新撰組幕末回廊散策その参

 

すむ月も 弥陀の御顔に 詠(なが)むれば 雲居が寺も 名のみなりけり (夫木集)式部太夫定業

 

即成院〜今熊野観音寺〜八坂神社〜高台寺〜建仁寺〜珍皇寺〜三条大橋散策

 

洛東

京都は中国古代の都城洛陽を模して一に洛陽と称しました。洛東は、その東の意で鴨川より東山々麓に及ぶ広い地域を称し現在の行政区域で言えば東山、左京区の一部に当ります。東山を背後に南北に亘る洛東は平安遷都以前から開けた所でしたが平安京内には含まれませんでしたが都市人口の膨張によって次第に鴨川を越えて発展して行きました。洛東は一に白川とも称され白川の一水が中央を流れて鴨川に注いでいたからとされます。白川は景勝地として多くの山荘、寺院が営まれたのに対して白川南部は六原(六波羅)と言われ鳥辺野墓地の所在する抹香臭い所となりました。故に寺院の多くも南部に占められ清水寺、六波羅密寺などは一例で式内社の無いのがそれらを実証しています。洛東が最も栄えたのは近世以降で鴨川の改修工事、橋梁の架設により交通至便の地となり社寺参拝、遊覧に訪れる者も多く祇園の花街と共に大いに発展しました。鴨川を経て望む東山は優婉であたかも「布団着て寝たる姿や東山」と詠われた如く、高からず低からず親しみのある山として市民から愛されています。頼山陽の言う「山紫水明」も鴨川を隔てて観た景色を叙したとされ、この景観は鴨川に架かる松原橋を以って随一とします。因みに「鴨東:おうとう」とは江戸末期の文人が、祇園花街に名付けた隠名で鴨川東岸一帯を拡張して鴨東と言うのは打倒ではないとされます。

那須与一墓所

御陵衛士墓所

孝明天皇後月輪東山陵

今熊野観音寺

孝明天皇は仁孝天皇の第4皇子で弘化4年(1847年)に皇位を継承し、先帝の意志を継ぎ公家の学習所を創設し学習院と命名しました。嘉永6年(1853年)、ペリー来航に開国か攘夷かという選択を強いられ内治外交の多難な時期で難問題が続発し、天皇は一貫して攘夷を主張しましたが安政5年(1858年)、幕府が勝手に日米修好通商条約に調印した事に天皇は激怒、二度にわたり譲位を表明したが思い留まり、幕府へ攘夷を促しましたが安藤信正の公武合体論を受け入れ、皇妹・和宮の将軍・家茂への降嫁に同意し尊攘派を牽制しました。しかし、公武合体論支持は倒幕派を刺激し文久2年(1862年)から翌年にかけての尊攘運動の高まり、文久3年(1863年)8月、大和行幸を機とする討幕挙兵(長州藩)の計画に苦慮し8月18日の政変で朝廷内の尊攘派を抑えました(七卿落ちなど)。元治元年(1864年)、長州藩の京都出兵を会津、薩摩藩兵を用いて退けました(禁門の変)。慶応元年(1866年)12月、疱瘡で急逝したとされますが孝明天皇の急逝後、岩倉具視ら討幕派の公卿勢力が急速に高まった事で毒殺説があります。鎌倉時代から継承された武家社会最後の帝となりました。

八坂神社

坂本龍馬、中岡慎太郎像

坂本龍馬は天保6年(1835年)11月15日、土佐国(高知県)の町人郷士・坂本八平の次男として生まれ、文久2年 (1862年)、土佐藩を脱藩し江戸の千葉道場に滞在し勝海舟の門弟となりました。慶応元年(1865年)、長州の桂小五郎と謁見し薩長同盟の必要性を説きました。同年、長崎で亀山社中を創立し慶応2年(1866年)、龍馬の仲介で京都の薩摩藩邸で薩長同盟が成立し慶応3年(1867年)、後藤象二郎らと京都に向かう船中で大政奉還の基案となる船中八策を立案し大政奉還後、新官制案、新政府綱領八策も起案しました。同年11月15日、京都の近江屋で中岡慎太郎と共に刺客(見廻組・佐々木只三郎ら)に襲われて暗殺されました。中岡慎太郎は天保9年(1838年)4月、土佐国北川郷庄屋・中岡小伝次の長男として生まれ、文久元年(1861年)8月、土佐勤王党に加わり文久3年(1863年)9月5日、土佐藩を脱藩しました。慶応3年(1867年)6月22日、京都の薩摩藩邸で、坂本龍馬と共に立会い薩土盟約が結ばれました。同年11月15日、京都の近江屋で坂本龍馬と共に襲われ重傷を負い、11月17日に死去。

