京都六地蔵めぐり "2014"
夢かとも何か思はむ浮世をばそむかざりけむ程ぞくやしき 惟喬(これたか)親王
『浄禅寺(鳥羽地蔵)〜地蔵寺(桂地蔵)〜源光寺(常盤地蔵)〜上善寺(鞍馬口地蔵)〜徳林庵(四ノ宮地蔵)〜大善寺(六地蔵)』
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都に通じる六街道口に祀られた六地蔵 | ||
地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六道に迷い苦しむ修生を救済せんと発願せられた仏様です。六地蔵の由来は、平安時代、小野篁(おののたかむら)が一度息絶えて冥土へ行き、生身の地蔵菩薩を拝して蘇り、一本の桜木から六体の地蔵菩薩を刻んで、伏見の大善寺(六地蔵)に六体の地蔵尊を祀りました。保元2年(1157年)、後白河上皇の勅命で平清盛が西光法師に命じ、都に通じる主要街道口の鞍馬口街道(鞍馬口地蔵)、東海道(四ノ宮地蔵:山科地蔵)、奈良街道(伏見地蔵)、大阪街道(鳥羽地蔵)、山陰街道(桂地蔵)、周山街道(常盤地蔵)に六体を分祀しました。これらの地蔵を巡拝する「六地蔵めぐり」の風習が生まれました。 |
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鳥羽地蔵(大阪/京街道) | 桂地蔵(山陰街道) | 常盤地蔵(周山街道) |
鞍馬口地蔵(鞍馬口街道) | 四ノ宮地蔵:山科地蔵(東海道) | 伏見地蔵(奈良街道) |
京都六地蔵めぐり |
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六地蔵めぐり・・・毎年8月22日と23日の二日間、「京都六地蔵めぐり」と言われる京都の旧街道口に安置された六体の地蔵尊を巡拝して、罪障消滅、無病息災、家内安全、五穀豊穣などを願う慣わしで、新仏の初盆に水塔婆供養をして三年間巡拝すれば六道(生前の罪により地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天道)の苦を免れると伝えます。京都の町で子供の地蔵盆が行われるのも六地蔵信仰に起因します。各寺で「お幡(旗:おはた 一幡\300)」と呼ばれるお札を授かり、六つのお幡を護符として家の玄関や軒に吊るすと厄を祓い、福を呼ぶとも伝えます。京都六地蔵めぐりは、伏見地蔵(大善寺)、鳥羽地蔵(浄禅寺)、桂地蔵(地蔵寺)、常盤地蔵(源光寺)、鞍馬口地蔵(上善寺)、山科地蔵(徳林庵)を巡拝しますが巡拝順序は、自由のようです。今は車で巡る人も多いですが、寺に寝泊まりしながら歩いて巡ったと伝え、22日は夜通し開門する寺もあるようです。 ★お幡(一枚:\300)は各寺の庫裡を訪ねれば年中いただけます。※常盤地蔵(源光寺)は住職が代替わりしてから、何度訪ねても留守?張り紙によると縁日以外はお幡を授与されないようですので、縁日(8月22日、23日)以外に六地蔵めぐりをされる方は、他の五ヶ寺の何れかでお幡を二枚購入されて六地蔵めぐりを満願にしてください。因みに伏見六地蔵(大善寺)には紅白のお幡二種ありますのでおススメ! (^-^)v |
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ええ天気やけど・・・暑いな〜(;´д`)ゞ。。。 | 薩摩藩伏見藩邸跡 | 浄土宗知恩院派、松顔山と号する大栄寺 |
創建が天正14年(1586年)と伝える以外は由緒などは不詳 ☆地図 | 四面石仏(鎌倉期:阿弥陀) | |
四面石仏(鎌倉期:釈迦) | 四面石仏(鎌倉期:薬師) | 四面石仏(鎌倉期:弥勒) |
