六地蔵めぐり in 京都

 

契りおく花とならびの岡の上に 哀れ幾世の春をすぐさむ  兼好法師

 

『浄禅寺(鳥羽地蔵)〜地蔵寺(桂地蔵)〜源光寺(常盤地蔵)〜上善寺(鞍馬口地蔵)〜徳林庵(四ノ宮地蔵)〜大善寺(六地蔵)』

↑クリックして頂くと、六地蔵めぐりの地図を表示します!(^_-)

京都六地蔵めぐり

六地蔵とは・・・地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六道に迷い苦しむ修生を救済せんと発願せられた仏様です。六地蔵めぐり・・・毎年8月22日と23日の二日間、「京都六地蔵めぐり」と言われる京都の旧街道口に安置された六体の地蔵尊を巡拝して、罪障消滅、無病息災、家内安全、五穀豊穣などを願う慣わしで、新仏の初盆に水塔婆供養をして三年間巡拝すれば六道(生前の罪により地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天道)の苦を免れると伝えます。京都の町で子供の地蔵盆が行われるのも六地蔵信仰に起因します。各寺で「お幡(旗:おはた 一幡\300)」と呼ばれるお札を授かり、六つのお幡を護符として家の玄関や軒に吊るすと厄を祓い、福を呼ぶとも伝えます。京都六地蔵めぐりは、伏見地蔵(大善寺)、鳥羽地蔵(浄禅寺)、桂地蔵(地蔵寺)、常盤地蔵(源光寺)、鞍馬口地蔵(上善寺)、山科地蔵(徳林庵)を巡拝しますが巡拝順序は、自由のようです。六地蔵の由来は、平安時代、小野篁(おののたかむら)が一度息絶えて冥土へ行き、生身の地蔵菩薩を拝して蘇り、一本の桜木から六体の地蔵菩薩を刻んで、伏見の大善寺(六地蔵)に六体の地蔵尊を祀りました。保元2年(1157年)、後白河上皇の勅命で平清盛が西光法師に命じ、都に通じる主要街道口の鞍馬口街道(上善寺)、東海道(四ノ宮地蔵:山科地蔵)、奈良街道(伏見地蔵)、大阪街道(鳥羽地蔵)、山陰街道(桂地蔵)、周山街道(常盤地蔵)に六体を分祀しました。これらの地蔵を巡拝する「六地蔵めぐり」の風習が生まれました。今は車で巡る人も多いですが、寺に寝泊まりしながら歩いて巡ったと伝え、22日は夜通し開門する寺もあるようです。 お幡(一枚:\300)は庫裡を訪ねれば年中いただけます。

大光寺

元、青山伯耆(ほうき)守の屋敷があったので伯耆町という所にある藤澤山(ふじさわざん)と号する浄土宗黒谷派の中本山。文応元年(1260年)、法然上人より8世の寛海上人が、建立した浄土宗の寺で桃山町本多上野(旧堀内村江戸町)にあったのを寛政年中に現在の伯耆町に移したと伝える。境内の薬師堂は明治時代末期、華頂宮の旧御殿を下賜されたと伝える桃山様式の建物で安置する薬師如来は、元、奈良三笠山の薬師寺より移した「手接の薬師」という尊像で耳の病気や安産祈願の信仰がある。日限地蔵や庚申堂、四面石仏(室町期)を有します。

町内の地蔵盆の設営@華頂宮の旧御殿を下賜されたと伝える桃山様式の大光寺薬師堂

本尊・阿弥陀如来を安置する本堂

日限地蔵尊は「日を限って祈願すると願いが叶えられる」というありがたい地蔵菩薩 酒蔵
浄土宗知恩院派、松顔山と号する大栄寺。創建が天正14年(1586年)と伝える以外は由緒などは不詳 石仏
四面石仏(鎌倉期:阿弥陀(左)弥勒(右) 四面石仏(鎌倉期:釈迦(右)、薬師(左) 大日如来地蔵尊
千手観音 石仏群 水島幸庵墓所
新高瀬川右岸堤防 城南宮
伏見名水・菊水若水 境内 鳥羽・伏見戦が勃発した小枝橋
もう一つの恋塚寺・・・京都六地蔵めぐりの一・浄禅寺(鳥羽地蔵)