祇園閣

御陵衛士屯所跡(月真院)

祇園閣は昭和3年(1928年)、大倉喜八郎氏は当地に別荘を構え邸内に祇園祭りの山鉾を模した高さ36mの高閣を建て祇園閣と称しました。閣は三層からなる鉄筋コンクリート造で鉾先には金鵄が取り付けられています。

霊山観音

八坂塔(重要文化財:室町期)

霊山観音は高さ24mのコンクリート製の白衣観音坐像で大東亜戦争で殉じた200万人もの英霊を弔う為に昭和30年(1955年)6月、一篤者によって造建されました。観音台座の下は二階建てで一階の内陣には十一面観音像と仏舎利を安置しその周囲に全国の英霊を都道府県別に安置しています。二階は十二支守り本尊を安置し、その他霊牌殿や仏足石があります。八坂塔は法観寺の五重塔で高さが46mあり現在の塔は永享12年(1440年)、足利義教により再建されたもので、内部初層には五大力尊が安置されています。法観寺は聖徳太子の創建と伝えられ、創建時は大門、中門、五重塔、金堂、講堂などの伽藍配置でしたが現在は境内に五重塔と薬師堂、太子堂が残るだけです。

一力亭

高山彦九郎像

宝暦14年(1764年)3月15日、高山彦九郎は18才の時に置手紙を残し上洛し三条大橋上で御所を伏して拝みました。太平記を読み先祖が新田義貞の家臣であった事に感激し志を持ち上洛しました。垂加流の尊王思想を学び後に南朝の遺跡を訪ね郷里の天明一揆にも参加しました。公卿、学者とも交遊を重ね三十数ヶ国を巡回しましたが幕府の嫌忌、圧迫を受けて筑後国(福岡県)久留米で自刃しました。林子平、蒲生君平(がもうくんぺい)と共に寛政の三奇人と言われていたと伝えます。

弥次郎兵衛・喜多八像

三条大橋

最初の三条大橋は何時頃掛けられたか定かではなく天正18年(1590年)、豊臣秀吉が増田長盛を奉行として改築したと伝わります。紫銅で作られた擬宝珠(ぎぼし)を冠した長さは101m、幅約7mの石柱木造大橋でした。現在も風情のある橋として広く親しまれ欄干の擬宝珠14個は当時のものが使われています。東海道五十三次の起点であり、西詰にはその事を示す里程元標や弥次郎兵衛、喜多八像もあります。明治元年(1868年)、新撰組局長・近藤勇は下総国(千葉県)流山で大久保大和と名乗って倒幕軍に出頭したが薩長軍にいた元・御陵衛士(元・新撰組隊士)によって近藤勇だと発覚し板橋の刑場で斬首刑になり首は京都に送られて三条大橋の河原に晒されました。現在の橋は昭和25年(1950年)に改修されました。

桂小五郎像

一の舟入跡

大村益次郎遭難之碑

佐久間象山遭難之碑

公武合体、開国、遷都論を主張し尊攘派の反感をかい三条小橋から木屋町に入ってすぐの家影から二人の刺客に左右から斬りかけられ鞭で刀を払い除けて馬を走らせ御池通りを越えたが、8、9人の刺客に行く手を阻まれ応戦したが足を斬られ落馬し全身に13ヵ所の傷を受けて絶命しました。肥後の河上彦斎らに暗殺されたとされます。大村益次郎は周防出身の兵学者で戊辰戦争の軍事指導、明治政府の兵部大輔としても活躍した人物だが、明治2年(1869年)、長州の刺客に木屋町の宿舎で襲撃を受けて二ヵ月後に亡くなりました。

即成院〜孝明天皇後月輪東山陵〜今熊野観音寺〜八坂神社〜高台寺〜建仁寺〜珍皇寺〜三条大橋散策

即成院山門

境内

本堂

即成院(そくじょういん)

