札
石仏(鎌倉期) 林羅山の撰文による恋塚碑 袈裟御前塚(首塚)
境内 井戸水が冷たくてマイウ〜o(*^▽^*)o 本堂
観音堂(聖観音像:藤原期) 地蔵堂 京都六地蔵の一・鳥羽地蔵
西八条殿鎮守社と伝える若一(にゃくいち)神社

熊野権現の第一王子を祀る小社。社前の老楠木は平清盛の手植えと伝え古来、神木として偉敬され昭和9年(1934年)の西大路通りの開通にあたって伐りはらわれる事なく道路を迂回させました。当社は勝明寺の鎮守社と云われ明治の神仏分離によって独立。今は、御所ノ内町一帯の産土神とされる。因みに当社は清盛西八条殿邸内の鎮守社で清盛の勧請と伝えます。

JR・西大路駅 清盛の手植えと伝える大楠木 西八条殿の鎮守社と伝える若一神社
平家西八条殿とは・・・

平家一門の代表的な居館は六波羅館でしたが、洛中における平家の拠点となったのは、梅小路公園を中心に六町歩(720m四方=約518400u)にも及ぶ広大な一帯に清盛が西八条館を造営し、主に妻の時子が住み、光明心院という御堂も建立しました。治承3年(1179年)のクーデター(鹿ケ谷の謀議)の際、首謀者の西光法師が清盛の厳しい詰問を受けた所で白拍子の祇王・祇女や仏御前の物語の舞台ともなりました。福原から上洛した清盛は西八条館を拠点にして朝廷などに圧力をかけていました。西八条館も六波羅館同様に寿永2年(1183年)7月の平家都落ちに際し一門の手で火をかけられ灰燼しました・・・ 余談ですが、平安時代中期の陰陽師・安部晴明が後に土御門(つちみかど)家に改名、晴明の邸宅は梅小路に移り、土御門家は江戸時代まで陰陽道を伝えました。この付近の御前通り八条上るの円光寺と梅林寺の二寺には土御門家の家名名残の天文道の遺蹟、墓が残され梅林寺近くには、晴明を祭神とした稲住(いねずみ)神社があります。

相国平清盛像 清々しい境内でしばし、休憩中~~旦_(∩_∩ ) 清盛ゆかりの御神水
清盛に翻弄された祇王の歌碑 桂大橋(八条通) 京都六地蔵巡りの一・地蔵寺
京都六地蔵めぐりの一・地蔵寺(桂地蔵)

寺の創建は明らかでなく、地蔵寺と号する浄土宗の寺で京都六地蔵巡りの霊場です。桂地蔵尊は一木の最下部を刻まれたもので世に姉井菩薩と呼ばれ六地蔵尊の中で最大です。この辺りは桂の渡しに近く、平安歌人の桂大納言源経信や伊勢女の住居があったとも伝えます。

駒札

境内

手水・・井戸水が冷たくて気持ちいいヾ(≧▽≦)ノ

地蔵尊 六地蔵(水塔婆供養) 京都六地蔵の一・桂地蔵@地蔵堂
桂川と愛宕山 愛宕山 天神川と西京極球場
京都六地蔵巡りの一・常盤御前ゆかりの源光寺(常盤地蔵)

京の六地蔵めぐりの一「源光寺」は源光庵とも呼ばれる臨済宗天龍寺派の尼寺です。昔、小野篁が冥土で生身の地蔵尊を拝し、蘇って後、一木から刻んだ六地蔵の一とされ世に常盤谷地蔵、北区の上等寺の姉子地蔵に対して乙子地蔵とも呼ばれます。寺伝によると弘仁2年(811年)、勅旨によって建立され嵯峨天皇の皇子・源常を創業開基とします。のちに後白河法皇が深く帰依され中興開山され、本尊に全ての救済を願われ宗教宗派に関係のない庶民の信仰の根源地と定められている。毎年、春夏秋冬の4回、全国地蔵信仰の唯一の総本山・天地万霊総菩提寺として、源光寺神聖霊場大祭が行われます。当地は、源義経の母、常盤御前の生地で御前が営んだ庵の跡地と伝え境内には常盤御前の墓があります。