平安京の表玄関の羅生門に通じる道筋にある寺で、恵光山と号し浄土宗西山禅林寺派の寺で本堂には、本尊の阿弥陀如来立像を安置し観音堂には等身の聖観音像(藤原期)を安置しています。地蔵堂にある鳥羽地蔵と呼ばれる地蔵尊は京都六地蔵の一とされます。当地に地蔵尊が安置されているのは昔、大阪から京都に入る街道口であった為と伝わります。当寺にも下鳥羽の恋塚寺と同じく、袈裟御前の首塚といわれる五輪石塔があり、遠藤盛遠と袈裟御前の悲恋を伝え恋塚浄禅寺と言われます。『雍州府志』(巻5)には「恋塚」は「鯉塚」であると記されています。近くに住む大鯉が妖怪に変化して現れた為、その大鯉を退治し埋葬した塚なので「鯉塚」だという一説もあります。

・・・ 京都六地蔵巡りの一・浄禅寺
百日紅(サルスベリ)の花が美しい 恋塚・浄禅寺石 こま札
石仏(鎌倉期:阿弥陀?) 林羅山の撰文による恋塚碑 袈裟御前塚(首塚)
境内 ご朱印とお幡(はた)を頂戴しました。(^-^)v
井戸水が冷たくてマイウ〜o(*^▽^*)o 石仏群
地蔵堂 京都六地蔵の一・鳥羽地蔵 冷たい麦茶のご接待に感謝!(*´ο`*)=3ホッ
嵐山サイクリングロード ・・・ (;´д`)ゞあちぃ
・・・ ・・・ 堤外人道橋(天神川)を渡ります・・・
・・・ 前方に桂大橋 桂大橋を渡ります・・・
京都六地蔵めぐりの一・地蔵寺(桂地蔵)

寺の創建は明らかでなく、地蔵寺と号する浄土宗の寺で京都六地蔵巡りの霊場です。桂地蔵尊は一木の最下部を刻まれたもので世に姉井菩薩と呼ばれ六地蔵尊の中で最大です。この辺りは桂の渡しに近く、平安歌人の桂大納言源経信や伊勢女の住居があったと所とも伝えます。

京都六地蔵巡りの一・地蔵寺 こま札 たしかに言えてる?!・・・( ..)φメモメモ
境内 六体地蔵(水塔婆供養)
地蔵尊 地蔵堂(本堂) ご朱印とお幡(はた)を頂戴しました。(^-^)v
京都六地蔵の一・桂地蔵@地蔵堂 麦代餅(むぎてもち)で知られる中村軒 常盤の源光寺(常盤地蔵:乙子地蔵)へ
・・・ 阪急電車京都線・桂川橋梁
洛西用水と円形分水(円筒分水)

嵐山〜洛西を流れる幹線延長約20kmの灌漑用水。この地域は、5世紀後半に朝鮮・新羅からきた秦氏によって農業を興した地と伝え、この頃から堰や用水路も整備されたと伝える。当時、秦氏が朝鮮の土木技術を日本で応用することにより、未開拓地であった嵯峨野の地域に農業を広めた。鎌倉時代に山城国桂川用水差図として東寺百合文書に載っており、江戸時代初期には角倉了以が保津川の開削と同時に一の井堰(葛野大堰)の整備をおこなった。現在の一ノ井堰は昭和26年に京都府により10ヶ所余りの井堰を統合し築造されたものであり、西京区〜長岡京市に至る田畑を潤す一方で、都市雨水の排水路としての機能も果たしている。また、西芳寺川堤下の農業用水などを一定の割合で正確に分水するために用いられる農業水利施設を円形分水(円筒分水)という。

