嵐山サイクリングロードを走る

 

木津川の 河原の小石 ぬらすほど 夕かたまけて 春の雨ふる 「山へよする」 竹久夢二

 

嵐山サイクリングロード〜天龍寺・坂本龍馬先生遺徳之像〜亀山公園〜土佐四天王像〜嵐山サイクリングロード

久御山町大池神社〜山田家長屋門〜観音寺〜荒見神社〜竹久夢二旧跡・円福寺〜流れ橋(上津屋橋)〜嵐山サイクリングロード

 

嵐山サイクリングロード(京都・八幡・木津自転車道線)

 

嵐山サイクリングロードは、桂川・渡月橋右岸(嵐山公園)〜木津川・泉大橋左岸間の全線約45kmにも及ぶ「自転車と歩行者の専用道」で正しくは、「京都・八幡・木津自転車道線」と言います。道中は舗装整備された道で走りやすく、四季折々の自然を満喫しながらファミリーでも安心してサイクリングを楽しめます。道中数ヶ所、迷いやすい所がありコラム中で印で解説してあります。一参考に役立てば幸いです。

坂本龍馬避難の材木小屋跡

慶応2(1866)年1月24日未明、薩長同盟を締結した坂本龍馬が、長州藩・三吉慎蔵と寺田屋に潜んでいるところを伏見奉行配下の役人に取り囲まれた。入浴中だったお龍が、不穏な気配を察知し裸のまま二階の龍馬に危機を知らせ龍馬はピストルで応戦。三吉は槍を構えて戦いましたが龍馬は両手首を切られてしまい負傷した龍馬を肩に掛け、裏口の物置を抜けて、隣家の戸を破り小路に出て逃走した。三吉は途中の寺に探索者がいるのに気付き、方向転換して濠川端の材木小屋に忍び込み、龍馬をその小屋に置いて濠川上流の伏見薩摩藩邸に駆け込みました。龍馬が潜んだという西浜の材木小屋は濠川の左岸南方(村上町)にあったと伝える。

坂本龍馬避難の材木小屋跡 坂本龍馬避難の材木小屋跡碑 伏見百景の一・酒蔵
高瀬川右岸堤防道をチャリチャリ 城南宮 参道
いつ訪ねても清々しい境内 明治天皇行在所真幡寸(まはたぎ)神社
鳥羽伏見の戦い跡こま札 鳥羽伏見戦碑 新小枝橋
鳥羽伏見戦の勃発地 桂川左岸堤防道を走る・・・サイクリングロードは堤防下を並走しています。
久世橋手前堤防下へ・・橋に出ない! 嵐山・渡月橋へ9km ここから嵐山まで約20分 この先の堤外人道橋(天神川)を渡る
前方に桂大橋 阪急電車が疾走しています。 西大橋(五条通り:R9号線)を渡ります。
西大橋(五条通り:R9号線)を渡ってスグ左折して堤防下へ下りて畑の中をチャリチャリ・・・ 愛宕山が見えます。
ズ〜ムもいっとこか!(^▽^;) ・・・ サイクリングロードの嵐山の起点(終点)
・・・ 中の島橋を渡ると嵐山公園 渡月橋と亀山、小倉山、愛宕山
月が渡るが如くと言われた渡月橋 山紫水明の風情 臨済宗天龍寺派大本山・天龍寺
世界文化遺産・天龍寺

世界遺産にも登録されている臨済宗天龍寺派の大本山です。後嵯峨天皇の亀山離宮を暦応2年(1339年)、足利尊氏が吉野で崩御された後醍醐天皇の菩提を弔う為に夢窓疎石(むそうそせき)を開山として創建した禅寺です。天龍寺造営資金に困窮し、天龍寺船による対元貿易での利益を造営資金に充てたと伝わります。創建以来650余年、その間に8度の兵火にかかり、殆ど古建築を見る事が出来ません。現在の諸堂は明治時代に再建されました。特別名勝に指定されている曹源池庭園は夢窓国師の作庭で嵐山、小倉山、亀山などの借景を見事に取り入れた回遊式庭園は独特の優美さがあります。

・・・ 私的に知る京都市内にある七体の一の坂本龍馬像を天龍寺塔頭・松巌寺に訪ねます。
坂本龍馬草案・八作(船中八作)・・大政奉還〜小御所会議〜維新戦争(戊辰戦争)

