嵐山自転車散歩

 

大井川 河辺の松に 言問はん かかる御幸も ありしむかしも 紀 貫之

 

城南宮〜嵐山サイクリングロード〜嵐山公園〜清凉寺〜夕霧太夫墓所〜嵐山サイクリングロード

 

嵐山サイクリングロード(京都・八幡・木津自転車道線)

嵐山サイクリングロードは、桂川・渡月橋右岸(嵐山公園)〜木津川・泉大橋左岸間の全線約45kmにも及ぶ「自転車と歩行者の専用道」で正しくは、「京都・八幡・木津自転車道線」と言います。道中は舗装整備された道で走りやすく、四季折々の自然を満喫しながらファミリーでも安心してサイクリングを楽しめます。

新高瀬川 高瀬川右岸堤防道 城南宮
清々しい参道、境内 こま札
伏見名水・菊水若水 こま札 境内
明治天皇行財在所真幡寸(まはたぎ)神社碑 こま札(鳥羽伏見の戦い跡) 本殿
鳥羽伏見戦跡碑 鳥羽伏見戦が勃発した小枝橋界隈 小枝橋
嵐山サイクリングロード のどかな風景が広がる 久世橋下へ・・・
嵐山まであと9km 新幹線が通過中・・ JR京都線桂川橋梁
・・・ ・・・ 阪急京都線・桂川橋梁
西大橋(五条通り) 西大橋を対岸へ渡ります・・・ 田畑の中を走ります・・
のどかやな〜(*^-^*) ・・・ ・・・
石仏群 桂川右岸堤防道に合流 愛宕山の稜線
洛西用水と円形分水(円筒分水)

嵐山〜洛西を流れる幹線延長約20kmの灌漑用水。この地域は、5世紀後半に朝鮮・新羅からきた秦氏によって農業を興した地と伝え、この頃から堰や用水路も整備されたと伝える。当時、秦氏が朝鮮の土木技術を日本で応用することにより、未開拓地であった嵯峨野の地域に農業を広めた。鎌倉時代に山城国桂川用水差図として東寺百合文書に載っており、江戸時代初期には角倉了以が保津川の開削と同時に一の井堰(葛野大堰)の整備をおこなった。現在の一ノ井堰は昭和26年に京都府により10ヶ所余りの井堰を統合し築造されたものであり、西京区〜長岡京市に至る田畑を潤す一方で、都市雨水の排水路としての機能も果たしている。また、西芳寺川堤下の農業用水などを一定の割合で正確に分水するために用いられる農業水利施設を円形分水(円筒分水)という。

用水を正確に分水する円形分水(円筒分水) ・・・ 間もなく松尾橋
・・・ ・・・ ・・・
小倉山、愛宕山、曼荼羅山(鳥居山) ・・・ サイクリングロードの嵐山起点(終点)
サイクリングロードは嵐山〜木津まで45km 中の島橋を渡ると嵐山公園 ・・・
渡月橋と亀山、小倉山〜愛宕山 桂川
一ノ井堰(洛西用水)

一ノ井堰は、桂川の水を田畑に送るため、古くは5世紀末に渡来人の秦氏によって設けられたと伝える農業水利施設で嵐山の水面の風景を演出する礎となっています。一ノ井堰から流れゆく洛西用水は、下流で枝分かれし、今も地域の田畑を潤し続け、京野菜や米を育んでいます。現在の一ノ井堰は昭和26年に京都府によって10ヶ所余りの井堰を統合し、築造されたもので今も西京区〜長岡京市に至る田畑を潤す一方、水路は都市雨水の排水路としての機能も果たしている。  

嵐山へ来たらソフトクリーム!♪v(⌒o⌒)v♪ 一ノ井堰
一の井堰(洛西用水)の解説パネル
円形分水(円筒分水)など洛西用水の解説が記されている。 山紫水明の風情
清凉寺

嵯峨野でも有数の古刹で五台山清凉寺と号し源氏物語の光源氏のモデルとされる平安貴族の源融(みなもとのとおる)所縁の寺です。本尊の三国伝来の釈迦仏は有名で嵯峨釈迦堂(さがしゃかどう)として、人々に崇拝されています。左大臣・源融(みなもとのとおる)の別荘(棲霞観:せいかかん)を源融没後、寺に改め棲霞寺(せいかじ)と号し天慶8年(945年)、源融と血縁深い式部卿宮重明親王が亡室の為に新堂を建立し金色等身の釈迦如来一体を安置し42年後の永延元年(987年)、南都東大寺の僧・「念(ちょうねん)は宋より帰朝後、請来した釈迦如来像と摺本一切径を当寺に安置しました。

