新撰組幕末回廊散策その壱

 

八重葎(やえむぐら) しげれる宿の 寂しさに 人こそ見えね 秋は来にけり 恵慶(えぎょう)法師

 

寺田屋〜西本願寺〜油小路〜本能寺〜木屋町〜梅小路公園

 

新撰組

文久2年(1862年)、幕府は清河八郎などで浪士隊を結成し京都に入洛させました。しかし、清河八郎が尊攘派と分かり浪士隊は江戸にされたが、京都に残った浪士達もいました。文久3年(1863年)8月18日、会津藩は薩摩藩と共に尊攘派の公卿(三条実美、三条西季知、東久世通禧、沢宣嘉、壬生基修、四条隆謌、錦小路頼徳の7名)と長州藩を京都、朝廷より失脚(八.一八の政変、七卿落ち)させました。この時、芹沢鴨、近藤勇らが率いる浪士隊も「新撰組」と名付けられ出陣しました。正式に京都守護職の配下となり京都の治安維持に努めました。同年9月、以前から対立していた3人の局長で新見錦は切腹。芹沢鴨、平山五郎共々近藤らの手で暗殺し水戸派を粛清し、以後5年間を局長・近藤勇、副長・土方歳三の体制で京都市取り締まりました。元治元年(1864年)7月19日、伏見から進軍した長州藩兵と守備していた大垣藩兵が伏見街道の伏見稲荷辺り(一本松)で交戦し黒門を守備した新撰組も援軍として交戦した「禁門の変」が勃発しました(会津藩の守備した蛤御門が最激戦地だったので、「蛤御門の変」とも言います)。慶応3年(1867年)12月、王政復古の大号令と共に京都所司代が廃止されました。新撰組も「新遊撃隊御雇」と改称して大阪へ向かいました。同年12月16日、伏見奉行所に布陣、鳥羽伏見の戦いに参戦し奮闘しますが、薩長軍の最新の砲火兵器にはかなわず多数の死傷者が続出しました。伏見奉行所〜淀〜大阪城へ退却しました。更に大阪・天保山から幕府軍艦・富士山丸で江戸へ東帰する事になり、新撰組は、この鳥羽・伏見の戦いで終焉しました。

阿弥陀堂(総御堂/重要文化財:江戸期/西本願寺)

唐門(伏見城遺構:日暮門/国宝:桃山期/西本願寺)

阿弥陀堂門(西本願寺)

太鼓楼(新撰組屯所跡/西本願寺)

伊東甲子太郎遭難の地(本光寺)

天満屋事件碑(中井庄五郎碑)

伊東甲子太郎ら「禁裏御陵衛士(高台寺)」が新選組を乗っ取る為に屯所を焼き討ちにし、近藤勇ら幹部を皆殺しにする計画を立てた為、間者の斎藤一が近藤勇、土方歳三らの妾宅に報告しました。新撰組は、11月18日夜、御陵衛士として隊を分離して尊皇活動を展開していた伊東を暗殺する為に近藤の妾宅での酒宴に誘い出しました。近藤との酒宴の帰りに新撰組に襲撃され本光寺前で暗殺されました。寺内には供養塔があり伊東はこの石塔にもたれ「己れ奸賦輩・・・」と発して絶命しました。伊東甲子太郎の遺体を引き取りに来た御陵衛士八名を新撰組が襲撃し、御陵衛士の藤堂平助、毛内有之助、服部三郎兵衛が殺害されたました。彼らの遺体は一旦光縁寺に葬られましたが翌年に泉涌寺内戒光寺に改葬されました。

池田屋騒動之地碑

不動堂村屯所跡碑(リーガロイヤルホテル辺り)

高瀬川一之船入跡(角倉了以邸跡)

佐久間象山(右)、大村益次郎遭難之碑

桂小五郎、幾松寓居跡碑

桂小五郎像(長州藩邸跡)

信長と本能寺の変の戦死者(左)供養塔

牛若丸と弁慶のモニュメント(五条大橋西)