・・・ 桂川と愛宕山遠望 農業水利施設を円形分水(円筒分水)
松尾大社

大山咋神(おおやまくいのかみ)、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと/中津島姫命(なかつしまひめのみこと)を祭神とする旧棺幣大社で京都最古の神社の一です。文武天皇の大宝元年(701年)、秦忌寸都里(はたのいみきとり)が松尾山大杉谷の磐座(いわくら)の神霊を勧請し社殿を造営しその女・知満留女(ちまるめ)を斎女として奉仕させたのが当社の起源で代々秦氏が奉祀しました。平安遷都後、賀茂社と供に王城鎮護神となり賀茂の厳霊、松尾の猛霊と東西並び称されました。大山咋神(おおやまくいのかみ)は上賀茂神社の祭神・賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)の父神とされ賀茂社とは姻戚関係にあり延喜の制には名神大社となり二十二社の制には第四に班し中世を通して上七社の一に列せられる有数の大社です。寛弘元年(1004年)、一条天皇の行幸以来歴代の行幸、行啓すこぶる多く中世以降は酒造の神として崇敬が篤く氏子地域は京都市の1/3にも及びます。

前方に松尾橋 松尾大社
こま札 楼門 手水の亀さん(#^.^#)
撫で亀さん(#^.^#) 解説 境内
拝殿 本殿 神使いの庭・・・鯉と亀は松尾大社の神使い
御神水「亀の水」

大杉谷の崖下から湧出する清泉でこの水を醸造の時に加えれば酒が腐敗しないと伝わり古来醸造家が汲んで持ち帰る慣わしがあり当社の信仰はこの井泉によるものです。亀の井とは松尾神の神使いが亀である事に因りますが神の井に通じます。清泉は飲料水として古代住民にとって神の水で水を求めて聚落が営まれ当社を始め松尾に座す水の神であったのが大山咋神(おおやまくいのかみ)を信奉する信者によって斉い込められ本来の神格が失われたと考えられています。

御神水「亀の水」 霊亀の滝と瀧御前社(四大神三宮社)
天狗の顔が分かります?? 暑い時は、カキ氷とキナコわらびもち(^^♪ やっぱ、これっしょ!!!! o(>w<)〇゛
梅宮大社

嵯峨天皇の皇后・橘嘉智子(たちばなのかちこ/檀林皇后)がその祖神を祀った氏神社で橘諸兄(たちばんもろえ)の母・県犬飼(あがたのいぬかい)橘三千代が相楽郡井出(綴喜郡井出町)に酒解神(さかとけのかみ)、酒解子神(さかとけこのかみ)を祭神として創祀したのが起こりで平安遷都後、現在地に遷した神で大若子、小若子は伊勢国度会郡より遷した神で何れも橘氏の外家に連なる祖神です。皇室の崇敬も篤く醍醐天皇の御代に定められた延喜式では、名神大社に列し、四度の官幣に預かり二十二社の一となりました。当初、橘氏の氏人が奉幣使となり神主を務めましたが橘氏の哀徴により藤原氏摂関のものが管領して代行しました。本殿には祭神四座、相殿に嵯峨、仁明両天皇、檀林皇后、橘清友(皇后父)を配祀し若宮社には橘諸兄、護王社には橘氏公(うじぎみ/皇后弟)を祀ります。

松尾橋 桂川と愛宕山遠望 梅宮大社
二の鳥居 こま札 楼門
境内 神泉苑(入苑料:\500-)
本殿 橋本経亮宅跡碑 千代の古道
京都六地蔵巡りの一・常盤御前ゆかりの源光寺(常盤地蔵)

京の六地蔵めぐりの一「源光寺」は源光庵とも呼ばれる臨済宗天龍寺派の尼寺です。昔、小野篁が冥土で生身の地蔵尊を拝し、蘇って後、一木から刻んだ六地蔵の一とされ世に常盤谷地蔵、北区の上等寺の姉子地蔵に対して乙子地蔵とも呼ばれます。寺伝によると弘仁2年(811年)、勅旨によって建立され嵯峨天皇の皇子・源常を創業開基とします。のちに後白河法皇が深く帰依され中興開山され、本尊に全ての救済を願われ宗教宗派に関係のない庶民の信仰の根源地と定められている。毎年、春夏秋冬の4回、全国地蔵信仰の唯一の総本山・天地万霊総菩提寺として、源光寺神聖霊場大祭が行われます。当地は、源義経の母、常盤御前の生地で御前が営んだ庵の跡地と伝え境内には常盤御前の墓があります。