光明山と号する真言宗泉涌寺派の寺で正暦3年(992年)、恵心僧都が伏見に建立した光明院を始まりとし本尊・阿弥陀如来像を始め二十五菩薩座像が安置され、境内には那須与一の墓と伝えられる石造宝塔があります。寛治年間(1087〜94年)、関白・藤原頼通の第三子・橘俊綱が、荘厳な山荘(伏見殿)造営にあたり当院を持佛堂として傍に移設、伏見寺または即成就院と呼ばれていた。文禄3年(1594)豊臣秀吉の伏見城築城のため、深草大亀谷に移転し、さらに明治に至り、廃佛毀 釈の法難に遭い廃寺となり、本尊諸尊は当院の本山である泉涌寺の仮堂に移された。その後本寺である法安寺である合併、更に明治35年(1902年)、泉涌寺総門の現在地で再興され即成院と呼ばれます。

那須与一墓所

泉涌寺総門

戒光寺山門

那須与一

源平盛衰記などで知られる那須与一は栃木県下野の生れで源義経の命により出陣し屋島の戦では平家が軍船上に一竿を建て竿頭に日の丸の扇を掲げ、これを射よとの挑戦に義経は与一に射落とすように命じました。与一は馬を大浪小浪に荒れ狂う海中に乗り入れ扇をめがけて矢を放てば見事に要を射て平家の水軍敗退の因を完遂した。与一はこの戦功によって丹波、信濃、若狭、武蔵、備中の五州を受領し下野守に任官し、御礼言上の為に上洛参内した帰途、即成院(伏見桃山)に参篭し武門の名誉を捨て出家し小庵を結び当寺で没したと伝えます。

本堂(戒光寺)

御陵衛士墓所

泉涌寺

御陵衛士(ごりょうえいじ)

慶応3年(1866年)3月16日、新撰組参謀・伊東甲子太郎(いとうかしたろう)は近藤、土方らと思想の違いから藤堂平助、篠原泰之進、加納道之助、斉藤一(間者)ら12名と伴に新撰組を脱退し泉湧寺塔中戒光寺の長老・湛然の仲介によって孝明天皇の御陵衛士(御陵守護の任)を拝命し薩摩、長州の動向を探るという事でした。最初は五条大橋東詰の長円寺に屯所を構え慶応3年(1866年)6月、山陵奉行・戸田大和守忠至の配下となり長円寺から東山の高台寺内の月真院に移り門に「禁裏御陵衛士(高台寺党)」と看板を掲げ勤王、倒幕活動に従事し朝廷より使用を許された十六弁菊の幕を張ったとされます。御陵衛士の活動費は薩摩藩から出ており、一日800文という羽振りの良い生活でした。慶応3年(1866年)11月18日、近藤勇は金子の用立て、国事の相談があると自分の妾宅に伊東を招き酒宴を催し、帰路の伊東を大石鍬次郎らが待ち伏せて槍を以って暗殺した一連の油小路の変で御陵衛士(高台寺党)は大打撃を受けて解散し以降は薩摩藩に身を寄せました。

孝明天皇後月輪東山陵

子護大師像

境内

今熊野観音寺

真言宗泉涌寺派に属し西国三十三ヶ所観音霊場の第十五番札所で創建は定かでありませんが寺伝によれば平安時代、斉衡年間に山本左大臣藤原緒嗣(おつぐ)が伽藍を造営したと伝わります。一説には弘法大師が熊野権現の化身の老翁から一体の観音像を授けられて創立したのが起こりとも伝えます。後白河法皇が新熊野(いまくまの)社を創建された時に当寺を新那智山と称された。本殿背後の墓地には慈円僧正、藤原忠通、長家の墓とされる見事な石造宝塔三基(鎌倉期)があります。

大師堂

三重石塔(平安期)