常盤の源光寺(常盤地蔵:乙子地蔵)へ 二条城?・・・じゃなくて東映太秦映画村 京都六地蔵巡りの一・源光寺
常盤御前墓(右) 地蔵堂(常盤地蔵:乙子地蔵) 地獄絵
福徳観音菩薩 JR花園駅@丸太町通 北野天満宮@今出川通
妙心寺 ガオォォ〜ヾ(≧▽≦)ノ 千本閻魔堂
風情ある船岡温泉 西陣碑 堀川が氾濫した時、船を繋いで橋とした由来から船橋碑
『源氏物語』の作者・紫式部(むらさきしきぶ)墓所、冥界の番人で六地蔵ゆかりの小野篁(おののたかむら)卿墓

紫式部・・・平安時代中期の女性作家、歌人。『源氏物語』の作者で中古三十六歌仙の一人。『小倉百人一首』に「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな」で入選しています。藤原為時を父として,天延元年(973)頃に生まれた。祖父、父共に歌人、詩人だった事から彼女も幼少の時から学芸に親しみ、その類まれな才能は早くから認められていた。寛弘3年(1006)、一条天皇の中宮彰子に仕え、呼び名を父の官名にちなんで式部と称して、高貴な人に仕え講義する役職で漢文学を教える傍ら、『源氏物語』を執筆し、寛弘6年頃に完成させた。小野篁・・・遣隋使を務めた小野妹子の子孫で、父は小野岑守。孫に三蹟の一人小野道風がいます。若年の頃、父に従って陸奥国へ赴き、弓馬をよくしたが、嵯峨天皇の言葉に触れて発奮し大学へ進学、官途に就きました。巡察弾正、弾正忠、弾正少弼などを歴任、法理に明るく『令義解』の編纂にも深く関与しました。承和元年(834年)、遣唐副使に任ぜられるが、承和5年(838年)に正使・藤原常嗣との諍いから、病気と称して職務を拒否し朝廷を批判する詩を作した為、嵯峨上皇の怒りに触れて隠岐に流されました。1年半後に許されて帰京した後に従三位参議に至りました。伝説では、篁は夜ごと井戸を通って地獄に降り、閻魔大王の元で裁判の補佐をしていたという。この井戸は、京都東山の六道珍皇寺にあり、また珍皇寺の閻魔堂には、篁作と言われる閻魔大王と篁の木像が並んで安置されています。

紫式部墓所(左)、小野篁卿墓 紫式部顕彰碑 参議小野公塋域(えいいき)碑
なぜ、二人の墓が仲良く並んでいるのだろう??? 「源氏物語」の作者・紫式部墓所 冥界の番人で六地蔵ゆかりの小野篁卿墓
京都六地蔵めぐりの一・上善寺(鞍馬口地蔵)

貞観5年(863年)、慈覚大師円仁によって現地名の千本今出川の地に天台密教の道場として建立されたそうです。一時は衰微しましたが、文明年間(1469〜1487年)に春谷盛信上人が天台念仏道場として中興開基し、後土御門、御柏原の両天皇が当寺で授戒されてから隆盛しました。その後、後柏原天皇が当山に行幸され、勅願所不断道場の宣旨ならびに山号である千松山の勅額を賜りました。文禄3年(1594年)、第十二世・善照上人の時に現在地の寺町鞍馬口へ移り、第十三世の肝誉上人になって浄土宗知恩院末に転じました。江戸時代の正徳2年(1712年)に、松平越前守が当山を菩提寺と定めて不断念仏を再興したと伝えます。

京都六地蔵巡りの一・上善寺 駒札 大日如来石仏(鎌倉期)
境内 本堂 六地蔵めぐりの準備中・・・
石仏群 地蔵堂(鞍馬口地蔵) 京都六地蔵の一・鞍馬口地蔵
都富士と称される霊峰・比叡山 突然の雨にもマケズ・・・出雲路橋 五山の送り火・大文字山
加茂川上流 出雲路橋と霊峰・比叡山 加茂川下流
世界文化遺産・下鴨神社(賀茂御祖神社:かもみおやじんじゃ)

