蝦夷塚〔伝・北天の雄・阿弖流爲(アテルイ)と母禮(モレ)の首塚〕と神奈備の山・お稲荷さんを歩く

 

またやみむ 交野のみ野の さくらがり 花の雪散る 春のあけぼの  「新古今和歌集」 藤原俊成

 

阿弖流為(アテルイ) 母禮(モレ)之塚〜片埜(かたの)神社〜京都屈指のパワースポット!神宿る神奈備の山・お稲荷さんの迷宮を歩く

北の英雄・阿弖流為(アテルイ)と母禮(モレ)そして、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)伝

今から約1200年以上も昔の奈良時代末期〜平安時代初期、東北地方に朝廷から蝦夷(えみし)と呼ばれる人々がいました。彼らは美しく豊かな土地の恵みを受け田畑を耕し、鮭などの魚を捕り、鹿やイノシシなどの動物を追いながら平和に暮らしていました。しかし、この頃、長岡から京に都を遷都した中央(朝廷)では豊かな田畑や砂金が取れ良馬が育つ東北地方を支配することを大きな狙いとしました。その為、朝廷軍は圧倒的な兵士と新式の武器を持って力ずくで蝦夷征伐に攻め込んできました。その度に豊かだった田畑を荒らし家屋を焼き払いたくさんの人々を殺戮しました。こうして平和に暮らしていた蝦夷の人々の生活は度々の戦乱によって大きく変貌しました。朝廷軍との戦いに敗れた人たちは自ら降参するものが出たり徐々に朝廷の支配下に入っていきました。朝廷はこれらの人たちをうまく利用しながら東北地方の支配力を高めようとしましたが、支配されていた人たちの中から怒りを爆発させ反乱を起こすものが現れました。それに対して朝廷は大軍を差し向けましたが、逆に土地を知り尽くした蝦夷にゲリラ戦を展開され苦戦を強いられることが度々ありました。・・・延暦8年(789年)、こうして紀古佐美(きのこさみ)率いる朝廷軍5万2千8百との戦いが始まりました。わずかな阿弖流為(アテルイ)軍は知り尽くした故郷の山河などの地の利がアテルイたちの味方となり歴史に残る『巣伏の戦い』で朝廷の大軍に圧勝しました。時の帝・桓武天皇は朝廷軍の大敗の知らせを聞いて激怒したと伝えます。しかし、桓武帝は副将軍に坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)を任命し十万を超える大軍を胆沢(いさわ)に送り込みました。アテルイたちの必死の戦いも善戦虚しく度重なる戦乱によって力を落としていきました。更に後の延暦16年(797年)、こうして戦績のあった田村麻呂を征夷大将軍に任命しました。延暦21年(802年)、田村麻呂は胆沢城を築城し支配を確実なものにしていきました。アテルイは長年の戦いで美しく豊かだった土地や田畑が荒れ果て多くの仲間が傷つき落命していった事に大変心を痛め遂に副将・モレと共に田村麻呂に降伏しました。この時、二人に同行した者たちは500人にも上ったと伝えます。アテルイは田村麻呂に同行した500名の助命嘆願をしました。武将としての強さと人としての豊かさを兼ね備えていた田村麻呂は、武勇と人柄に優れたアテルイとモレの二人を東北地方を治める為に必要に人材と考えました。お互いの心中では命をかけて戦ってきた相手に敵というよりも違った感情が沸いていました。田村麻呂は、アテルイとモレの信頼の篤さと仲間思いの心に胸打たれ、二人を処刑しないよう朝廷に助命を嘆願する事を約束し同行した500名を解き放ちました。田村麻呂は胆沢の平定と二人の助命嘆願をするために二人を伴って京の都へ向かっていました。田村麻呂は朝廷に二人の助命嘆願をしたが、桓武帝始め朝廷は、「野生獣心反覆無定」助命すれば野に虎を放つようなものであるとして田村麻呂の願いも虚しく二人の処刑が決まり、延暦21年8月13日(802年9月17日)、阿弖流爲(アテルイ)と母禮(モレ)は河内国(枚方市)で処刑されたというのが当地だと伝えます。処刑された夜、多くの都人が北東へ流れていく明るく輝く星を見たと言います・・・二人の魂が遠く離れた東北・日高見に帰っていったのでしょう・・・この事は、今も東北地方に忘れ去られることなく伝えられています。そして、アテルイとモレとの約束を果たせなかった田村麻呂は、ふたりを都に連れ帰った事を大変に後悔し続けたと伝えます。蝦夷の首長・アテルイと副将・モレが処刑されたのは河内国植山(杜山、椙山)とされますが、詳細はそれ以上わかっていません。しかし、ここ牧野の坂地区と宇山地区には古来から首塚と胴塚の事が伝承されています。・・・立場は違ったアテルイ、モレと田村麻呂の間に芽生えた友情と自分たちの平和と仲間の命、誇りを守ろうとして朝廷の大軍に立ち向かったアテルイとモレたちの勇気に思いを馳せるかのように塚に植えられている山桜と樫の大木は今日も風に豊かな葉を揺らせているようです・・・