嵐電(京福電車)帷子ノ辻(かたびらのつじ)駅 嵐電・北野白梅町線 京都六地蔵巡りの一・源光寺(常盤地蔵)
福徳観音菩薩 厄除け・観世音菩薩 美薬大菩薩
常盤御前墓(右) 地蔵堂(常盤地蔵:乙子地蔵) 極楽絵
常盤地蔵(乙子地蔵) 今日も快走してくれるキララちゃん(^^♪ R162号線(周山街道)
兼好法師が「徒然草」を執筆したと伝える名勝・双ケ丘(雙ケ岡:ならびがおか)

双ケ丘(雙ケ岡)の東麓、浄土宗・長泉寺に兼好法師の墓がある。吉田の地に住まいしていたので吉田兼好ともいった。後宇多天皇に近侍したが天皇が崩ずるに及んで悲しみのあまりに出家。はじめ洛北・修学院にト居したが後に木曽にあそび、帰路の後、48才頃に双ケ丘(雙ケ岡)西麓に庵を結んで68才で没するまでの約20年間をここで閑居した。「つれづれなるままに 日暮し硯に向かいて・・・」から始まる『徒然草』はこの時になったものだと伝える。『徒然草』は『枕草子』と共に古典随筆文学の双璧として今なお広く愛読され続けている。・・・北から一の丘(116m)二の丘(102m)、三の丘(78m)と次第に低くなる三つの丘が連なり、世界文化遺産・仁和寺など市街地を眺望できる散歩コースとしても人気。一の丘の頂上には、大規模な古墳があるが何度も盗掘された為に被葬者は元より造成の時期等は一切不明である。30年近く前に発掘調査された後、崩壊を防ぐ為に土砂で埋められ現在に至る。

オムロン発祥の地碑

双ヶ丘東麓にある兼好法師旧跡(長泉寺)・・吉田兼好の歌碑と墓があるが残念ながら非公開

名勝・双ケ丘(雙ケ岡) つれづれなるままに・・軽登山開始?!(*゜▽゜)/ 石仏
・・・ 三の丘(78m)
二の丘へ ・・・ ・・・
一の丘と二の丘の鞍部と三の丘にも群集墳がある。
解説パネル ・・・ 二の丘(102m)
二の丘(102m) 「とおみのひろば」から洛北俯瞰 一の丘と二の丘の鞍部の古墳群?
一と二の丘の間の平坦な台地になった所は、戊辰戦争で仁和寺に屯営していた薩長軍などが射撃訓練をした所とも伝える。
・・・ 双ヶ丘1号墳解説 一の丘(116m)
嵐山〜洛西方面、西山の眺め
世界文化遺産・仁和寺俯瞰 色々話してくれた方と犬のフクちゃん(^_^)/~ 三等三角点・御室(双ヶ丘/115.79m)
右大臣贈正二位・清原真人夏野(なつの)

平安時代初期の貴族、政治家。舎人親王の孫である小倉王の五男。初名は繁野王、のち臣籍降下し清原真人姓を賜与された。平安初期、桓武・平城・嵯峨・淳和・仁明の五代天皇に歴任し従二位・右大臣、贈正二位に官位した。詩文に優れ法制にも通じ「令義解」に携わった。かつて雙ケ岡(双ケ丘)の東麓に山荘を営んだことから雙ケ岡(双ケ丘)大臣とも呼ばれた。承和4年(837年)10月、56才で没した。ここに「右大臣贈正二位清原真人夏野公墓」と記した石碑がある。・・・偶然に出会った犬(フクちゃん)の散歩に来られてた方に、ここは墓ではなく清原真人夏野の別荘地があったところで当地で亡くなったことを示しているだけのようですよと教えていただいたのですが・・真実はどうなのでしょう?`s(・'・;)

双ヶ丘1号墳(石室羨道入り口) 右大臣贈正二位清原真人夏野公墓? 三の丘へ戻ります・・(;´д`)ゞあちぃ
下山中・・ 双ヶ丘の解説パネル
石仏 戻ってきました!さっ、六地蔵めぐりの再開!(^^ゞ JR花園駅@丸太町通
臨済宗妙心寺派大本山・妙心寺 牛若丸首途(かどで)の井(金売り吉次屋敷跡) おっ!二宮金次郎(尊徳)やんか〜(@_@)
文子天満宮旧跡地 茅葺の長屋門と主屋は仁和寺の御典医を勤めた奥渓(おくたに)家住宅(京都市指定有形文化財)
奥渓家住宅長屋門(京都市指定有形文化財) こま札 西大路通り
北野天満宮@今出川通 京都市電北野線記念碑 北野をどり、寿会が催される上七軒歌舞練場(北野会館)
京都最古の花街・上七軒(かみしちけん)

