Deep Impact!!! 秋の嵐山、嵯峨野路めぐり

 

深み 思い入りぬる 柴の戸の まことの道に 我れを導け 横笛

 

野宮(ののみや)神社〜常寂光寺(じょうじゃっこうじ)〜祗王寺(ぎおうじ)〜滝口寺〜宝筐院 (ほうきょういん)〜清涼寺(せいりょうじ)

 

嵐山、嵯峨野

あでやかな山桜に彩られる春。青葉と舟遊びの夏。山端に錦織り成す秋・・・日本の四季を凝縮した嵐山、嵯峨野は平安王朝文化の拠点として歴史を刻んできました・・・平安貴族が華やかに舞った悲恋の舞台、紅葉狩り、船遊びに興じた景勝地。今も桜、鵜飼い、紅葉、雪景色と四季折々に楽しませてくれる風光明媚な風景が広がり古刹、名刹も多く嵐山、小倉山などを借景とした天龍寺庭園、二尊院、竹林に佇む野宮神社、平家一門の頭領・平清盛に翻弄された美女姉妹の祇王、祇女の悲話を伝える祇王寺、奥嵯峨にある愛宕(おたぎ)念仏寺など、しっとり赴き深い嵯峨野は平安絵巻を繰り広げる人気の観光スポットです。一方、「源氏物語」、「平家物語」などの文学作品の舞台となった名所も点在し大堰川(桂川)上流の保津峡から渡月橋辺りにかけてはトロッコ列車、保津川下りを楽しめます。

どもっ!Pちゃんズ見参?!V(○⌒∇⌒○) イエーイ 酒蔵 城南宮
今日一日の無事を願って菊水若水で清身し参拝・・・(*^-^*) 桂川に架かる小枝橋
嵐山サイクリングロード(京都・八幡・木津自転車道線)

嵐山サイクリングロードは、桂川・渡月橋右岸(嵐山公園)〜木津川・泉大橋左岸間の全線約45kmにも及ぶ「自転車と歩行者の専用道」で正しくは、「京都・八幡・木津自転車道線」と言います。道中は舗装整備された道で走りやすく、四季折々の自然を満喫しながらファミリーでも安心して自転車散策を楽しめます。

春以来・・・久しぶりに嵐山サイクリングロードを走りますo(*^▽^*)o 写真は、サイロと並走している桂川左岸堤防道です・・・
サイロを疾走中・・・新幹線、JR京都線 堤外人道橋(天神川)を渡ります・・・ ピットイン?!(^_^;)\(^。^。) 欧米か?!
秋晴れで絶好のサイクリング日和!!!o(*^▽^*)o Pちゃんずのキララ&ラッキーVo(*^▽^*)o 飛ばしますな〜ヾ(≧▽≦)ノ どんだけ〜
新デジ亀くんのズーム・・・o(*^▽^*)oあはっ♪ 嵐山まで4.6km 桂大橋(八条通り)手前を堤防下へ・・・
桂川と愛宕山 阪急京都線 前方に西大橋(五条通り)
桂川に架かる西大橋(五条通り)を渡ります・・・左岸から渡ってスグに左折して西大橋下へ・・・ここから桂川右岸を走ります・・・(*^-^*)
この辺りの嵐山サイクリングロードは、のどかな畑の中を走ります・・・写真を撮ってる間に・・・Pちゃんが消えていきます・・・ズーム!てかっ?!(;¬_¬)
Deep Impact?!(^_^;)\(^。^。) 欧米か?!
颯爽と走っていますo(*^▽^*)oずっと追走?!(^^ゞ 嵐山まで3.8km 愛宕山がはっきりと見えてきました(⌒▽⌒)
松尾橋と愛宕山が見えてきました! o(*^▽^*)oヤッホ〜♪ おっと・・・\(◎o◎)/!
Pちゃん・・・負けてません?! (@_@。 一気に引き離してゴールを目指します!☆⌒(*^∇゜)v アッという間に見えなくなったし・・・(;¬_¬)
間もなく嵐山でつ(*^-^*) 遅いよって言われました(^^ゞ たしかに・・・ サイクリングロードの嵐山起点
春は桜花が見事な嵐山中ノ島公園 中ノ島橋 嵐山公園に到着!!!(⌒▽⌒)
四季折々、この眺めはいつも・・・Deep Impact?! (^_^;)\(^。^。) 欧米か?! えぇなぁ〜(*^-^*)
月が渡るが如くと称される渡月橋 嵐山・嵯峨野散策に出発!o(*^▽^*)o げっ(;¬_¬) いきなり・・・胸騒ぎが(・_・?)
 や・っ・ぱ・り・・・出た、出た、出ましたぁ〜(^▽^;) 「くださいな〜」(≧▽≦)ぷっ・・・茶店でハーフタイム!(^_^;)\(^。^。) 欧米か!
げげっ(ーー;) またまた・・・(T▽T)アハハ! 渡月橋 四季折々素晴らしい!!!山紫水明の嵐山
駅構内にある嵐山温泉・駅の足湯・・・改札を抜けて行きます。(入湯料\150-タオル付)
足湯の間近を嵐電が行き来します・・・
えぇ〜湯じゃった!o(*^▽^*)o・・・足だけを浸けるから足湯です・・・アシカラズ? (≧▽≦)ぷっ
小督(こごう)塚