水島幸庵 | ||
安永年間、伏見奉行・小堀和泉守政方(まさみち)の侍医であった。ある日の事、政方の喉に魚の骨が刺さり無事に治療。褒美として竹の柱に瓦葺の重き屋根の庵を望みました。政方は嘲笑しながら「その様な不安定な庵を何故所望するのか?」と問いました。幸庵は「その不安定な庵こそ今のお奉行の政治である・・・」と涙ながらに諫言しましたが、妾のお芳が激怒し政方もその剣幕に押され幸庵に蟄居を命じました。幸庵は憤然とし天命元年(1781年)5月28日、自宅で自刃しました。奇しくも「天明の伏見義民一揆」が起こる少し前の出来事でした。実父・水島慶庵の墓所に合葬されましたが、現在は無縁墓と伝える。門前に水島幸庵顕彰碑が建てられています。 |
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千手観音 | 大日如来地蔵尊 | 水島幸庵墓所 |
新高瀬川右岸堤防 | 安楽寿院 | |
こま札 | 近衛天皇陵(安楽寿院多宝塔) | 鳥羽離宮全景図(イメージ図) |
境内 | 三尊石仏(薬師三尊、釈迦三尊石像) | 鳥羽離宮配置図 |
白河上皇と 璋子(たまこ)???(^▽^;)おろっ | 鳥羽、白河法皇院政之地碑 | 冠石 |
鳥羽天皇陵(安楽寿院陵) ☆地図 | 五輪石塔(重文:鎌倉期) | 石仏 |
北向山不動院 ☆地図 | ||
鳥羽上皇により大治5年(1130年)に建立された。不動明王像を建立し、王城鎮護(平安京鎮護)を祈願し、北向きに安置したと伝わる。応仁の乱ので焼失し、現在の本堂は、正徳2年(1712年)、東山天皇の旧殿が、移築され、ご本尊は、伝教大師作・不動明王坐像が、都の南にあたる為に北向きの都を守る寺として播磨国大国庄に寺領千石を賜り、北向きに安置したと伝えます。山門を潜ると東側に千手観音、虚空蔵(こくうぞう)、文殊、普賢菩薩が鎮座しています。 |
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北向山不動院 | 解説P | |
鳥羽上皇寵愛の手植えの松 | 不動尊像 | 延命地蔵菩薩 |
本堂・・・ご朱印を頂く間、ご住職の勧めで、ご本尊を拝させていただきました。(-人-) | 鳥羽離宮・田中殿、金剛院跡 | |
方除けの社・城南宮 | 名水・菊水若※引用は自己責任! | |
城南宮をあとに・・・ | 鳥羽・伏見戦(戊辰戦)が勃発した小枝橋 | 千本通り(鳥羽街道) |
もう一つの恋塚寺・・・京都六地蔵めぐりの一・浄禅寺(鳥羽地蔵) ☆地図 | ||
平安京の表玄関の羅生門に通じる道筋にある寺で、恵光山と号し浄土宗西山禅林寺派の寺で本堂には、本尊の阿弥陀如来立像を安置し観音堂には等身の聖観音像(藤原期)を安置しています。地蔵堂にある鳥羽地蔵と呼ばれる地蔵尊は京都六地蔵の一とされます。当地に地蔵尊が安置されているのは昔、大阪から京都に入る街道口であった為と伝わります。当寺にも下鳥羽の恋塚寺と同じく、袈裟御前の首塚といわれる五輪石塔があり、遠藤盛遠と袈裟御前の悲恋を伝え恋塚浄禅寺と言われます。『雍州府志』(巻5)には「恋塚」は「鯉塚」であると記されています。近くに住む大鯉が妖怪に変化して現れた為、その大鯉を退治し埋葬した塚なので「鯉塚」だという一説もあります。 |
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京都六地蔵巡りの一・浄禅寺(大阪街道(鳥羽地蔵) | ||
石仏群 | 井戸水がマイウ〜 (^^♪※引用は自己責任! | |
京都六地蔵の一・鳥羽地蔵 | ||
遠藤武者盛遠(文覚上人)と袈裟御前の悲恋 | ||