祇園を初め幾つかの花街がありますが、上七軒は最も古く、室町時代に北野天満宮造営に使った残木で七軒の水茶屋を建てたのが起こりと伝えます。豊臣秀吉が北野で大茶湯をした時、七軒茶屋に立ち寄ったところ、お茶屋の者が御手洗団子(みたらしだんご)を献じたので、その賞とて山城一円の茶屋株(遊女屋)の特許を与えたと伝えます。江戸時代、北野天満宮の参拝者を対象とし大いに栄えましたが、後に遊女屋渡世の者が内野五番町に出店を出すに及んで漸次、芸妓を主とするに至りました。特に西陣を近くに控えているので顧客は、専ら西陣の機業家を主とし、他の花街と比して比較的地味、古風が特色です。昭和35年に於いてお茶屋は32軒、芸妓は40名弱でした。今でも10軒のお茶屋と飲食店が軒を連ねて往時の面影が残っています。毎年春(4/15〜4/25)には「北野をどり」、秋には「寿会」が上七軒歌舞練場(北野会館)で催されます。

京都最古の花街、上七軒
花街の風情がある上七軒 千本通りを北上ing・・(;´д`)ゞあちぃ ・・・
釘抜地蔵(石像寺:しゃくぞうじ)

家隆山光明遍石像寺と号し、弘仁10年(819年)に弘法大師によって開創されたと伝える浄土宗百万遍知恩寺に属します。本堂に安置する石造地蔵菩薩像は、諸々の苦しみを抜き取るという事から苦抜地蔵と言い、転訛して釘抜地蔵と言われます。寺伝によると室町末期の弘治年間、油小路上長者町の紀ノ国屋道林という京都で有数の大商人が両手の痛みに耐えかねて、この地蔵尊に祈願したところ、満願の夜、夢中に地蔵尊が現れ「汝の痛みは前世に人を怨み人形の両手に八寸の釘を打ち込んで呪った罪障によるものである。よってその釘を抜き取って苦痛を救うてとらせよう・・・」と言って2本の釘を示すと思えば夢が覚め、両手の痛みは既になかったと伝えます。以来、諸病平癒を祈願する者は、全て体に釘が刺さったと言って祈ると霊験があるとされ、御礼に釘と釘抜を小絵馬にして奉納する慣しがあります。当寺の創建由緒は定かでなく、家隆山と号するのは、元、当地に歌人・藤原家隆が住まいしていたと言われるが、根拠がありません。おそらく千本蓮台野墓地に至る沿道の地蔵堂として祀られていたと思われます。

釘抜地蔵(石像寺:しゃくぞうじ) こま札
境内 弘法大師三井の一・加持水 釘抜(苦抜)のオプジェ?
大師堂 釘と釘抜、絵馬 阿弥陀三尊石仏(重文:鎌倉期)
なで仏 お礼に奉納された釘と釘抜の小絵馬 厄除け桃
千本閻魔堂(引接寺:いんじょうじ)

光明山と号する古義真言宗高野山金剛寺に属する寺で閻魔王を祀る事から世に「千本閻魔堂」と言います。後一条天皇の寛仁年中、定覚律師が法界四生の為に大念仏を始めたのが当寺の起こりと伝えますが、明らかではありません。初め、真言宗に属しかっては付近の上品蓮台寺や大報恩寺に属した事もありましたが現在は独立寺院で、昔は方一町に亘る寺域を占めたと伝えます。平安時代、死者の埋葬が洛中で禁じられていた為、洛外との境界に当たるこの地で供養されたとも伝え、境内奥にある紫式部供養塔は国の重要文化財に指定されています。春の京都三大念佛狂言の一「ゑんま堂狂言」、夏の盂蘭盆会の精霊迎えなどで市民に親しまれる古刹です。

