愛宕山ミステリー散策

 

愛宕鉄道(愛宕山鉄道)、ケーブル遺構と愛宕山スキー場跡探索

 

愛宕山 まだ降る雪も 消えなくに 樒(しきみ)が原に 霞たなびく    「江師(ごうのそち)集」大江匡房(まさふさ)

 

城南宮〜安部晴明嵯峨墓所〜長慶天皇東陵、皇子・承朝王墓〜清滝〜愛宕山鉄道、愛宕山ケーブル遺構

 

愛宕鉄道、愛宕山ケーブル遺構

昭和4年(1929年)、嵐電(京福電鉄)・嵐山駅〜嵯峨西駅〜釈迦堂駅〜鳥居本駅〜清滝駅を結ぶ、愛宕山鉄道(3,4km)として開通しました。現在、鉄道線路跡は清滝街道として府道になっています。遺構は殆ど現存していませんが「清滝トンネル」は現存している愛宕山鉄道遺構です。昭和4年(1929年)7月25日、愛宕山ケーブルが開通し清滝川駅〜愛宕駅の2kmを結び、当時としては日本一の長さと技術水準を誇ったケーブルでした。トンネルと橋梁が6ヶ所ずつあり、車両はスイスのギーセライベルン社製の2両だったと伝わります。当時、愛宕山々頂付近にスキー場もあり、ケーブル愛宕駅にはロッジホテルがありました。昭和19年(1944年)2月、軍への鉄材供出の為?に鉄道と共に廃線となりました。今回の愛宕山鉄道、愛宕山ケーブル、愛宕山スキー場跡は、今は亡き親父と子供の頃、何度も愛宕山登山した時に「もー少し大きくなったら連れてやる」と言われながら実現しなかった知る人ぞ知る愛宕山ミステリー遺構・・・残念ながらNo.3のトンネルが崩落している為に巻き道に入ったのですが、巻き道の目印テープがやたらに多く・・・表参道からケーブル跡に来る巻き道を歩伏前進もありで逆行したようで完全に歩破出来ませんでした。(>_<) しかし、ようやく訪ねる事ができたので満足しています。  

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城南宮

城南宮の由緒は、上古の時代、神功皇后は出陣に当たり、軍船の御旗に八千矛神を招き寄せて戦勝を祈願され、戦が終わると御旗は宮中で大切に保管されていました。桓武天皇が平安京に都を定めた時、御旗を城南の当地に御神体として納め、八千矛神(やちほこのかみ=大国主命:おおくにぬしのみこと)、国常立尊(くにのとこたちのみこと)、息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと=神功皇后:じんぐうこうごう)の三柱、伊勢、石清水神社など七社が合祀され、都の南を擁護する神として祀られた。御旗の日月星の紋章が城南宮の三光の神紋の由来と云われています。

城南宮

菊水若水

伏見七名水の一つで平安京の南鬼門を守る方除けの神社として建てられた城南宮の手水舎にあります。菊水若水は若狭の国からの地下水脈で菊水若水井を経て、奈良・東大寺のニ月堂でお水取りに使われる若狭井に達するお香水だと伝わります。江戸時代半ばの随筆に、城南宮の菊水若水(延命水・若水ともいう)を飲むとあらゆる病が治り、そのご利益を授かるために訪れる参拝者は絶えないと記されています。病気平癒の霊験あらたかでお百度を踏んで、水を持ち帰り病人に授ける習慣もありました。

菊水若水

枝垂れ梅(城南宮楽水苑・春の庭)

愛宕山

日中不再戦石碑(中ノ島公園)

愛宕山

渡月橋

嵐電「嵐山駅」

駅構内にある「嵐山温泉/駅の足湯」

嵐電「嵐山駅」構内

愛宕鉄道の発着線は1番線ホームでした。

この辺りから釈迦堂方面(左)へ曲がりました。

陰陽師(おんみょうじ)・安部晴明嵯峨墓所

安部晴明は中国古代の道教に伝わる陰陽五行の陰陽道に通じ占術、呪術で鬼神を自由に操り平安京を守護したとされ天文学を元にして暦を作成し、日本全国に暦を広めたとも伝わります。花山天皇、藤原道長を始めとする貴族に重用され都の北東(土御門近く上京区の上長者町通りと西洞院通りの角地)に住まいし都に侵入する鬼を防ぐ働きをしました。寛弘2年(1005年)9月26日、85歳で真如堂で死去したと伝えられ晴明の墓は、京都市嵯峨にある「嵯峨墓所」が有名です。

臨川寺

安部晴明嵯峨墓所

臨川寺

霊亀山と号する臨済宗・天竜寺派の寺で元禅宗京都十刹の第二位でした。当地は亀山法皇の離宮亀山殿内の川端殿のあった所で法皇は皇女・昭慶門(嘉子内親王)に賜ったが女院は後醍醐天皇の皇子・世良(ときなが)親王に譲られましたが親王が若くして亡くなり菩提を弔う為に元弘3年(1333年) 、夢想国師を講じて開山とした禅刹で天竜寺創建に先立つ6年前でした。国師は後醍醐天皇父子の冥福を祈ると共に退隠所とし正平6年(1351年)76歳で自寂しました。開山堂には国師の木像が安置され足利義満の筆による「三会院」の額、書院中の間にある狩野永徳の筆による襖絵「水墨花鳥図」、枯山水(龍華三会の庭)庭園など往時を偲ぶものが数多く残っていますが現在は拝観はできません。