遠藤武者盛遠(文覚上人)が、上西門院(後白河法皇の姉)に北面の武士(上皇の院御所を守衛する武士〕)として仕えた。同僚の妻・袈裟御前に横恋慕し、夫・渡辺左衛門尉源渡を殺そうと侵入したが、身代わりとなった袈裟御前とは気づかずに御前の首を切り落としてしまった。袈裟御前の首を、付近の池で洗った時、池の水が、まっ赤になったので赤池と呼ばれるようになった。・・・僧となり文覚と名乗り、赤池の地に墓を作り恋塚と称し一宇を建てたのが恋塚寺の興りと伝えます。 |
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本堂 | 林羅山の撰文による恋塚碑 | 袈裟御前塚(首塚) |
・・・ | 知人のべっぴんさんの実家でござる!(*゜▽゜)/ | 猛暑には・・・これっしょ?!(^▽^;)おろっ |
・・・ | 道真生誕地と伝える吉祥院天満宮 | 道真が顔を映したと伝える鑑(かがみ)の井 |
道真の産湯に使ったと伝える産湯の井戸 | 道真のへその緒を埋めたと伝える胞衣(えな)塚 | 吉祥天女(きっしょうてんにょ)社 |
道真が習字に使用したという硯(すずり)の水 | 本殿 | 境内 |
菅公夫人墓とも言われる北政所墓 | 新幹線に沿って西進・・・ | ・・・ |
京都六地蔵めぐりの一・地蔵寺(桂地蔵) ☆地図 | ||
寺の創建は明らかでなく、地蔵寺と号する浄土宗の寺で京都六地蔵巡りの霊場です。桂地蔵尊は一木の最下部を刻まれたもので世に姉井菩薩と呼ばれ六地蔵尊の中で最大です。この辺りは桂の渡しに近く、平安歌人の桂大納言源経信や伊勢女の住居があったとも伝えます。 |
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桂大橋 | 先日の大雨で濁流の桂川 | 京都六地蔵巡りの一・地蔵寺 |
汗をぬぐいます。。。(*´ο`*)=3ホッ | 京都六地蔵の一・桂地蔵 | |
六地蔵(水塔婆供養) | 桂離宮を通過・・・ | 桂川右岸堤防道 |
阪急京都線 | ・・・ | サイクリングロードと合流!(*゜▽゜)/ |
古式の墓 | 愛宕山と桂川 | |
間もなく松尾 | 阪急嵐山線・松尾駅 | 松尾大社一の大鳥居 |
松尾大社 ☆地図 | ||
大山咋神(おおやまくいのかみ)、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと/中津島姫命(なかつしまひめのみこと)を祭神とする旧棺幣大社で京都最古の神社の一。文武天皇の大宝元年(701年)、秦忌寸都里(はたのいみきとり)が松尾山大杉谷の磐座(いわくら)の神霊を勧請し社殿を造営しその女・知満留女(ちまるめ)を斎女として奉仕させたのが当社の起源で代々秦氏が奉祀しました。平安遷都後、賀茂社と供に王城鎮護神となり賀茂の厳霊、松尾の猛霊と東西並び称されました。大山咋神(おおやまくいのかみ)は上賀茂神社の祭神・賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)の父神とされ賀茂社とは姻戚関係にあり延喜の制には名神大社となり二十二社の制には第四に班し中世を通して上七社の一に列せられる有数の大社です。寛弘元年(1004年)、一条天皇の行幸以来、歴代の行幸、行啓すこぶる多く中世以降は酒造の神として崇敬が篤く氏子地域は京都市の1/3にも及びます。 |
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松尾大社 | 亀さんの手水 | |
なで亀さん!(*゜▽゜)/ | 境内 | 相生の松 |
御神水「亀の水」 | ||