小督局(こごうのつぼね)は権中納言成範の女とも藤原信西の女とも伝え平清盛の女・建礼門院に仕え宮廷一の美女で琴の名手とされます。高倉天皇の寵愛を受けますが、以前には藤原隆房(清盛の五女の夫)の寵愛を受けた為に清盛が激怒しそれを伝え聞いた小督は帝にまで害が及ぶ事を案じて秘かに宮中を去り嵯峨野に隠棲しますが帝から命を受けた北面の武士・源仲国は小督を捜し求めて渡月橋の畔に来た時、かすかに聞こえる琴の音で彼女を探し出したと平家物語は伝えます。こうして帝の元に戻りやがて女子が生まれますが、中宮徳子より先に帝の子供を生んだ事で更に清盛の怒りを招き23歳で無理矢理に出家させられました。高倉帝が亡くなった後は清閑寺で菩提を弔い、没後に高倉陵の傍らに葬られたと伝えます。

平家物語ゆかりの小督(こごう)塚 世界文化遺産・天龍寺 嵯峨野と言えば・・・竹林道へ
源氏物語『賢木の巻』ゆかりの野宮(ののみや)神社

伊勢神宮に仕える伊勢斎宮(さいぐう/いせのいつきのみや)が身を清める為に建立された神社で皇大神宮の奉仕に赴く前に長からぬ間、篭られた斎(いつき)の跡と伝え天照大神を祀る旧村社で縁結びの社です。伊勢斎宮は崇神天皇の御代、皇女・豊鋤入姫命(とよすきひめのみこと)に勅して天照大神を大和の笠縫邑(かさぬいのむら)に祀られ垂仁天皇の御代に倭姫命(やまとのみこと)が天照大神を奉じて諸国を巡り遂に伊勢の五十鈴川の畔に皇大神宮を営み仕えたのが起こりとされ歴代天皇は斎宮を置かれ後醍醐天皇の皇女・祥子内親王まで続いたが中世の兵乱によって根絶しました。斎宮は天皇即位の時、未婚の皇女、女王から選ばれ一に斎王と言います。今の野宮神社は何時の野宮か明らかではないが簡素な黒木の丸太組の鳥居、小柴垣は往時の野宮を偲ばせています。源氏物語「賢木の巻」の舞台にもなり恋の清算に訪れた源氏を忘れえぬ六条御息所の煩悶が描かれています。

嵯峨野竹林道 源氏物語ゆかりの野宮神社の珍しい黒木鳥居 解説
手水井 嵐山を表した野宮の庭(苔庭) 弁財天、白稲いなり社
参拝しました・・・ 嵯峨野竹林道・・・この辺りの竹は背丈が高い野宮の竹と言われ竹細工などにも使われる。
竹林のトンネルを見上げると・・・Deep Impact?! (^_^;)\(^。^。) 欧米か?!
幻想的で・・・えぇなぁ〜(*^-^*) 大河内山荘 トロッコ嵐山駅

嵯峨野屈指の紅葉の名所・常寂光寺(じょうじゃっこうじ)

