愛宕山散策

 

愛宕山散策「愛宕神社編」

 

愛宕嶺(ね)に 立てば眼路(まなじ)も はるけしや あれや大和路 これや丹波路   吉井 勇

 

愛宕山・月輪(つきのわ)寺〜愛宕神社〜清滝〜奥嵯峨〜嵐山サイクリングロード

 

愛宕山

京都市の西北、丹波、山城国に聳える峻嶺で標高924m、常に白雲をたなびかせ雄偉で特徴のある山容は東の比叡山と共に人々の親しむ山です。一に阿当護、阿多古、愛太子に作り山頂に鎮座する愛宕神社に因んでこの名があります。愛宕神は軻遇突智(かぐつち)神とされこの神は降臨に際し母伊弉冊(いざなみ)神を焼き給うたので一に仇子(あたこ)、熱子(あつこ)とも言い火を掌る神として崇められています。これに因み火除け、火伏せの神として人々の信仰を得ました。中世山岳仏教が盛んとなるにつれ仏徒は当山に目をつけ唐の五台山に模して山中五峰に五寺(朝日峰白雲寺、大鷲峰月輪寺、高雄山神護寺、竜上山日輪寺、鎌倉山伝法寺)を設けその本他仏は勝軍地蔵なりと称し軻遇突智神をその垂跡(すいじゃく)とし愛宕大権現と称しました。修験者も当山を修験道七高山の一とし天狗太郎坊栄術を配祀するなど常に神道家や僧徒の競望する所でしたが明治3年(1870年)、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)によって勝軍地蔵を手放し月輪寺以外全ての仏寺を廃して愛宕神社と改め軻遇突智神を主神とする本来の姿に戻りました。俗に「伊勢には七度、熊野へ三度、愛宕さんには月参り」と言われ全国に分祀されるもの800余社の多きに及びます。

廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)・・・仏法を廃し釈尊(しゃくそん)の教えを棄却する事です。明治元年(1868年)、明治新政府の神道国教代政策として神道擁護、神仏混淆の廃止を目的として出された神仏分離令は復古神道の影響下で天皇の神聖化を目的とし1868年(慶応4年)3月13日、神仏判然令によって具体化された法令で神仏分離政策は全国各地の廃仏毀釈運動となり廃寺、合寺などが至る所で行われました。

御神石(大天狗・太郎坊変化石)

鳥居(神門)

愛宕神社

拝殿、本殿

楼門

市内の絶景

大杉社

お助け水

愛宕山鋼索鉄道(ケーブル)遺構

愛宕(おたぎ)念仏寺

羅漢(石仏)群

一の鳥居(鳥居本)

夕暮れの愛宕山、小倉山(渡月橋)

 

山道に倒木!!! (>_<)

市内の絶景(展望岩上から)\(●⌒∇⌒●)/

愛宕山一の絶景が見れる展望岩

愛宕神社

愛宕山朝日峰上に鎮座する旧府社では比叡山、比良山などと京都七高山の一とされます。山頂に愛宕神社が祀られたのは天応元年(781年)と伝わります。愛宕神の軻遇突智(かぐつち)神は、母伊弉冊(いざなみ)神焼き給うたので一に仇子(あたこ)、熱子(あつこ)とも言われ、火を司る神として崇められています。愛宕神社の火伏の効験は火之軻遇突智(かぐつち)の信仰に基づき後に修験と結びついて天狗(修験者)の利益とされました。愛宕山には太郎坊を筆頭に火乱坊、三密坊、光林坊、天南坊、普賢坊、歓喜坊、東金坊の八天狗が止宿しており、中でも太郎坊は日本を代表する大天狗とされます。

山道

愛宕神社参道の石段

鳥居(神門)

御神石(大天狗・太郎坊化身石)