密教の法具 五鈷杵(ごこしょ) 釘抜(苦抜)地蔵堂 千本ゑんま堂(引接寺)
こま札 閻魔法王がお出迎え 千本ゑんま堂(引接寺)
本堂(閻魔堂) 法の番人・閻魔法王
閻魔法王の湯飲み茶碗「萬倍碗」 先祖の精霊を迎える為に水塔婆を流す池 大黒さんと戎さん
紫式部供養塔 茶釜塚碑
童地蔵尊 風情ある建築意匠の船岡温泉 紫式部、小野篁卿墓所
『源氏物語』の作者・紫式部(むらさきしきぶ)墓所、冥界の番人で六地蔵ゆかりの小野篁(おののたかむら)卿墓

紫式部・・・平安時代中期の女性作家、歌人。『源氏物語』の作者で中古三十六歌仙の一人。『小倉百人一首』に「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな」で入選しています。藤原為時を父として,天延元年(973)頃に生まれた。祖父、父共に歌人、詩人だった事から彼女も幼少の時から学芸に親しみ、その類まれな才能は早くから認められていた。寛弘3年(1006)、一条天皇の中宮彰子に仕え、呼び名を父の官名にちなんで式部と称して、高貴な人に仕え講義する役職で漢文学を教える傍ら、『源氏物語』を執筆し、寛弘6年頃に完成させた。小野篁・・・遣隋使を務めた小野妹子の子孫で、父は小野岑守。孫に三蹟の一人小野道風がいます。若年の頃、父に従って陸奥国へ赴き、弓馬をよくしたが、嵯峨天皇の言葉に触れて発奮し大学へ進学、官途に就きました。巡察弾正、弾正忠、弾正少弼などを歴任、法理に明るく『令義解』の編纂にも深く関与しました。承和元年(834年)、遣唐副使に任ぜられるが、承和5年(838年)に正使・藤原常嗣との諍いから、病気と称して職務を拒否し朝廷を批判する詩を作した為、嵯峨上皇の怒りに触れて隠岐に流されました。1年半後に許されて帰京した後に従三位参議に至りました。伝説では、篁は夜ごと井戸を通って地獄に降り、閻魔大王の元で裁判の補佐をしていたという。この井戸は、京都東山の六道珍皇寺にあり、また珍皇寺の閻魔堂には、篁作と言われる閻魔大王と篁の木像が並んで安置されています。

紫式部墓所(左)、小野篁卿墓 冥界の番人で六地蔵ゆかりの小野篁卿墓 参議小野公塋域(えいいき)碑
「源氏物語」の作者・紫式部墓所 紫式部顕彰碑 瑞光院・赤穂四十六義士遺髪塔
京都六地蔵めぐりの一・上善寺(鞍馬口地蔵)

貞観5年(863年)、慈覚大師円仁によって現地名の千本今出川の地に天台密教の道場として建立されたそうです。一時は衰微しましたが、文明年間(1469〜1487年)に春谷盛信上人が天台念仏道場として中興開基し、後土御門、御柏原の両天皇が当寺で授戒されてから隆盛しました。その後、後柏原天皇が当山に行幸され、勅願所不断道場の宣旨ならびに山号である千松山の勅額を賜りました。文禄3年(1594年)、第十二世・善照上人の時に現在地の寺町鞍馬口へ移り、第十三世の肝誉上人になって浄土宗知恩院末に転じました。江戸時代の正徳2年(1712年)に、松平越前守が当山を菩提寺と定めて不断念仏を再興したと伝えます。

解説 京都六地蔵巡りの一・上善寺 大日如来石仏(鎌倉期)
境内 石仏群 ご朱印とお幡(はた)を頂戴しました。(^-^)v
京都六地蔵の一・鞍馬口地蔵 本堂
おぉ〜地獄に仏?! ヽ(゜▽、゜)ノ 都富士と称される霊峰・比叡山 五山の送り火・大文字山
加茂川上流 加茂川下流 川端通り
山科・四ノ宮地蔵堂(徳林庵)へ 煉瓦積みが捻れているので「ねじりまんぼ」 蹴上の峠をがんばり中・・31℃(; ̄ー ̄A
義経ゆかりの義経大日如来(疎水公園)
蹴上インクライン

