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えぇなぁ〜
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見事なしだれ桜繚乱じゃ〜 えぇなぁ〜
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Beautiful!!
(・_・)☆ヾ(^^ ) 欧米か?! |
広沢池 |
周囲約1kmにも及ぶ大池で伝説によると宇多天皇の孫・寛朝僧正が遍照寺を建立する時に開削したとされますが修築拡張を行った池で上古嵯峨野が野沢池であった名残を留める池とされます。秦氏のハダはハリダ(墾田)の約言であるというのもこれに因みます。 |
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広沢池と愛宕山 |
広沢池は周囲約1kmにも及ぶ大池で池周りには桜並木が続きます・・・ |
遍照寺跡 |
寛朝僧正は早くから当地に広沢山荘を構えていましたが永祚元年(989年)10月、山荘を寺とし遍照寺と号しました。池の畔には釣り殿、月見堂などがあり池中の観音島へ橋を架けたとされかかる大寺でしたが惜しくも早くに荒廃し今は池南に旧名を留めるだけです。 |
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遍照寺旧跡 |
広沢池観音石仏 |
遍照寺観音堂(観音島) |
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大覚寺へ・・・北嵯峨の里@千代の古道 |
大覚寺 |
旧嵯峨御所
大覚寺門跡 |
嵯峨山と号する真言宗大覚寺派の大本山で正しくは旧嵯峨御所大覚寺門跡と称します。元、嵯峨天皇の離宮でしたが貞観18年(876年)、離宮を改め寺となし淳和(じゅんな)天皇の第二皇子の恒寂法親王(ごうじゃくほっしんのう)を開祖として大覚寺と号したのが当寺の起こりです。鎌倉時代に後嵯峨、亀山両天皇も譲位後に当寺に入られたが後宇多法皇が第二十二代門跡となるに及び大いに伽藍造営に務め中興開山され、院政を当寺で執られたので嵯峨御所と呼ばれました。これより後宇多上皇の皇統は大覚寺統(後の南朝)と呼ばれ皇位継承などを巡って後深草上皇の持明院統(後の北朝)と対立、南北朝分立の原因となりました。明徳3年(1392年)南北朝講和となるや亀山天皇は当寺で北朝の後小松天皇に譲位されました。その後も皇室の帰依と武門の信仰により時運変る事なく明治初年に至るまで皇族の法親王が法脈を継がれ今も市中の大寺院とは違った貴族的な雰囲気が境内に漂っています。嵯峨天皇の「般若心経」書写に因んで写経の本山、道場としても知られます。生け花「嵯峨御流」の総司所も大覚寺に設立されています。 |
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時代劇にもよく使われるロケーション・・・えぇなぁ〜
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式台玄関(江戸期:木造入母屋造瓦葺) |
銅板葺きの唐破風を備え妻飾りは木連格子懸魚附きです。東福門院の女御御所、長局の一部と推定され玄関部屋は「松の間」とよばれ、正面北側の広大な2面の壁貼付を中心として、西側の襖6面、東側襖4面にわたって豪華な金碧画の「松に山鳥図」が描かれています。図様は正面の壁貼付2面に、老松の巨幹が根を張り山鳥のつがいが羽を休めている。松の左右には楓が1本ずつ配され、これが東西両側にも連続し、巨大な老松を主軸とする統一的構図法が雄大豪壮です。寺伝では狩野永徳筆とされ、桃山金碧画のなかで重要な位置を占めるとされます。 |
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表門 |
式台玄関と緑の山々を表している松 |
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松の間には狩野永徳筆「松に山鳥図」 |
右近橘(うこんのたちばな)、左近梅・・・向こうは、唐門(勅使門) |
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(*^-^*) |
御影堂(心経前殿) |
キュッキュッとなる御影堂(心経前殿)の廊下 |
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手前から舞楽壇(台)と御影堂(心経前殿) |
えぇなぁ〜
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人形のような美しさ?!(^^ゞ爆
源氏物語の紫の上? |
源氏物語雛人形 |
・・・ |
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一堂 |
日本最古の庭苑池で観月の名勝・大沢池 |
御影堂(心経前殿) |
明智門、明智陣屋、表門(江戸期:木造切妻造本瓦葺) |