本堂と医聖堂

鳥居橋

和宮所縁の妙法院門跡

八坂神社石段

八坂神社

当社の創建は甚で古く諸説が多く定かではありません。斎明天皇2年(656年)8月、我が国に来朝し高句麗の調進副使・伊利支之使主(いりしのおおかみ/八坂氏祖)が朝鮮の牛頭山(ごずやま/曽尸茂梨:そしもり)に祀る素戔鳴尊(すさのおのみこと)の神霊を移し子孫代々当社の祀官として奉仕し八坂氏の氏神として創祀されたと伝わります。天智天皇の御代、社号を感神院と名付けられて以来、明治元年(1868年)、八坂神社と改名される迄この称を用いました。平安初期の貞観年中に僧・円如が播磨国広峰より牛頭天王を勧請し下河原の地に一宇を建てて祇園天神社と称し朱雀天皇の承平4年(934年)、その傍らに薬師堂を創建し観慶寺と言い別に祇園寺とも呼んだ為に両者混同され紛らわしくなりました。その後、八坂氏が哀徴し中世には感神院は延暦寺の別院となり祇園社は日吉の末社となり叡山の僧徒が日吉の神輿を奉じて朝廷へ強訴する基地ともなりました。当社は古来、疫病除けの神として朝野の崇敬が篤くその祭礼は祇園祭りとして世にも名高く社殿も壮観を極めました。延喜の式外社ですが二十二社に列せられました。神領は60余ヶ所の多きに及びましたが明治の神仏分離にあたり寺院を廃し神社のみが残った旧官幣大社です。慶応2年(1865年)9月1日、新撰組七番隊々長・谷三十郎がこの祇園石段下で暗殺されました。屯所に連絡があり篠原泰之進が遺体を検視し致命傷を見て左利きの遣い手によるもので近藤の蜜命を帯びた斉藤一が犯人であると断定した説、土方の蜜命説、卒中による病死説などがあります。

八坂神社

本殿

祇園小唄発祥碑

月真院

近藤、土方との思想の違いから新選組を脱退した伊東甲子太郎一派は、慶応3年(1866年)3月、御陵衛士を拝命し同年6月から月真院を屯所としました。月真院は高台寺の宿坊である事から御陵衛士を高台寺党とも呼びます。慶応3年11月18日、油小路の変により伊東甲子太郎、藤堂平助らが暗殺され御陵衛士は事実上の壊滅に追い込まれました。

坂本龍馬、中岡慎太郎像

月真院(高台寺内)

霊山観音

高台寺庫裏

仏殿

六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)

平家一門の広大な六波羅館があった所で清盛の泉殿を始め頼盛の池殿、重盛の小松殿、教盛の門脇殿などがありました。平治元年(1059年)12月の「平治の乱」で二条天皇が行幸され、娘の徳子が言仁親王(安徳天皇)を出産したのも六波羅ですが寿永2年(1183年)7月、平家都落ちの際に六波羅は一門の手で火をかけられ灰燼しました。又、常盤御前が義経らを連れて清盛の元へ出頭したのもこの辺りと伝えます。応和3年(963年)、空也上人が十一面観音を安置して西光寺と号した事が開基とされ本尊を中信が平家一門の館があった六波羅辺りに移し六波羅密寺と改名した真言宗智山派の寺で西国三十三ヶ所の第十七番札所です。寺内には平清盛の像が安置されています。

八坂塔

六波羅蜜寺

愛宕(おたぎ)念仏寺旧跡

日本最古の禅宗本山寺院・・・建仁寺

東山(とうざん)と号する臨済宗建仁寺派の大本山、開山・栄西禅師は建仁2年(1202年)、源頼家の帰依を得、中国の百丈山の殿舎を模して建立したのが起こりで土御門天皇は勅願寺とされ、年号によって建仁寺の号を賜りました。創建当時は天台、真言宗の旧仏教勢力が強く天台、真言、禅の三宗兼学を建前とし比叡山の末寺という形で止観院、真言院を設けたが大覚禅師(蘭渓道隆)の時に禅宗のみの寺に改めました。以来、武家の信仰を集め足利義満が五山制度を設けると当寺は第三位となったが中世の兵乱にしばしば罹災しました。天正年間(1573〜1592年)、豊臣秀吉の信任を得た東福寺の恵瓊(えけい)によって復興されましたが未だに仏殿の再建に至らず法堂(はっとう)との兼用になっています。

勅使門(重文:室町期)

三門

浴室

法堂「拈華堂」(はっとう:仏殿兼用)

明和2年(1765年)に上棟された仏殿兼用の法堂(はっとう:拈華堂)は五間四間、一重、裳階付の堂々とした禅宗様仏殿建築で正面須弥壇には本尊釈迦如来坐像と脇侍迦葉尊者、阿難尊者が祀られています。法堂の天井に平成14年(2002年)、創建800年を記念して小泉淳作画伯筆の「双龍図」が描かれました。

我が国の茶祖・栄西禅師の威徳を称える荼碑

法堂「拈華堂」(仏殿兼用)