第1、第2琵琶湖疎水が合流する蹴上の船留から岡崎動物園前の船留まで1/15という急勾配でこの間約600mだけ斜面にレールを敷き運輪船を乗せた四輪付き船台の鋼索を電力で上下に動かしました。この斜面鉄道をインクラインと言います。

はっきりと義経と刻まれている・・ 蹴上インクライン
船を貨車に乗せて傾斜を上り下りして運んだインクライン インクラインの解説
第1琵琶湖疎水の第3トンネル西口 これも義経ゆかり?大日如来(蹴上口) 湧水で汗をぬぐいます。(*´ο`*)=3ホッ
日ノ岡峠のピークを越えたとです・・(;´д`)ゞ これも義経ゆかり?延命地蔵大菩薩(蹴上地蔵) 快適なダウンヒル・・・ヾ(≧▽≦)ノ
車石が使われる京津国道改良工事紀念碑 題目碑

名号碑

解説

JR琵琶湖線(東海道本線)

旧東海道 明治天皇御遺蹟碑(奴茶屋跡) 旧東海道標
・・・ 露店と人出が凄い!!!(@_@;)
自転車から降りて邪魔にならないよう押し歩き・・・夏祭りの浴衣は涼しげで、えぇ感じやな〜(^^♪
京都六地蔵巡りの一・徳林庵(四ノ宮地蔵)

徳林庵は柳谷山(りゅうこくざん)と号する臨済宗南禅寺派の寺で門前の地蔵堂は四ノ宮地蔵と言われ京都六地蔵巡りの一として知られます。人康親王(さねやすしんのう)の菩提を弔う為に雲英正怡(うんえいしょうい)禅師が建立し天文年間、兵火にかかり現地に移転したと伝えます。親王は琵琶を弾く事に優れ後世、親王を琵琶の始祖と仰ぎ江戸時代には検校位を有する盲人が全国から集まり親王の霊を慰めたと伝えます。

京都六地蔵巡りの一・四ノ宮地蔵堂(徳林庵) 冷やしあめくださいな〜(^^♪ 大日如来石仏(四体石仏/鎌倉期)
飛脚や馬の為に掘られた井戸は現役 かわいい六地蔵(わらべ地蔵尊) 人康親王供養塔(蝉丸塔:吉野期)
ご朱印とお幡(はた)を頂戴しました。(^-^)v 京都六地蔵の一・四ノ宮地蔵尊 さっ、六地蔵へ行こっか!o(*^▽^*)o
外環状線を大善寺(六地蔵)へ ・・・ JR東海道新幹線
パセオダイゴロー通過ing・・・ ・・・ ・・・
京都六地蔵巡りの一・大善寺(六地蔵)

地蔵堂に安置されている地蔵菩薩立像は平安時代の始め、小野篁(おののたかむら)が一度息絶えて冥土へ行き、そこで生身の地蔵尊を拝して蘇った後に一本の桜の木から刻んだ六体の地蔵の一つです。当初、ここに六体の地蔵尊が祀られていたのですが、後白河上皇の勅命により平清盛が西光法師に命じ、都に通じる主要街道の入り口に残りの五体を分祀した事から、これらの地蔵を巡拝する「六地蔵巡り」の風習が生まれたと伝えます。

京都六地蔵巡りの一・大善寺(六地蔵) 返納されたお幡(はた)
本堂 本尊・阿弥陀如来坐像 ご朱印とお幡(はた)を頂戴しました。(^-^)v
京都六地蔵の一・地蔵菩薩立像@地蔵堂 観音堂
観月橋交差点 酒蔵 伏見夢百衆前の通りは枡形の道(遠見遮断)
今年で6年連続の六地蔵巡りも無事に終えまつた。。。今年も無っ茶暑かったぁぁ〜(;´д`)ゞあっちち

Tourist 2011.08.22(M)

 

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桃山、醍醐の史跡探訪

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華の道

上醍醐散策その1

山の華道(はなみち)1

上醍醐散策その2

山の華道(はなみち)2

古の道(いにしえのみち)

古の道(いにしえのみち)

明智越え

明智越え

伏見醍醐界隈

伏見醍醐界隈

 

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