大手筋商店街 納屋町商店街 竜馬通り商店街
中書島駅前通り レトロな建築意匠の銭湯 京阪・中書島駅
京阪3000系特急『コンフォートサルーン』 京阪8000系特急『エレガン都 エクスプレス』 京阪1500系普通車
外は冷たい雨やけど車内は快適や〜(*゜▽゜)/ 伏見港・三栖閘門@宇治川派流 高瀬川
JRA京都(淀)競馬場 京阪淀車庫(旧木津川河川道跡) 宇治川
木津川 男山 旧幕府軍が最後に奮戦した楠葉砲台跡
楠葉砲台跡の土塁 間もなく・・・楠葉 快適な車内と心地よい揺れで眠気が・・(^^ゞ
牧野に着きました・・・ 阿弖流為(アテルイ)、 母禮(モレ)の墓のある牧野公園へ続く坂道を崇り坂と言うらしい(@_@;)
伝 阿弖流為(アテルイ) 母禮(モレ)之塚 地図

傍らの説明板には、「802年(延暦21年)4月、征夷大将軍・坂上田村麻呂が蝦夷首長・アテルイと副将・モレが同族500人を引き連れて投降したことを朝廷に報告し、7月に2人を伴い帰京した。田村麻呂は2人の助命を朝廷に嘆願したが聞き入られず、2人は河内国で処刑された。」とあり、この地がそのゆかりの地としている。『日本紀略』には河内国植山で処刑されたとあり、この植山は、現在の宇山に比定されるとのことである。(宇山は江戸時代の初め、旧名上山から宇山に地名が変更されている。)アテルイは、8世紀末〜9世紀初めにかけて、東北地方で活躍した蝦夷のリーダーで、長期抗戦で何度も朝廷軍を打ち破ったアテルイとモレの墓と伝える。

牧野公園は枚方八景・牧野の桜に選定 古来より、この塚を蝦夷塚(首塚)と呼び阿弖流為(アテルイ)、 母禮(モレ)の首塚と伝える・・
記念植樹された桜 平成19年(2007年)3月建立。伝 阿弖流為 母禮之塚碑 解説
豊臣秀吉が大阪城鬼門鎮護の社と定められた方除けの社・片埜(かたの)神社 地図

河内国一宮を称する式内社で、旧社格は郷社。社伝によれば、垂仁天皇の時代に、出雲国の豪族である野見宿禰が、当麻蹴速との相撲に勝った恩賞として当地を拝領し、出雲の祖神である素盞嗚尊を祀って一族の鎮守とした事に始まる。片埜(かたの/片野、交野)は、この辺一帯の古名で、交野市の地名の由来でもある。平安中期、野見宿禰の後裔である菅原道真が天神として祀られるようになると、天徳4年に当社でも菅原道真が配祀された。社家の岡田家は野見宿禰の後裔である。『延喜式神名帳』では「片野神社二座 鍬靫」と記されて、小社に列している。かつては広大な社地を有し、「交野の御野」、「牧野の桜」と呼ばれる桜の名所として歌枕ともなっていた。戦国時代の戦乱で荒廃したが、天正11年(1583年)に豊臣秀吉によって復興され、大坂城の鬼門の方角にあることから鬼門鎮護社とされた。大坂城天守の北東の石垣に鬼面を刻み(現存しない)、当社と対面させたと伝える。慶長7年(1602年)には、子の秀頼によって本殿、拝殿などの社殿が大造営された。そのうち本殿と南門が現存し、本殿は国の重要文化財に指定されている。大坂城の鬼門除けの神社とされたことから、現在でも方除・厄除の神として信仰されている。またこれらのことにより、鬼は片埜神社の象徴・守り神とされている。絵馬や御朱印には鬼面が描かれており、節分の豆まきでは「鬼は内」と唱える。江戸時代までは「一宮牛頭天王」を正式名称としていたが、明治時代にかつての片埜神社に復した。明治時代に旧牧野村内の以下の神社を合祀した。