庫裏

珍皇寺(ちんこうじ)

「六道さん」とも呼ばれお盆の精霊迎いに参拝する寺として世に名高い。当寺は京都市で最も古い寺院の一で弘法大師の師・慶俊僧都の開創とも小野篁(おののたかむら)の建立とも言われ一説には宝皇寺(ほうこうじ)の後身とも言われます。宝皇寺とは一に鳥部寺とも言い上古、東山阿弥陀ヶ峰(鳥部山)山麓一帯に蟠居していた鳥部氏の建立した氏寺ですが鳥部氏の哀徴により寺も無くなり今はその遺蹟も明らかにしません。当寺はこの宝皇寺の後身と言われ境内から奈良期の瓦を出土した事があるので平安遷都以前既にこの付近に古寺があった事が立証されています。珍皇寺は元、真言宗で東寺に属していましたが中世の兵乱に荒廃し正平12年(1361年)、建仁寺の僧・良聡によって再興され臨済宗建仁寺に属しています。現在の建物は延宝年間の再建で本堂に薬師如来坐像(重文:藤原期)を本尊とし脇檀に地蔵菩薩を安置します。篁堂には衣冠束帯姿の小野篁像(江戸期)と閻魔大王像が安されています。篁は嵯峨天皇に仕えた平安初期の官人であり歌人ですが古来、小野篁には不思議な伝説があり昼は朝廷に出仕し夜は閻魔庁でアルバイトをしていたと伝わります。

珍皇寺

本堂

迎え鐘

毎年、盂蘭盆(うらぼん)にあたって精霊を迎える為に造られた事から迎え鐘と言いこの鐘の音響が十万億土の冥土に迄届くとされ亡者はその響きに応じ現世に呼び寄せられると伝わります。故人の名前を呼びながら鐘を撞くのですが先祖の多い人は相当時間、労力を要するので寺僧が立会い一人三回限りとされています。古事談によるとこの鐘は慶俊僧都が造らせたとされ慶都が唐国へ行く時にこの鐘を3年間地中に埋めておくようにと寺僧に命じて旅立ちましたが留居の寺僧は待ちきれず一年半ばかりして掘り出し鐘を撞いたところ、遥か唐国にある僧都に聞こえ「あの鐘は3年間地中に埋めておけばその後、人手を要せずして6時になると自然に鳴ったものを惜しい事をしてくれた。」と言って残念がったそうです。本堂背後の庭内には篁が冥土へ通ったいう井戸があり傍に彼の持念仏を祀った竹林大明神という祠があります。

篁堂

竹林大明神祠と井戸

幽霊子育飴

幽霊子育飴

今は昔、慶長4年(1599年)、京都の江村氏妻を葬りし後、数日を経て土中に赤子の泣き声がするので掘り返して見れば亡くなりし妻が産んだ児でした。その当時、夜な夜な飴を買いに来る婦人があったが赤子を掘り出して以後は来なくなりました。この子が8才の時、僧となり修行怠らず成長し遂に高僧になったという。因んでこの飴を誰ともなく幽霊子育飴と言われ京名物になったと伝えます。

一力亭

高山彦九郎像

仮名手本忠臣蔵にも登場する伝統のあるお茶屋で暖簾の文字は万とも読め元は万亭という屋号でしたが、いつしか万の字を二分し一力亭と名乗るようになったとされます。文久3年(1863年)、禁門の変で功績のあった近藤勇ら浪士隊は新撰組を拝命し市中取締を命ぜられ、この年、一力亭で行われた諸般周旋方会議に出席し公武合体論を論じたとされます。一力亭は一見さんお断りの店で入店するには常連さんの紹介が必要です。