山門

愛宕神社

愛宕神社々殿と愛宕灯籠

愛宕山々頂の朝日峰に鎮座する愛宕神社は丹波国桑田郡国村(亀岡市)にあったが後、山城愛宕(おたぎ)郡鷹ヶ峰(北区)に移り、次いで天応元年(781年)、僧慶俊によって愛宕山々頂に移し和気清磨が社殿を造営したと伝えますが開創、遷座には諸説があり定かでありません。現在の社殿は寛政12年(1800年)失火後の再建で他に拝殿、社務所、楼門などがあり楼門から本殿までの参道両脇に江戸初期〜末期に及ぶ年号を記した石灯篭(愛宕灯籠)が多数並んでいます。

拝殿、本殿

愛宕灯籠が並ぶ参道

白雲寺跡

愛宕神社と同境で朝日峰と号した愛宕山五台寺の一でした。役小角(えんのおづぬ)が秦澄上人と共に入山した時地蔵五仏と天狗大魔王の示験により当山を開いたのが当寺の起こりされます。天応年間、僧慶俊は和気清麿を旦那として中興し勝軍地蔵を安置して愛宕大権現と称しました。これを信仰すれば必ず勝利を得るとされ武家に崇敬され豊臣秀吉は征韓役に愛宕神社の神宝笹丸(重文)請い受けて出陣し徳川家康も武運長久を祈って慶長8年(1603年)、江戸芝の愛宕山に勧請しました。明智光秀も度々参詣し天正10年(1582年)5月、当山威徳院で催された連歌会で「時は今 あめが下しる 五月かな」と叛意を示した逸話は有名です。白雲寺は明治維新迄、子院多数を擁して寺運も栄えましたが明治3年(1870年)、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)によって廃寺となり久しく本地仏として祀られていた勝軍地蔵は乙訓郡大原野村西岩倉の金蔵寺に移されました。

黒門跡基礎石

明智光秀所縁の白雲寺跡

楼門

がんばり坂の倒木 (>_<)

山間からの市内の絶景 \(●⌒∇⌒●)/

大杉社

壺割坂(十八丁目)

江戸時代に山上に宇治茶を貯蔵して江戸幕府(将軍)に献上していました。ある時、そのお茶壺を割ってしまい壺割坂と呼ばれるようになりました。

壺割坂

火雷神、母秘屋理乃命などの神石祠(一本杉茶店前)

愛宕鉄道、愛宕山鋼索鉄道(ケーブル)遺構

昭和4年(1929年)、京福電鉄・嵐山駅〜釈迦堂駅〜鳥居本駅〜清滝駅を結ぶ、愛宕鉄道(3,4km)として開通しました。現在、鉄道線路跡は清滝街道として府道になっています。遺構は殆ど現存していませんが清滝トンネルは現存している愛宕鉄道遺構です。昭和4年(1929年)7月25日、愛宕山ケーブルが開通し清滝川駅〜愛宕駅の2kmを結び、当時としては日本一の長さと技術水準を誇ったケーブルでした。トンネルと橋が6ヶ所ずつあり、車両はスイスのギーセライベルン社製の2両だったと伝わります。当時、愛宕山々頂付近にスキー場もあり、ケーブル愛宕駅にはロッジホテルがありました。昭和19年(1944年)2月、軍への鉄材供出の為?に鉄道と共に廃線となりました。

お助け水

愛宕山鋼索鉄道(ケーブル)遺構

二の鳥居

相棒のトラッキー号

清滝川と猿渡橋

清滝トンネル(愛宕鉄道遺構)

愛宕(おたぎ)念仏寺

羅漢群

一の鳥居(奥嵯峨野・鳥居本)

愛宕街道(街並み保存地区)

化野(あだしの)念仏寺

愛宕街道(街並み保存地区)

夕暮れの嵐山(渡月橋)

夕暮れの愛宕山と小倉山(渡月橋)

夕暮れの嵐山を後に・・・さぁ〜伏見に帰ろう!!!

日没の西山

Tourist  2004.10.18(M)

 

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