守られている蝦夷塚(えみしづか/首塚) 漢文の解説が読めない?!(^^ゞ 片埜(かたの)神社
境内 本殿 朱印くださいな〜・・愛想良しの巫女さん(*^▽^*)
稲荷大神 本殿 解説
巳年の開運招福絵馬 豊臣の家紋と鬼の方除絵馬!(@_@;) 依姫社
これが阿弖流為(アテルイ)の顔だとか・・でも、似てるかも?(^▽^;) これは母禮(モレ)の顔?ヾ(´Д`;●) ォィォィ
片埜(かたの)神社をあとに・・・ 山桜と樫の大木の根元にある伝 阿弖流為(アテルイ) 母禮(モレ)之塚
枚方八景・牧野の桜が満開時に再訪したい! 祟り坂?で転ぶと傷が癒えないとか・・(@_@;) 京阪・牧野駅前
牧野界隈案内図 7000系淀屋橋行き急行通過・・・ 6000系準急に乗車(*゜▽゜)/
船橋川 車窓からの眺め ・・・
6000系準急を下車@楠葉駅 6000系回送車と7200系急行 7200系淀屋橋行き急行が発車!(*゜▽゜)/
3000系特急・コンフォートサルーン 天王山 木津川
宇治川 京阪電車淀車庫 淀城公園@淀駅
丹波橋駅で普通車に乗り換え 結局、牧野から乗った普通車で稲荷着!(^▽^;) 伏見稲荷大社参道
伏見稲荷大社 地図

京都市における最古社の一で伝承によると、和銅4年(711年)2月の創建と伝えます。「山城風土記」の逸文によれば、秦の中家(なかつけ:本家)の遠祖・秦伊侶具(はたのいろぐ)は奢福のあまり、餅を的に矢を討った時、餅は一羽の白鳥と化して山の頂に飛び去った。その白鳥が留まった所に稲がなったのでイナリという名になりました。これ以来、秦氏の家運が傾くに至り、子孫は、この事を懺悔し社の木を家に植えて祀ったところ再び冨栄えるに至ったと伝えます。稲荷大社背後に聳える稲荷山は、東山三十六峰の最南端に位置し、神奈備型と言われる円錐形の優美な霊峰として親しまれています。海抜:232mで山頂に一ノ峰(上之社)、二ノ峰(中之社)、三ノ峰(下之社)の三つの峠(峰)からなり神の降臨地として崇められています。古代人は神は白鳥と化して人間に飛び来り、人間は、これを祀る事によって幸福を得ると信じました。これを神話化したのが先記した伝承話ですが、稲荷社を創祀した古代豪族の秦氏との関係を説いたものてす。稲荷は伊奈利とも記し、イナリとは、イネナリ(稲生、稲成、飯成)の約言で祭神が農耕神である事を端的に表しています。神像が稲を荷っているところから稲荷という字が用いられたが、一にミケツノ神、ウガノミタマノ神とも言われるのは、時代の推移によって神の観念の変化を表したもので正しくは、稲荷神です。一説にイナリのイは、イカシ、イカヅチなどのイカの意をもつ接頭語で、ナリは雷の鳴りと読む事で、むしろイナリ神は雷神であるとも言われます。古代人にとって雷神は稲作にあたって水を給与する神として最も崇敬したので稲荷社は当地にあった先住民が雷神を祀って農耕神とし奉斎したのが起こりとされ、後に秦氏の来住によって氏神と崇められるに至ったと伝えます。平安遷都以来、当社は稲荷神の中央的神格になり真言宗と結びつき農民の咒術(じゅじゅつ)宗教的要請と相俟って信仰を広めました。延喜の制には、名神大社に列し四度の官幣並びに祈雨祭の幣に与かり二十二社に班せられ、神階は正一位の極位を賜るなど上下貴賤の信仰を集めました。特に他の多くの神社が一部の特権階級と結びついて勢力を振るい、それと栄枯盛衰を共にしたのに比して今なお、昔と変わりなく多くの人々から信仰を得ているのは、単に商売繁盛、招福除災の神としてのみならず、まったく庶民の神社として広く親しまれてきたからです。