慶応3年(1867年)、長崎〜土佐に帰る船中で坂本龍馬は、新国家建設の構想、新政府組閣、閣僚人事、などを考えた。この八作は、龍馬が暗殺された翌年(明治元年:1869年)、由利公正によって「所謂五ヶ条の御誓文」となり新政府の網領となりました。・・・慶応3年(1867年)、坂本龍馬から大政奉還論を聞いた土佐藩・後藤象二郎は感銘を受ける。坂本の船中八策にも影響され、土佐藩重役に大政奉還論の採用を主張。これに薩摩藩の小松清廉、西郷隆盛、大久保利通も同意し6月22日、薩土盟約を締結した。これは徳川慶喜に大政奉還を迫り、もし拒否された場合には武力による圧迫で政変を起こすというものであった。後藤はすぐに帰国して土佐藩兵を引率してくる予定であったが、武力の発動を拒否する公武合体派の山内容堂(前土佐藩主)の反対にあい頓挫。薩摩側は長州・芸州との間で武力倒幕路線も進めており、結局9月7日には薩土盟約は解消された。土佐藩は単独で10月3日に大政奉還の建白書を山内豊範を通じ将軍・徳川慶喜に提出した。薩摩・長州藩は慶応2年(1866年)1月、薩長同盟締結を機に、第二次長州征討で弱体化した幕府を倒幕しようとしていました。しかし、慶応3年(1867年)10月14日、江戸幕府15代将軍・徳川慶喜が二条城で大政奉還し、薩摩・長州藩は機先を制されました。徳川慶喜は、仮に幕府がなくなり将軍職から退いたとしても、その後の政権(朝廷を中心とした諸大名による合議政体)においても徳川がトップに立てると考えていましたが薩摩・長州藩によって決行されたのが、12月9日の王政復古のクーデターと小御所会議でした。その後、龍馬の理想とは違い鳥羽・伏見の戦いを皮切りに戊辰戦争へと推移し、多大な犠牲の上に明治維新を迎え新政府が樹立した。

八作(船中八作)

一、 全国の政権を朝廷に返上し、政令は全て朝廷からでるようにする。
ニ、 上下の議政局を設置し万機を会議に基いて決定する。
三、 諸侯、公家、庶民から人材を選んで議員に登用し、無用となった旧来の官職は廃止する。
四、 外国との交流は会議に基づき規約を立てて、執り行う。
五、 古来の律令を廃止し新たに法典を選択する。
六、 海軍を拡張する。
七、 新兵を設置して帝都を守衛する。
八、 金貨及び、物価を外国と平衡させる。
坂本龍馬先生遺徳之像 船中八策宣言碑
坂本龍馬像 ・・・ 天井画・八方睨みの雲龍がある法堂(はっとう)

文久3年(1863年)八月十八日の政変で京都から退去した長州藩は、藩主の上洛、禁裏守護に復帰の許しを得るために3000人の大出兵を行った。この時、嵯峨村の大庄屋・総年寄りで材木商を営む福田理兵衛は長州藩の為に天龍寺を借用し兵糧や人足まで細かに世話をした。しかし、元治元年(1864年)の禁門の変で長州軍は幕府軍に敗北。追撃してきた薩摩軍の兵火に天龍寺の大部分が焼失してしまった。福田理兵衛の家屋敷も破壊され家財なども公売にかけられ居場所がなくなり長州へ落ち延びた。長州では優遇され幸せに暮らしたが、明治5年(1872年)4月、帰洛前夜に暗殺された。従五位を贈られ旧宅裏に小祀が建てられ、後に小祀は車折神社に移転し葵忠社(きちゅうしゃ)として今も祀られる。