小倉山と号し日蓮宗本圀寺派の寺で寛永年間に本圀寺の日槇上人の退穏所を寺に改めたもので天台四土の一つ常寂光土を思わせるところから寺名となりました。茅葺きの仁王門には運慶作と伝える仁王像が立っている。檜皮葺きの多宝塔(重要文化財:桃山期)は、天和年間の建築ながら華麗な桃山様式を伝えています。豊臣秀吉、小早川秀秋との所縁も深く、仁王門は本圀寺の南北朝時代のものです。藤原定家が小倉山百人一首を編集した場所の時雨亭趾もあります。特に仁王門〜本堂迄の石段脇の紅葉は見事で嵯峨野屈指の紅葉の名所とされます。

小倉池 常寂光寺へ・・・ 常寂光寺
駒札 Deep Impact?! (^_^;)\(^。^。) 欧米か?!
常寂光寺のシンボル的な茅葺の仁王門・・・楓の樹葉と見事にマッチンぐぅ〜☆⌒(*^∇゜) えぇなぁ〜(*^-^*)
Deep Impact?! (^_^;)\(^。^。) 欧米か?!
妙見堂 嵯峨野俯瞰o(*^▽^*)o 霊峰・比叡山
Deep Impact?! (^_^;)\(^。^。) 欧米か?!
高さ12m、檜皮葺の多宝塔(重要文化財:江戸期)
藤原定家・家隆の木像を奉る謌僊祠(かせんし:歌仙祠)」 藤原定家の時雨亭跡 えぇなぁ〜 (*^-^*)
Deep Impact?! (^_^;)\(^。^。) 欧米か?! 本堂(伏見城遺構:客殿)
Deep Impact?! (^_^;)\(^。^。) 欧米か?!
「女ひとり生き ここに平和を希う」・・・『女の碑』 紅葉の見頃は、サイコゥ〜でしょっ☆⌒(*^∇゜)v
藤袴?など可憐な花が咲いています・・・ えぇなぁ〜(*^-^*)
落柿舎(らくししゃ)

ひなびた茅葺き屋根の庵は、松尾芭蕉の十哲(弟子)の一である向井去来(むかいきょらい)の閑居地で洛東・聖護院村に住んでいましたが元禄初期に嵯峨に古屋を買い求め隠居所としました。邸内に柿の木があり去来が商人に柿の実を売る約束をしたが、一夜のうちに風で全て落ちてしまい買約中の商人が驚き破談にした事から落柿舎と名付けたとされます。松尾芭蕉は元禄4年(1691年)4月18日に去来を訪ねて5月5日までの17日間滞在しその間に名所古跡を訪ね随想を書き留めたのが世にも有名な「嵯峨日記」です。落柿舎は去来の没後に荒廃しましたが明治になって有志の人達によって再興され舎中の庭からの嵐山、嵯峨野を望んで景観は良く俳望の隠棲に相応しい庵です。

落柿舎 西行井戸
祗王寺(ぎおうじ)

真言宗大覚寺派の寺で往生院と号します。平清盛の寵愛を受けていた白拍子の祗王が、推薦した白拍子の佛御前に清盛の寵愛を奪われてしまい世を悲しみ母、妹と共に尼になりこの庵に移り住みました。後に寵愛を受けた佛御前も尼となって、4人で念仏三昧に暮らした往生院の跡と伝わります。本堂には、大日如来、祇王、祇女、佛御前、祇王の母・刀自(とじ)の尼僧像と平清盛の木像が安置されいずれも鎌倉時代の作です。現在の建物は明治28年(1895年)、京都府知事・北垣国道が祇王、祇女の事跡に感動し自分の別荘意内の茶室を寄進して本堂としたので寺院らしくないのはこの為で庵の前の苔むす庭も大変に風情があります。

向井去来(むかいきょらい)墓 二尊院(総門は伏見城遺構:薬医門) 祗王寺
もうすぐ・・・苔庭と紅葉の緑の世界が見事な錦秋の世界へ変わります・・・Deep Impact?! (^_^;)\(^。^。) 欧米か?!
えぇなぁ〜(*^-^*)
えぇなぁ〜(*^-^*) 本堂
堂内一番奥の丸窓(吉野窓)はコーヒー焙煎のCMに使われた・・・影が虹色に表れるそうな?!\(◎o◎)/!まじっすか?! 祇王、祇女、母刀自(とじ)、佛御前墓と平清盛供養塔(右)
平家物語ゆかりの滝口寺