弥次郎兵衛・喜多八の像

三条河原

佐久間象山(右)、大村益次郎遭難之碑

河原町三条は三条河原と呼ばれ荒涼たる鴨川の川原で豊臣秀吉が築いたお土居は河原町通りの西端に沿って南北にあったので当地は洛外にあたり往古は戦場になりましたが中世以降は処刑場ともなり豊臣秀次の妻妾子を始め多くの人々、罪人がここで斬首にされた事は幾多の史実によって明らかです。「石川や 濱の真砂は尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ」と世にも名高い大盗賊・石川五右衛門はある時、豊臣秀吉の枕元にある千鳥の香炉を盗もうと伏見城に忍び込みましたが、千鳥の香炉がチリリと鳴いた事であえなく捕らえられ文禄3年(1534年)、三条河原で一子と共に釜煎りの刑に処された事は世にも有名な伝説です。この伝説に因んでカマドの上に鉄釜を据え下から直火で沸かす風呂を五右衛門風呂と名付けられました。全体を鋳鉄で造った長州風呂と呼ばれるものと、湯桶の下に鉄釜を取り付けたものとがあり、入浴時に浮いている底板を踏み沈めて入るものがあります。これを知らずに下駄を履いてお風呂を壊したのは東海道中膝栗毛の主人公・弥次郎兵衛と喜多八です。当方も27年前に嫁の実家で底板を踏み沈める五右衛門風呂に入った経験があり火傷をしないかと冷や汗をかいた思い出があります。(;^_^A

桂小五郎、幾松寓居跡

兵部大輔従三位大村益次郎公遺趾

桂小五郎像(長州藩邸跡)

大村益次郎は周防国(山口県)の医師の家に生まれ、名は永敏と言い村田良庵、蔵六、大村益次郎、と改名し洋学、兵学に優れて近代兵器と西洋的組織・陣法を備えた中央集権的軍隊を構想しました。緒方洪庵の適々斎塾で学び塾頭にまで出世し宇和島藩に出仕しました。安政3年(1856年)、江戸で鳩居堂を開塾しました。蕃書調所(ばんしょしらべしょ)教授手伝、講武所教授として幕府に出仕し万延元年(1860年)、萩藩に迎えられて慶応軍制改革に参画し慶応2年(1866年)の第二次長州戦争でその軍制、戦略の有効性が実証されました。戊辰戦争でも戦略面に貢献し明治2年(1869年)、新政府の兵部大輔(ひょうぶのたいふ)となり軍制改革を提案した時に藩兵の親兵化構想と対立し守旧派・草莽(そうもう)志士にも怨まれ同年、当地で襲撃され約2ヶ月後に没しました。

長州藩邸跡

坂本龍馬寓居跡

土佐藩邸跡

酢屋は280年以上も続いている老舗で幕末は京都〜伏見へ通じる高瀬川の木材輸送権を独占していた材木商です。高瀬川沿いには各藩々邸が建ち並び伏見、大阪への交通便も絶好で龍馬はここを海援隊京都本部にしていたと伝えます。

七条河原

七条河原も往古は戦場になり、また中世以降は処刑場となり天慶3年(940年)2月14日、平将門(たいらのまさかど)は天慶の乱(将門の乱)で討死し京都七条河原に将門の首が晒されました。その首は三ヶ月が過ぎても腐食せずに目を見開き続け、ある晩に胴体を求め怒りの声をあげながら東の空を目指して飛び去ったと伝える。慶長5年(1600年)10月1日、関ヶ原の戦いで敗れた西軍の将・石田三成、小西行長、安国寺恵瓊(えけい)そして大坂の陣後に捕らえられた豊臣秀頼の遺子・国松も斬首刑となり晒し首にされました。

本間精一郎遭難之碑

七条河原

勧進橋(銭取橋)

元治元年(1864年)6月5日の池田屋騒動で手柄を立てた新撰組は同年7月19日、長州勢が報復の為に京へ出撃してきた禁門の変(蛤御門の変)では竹田街道に架かる伏見の銭取橋(勧進橋)辺りに布陣しました。慶応2年(1866年)頃、新撰組5番隊々長・武田観柳斎は洋式調練が始まると存在価値がなくなってきたと気づき、伊東甲子太郎の元へ身を寄せようとしたが、伊東に拒まれ薩摩藩に取り入ろうとしたり倒幕派に寝返った為、これを知った近藤、土方は銭取橋で斎藤一、篠原泰之進らに武田観柳斎を斬殺させました。

Tourist  2004.11.29、12.06(M)

 

関連サイト

新撰組幕末回廊散策その壱

新撰組幕末回廊散策その壱

新撰組幕末回廊散策その弐

新撰組幕末回廊散策その弐

新撰組幕末回廊散策その四

新撰組幕末回廊散策その四

新撰組壬生屯所跡、御室仁和寺散策

きぬかけの道散策

幕末(維新)回廊

新撰組

新撰組

 

戻る 洛雅記004年探訪コラム

 

inserted by FC2 system