大杉谷の崖下から湧出する清泉でこの水を醸造の時に加えれば酒が腐敗しないと伝わり古来醸造家が汲んで持ち帰る慣わしがあり当社の信仰はこの井泉によるものです。亀の井とは松尾神の神使いが亀である事に因りますが神の井に通じます。清泉は飲料水として古代住民にとって神の水で水を求めて聚落が営まれ当社を始め松尾に座す水の神であったのが大山咋神(おおやまくいのかみ)を信奉する信者によって斉い込められ本来の神格が失われたと考えられています。 |
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なで鯉さん | 御神水「亀の水」 | |
亀の滝と瀧御前社(四大神三宮社)・・・瀧傍にある天狗の顔を見つけられますか?(^▽^;)おろっ | ||
中ノ島橋まで延長されたサイクリングロードの嵐山の起点(終点) | 大雨で濁流の桂川 | |
中の島橋を渡ると嵐山公園 | 暑い時は・・・カキ氷(^^♪ やっぱ、これっしょ!!!! o(>w<)〇" | |
去年、甚大な被害を出した水害を彷彿させる桂川の濁流 | ||
濁流が似合わない渡月橋(;¬_¬) | ・・・ | |
清涼寺(嵯峨釈迦堂) | 大覚寺参道 | えぇなぁ〜(*^-^*) |
広沢池の西側に広がるのどかな嵯峨野田園地帯、ほんまにええ感じや〜\(●⌒∇⌒●)/ | ||
広沢池 ☆地図 | ||
周囲約1.3kmにも及ぶ大池で伝説によると平安時代の中期、永祚元年(989年)に宇多天皇の孫・寛朝僧正が遍照寺を建立する時に開削したとされますが修築拡張を行った池で上古嵯峨野が野沢池であった名残を留める池とされます。異説として、嵯峨野一帯を開墾し渡来系豪族・秦(はた)氏一族が溜池がとして造ったとも言われている。秦氏のハダはハリダ(墾田)の約言であるというのもこれに因みます。平安時代に作られた池は、遍照寺と共に廃れて行ったが明治時代に、地元の人々の協力で修復された。 |
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広沢池は周囲約1 |
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遍照寺観音堂(観音島) | 広沢池観音石仏 | 壹美白弁財天社 |
さっ、次へ行こう!(; ̄ー ̄A | 遍照寺を建立した真言宗の寛朝を祀る児(ちご)神社は児社(ちごのやしろ)ともいう。 | |
嵯峨富士と称される遍照寺山と広沢池 | 富岡大明神 | |
「広沢不動尊」とも称される真言宗御室派準別格本山・広沢山と号する遍照寺は、具平親王と大顔の逢引と急死を『源氏物語』の光源氏と夕顔の巻になぞられたゆかりの寺でもあります。 | ||
石塔 | 丸太町通りを東進中・・・ | 嵐電・白梅町線、常盤駅 |
京都六地蔵巡りの一・常盤御前ゆかりの源光寺(常盤地蔵) ☆地図 | ||
京の六地蔵めぐりの一「源光寺」は源光庵とも呼ばれる臨済宗天龍寺派の尼寺です。昔、小野篁が冥土で生身の地蔵尊を拝し、蘇って後、一木から刻んだ六地蔵の一とされ世に常盤谷地蔵、北区の上等寺の姉子地蔵に対して乙子地蔵とも呼ばれる。寺伝によると弘仁2年(811年)、勅旨によって建立され嵯峨天皇の皇子・源常を創業開基とします。後に後白河法皇が深く帰依され中興開山され、本尊に全ての救済を願われ宗教宗派に関係のない庶民の信仰の根源地と定められている。毎年、春夏秋冬の4回、全国地蔵信仰の唯一の総本山・天地万霊総菩提寺として、源光寺神聖霊場大祭が行われます。この地は、源義経の母、常盤御前の生地で御前が営んだ庵の跡地と伝えられ境内には常盤御前の墓があります。※ 当寺の住職が代替わりしてから、何度訪ねても留守?張り紙によると縁日以外はお幡を授与されないようですので、縁日(8月22日、23日)以外に六地蔵めぐりをされる方は、他の五ヶ寺の何れかでお幡を二枚購入されて六地蔵めぐりを満願にしてください。因みに伏見六地蔵(大善寺)には紅白のお幡二種ありますのでおススメ! (^-^)v |