「平家物語」の滝口入道と横笛の悲恋から寺名が由来し元は三宝寺と号し往生院の支院の一つでしたが、いつ頃にか堂宇は退廃し久しく空き地になっていましたが「平家物語」遺跡として昭和初期頃、長唄の杵屋佐吉によって再興されました。小倉山と号し真言宗大覚寺派に属しています。滝口入道は平重盛に仕え、宮中の滝口の侍になった斉藤滝口時頼は、建礼門院に仕える横笛を恋しく思うようになり、恋文を送るようになりましたが、父・時頼に反対され、落胆のあまり出家しました。それを知って訪れた横笛に「ここにはそのような人はおりません」と会おうとはせず、高野山に入ったという。横笛も法華寺で尼になったとも悲しみのあまり大堰川の千鳥ヶ淵に身を沈めたとも伝わります。本堂に悲恋の2人の木像があり、門近くに横笛が詠んだという歌碑があります。

滝口寺へ・・・ 滝口寺 新田義貞首塚
勾当内侍供養塔 えぇなぁ〜(*^-^*) 横笛の歌碑
えぇなぁ〜(*^-^*) 平家供養塔 本堂
本堂内 横笛姿絵 横笛(左)と滝口入道の木像
本堂からの眺め スモークが・・・幻想的な光との調和 小松堂
境内が、もやってきて・・・Deep Impact?! (^_^;)\(^。^。) 欧米か?! 地蔵石仏
檀林寺 お待ちかね!ランチタイム〜?!(^_^;)\(^。^。) 欧米か?!いただきマンモス?!(^^♪うまうま
紅葉の美しさに定評がある宝筐院 (ほうきょういん)

平安時代、白河天皇の勅願寺として建立されました。元々の名は「善入寺」と号し、平安の末から鎌倉時代にかけて、皇族が入寺し、住持となりました。南北朝時代の貞和年間(1345〜50年)から夢窓国師の高弟・黙庵周諭禅師が入寺し、衰退していた寺を復興させ、中興開山となりました。そして、この善入寺にあって門弟の教化を盛んにし、これ以後は臨済宗のお寺となりました。室町幕府の二代将軍・足利義詮(よしあきら)は、貞治四年(1365年)に母の死去に際し、その法要の席において、黙庵から経典の講義を聞き、更に参禅問答したことを契機に黙庵に帰依しました。そして、師のために善入寺の伽藍整備に尽力しました。当時は、東から西へ総門・山門・仏殿が一直線に建ち、山門・仏殿間の通路を挟んで北に庫裏、南に禅堂が建ち、仏殿の北に方丈、南に寮舎が建っていました。寺の位置は『応永均命図』(室町時代前期の嵯峨地域寺院配置図)によると現在地と変わっていません。貞治5年(1367年)、義詮が没すると、善入寺はその菩提寺となりました。そして、八代将軍・義政の代になって義詮の院号の宝筐院にちなみ、寺名は宝筐院と改められました。備中・周防などに寺領があり、足利幕府歴代の保護もあって寺も隆盛でした。しかし、応仁の乱以後は、幕府の衰えと共にお寺も衰微しました。寺領も横領されるなど、経済的に困窮していったからです。江戸時代の宝筐院は天龍寺末寺の小院となり、門の位置は今とは異なり、南に向けて設けられていました。幕末には廃寺となりましたが、五十数年を経て復興された臨済宗の単立寺院です。

宝筐院 駒札 紅葉時は木戸を開けた瞬間\(◎o◎)/!ワオ!!!
去年、ライトアップされた紅葉の中、中島美嘉さんが息を白く吐きながら「雪の華」を歌っていたのをTVで見たとき、ここを訪ねようと思った。(*^-^*)
足利義詮の墓、楠木正行(まさつら)の首塚と欽忠碑