正しくは賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)と称し祭神は上加茂神社の祭神・別雷命(わけいかづちのみこと)を生んだ玉依姫命(たまよりひめのみこと)と祖父・加茂建角身命(かもたけつぬのみこと)を祀る加茂氏の氏神社です。地勢によって上加茂神社を上社と言うのに対し当社は下社と言いますが行幸、斎王、式年造営などは同日に行われます。両社を称して加茂神社と言います。鎮座地は糺の森の中にあって朱の鳥居や楼門が緑に映えて一しお目立ち、桧皮葺の典雅な社殿と相俟って王朝時代さながらの景観を呈しています。本殿(国宝:江戸期)は三間社、流造り、桧皮葺で上加茂神社本殿と同形式からなる流れ造りの典型で文久3年(1863年)の再建です。他に幣殿を始め55棟からなる多々の社殿(重文:江戸期)は何れも寛永5年(1628年)の造替ですが全体に古式を留め、昔の貴族住宅を偲ばせています。境内には摂社、末社が多く中でも三井神社は「山城国風土記」に記された蓼倉里三身(たでくらのさとみ)社とあるのは当社とされます。井雲井於(いづものいのえ)神社は一に比良木社とも呼ばれ下鴨の地主神ですが厄除けの神としも崇敬され願いが叶うとお礼に柊を献ずる慣わしがあります。御手洗社は井上社とも言い井泉の神瀬織津姫を祀り社前の池で御手洗会、夏越の祓が行われます。河合神社は本社より南、糺の森中に鎮座する摂社の一で玉依姫命と上下加茂社の苗裔(びょうえい)神を祀る延喜式内の大社です。

世界文化遺産・賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ:下鴨神社)
手水石は舟形の磐座(いわくら)石 奈良の小川の御手洗 史跡・糺の森
史跡・糺の森(ただすのもり)

糺の森は、高野川と鴨川が合流する三角州地帯の森林を総称します。かつて、約495万u(約150万坪)の原生林でしたが中世の戦乱や明治4年の上知令によって現在の約12万4千u、東京ドームの約3倍に縮小されました。現在、全域を国の史跡として保存されています。旧山代原野の原生樹林の植生を残す唯一の森林で、ケヤキ、ムク、エノキなど約40種、樹齢200年〜600年の樹木約600本が生い茂り樹林の間には奈良の小川、瀬見の小川、泉川、御手洗(みたらし)川の清流があり市民の憩いの場として古くから親しまれています。源氏物語、枕草子を始め数々の物語や詩歌管弦に謳われた名所旧跡です。

幽邃な史跡・糺の森 四ノ宮地蔵堂(徳林庵)へ@川端通り
日本最大で高さ24.4mある平安神宮の大鳥居 琵琶湖疏水の噴水@岡崎 カメハメハ〜(^▽^;)
蹴上インクライン 蹴上〜四ノ宮地蔵堂(徳林庵)へ 煉瓦積みが捻れているので「ねじりまんぼ」
琵琶湖疏水

明治14年(1881年)2月、京都府知事に就任した北垣国道は琵琶湖に着目し疏水を開削する事で琵琶湖と宇治川を結ぶ舟運を開き同時に動力(水車)、灌漑、防火などに利用して京都の産業を振興しようとしました。明治23年(1890年)に完成した琵琶湖疎水(第一疎水)は当時の京都市年間予算の十数倍という膨大な費用を投入した大事業の主任技師として北垣知事に選ばれたのが、工部大学(東京大学)を卒業したばかりの田辺朔郎(さくろう:当時21才)が設計し僅か5年で完成し水力発電などに利用され日本初の電気鉄道(伏見線)を開通させるなど京都の近代化に大きな役割を果たしました。当時は我が国の重大工事は全てを外国人技師の設計監督に委ねていた時代にあって日本人の手によって行った我が国最初の大土木事業でした。

蹴上インクライン 田辺朔郎像 解説
船を貨車に乗せて傾斜を上り下りして運んだインクライン
解説 折りたたみのチャリ? Σ( ̄ロ ̄lll) ガビーン キララくんでつ(⌒▽⌒)
義経所縁の地蔵尊(義経大日如来(粟田口)、大日如来(蹴上口)、延命地蔵大菩薩(蹴上地蔵)