嵐山羅漢石造 嵐山モアイ像?(^▽^;)
 えぇなぁ〜 (*^▽^*) 小倉百人一首の殿堂・時雨殿 源氏物語ゆかりの大堰の邸候補地
解説 川風が涼しくて心地よか〜\(●⌒∇⌒●)/
岸辺から屋形舟やボートを何時間でもボ〜と眺めていられそう(^^ゞ 嵐山亀山地区案内図
ハーフタイム!ヾ(・・ )欧米か?! 亀山公園へ ・・・
鮮やかな緑のカエデが眩しい! 日中両国友好に尽された京都にゆかりの深い、周恩来総理詩碑
角倉了以(すみのくらりょうい)像 津崎村岡局の銅像 解説
後嵯峨・亀山・後伏見天皇火葬塚 山頂展望台へ・・・野ザルに注意!(^▽^;) 嵐峡俯瞰・・・トロッコ列車が走っていきました・・
嵐峡俯瞰 大悲閣(だいひかく:千光寺)
・・・ 嵯峨野と言えば竹林・・吹き抜ける風が爽やかで心地よい!
 トロッコ・嵐山駅 小倉池 常寂光寺
落柿舎 土佐四天王像
陸援隊・中岡慎太郎 海援隊・坂本龍馬 土佐勤皇党・武市半平太(瑞山)
天誅組・吉村虎太郎 野宮神社 世界文化遺産・天龍寺
平家物語ゆかりの琴きき橋跡碑と渡月橋 渡月橋を渡ります・・・
阪急電車・嵐山駅 松尾大社 いつも愛宕山の写真を撮る場所(^^ゞ
・・・ 阪急電車・京都線 桂川と愛宕山@桂大橋
嵐山サイクリングロード JR京都線、新幹線の鉄橋 間もなく久世橋
名神高速道路 久我橋東詰めを左折(東へ:鴨川) 京阪国道(R1号線)
京阪国道(R1号線) 宇治川大橋 宇治川
野鳥の楽園、ツバメのねぐらとして有名 巨椋池干拓田 ・・・
久御山町・一口(いもあらい)へ・・・かつて広大な巨椋池が広がっていた干拓田 巨椋池の動植物を鎮魂する「大池神社」
巨椋池碑 洪水浸水線と伝える大池漁業記念碑 「京都の自然200選」に選定されている前川堤
かつて巨椋池の漁業網元(庄屋)だった山田家の長屋門 ・・・
弥陀次郎(みだじろう)伝説を今に伝える浄土宗知恩院派紫金山・安養寺 ・・・
観音寺

建長2年(1250年)に開基されたと伝え、重厚な山門に菊花の御紋章を配する皇室の帰依も深い天台宗の寺院でしたが、現在は浄土宗に改宗され落ち着いた雰囲気を持つ寺院です。観音寺には、『昔々、長四郎という信心深い人の夢に観音菩薩が現れ「私は、池の中に沈んでいる。諸人を救済しなければならないから早く引き上げよ」とのお告げがあり、翌朝蓮池に舟を出し、瑞雲たなびく所に網を打ち、十一面千手観音像を引き上げ観音寺に祀った』と、寺名に相応しい伝承がある。

観音寺 こま札 境内
本堂 久御山町役場 旧木津川右岸堤防跡
荒見神社

当地は「和名抄」には見えないが、古くは田井郷有見ノ里と言った。有見は荒見の転訛で荒水を言ったと考えられるのは、巨椋池に近く、しばしば水害を被った事から水神を祀ったのが当社の起こりであるが、中世以降に水神と関係のない祭神(武甕槌命:たけみかづちのみこと)、他に四柱を祀っているのは、信仰の推移によるものと考えられている。「延喜式」に記す久世郡荒見神社とあるのは当社と言われるが、一説に城陽市富野荘の荒見神社とも言われ明らかにしない。

旧木津川右岸堤防跡 久御山町田井の氏神・荒見神社
竹久夢二と円福寺

弘仁15年(天長元年:824年)、弘法大師が創建した真言宗の寺院でしたが、元和10年(寛永元年:1624年)の大洪水で流失した後、寛永2年(1625年)に阿弥陀如来を本尊とする浄土宗の寺院として再建されました。円福寺は、竹久夢二が庫裏をアトリエとして絵筆を奮ったことで知られる。大正ロマンを代表する画家で詩人でもある竹久夢二は一時期、久御山町に住んだことがあり、それ以前にも京都市清水の借家に二男・不二彦と移り住まいした。宇治の平等院へも、しばしば訪れており、そこで後に久御山町田井の円福寺住職となる釜屋了貫と家族交友があった。夢二が43才の時、不二彦を伴って当寺に滞在したのは、昭和3年(1928年)5月〜9月頃までの間で寺で奮ったが生活は困窮したと伝える。当寺に滞在中に書き残した現存作品は、衝立(ついたて)、掛け軸、短冊、色紙、扇など十点ほどですが、他に行方不明になった作品があったと伝える。