角倉稲荷社

長慶天皇東陵、長慶天皇皇子・承朝王墓

長慶天皇東陵、皇子・承朝王墓

正平23年(1368年)3月、即位された南朝方三代目の天皇で名を寛成といい、後村上天皇の皇子でした。在位中天皇は公家政治の再興、京都の奪回を図られたが実現しませんでした。国学に精通し特に歌学に長じ源氏物語元詞を解釈した「仙源抄」などの著書があります。在位15年にして元中元年(1384年)、皇弟・後亀山天皇へ譲位後に出家して覚理長慶院と号しました。後亀山天皇の和平的な政治に対して相容れぬものがあり後に南北朝が合一の際には後亀山天皇のみが帰洛されたと伝わり応永元年(1384年)8月1日の崩御地に諸説があり明らかでなく永く即位も認められなかったが大正15年(1926年)、人皇第98代として皇統に加えられ、後に陵墓も皇嫡子・海門承朝が入寺されていた嵯峨長寿院の旧地とされる当地に治定され御陵は皇子・承朝王の墓と並んで西面しています。

長慶天皇東陵

長慶天皇皇子・承朝王墓

清滝街道高架橋は愛宕鉄道が国鉄(JR)山陰線と立体交差していた所でした。

愛宕鉄道「釈迦堂駅」があった辺り(清滝街道)

曼荼羅山(愛宕鉄道軌道跡/清滝街道)

愛宕鉄道架線柱跡

侘びな奥嵯峨野の鳥居本(愛宕街道)

愛宕鉄道「鳥居本駅」跡(清滝街道)

鳥居本駅と愛宕街道の連絡階段

今も当時を偲ばせる鳥居本の風情

一の鳥居

愛宕鉄道架線柱跡

愛宕鉄道跡(清滝街道)と並行している愛宕街道

愛宕念仏寺(おたぎねんぶつでら)

醍醐天皇の延喜年間、千観阿闍梨の開創する等覚山愛宕院と号する天台宗延暦寺派の古刹で七堂伽藍を備える護願寺として建立されました。平安時代初期の洪水で堂宇が流失しましたが、醍醐天皇の勅命で六波羅蜜寺の近くに再興され、大正時代に現在地に移されました。鎌倉時代に造られた本堂(重要文化財:鎌倉期)周辺の境内には、参詣者の手で彫られた表情豊かな1200体もの羅漢石像が並んでいます。

愛宕(おたぎ)念仏寺

清滝トンネル(愛宕鉄道遺構)・・・愛宕街道は踏み切りで交差して試峠へ続いていた?

清滝トンネル内(愛宕鉄道遺構) 出るか?(^^ゞ

清滝トンネル(愛宕鉄道遺構)を通過し清滝着

愛宕鉄道「清滝駅」跡(京都バス清滝停留所)

愛宕山

清滝の背後、山城と丹波の国境に聳える峻峰で標高924m、東の比叡山と共に京都市民にとって朝夕仰ぐ山として親しまれ特に冬は日本海方面から吹きつける雪が先ず、愛宕山に及ぶ事から冬の到来を告げる山として親しまれています。愛宕山々頂に鎮座する愛宕神社は古来「火伏せの神」として名高いのは軻遇突智命(かぐつちのみこと)を一に仇子(あたこ)、熱子(あつこ)とも言い火を掌る神として崇められたからです。中世には山岳仏教の隆盛に伴い修験道の霊場となり唐の五台山に倣って山中に五ヶ寺が建立され本地仏として勝軍地蔵(現在は金蔵寺に鎮座)が祀られ武家の崇敬を受け明智光秀が当山の威徳院で催された連歌会に出席し「時は今 雨が下しる 五月かな」とさりげなく叛意を示した逸話は有名です。明治の初めに月輪寺を除く仏寺は廃され神社だけとなりました。愛宕山は一に樒ヶ峰とも呼ばれシキミの群生地として歌枕にもなりました。シキミは仏前に供える花ですが仏教渡来以前はサカキと称して神前に供えました。これは葉に芳香があり邪気を払うと言われるからです。愛宕神社ではサカキを神花として尊び参拝者は火災除けの御符と共に授与され持ち帰り家の軒下に吊るしたり神棚、カマドに祀っておくと火事にならないとされます。今も神社の背後を樒ヶ原と称しています。

猿渡橋(清滝川)

金鈴峡方面(清滝川)

清滝遊園地跡(金鈴橋東側)

待機のキララ

愛宕ケーブル「清滝川駅」遺構の階段・・いざやいざ!ケーブル跡ルートに突撃いぃ〜!o(*^▽^*)o

愛宕ケーブル「清滝川駅」遺構

愛宕ケーブル線路跡

橋梁(No.1)