JR奈良線を走る古参・103系普通車 美味しそうな匂いが・・(^▽^;) 伏見稲荷大社神幸道(裏参道)
楼門(重要文化財:桃山期)

天正17年(1589年)、豊臣秀吉の造営とされています。秀吉の母・大政所の病悩平癒祈願が成就すれば一万石奉加すると記した「大病平癒の願文」が伝来し神社の楼門規模としては最も大きいものに属します。昭和49年(1974年)12月14日に解体修理されました。

境内 大鳥居と拝殿 秀吉が造営した楼門(重文:桃山期)
勉学向上!合格祈願!!東丸神社 拝殿 ご存知?拝殿の吊灯篭に星座が模られている。

京都屈指のパワースポット!神宿る神奈備山・・・伏見稲荷大社(稲荷山 お山めぐり) 地図

稲荷山は、「東山三十六峰」の最南端に位置する霊峰(海抜239.3m)で、古くから三ケ峰と称されてきたように三つの峰が西から東へと段々に高く連なり、これを山麓から仰ぐと、まさしく降臨の地にふさわしい山容をそなえています。欽明天皇が即位(531年又は539年)される前の事について「日本書紀」では次のように書かれています。稲荷大神のご鎮座は秦(はたの)伊呂巨(具)(いろこ(ぐ))によって和銅4年(711年)2月初午の日に、なったと伝えられており秦大津父と伊呂巨(具)との200年足らずの脈絡についてはほとんど不明です。太秦の秦氏族は、記録上では大宝元年(701年)、桂川畔にそびえる松尾山に松尾神を奉鎮、深草の秦氏族は、和銅4年(711年)、稲荷山三ケ峰の平らな処に稲荷神を奉鎮し、山城盆地を中心にして御神威赫々たる大神があたかも鼎立する結果となりました。一千年前に清少納言も足を運んだと伝えます。・・・また、稲荷山には奉納鳥居が、約一万本ほどある他、お塚や神祠も多々とあり、これらを巡拝して周ります。伏見稲荷大社奥宮から更に奥の稲荷山(標高233m)には、様々な神様が祀られたお塚・神祠があり、これらを周ることを、お山めぐり、お山をするとも言います。お山めぐりは、一周約4kmで、所用約2時間です。お山めぐりの起点となる四ツ辻からは、京都市内の絶景も俯瞰できます。お山の参道に延々と朱色の鳥居のトンネルが続いています。鳥居のトンネル道は、神様の世界に続いており、鳥居は、お山に神様が居続けていただくための結界にもなっているとも言われ、元来、稲荷山自体が信仰の対象で、神が宿る神奈備山です。近年は、伏見稲荷大社のお山が京の都でも屈指の霊性の高いエリア、パワースポットとして老若男女、外国人にも人気が高い山です。

本殿 稲荷と言えば・・鳥居のトンネル!(^-^)v 「義経千本桜」の舞台・千本鳥居
稲荷山は朱の迷宮?!オレンジシャワーいっぱいのパワースポット!☆⌒(*^∇゜)v 奥社奉拝所(命婦社)
奥社奉拝所(命婦社) 稲荷大神(神石/遥拝石) 後醍醐天皇「ぬば玉の歌碑」
神占石「おもかる石」 こんな持ち方では・・持ち上がらない?!(..;) ・・・
膝松さん(根上りの松) 千本鳥居の眺め 参道から外れて竹の下道へ
かぐや姫伝説?!伏見神宝神社 地図

神社の由緒によれば、稲荷神社が山上に創祀された頃よりの奉拝所であったと云う。 天正17年(1589年)に里宮が造営されるとともに寂れたようであり、昭和の中期に再建された。天照大御神を主祭として稲荷大神を配祠、神宝神社と称されるのは十種の神宝を奉安しているからと伝え、創祀 は平安期にさかのぼり、かつては稲荷山上に祀られていた。仁和年間(885〜89)宇多天皇は、大神宝使を発遣するなど、皇室の信仰も篤かったが、政変などにより中世以降は廃れていった。1957年(昭和32)に再建される。社名の「神宝」は奉安の十種の神宝(興津鏡、辺津鏡 、八握剣、生玉、死反玉、足玉、道反玉、蛇比礼、蜂比礼、品物比礼)をいい、物部氏の祖神、饒速日尊が天上よりもたらしたとされる。