竹久夢二旧跡・円福寺・・・夢二は、当寺の庫裏をアトリエにして絵を描いた。
本堂 スカイツリー?!(^▽^;)(KBS久御山ラジオ送信所) のどかな水田の風情
流れ橋(上津屋橋)

木津川に掛かる日本最長級の木造橋で正しくは上津屋(こうづや)橋と言います。木津川の増水時に渡板まで水が浸かると渡板が流されますが、渡板がワイヤーで繋がれている為、水位が下がればワイヤーを引張って修復出来る橋構造になっている事から流れ橋と呼ばれています。時代劇の撮影にも利用されている橋でTV、映画で見た事があるかと思います。昭和28年(1953年)3月に架橋されて以来、昨年の平成21年(2009年)10月までに通算17回も被災(流失)し、今回の復旧工事では橋板を20数枚ごとに1ブロックで流れるユニット工法を新しく採用した。6月16日に開通した。流れ橋は、演歌(木津の流れ橋、歌・藤田まこと)でも唄われ、詩人・井上俊夫も流れ橋のロマンを詠んでいます。橋手前の流れ橋碑は、そんな由縁から藤田まこと氏によって寄贈されています。

久御山町からの流れ橋全景 昨年10月に被災(流失)してから8ヶ月・・6月16日に開通! (*^-^*)
えぇなぁ〜 (*^▽^*) 一部の橋脚はコンクリート製 思わず立ち止まって合掌する野辺の石地蔵
第二京阪側道へ・・・ 新木津川大橋 流れ橋遠望
石田(いわた)神社

岩田村の産土神で神社は東岩田、西岩田、上津屋(こうづや)の三ヶ所に分祀されています。石田君(いわたぎみ)の始祖・五十日足彦命(垂仁帝皇子)を祀る石田氏の氏神です。石田氏に関しては不詳ですが当社が延喜の制に大社に列せられ月次・新書に預かっている事から有力な氏族であったと推察されます。上津屋の石田神社境内には吉野時代作の十三重石塔が一基あります。岩田地区では綿で布を織り毎年の正月に厄除けを祈願して石田神社に奉納し、拝殿の鈴に結わえ妊婦が5か月目になると、その鈴に結わえた布を分けてもらい安産を願ってお腹に巻きました。これが岩田帯の発祥だと伝える。

四季彩館 石田(いわた)神社 こま札
十三重石塔(吉野期) 社殿
木漏れ日と風が心地いい〜(*^-^*) アジサイ 府道 京都・八幡・木津自転車道線案内図
流れ橋の石碑(木津・泉大橋まで約20km/嵐山まで約25km)
流れ橋と茶畑 今日は渡れませんでしたが6月16日に開通予定
藤田まこと氏が寄贈した流れ橋碑 流れ橋とユニット工法の説明図 木津の川面から見た流れ橋
橋板を20数枚ごとに金具やワイヤーで固定して1ブロックごとに流れるユニット工法 八幡市側からの流れ橋全景
サイクリングロード嵐山方面 サイクリングロード木津方面 流れ橋をあとに・・・
第2京阪国道・新木津川大橋 国道1号線・木津川大橋 ・・・
・・・ 天王山の緑が美しい 京阪電車・木津川鉄橋
おけいはん特急の写真を撮りたいので・・時間潰し(^^ゞ 御幸橋
男山と八幡の町並み 男山ケーブルが上っていきます・・ 木津川に架かる御幸橋
木津川と桜の名所・背割堤 宇治川(澱川)に架かる御幸橋 宇治川(澱川)
宇治川に架かる御幸橋 サイクリングロードは橋を渡って左折(西へ) 府道 京都・八幡・木津自転車道線案内図
白線通り堤防右下へ・・・ ・・・ この先で堤防左下に下ります・・
サイクリングロードの表示通りに堤防下へ下りて道なりに進み前方の宮前橋下を通過。堤防道をまっすぐ進むと交差点に出ます。
戊辰役東軍戦死者埋骨地(愛宕茶屋跡) ・・・ 間もなく羽束師橋
草津の湊、魚市場跡碑

嵐山迄、この先約13km続くサイクリングロード

無事帰還!暑かったぁ〜(; ̄ー ̄A

Tourist.2010.06.14(M)

 

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