屋形舟 渡月橋 嵯峨の釈迦堂といわれる清凉寺
こま札 清々しい清涼感のある境内 仁王門(府指定文化財:江戸期)と法然上人「求道青年像」
弥勒多宝石仏 聖徳太子殿(夢殿)
多宝塔(府指定文化財:江戸期) 源氏物語、光源氏のモデルと伝える左大臣・源融(みなもとのわたる)墓所
嵯峨天皇、檀林皇后塔(右) 「然(ちょうねん)墓所 源昇供養塔
四面石仏の手水? 大坂の陣戦没者供養碑(左)、豊臣秀頼首塚 隠元筆「栴壇瑞像」の扁額が掲げる本堂
薬師堂(生の六道:小野篁遺蹟) 清涼寺塔頭・薬師寺(三地蔵尊) 左から夕霧地蔵、六道地蔵、るり光地蔵
石仏 夕霧太夫墓所 絹こし、カラシ豆腐ゲット!(^^♪
慈眼堂(中院観音)、藤原定家、小倉百人一首編纂の地・厭離庵(えんりあん)

慈眼堂(中院観音)・・・藤原定家の念持仏 (本尊:十一面千手観音立像)、定家・為家等の位牌、毘沙門天立像が祀られ定家、為家の法要も行われます。厭離庵(えんりあん)・・・もと愛宕の中院があったところで藤原定家が百人一首を編纂した山荘跡があった所と伝えます。久しく荒廃していたが近年に冷税泉家によって再興され、霊元法皇より「厭離庵」の寺号を賜り臨済宗天龍寺派の寺となりました。明治43年、山岡鉄舟の娘、素心尼が庵主に就き、それ以後尼寺となりました。西南の竹林は善光寺山と言われ時雨亭があったと伝え、境内には茶室・時雨亭、藤原定家塚、定家が小倉百人一首を染筆する時に筆洗いに使った柳の井があります。定家が書き記した「名月記」に彼の嵯峨山荘は、常寂光寺の北方、小倉山麓にあったものと思われ、この地は定家の嫡子・為家の妻父・宇都宮入道頼綱(蓮生入道)が定家の嵯峨山荘近くの当地に中院に別荘を建てるにあたり、障子に貼る色紙を定家に依頼した。早速、定家が多くの勅撰和歌集の中から百人一首ずつを編纂したが、この時、後鳥羽、順徳両帝の歌がなく、その代わりに百人一首にない三人の歌が入って合計百一人であったと伝え、後日、為家によって補訂されたのが現在の百人一首です。紅葉の名所として知られ、紅葉の時期(11月〜12月)のみ拝観が出来ます。

慈眼堂(中院観音) こま札 小倉百人一首編纂の地・厭離庵(えんりあん)
藤原定家の子・為家は厭離庵の東に埋葬され「中院入道前大納言藤原為家卿之墓」という石碑が傍らに立つ、藤原為家卿之墓
・・・ 夕霧太夫遺跡(夕霧生家跡・夕霧井戸)碑 JR嵯峨野線(山陰本線)
渡月橋 保津川下りの船を引き上げてトラックに載せる場所
一ノ井堰碑(いちのいぜきひ)

5世紀頃、秦氏によって造営された一ノ井堰はこの附近と推定される。一ノ井堰は洪水調整、灌漑用として造られた用水取水口で室町時代には松尾、桂、革島等の洛西の農業灌漑用水として利用されていた。

クレーンで引き上げ作業中の船 洛西用水上にある秦氏が造営した大堰顕彰の一ノ井堰碑 嵐山サイクリングロード
VSローディー・・勝手にピッタリ追走ing (^▽^;) 阪急京都線・桂川橋梁 JR京都線・桂川橋梁
久世橋 ・・・ 名神高速道路
久我橋 ・・・ ・・・
月の桂酒蔵

・・・

洛南最大のショッピングゾーン・大手筋

Tourist.2011.6.13(M)

 

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