境内には義詮の宝篋印塔(墓所)と南朝の武将・楠正行(まさつら/正成の子)の五輪塔(首塚)が並んでいます。二人は南北朝争乱期に敵対した武将で正平3年/貞和4年(1348年)1月、正行は四条畷の合戦で高師直の率いる北朝の大軍と戦い討ち死し首級(しゅきゅう)を善入寺に葬られました。南朝方の正行を武将として尊敬していた義詮が自分もその傍らに葬るよう遺言した伝えます。明治24年(1891年)、京都府知事北垣国道は小楠公(楠木正行)の遺跡が人知れず埋もれているのを惜しみ、これを世に知らせる為に首塚の由来を記した石碑『欽忠碑』を建てました。

足利義詮の墓、楠木正行(まさつら)の首塚(右) 京都府知事・北垣国道が首塚の由来を記した『欽忠碑』 えぇなぁ〜(*^-^*)
本堂 黙庵は、南朝の武将楠木正行と相識り、後事を託された。
正行は四条畷の合戦で北朝軍(高師直)と戦って討死 枯山水
堂内から額縁庭園の風情を楽しめます!ここで茶湯を一服所望できたら・・・サイコゥ〜(^_-)-☆
清涼寺(せいりょうじ)

清涼寺は嵯峨野でも有数の古刹で五台山清涼寺と号し源氏物語の光源氏のモデルとされる平安貴族の源融(みなもとのとおる)所縁の寺です。本尊の三国伝来の釈迦仏は有名で嵯峨釈迦堂(さがしゃかどう)として、人々に崇拝されています。左大臣・源融(みなもとのとおる)の別荘(棲霞観:せいかかん)を源融没後、寺に改め棲霞寺(せいかじ)と号し天慶8年(945年)、源融と血縁深い式部卿宮重明親王が亡室の為に新堂を建立し金色等身の釈迦如来一体を安置し42年後の永延元年(987年)、南都東大寺の僧・「念(ちょうねん)は宋より帰朝後、請来した釈迦如来像と摺本一切径を当寺に安置しました。「念は愛宕山を中国の五台山に擬えてその麓に大清涼字寺を建立しようと考えましたが長和5年(1016年)「念没後、弟子の盛算は師の遺志を継ぎ棲霞寺内に一宇を営み釈迦像を安置し五台山清涼寺と号し都下万民の信仰を集め隆盛し軒を貸した棲霞寺は衰徴し今は境内の阿弥陀堂に名を留めるに過ぎません。本尊の釈迦如来立像(国宝:宋)は、体内に五色の絹で作った五臓六腑(ごぞうろっぷ)とお経を持ち、生身(いきみ)のお釈迦様と称されています。近年、大阪城発掘時に見つかった豊臣秀頼の首塚が本堂横に祀られています。

えぇなぁ〜(*^-^*) 清涼寺(嵯峨釈迦堂) 駒札
清々しい境内 弥勒多宝石仏 多宝塔
「然(ちょうねん)墓所 嵯峨天皇、檀林皇后塔(右) 光源氏のモデル?源融(みなもととおる)墓所
経蔵 阿弥陀堂
宝篋印塔(源昇公墓碑) えぇなぁ〜(*^-^*)
石塔 放生池の小島に弁天堂 大坂の陣戦没者供養碑(左)、豊臣秀頼公首塚
薬師堂(生の六道:小野篁遺蹟) 隠元筆「栴壇瑞像」の大額を掲げる本堂
これも・・・Deep Impact? (^_^;) さくらのアイスクリーム(^^♪うまうま あぶり餅(^^♪うまうま
法然上人と仁王門 さっ、豆腐を買って伏見へ帰ろうo(*^▽^*)o 嵯峨野豆腐で知られる安政年間創業・森嘉豆腐
写真を撮っている合間に・・・Pちゃんがどんどんと消えて行きます・・・飛ばしますなぁ〜(^▽^;)はは
阪急京都線 ハンドルに豆腐6丁、飛龍頭など 重〜い!(^▽^;)
間もなく伏見・・・もうひとがんばり!イエッサー♪(o^-^)ゞ

伏見百景の酒蔵・・・無事、帰還!!!☆⌒(*^∇゜)v

Torist2008.10.13(M)

 

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