神寶神社 狛犬ならぬ巳を表すという地龍と天龍像 かぐや姫に求婚する五人の貴公子の一人?大伴家持卿
お願い事を記して奉納した雅な叶え雛!(^-^)v 朱印を頂いています・・(^-^)v
清楚な結界の竹の鳥居と注連縄 ここにも神占石「おもかる石」 竹の下道へ・・・
・・・ 見上げると・・・ 弘法ヶ滝社
怖そうな不動明王 弘法ヶ滝社 弘法ヶ滝
弘法大師の杖で水が湧き出た杖の池 稲荷山に立派な竹林があるのです・・ 青木ヶ滝社
青木ヶ滝社 天正不動明王
青木ヶ滝 ・・・
伏見桃山城が見える!(*゜▽゜)/ 七面ノ滝社へ・・・ 七面ノ滝社
鳥居は傾き廃れてしまった七面ノ滝社 水量は多い七面ノ滝
稲荷大明神 鳴滝社 お滝場へ・・・
鳴滝 引き返します・・・
白菊ノ滝社 白菊ノ滝
御剱ノ滝社 御剱ノ滝
分かれ道(左へ・・・) 稲荷山の南谷を上がる距離は短い分かなりの急峻な石段や〜(; ̄ー ̄A
末広ノ滝社・・・参拝します!
末広ノ滝 強烈な勾配の石段や〜(; ̄ー ̄A やれやれ(*´ο`*)=3ホッ
・・・ 力お石と力お大明神
・・・ 山中にも四つ辻がある。 稲荷山三角点へ・・・
稲荷山では珍しい?地蔵菩薩 稲荷社神蹟 将軍菩薩
稲荷山三等三角点(標高:239.3m)・・・三角点は伏見区ではなく山科区にあります。 参道へ引き返します・・・
・・・ 一般参道と合流!(*´ο`*)=3ホッ 稲荷山山頂に座する一ノ峰(上之社神蹟)
稲荷山山頂に座する一ノ峰(上之社神蹟) ロウソクの灯りが神秘的や〜
・・・ 解説 現在地とです・・・
・・・ 二ノ峰(中之社神蹟)
二ノ峰(中之社神蹟) ・・・ 解説
・・・ 間ノ峰(荷田社神蹟)・・・特異な形の奴祢鳥居(ぬねとりい)
解説 稲荷山では珍しい?!ニワトリさんや〜 三ノ峰(下之社神蹟)
三ノ峰(下之社神蹟) ・・・ 四つ辻からの絶景\(●⌒∇⌒●)/
幻想的な夕焼け空やな〜(*゜▽゜)/ 大きな露岩!磐座?! 俳優・N.K氏の実家
荒神峰(田中社神蹟) 解説
神が宿る神奈備山・稲荷山地図

東山三十六峰の最南端に位置する霊峰(海抜233m)で、古くから三ケ峰と呼ばれてきたように三つの峰が西から東へと段々に高く連なり、これを山麓から仰ぐと、まさしく降臨の地にふさわしい山容をそなえている。今日の全国にあまねく稲荷信仰は、実はこの神体山信仰に始まっています。
山麓のご本社に近い峰から順に三ノ峰・二ノ峰・一ノ峰と称し、三ノ峰と二ノ峰の中程に間の峰、そして三ノ峰の北方に荒神ヶ峰がつらなっています。山中には、おびただしい数のお塚が群在し、参道には数千、一万ともいわれる朱の鳥居が建ち並んでいます。稲荷山に登り、これらの神蹟やお塚を巡拝することを「お山する」といい、参詣の人は日夜あとをたちません。

四つ辻より市内の絶景が拝める荒神峰からの眺め O(^◇^)O やっふぉ〜
ズ〜ムバージョンや〜(^▽^;)/
稲荷大社の大鳥居が見える!(*゜▽゜)/ さっ、下山開始! 四つ辻からの眺め・・・
・・・ 瓢箪がある大松社 熊鷹社と神具店・竹屋
新池(谺ケ池:こだまがいけ) ・・・ ・・・
千本鳥居 こんな奉納鳥居発見!(^-^)v オレンジのトンネルは朱の世界や〜(*゜▽゜)/
・・・ 買っちゃいました!(^▽^;) 1500系準急に乗車!@伏見稲荷駅
中書島駅で下車 中書島駅前通り

風呂屋はないけど風呂屋町通り(^▽^;)

Tourist 2013.01.14(M)

 

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