金売吉次に伴われ奥州への旅立つ途中、粟田口を過ぎ九条山の坂にさしかかった時、馬に乗った関原与市と従者9人の武士が、水溜りの泥水を蹴りかけました。咎めた牛若丸と争いになり相手が平家の武士と聞いた牛若丸は激怒し9人を切り倒したが不憫に思い、9体の地蔵尊を安置し菩提を弔いました。日ノ岡峠を境として山科よりを九体町と言い、斬り倒された関原与市ら9人の菩提を弔う為に牛若丸が石仏9体を安置したのが地名の由来と伝え、蹴り上げた場所は蹴上(けあげ)という地名として残っています。9体の石仏のうち6体は所在不明ですが、3体は街道筋に残されていると伝え義経大日如来(疎水公園)、大日如来(蹴上口)、延命地蔵大菩薩(蹴上地蔵)の3体だと思われます。

第1琵琶湖疎水の第3トンネル西口 義経大日如来(疎水公園)
大日如来(蹴上口) 日ノ岡峠のピークを越えたとです・・・ヾ(≧▽≦)ノ 延命地蔵大菩薩(蹴上地蔵)
快適なダウンヒル・・・ 題目碑 解説
名号碑 JR琵琶湖線(東海道本線) 明治天皇御遺蹟碑(奴茶屋跡)
京都六地蔵巡りの一・徳林庵(四ノ宮地蔵)

徳林庵は柳谷山(りゅうこくざん)と号する臨済宗南禅寺派の寺で門前の地蔵堂は四ノ宮地蔵と言われ京都六地蔵巡りの一として知られます。人康親王(さねやすしんのう)の菩提を弔う為に雲英正怡(うんえいしょうい)禅師が建立し天文年間、兵火にかかり現地に移転したと伝えます。親王は琵琶を弾く事に優れ後世、親王を琵琶の始祖と仰ぎ江戸時代には検校位を有する盲人が全国から集まり親王の霊を慰めたと伝えます。

旧東海道標 京都六地蔵巡りの一・四ノ宮地蔵堂(徳林庵) 駒札
四体石仏(鎌倉期) 「定飛脚 宰領中 文政四年巳年六月吉日」と刻まれる飛脚遺蹟・・・飛脚や馬の為に掘られた井戸は現役ヾ(≧▽≦)ノ
キララくんも一休みでつ(*^-^*) かわいい六地蔵(わらべ地蔵尊) 人康親王供養塔(蝉丸塔:吉野期)
京都六地蔵巡りの一四ノ宮地蔵堂(徳林庵)
京都六地蔵の一・四ノ宮地蔵尊 突然の激しい雨 Σ( ̄ロ ̄lll) ガビーン 小雨の中外環状線を大善寺(六地蔵)へ
京都六地蔵巡りの一・大善寺(六地蔵)

地蔵堂に安置されている地蔵菩薩立像は平安時代の始め、小野篁(おののたかむら)が一度息絶えて冥土へ行き、そこで生身の地蔵尊を拝して蘇った後に一本の桜の木から刻んだ六体の地蔵の一つです。当初、ここに六体の地蔵尊が祀られていたのですが、後白河上皇の勅命により平清盛が西光法師に命じ、都に通じる主要街道の入り口に残りの五体を分祀した事から、これらの地蔵を巡拝する「六地蔵巡り」の風習が生まれたと伝えます

大善寺(伏見六地蔵) 境内 本堂
観音堂 地蔵堂 京都六地蔵の一・地蔵菩薩立像@地蔵堂
小さい秋見っけ!!!(*^-^*)秋桜 伏見城お船入り常夜灯

桃山御陵を走り抜けます・・・

R24号線大手筋交差点 御香宮大鳥居 おけいはん(京阪電車)
伏見と言えば・・・酒 酒と言えば・・・酒蔵をライトアップする花灯篭
雨が降ったり止んだりの中、伏見へ帰ってきました・・・酒蔵をライトアップする花灯篭が雰囲気を醸し出して・・・えぇなぁ〜(*^-^*)

Tourist  2008.08.20&25(Tue)

 

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