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京都六地蔵巡りの一・源光寺 | ||
極楽絵 | 地獄絵 | 都六地蔵の一・常盤地蔵(乙子地蔵) |
常盤御前墓 | JR嵯峨野線(山陰本線)花園駅 | 臨済宗妙心寺派大本山・妙心寺 |
一条戻橋 ☆地図 | ||
名の起こりは定かでないが平安中期、延喜18年(918年)、文学博士・三善清行の葬列が、丁度この橋を通りかかった時、紀州熊野にあった息子・浄蔵が急ぎ帰京し棺にとりすがり泣き崩れ神仏に熟誠を込めて祈願したところ不思議にも父・清行が一時、蘇生し父子物語を交じたという故実により「戻橋」と名付けたと伝えます。陰陽師・安部晴明は鬼のような容貌した式神(職神:しきじん)12体を作り人間と同様にこれを駆使したが晴明の妻が恐れるあまり常は戻橋の下に封じ込め用事の時だけ呼び出し吉凶の橋占に用いたとも伝えます。戻橋を最も有名にしたのは河竹黙阿弥が「太平記」(剣の巻)を主材として作った歌舞伎芝居「戻橋」によるからで梗概は、源頼光の家来で四天王の一人である渡辺綱が、ある夜更け、この橋の畔で容貌美しい女に出会った。夜も更けて恐ろしいので家まで送ってほしいと頼まれた。綱はこんな夜中に女が一人でいるとは怪しいと思いながらも、それを引き受け馬に乗せた。すると女はたちまち鬼に姿を変え、綱の髪をつかんで愛宕山の方向へ飛んで行った。綱は鬼の腕を太刀で切り落として逃げることができた。切り落とした腕は摂津国渡辺(大阪市中央区)の渡辺綱の屋敷に置かれていたが、綱の義母に化けた鬼が取り戻したとも伝える。これは、戻橋の東南一帯に清和天皇の諸皇子の屋敷があったが、後に源頼光の居住するところとなり、かかる伝説が生じたとされます。また戻橋は橋占の名所でもあった。『源平盛衰記』巻十によれば、高倉天皇の中宮・建礼門院の出産の時に、その母の二位殿が一条戻橋で橋占を行った。この時、12人の童子が手を打ち鳴らしながら橋を渡り、生まれた皇子(安徳天皇)の将来を予言する歌を唄ったと伝える。その童子は、陰陽師・安倍晴明が一条戻橋の下に隠していた十二神将の化身であろうと書かれている。戦国時代、細川晴元により三好長慶の家臣・和田新五郎がここで鋸挽きにされ、安土桃山時代には豊臣秀吉により島津歳久と千利休が梟首された。また秀吉のキリスト教禁教令の元、慶長2年(1597年)には、日本二十六聖人と呼ばれるキリスト教殉教者は、ここで見せしめに耳たぶを切り落とされ、殉教地・長崎へと向かわされた。ただし、利休の首は「聚楽大橋」のたもとに曝されたとの記録もあり、この頃に戻り橋の名は聚楽大橋すなわち現在の中立売橋に移転されていたと考えられている。徳川和子の入内行列が中立売橋を渡る際、幕府は戻り橋の名を嫌って「万年橋」と改名したが、京童の間には定着しなかったが、やはり戻橋という名を嫌って縁談一切は渡るのを避け、反対に戻橋の縁起をかついで出征兵士はこの橋を渡って出兵すると無事、帰還が叶うと伝えます。 |
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解説パネル | 晴明が戻橋下に配したという式神を探したが。。。(^^ゞおろっ | |
伝説の一條戻橋 | ||
陰陽師・安部晴明を祀る晴明神社 ☆地図 | ||