橋梁(No.1)を通過

線路跡脇に残る架線柱の基礎台

トンネル(No.1)

トンネル(No.1)を通過

トンネル(No.2)

トンネル(No.2)を通過

橋梁(No.2)

北山の山々(橋梁(No.2))

橋梁(No.2)を通過・・・架線柱の基礎台も現存

トンネル(No.3)は崩落の為に通行不可 (>_<)

巻き道に入りました・・・目印のテープだらけやんか(>_<) 陥没しています!トンネル崩落現場?!(@_@)

巻き道を逆行したようで道なき山中を約40分ほど彷徨いました!(;@_@)・・・ようやく獣道に出ました!!!(*´ο`*)=3ホッ

な、なんと表山道25丁目の休憩所に出ました!(>_<)

ケーブル線跡に戻ろうとしましたが今来た急斜面を戻るのは危険と判断し表山道から愛宕駅を目指します。(;¬_¬)

この辺りから積雪しています。

大杉社

積雪が深くなってきました!(@_@)

落語『愛宕山』で「かわらけ投げ」をしていた7合目

雪が深くなってきました。スリップに気をつけてテクテク・・・水尾分岐点通過

雪深き脇道に入りケーブル愛宕駅を目指します。

廃墟ちと化したケーブル「愛宕駅」

一階の様子 新しいテーブルとベンチが・・

二階のテラス

二階のテラスからの愛宕駅

二階の様子

天井からツララ?(@_@)

叩き落して確認!・・・ツララでした!(^^ゞ

二階のテラスから市内の眺望、遠くに比叡山が見えます!

一階に下ります・・・階段大丈夫?(;¬_¬)

ホーム上、線路に降りて愛宕駅舎を見ています。

ホーム下の待避坑

ケーブル巻上げ動力機があった動力室

動力室から見たホーム

愛宕駅舎と雪深きケーブル線路跡

積雪しているので分かりにくいですが愛宕山ロッジホテル施設の基礎跡のようです。

ケーブル「愛宕駅」

ケーブル「愛宕駅」

旅館「水口屋」跡

雪深き道を表山道へ戻ります。

表山道を山頂へテクテク・・・

吹雪いてポンポン山が白く霞んで見えます。

ガンバリ坂通過中!(; ̄ー ̄A

楼門

雪が深くなってきました!(@_@)

黒門跡礎石通過・・・

白銀の世界・・・参道の愛宕灯籠

愛宕神社からの眺望・・・広沢池が見えます!

雄大な北山連峰の稜線

首無地蔵への分岐点にある地蔵尊

雪深い道をスリップに気をつけて三角点(所在地:京都市右京区)を目指します!

愛宕山三等三角点(設置:明治36年/1903年)

愛宕山三等三角点(点名:愛宕、標高:890.06m)

三角点のベンチで、おにぎりを食べながら眺望・・吹雪いて白霞しています!(>_<)寒うぅ〜

雪深き道を愛宕スキー場跡を目指します。

この先がスキー場跡ですが、時間の都合でリターン(>_<)

スリップに気をつけて・・・愛宕神社へ戻ります。

愛宕神社

愛宕山朝日峰上に鎮座する旧府社では比叡山、比良山などと京都七高山の一とされます。山頂に愛宕神社が祀られたのは天応元年(781年)と伝わります。愛宕神の軻遇突智(かぐつち)神は、母伊弉冊(いざなみ)神焼き給うたので一に仇子(あたこ)、熱子(あつこ)とも言われ、火を司る神として崇められています。愛宕神社の火伏の効験は火之軻遇突智(かぐつち)の信仰に基づき後に修験と結びついて天狗(修験者)の利益とされました。愛宕山には太郎坊を筆頭に火乱坊、三密坊、光林坊、天南坊、普賢坊、歓喜坊、東金坊の八天狗が止宿しており、中でも太郎坊は日本を代表する大天狗とされます。

愛宕神社

三の鳥居

神石(大天狗・太郎坊変化石)

神門

拝殿

本殿(愛宕山々頂:924m)・・・誰一人いない!!(>_<)

本殿・・・灯りが消えとるとです!(>_<)寒〜い!

誰一人いない愛宕神社をあとに・・最後の下山者なので怪我に注意して午後5時前に下山開始!

人気のない愛宕灯籠通過・・・

黒門跡礎石通過・・・

楼門通過・・・

降雪で白霞している亀岡方面

市内の眺望(表山道7合目)

陽が沈むとです・・・急がねば!(;@_@)

火燧権現(ひうちごんげん)跡

お助け水・・顔ば洗いました。気持ち良か〜

表山道から見た愛宕ケーブル橋梁(No.1)

6時過ぎに無事の下山・・(*´ο`*)=3ホッ

お待たせ〜!キララ!!!ハイヨ!シルバー?!(;^_^A

日暮れの金鈴峡方面(清滝川)

清滝トンネル(愛宕鉄道遺構) 突撃〜o(*^▽^*)o

愛宕念仏寺・・すでに灯りが消えている(>_<)

一の鳥居

時雨れる愛宕山(渡月橋)を後に伏見へ帰ろう!!!

Tourist  2005.03.14(M)

 

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