平安時代中期の陰陽師・安部晴明を祭神とし倉稲魂命(うがのみたま)を合祀します。安部晴明は平安時代中期、花山天皇、一条天皇に仕えた陰陽師で物事の吉凶を占うなど両天皇、藤原道長に重宝され活躍しました。天文学に通じ暦算、ト占、推歩の術を極め一条天皇の御代に天文博士となりました。かって、花山天皇が密に宮中を逃れ出て山科花山の元慶寺で出家された時、晴明は自宅で天の星座の急変を知り、天子位の去るの象であると急ぎ参内し伝えたと言います。また、式神(職神)を自由に駆使して人を驚かせたなど伝説が多く残ります。当地は安部晴明の屋敷跡と伝え、寛弘2年(1005年)、晴明が74才で没した2年後の寛弘4年(1007年)、一条天皇の勅願により屋敷跡に晴明神社を創建され安部神道は、朝廷の庇護を受け子孫は永く栄えました。境内には晴明の念持力で湧出したと伝える晴明井があり、病気の治癒平癒にご利益があると言われます。境内、社殿などに魔除けの力があるという晴明桔梗紋(五芒星:セーマン)があしらわれています。 |
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整備された堀川 | 陰陽師・安部晴明を祀る晴明神社 | ミニチュア版一条戻橋と式神像 |
式神像 | 陰陽師・安部晴明を祀る晴明神社・・・ご朱印と護符を頂きました!(^-^)v | |
陰陽師・安部晴明絵馬 | 参拝した芸能人が奉納した絵馬 | 晴明桔梗紋(五芒星、セーマン)の晴明井 |
その年の恵方に水口が向けられている・ | 安部晴明の数々の伝説の中から代表的な十説を紹介している顕彰パネル | |
本殿 | 安倍晴明坐像 | 魔除け・厄除けの桃 |
境内 | 樹齢推定300年というご神木・楠 | |
『源氏物語』の作者・紫式部(むらさきしきぶ)墓所、冥界の番人で六地蔵ゆかりの小野篁(おののたかむら)卿墓 ☆地図 | ||
★紫式部・・・平安時代中期の女性作家、歌人。『源氏物語』の作者で中古三十六歌仙の一人。『小倉百人一首』に「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな」で入選しています。藤原為時を父として,天延元年(973)頃に生まれた。祖父、父共に歌人、詩人だった事から彼女も幼少の時から学芸に親しみ、その類まれな才能は早くから認められていた。寛弘3年(1006)、一条天皇の中宮彰子に仕え、呼び名を父の官名にちなんで式部と称して、高貴な人に仕え講義する役職で漢文学を教える傍ら、『源氏物語』を執筆し、寛弘6年頃に完成させた。★小野篁・・・遣隋使を務めた小野妹子の子孫で、父は小野岑守。孫に三蹟の一人小野道風がいます。若年の頃、父に従って陸奥国へ赴き、弓馬をよくしたが、嵯峨天皇の言葉に触れて発奮し大学へ進学、官途に就きました。巡察弾正、弾正忠、弾正少弼などを歴任、法理に明るく『令義解』の編纂にも深く関与しました。承和元年(834年)、遣唐副使に任ぜられるが、承和5年(838年)に正使・藤原常嗣との諍いから、病気と称して職務を拒否し朝廷を批判する詩を作した為、嵯峨上皇の怒りに触れて隠岐に流されました。1年半後に許されて帰京した後に従三位参議に至りました。伝説では、篁は夜ごと井戸を通って地獄に降り、閻魔大王の元で裁判の補佐をしていたという。この井戸は、京都東山の六道珍皇寺にあり、また珍皇寺の閻魔堂には、篁作と言われる閻魔大王と篁の木像が並んで安置されています。 |
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紫式部墓所(左)、小野篁卿墓 | 冥界の番人で六地蔵ゆかりの小野篁卿墓 | 参議小野公塋域(えいいき)碑 |
京都六地蔵めぐりの一・上善寺(鞍馬口地蔵) ☆地図 | ||
貞観5年(863年)、慈覚大師円仁によって現地名の千本今出川の地に天台密教の道場として建立されたそうです。一時は衰微しましたが、文明年間(1469〜1487年)に春谷盛信上人が天台念仏道場として中興開基し、後土御門、御柏原の両天皇が当寺で授戒されてから隆盛しました。その後、後柏原天皇が当山に行幸され、勅願所不断道場の宣旨ならびに山号である千松山の勅額を賜りました。文禄3年(1594年)、第十二世・善照上人の時に現在地の寺町鞍馬口へ移り、第十三世の肝誉上人になって浄土宗知恩院末に転じました。江戸時代の正徳2年(1712年)に、松平越前守が当山を菩提寺と定めて不断念仏を再興したと伝えます。 |
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紫式部顕彰碑 | 京都六地蔵巡りの一・上善寺 | 大日如来石仏(鎌倉期) |
境内 | 石仏群 | 京都六地蔵の一・鞍馬口地蔵 |
地蔵堂 | 出雲路橋 | |
都富士と称される霊峰・比叡山 | 五山の送り火・大文字山と加茂川 | |
出雲路橋 | 加茂川 | 川端通り |
夷川水力発電所貯水池 | 仁王門通り | |
平安神宮大鳥居 | 動物園 | ・・・ |
蹴上インクライン | 煉瓦積みが捻れているので「ねじりまんぼ | 蹴上の峠をがんばり中・・40℃(; ̄ー ̄A |
義経ゆかりの義経大日如来(疎水公園) | 義経と刻まれている・・ | |
(;´д`)ゞあちぃ。。。 | (*´ο`*)=3ホッ | 義経ゆかり?地蔵石仏群 |
日ノ岡峠のピーク・・・(;´д`)ゞ | これも義経ゆかり?延命地蔵大菩薩(蹴上地蔵) | 快適なダウンヒル〜・・・ヾ(≧▽≦)ノ |
名号碑 | 題目碑 | JR琵琶湖線(東海道本線) |
旧東海道 | 明治天皇御遺蹟碑(奴茶屋跡) | |
旧東海道 | ||
京都六地蔵巡りの一・徳林庵(四ノ宮地蔵) ☆地図 | ||
徳林庵は柳谷山(りゅうこくざん)と号する臨済宗南禅寺派の寺で門前の地蔵堂は四ノ宮地蔵と言われ京都六地蔵巡りの一として知られます。人康親王(さねやすしんのう)の菩提を弔う為に雲英正怡(うんえいしょうい)禅師が建立し天文年間、兵火にかかり現地に移転したと伝えます。親王は琵琶を弾く事に優れ後世、親王を琵琶の始祖と仰ぎ江戸時代には検校位を有する盲人が全国から集まり親王の霊を慰めたと伝えます |
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京都六地蔵巡りの一・四ノ宮地蔵堂(徳林庵) | ||
京都六地蔵の一・四ノ宮地蔵尊 | 四体石仏(鎌倉期) | 人康親王供養塔(蝉丸塔:吉野期) |
京都六地蔵巡りの一・大善寺(六地蔵) ☆地図 | ||
地蔵堂に安置されている地蔵菩薩立像は平安時代の始め、小野篁(おののたかむら)が一度息絶えて冥土へ行き、そこで生身の地蔵尊を拝して蘇った後に一本の桜の木から刻んだ六体の地蔵の一つです。当初、ここに六体の地蔵尊が祀られていたのですが、後白河上皇の勅命により平清盛が西光法師に命じ、都に通じる主要街道の入り口に残りの五体を分祀した事から、これらの地蔵を巡拝する「六地蔵巡り」の風習が生まれたと伝えます。 |
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京都六地蔵巡りの一・大善寺(六地蔵) | ||
伏見は名水、酒処・・・かつて伏見には50前後あった酒蔵・蔵元の数も24に半減した現在の酒蔵・蔵元の風景 | ||
油掛地蔵尊(西岸寺) | 大手筋 | |
Tourist.2014.0 |
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