「義経記」などに記された弁慶が千本の太刀を奪う事を誓願し、夜な夜な五条大橋(今の松原橋)の畔に出掛けて武者に戦いを挑んでは刀を奪い取っていました。999本まで達しあと1本で1000本という時に銘刀を持つ者はいないかと待ち受けていると笛を吹きながら橋を渡って来る牛若丸を見つけました。腰には黄金造りの見事な太刀を差しています。弁慶は、その太刀を頂戴せんと牛若丸に挑みましたが『♪)京の五条の橋の上大の男の弁慶は長い薙刀(なぎなた)振り上げて牛若めがけて切りかかる・・・♪♪)牛若丸は飛び退いて(とびのいて)持った扇(おうぎ)を投げつけて来い来い来いと欄干の上へ上がって手を叩く・・・♪♪♪)前や後や右左ここと思えば又あちら燕のような早業(はやわざ)に鬼の弁慶謝った・・・』童謡の「牛若丸」で歌われるように弁慶が牛若丸に散々に負けてしまい家来になったというあまりにも有名な伝説をモニュメントにされています。この伝説を元に謡曲「橋弁慶」が作られ歌舞伎芝居にも採り入れられ世にも有名となりました。五条大橋は初め五条坊門(今の松原通り)に架かっていたのを天正年中に豊臣秀吉が六条坊門(今の五条通り)に架け替えたのが今の橋の起こりで橋名も五条大橋と呼び元の五条大橋は松原橋と呼ばれています。

旧二条駅舎(市指定文化財:明治期/梅小路蒸気機関車資料展示館)

五重塔(国宝:江戸期/東寺)

平成9年(1997年)にリニューアルし明治37年(1904年)、平安神宮を模して造られたとされる我が国最古の木造駅舎の旧二条駅舎を移築保存し、梅小路蒸気機関車館エントランス、資料展示館として再生され蒸気機関車の歴史、動かし方、走るしくみなどを実物のカットモデルや映像など様々な展示手法により解説されていますが改修工事中で休館日というオマケ付でした。(T_T)

弘法大師の創建着手に始まり、しばしば災火をうけ、現在の塔は正保元年(1644年)、徳川家光の寄進によって再建された総高55mの現存する我が国の古塔中、最高を誇る塔です。

 

寺田屋〜伏見奉行所跡〜御香宮神社〜藤森神社〜西本願寺〜油小路〜本能寺〜木屋町〜五条大橋〜梅小路ちゃり探訪

 

坂本龍馬、お龍所縁の寺田屋

坂本龍馬銅像、薩摩九烈士の碑など

新撰組、幕府陣営・伏見奉行所跡碑

伏見の船宿・寺田屋は薩摩藩の定宿でした。文久2年(1862年)討幕急進派が寺田屋に集まって、決起を企てた「寺田屋騒動」は有名です。又、坂本龍馬の定宿で、お龍さんとの恋宿としても知られています。

伏見工兵第16大隊跡碑(伏見奉行所跡)

伏見戦の弾痕のある窓格子をTV取材中(_ _;)

薩摩藩陣営・御香宮神社

伏見奉行所は慶応3年(1867年)12月16日、新撰組が屯所として布陣したのを始め幕府軍の本営(布陣地)となりました。御香宮神社に薩摩軍が陣取りました。同神社には幕府軍が陣取っていましたが、三木(そうぎ)宮司が退去させ仕方なく幕府軍はすぐ南側の伏見奉行所に入りました。御香宮と伏見奉行所の攻防戦は伏見戦のなかでも最も激戦となりました。3日早朝、薩摩、長州、土佐の各藩兵が御香宮に入り大砲四門を設置、薩摩軍は伏見奉行所が見下ろせる龍運寺にも大砲を据えた。幕府軍は伏見奉行所で軍議を開き、表門は会津藩兵、南北門は伝習兵、新撰組を京町筋に配備する布陣などが決められました。夕刻、鳥羽方面の砲声が合図となり御香宮より大砲が打ち掛けられ、砲撃戦が繰り広げられました。幕府軍の新撰組、会津藩など奮闘しましたが、長州軍の援軍を得た薩摩軍と最新の銃や大砲などの兵器に撃破され体制を整えるべく淀城を目指して退却しました。

伏見戦跡碑

近藤勇狙撃現場辺り(伏見街道・墨染〜丹波橋)

薩摩藩邸跡(松山酒造)

悟真寺本堂

「戊辰之役東軍戦死者之碑」(悟真寺)

栄春寺総門(伏見城遺構)

悟真寺には鳥羽伏見の戦いで戦死した幕軍(会津藩)戦死者53人の埋骨地があり「戊辰之役東軍戦死者之碑」は、榎本武揚によるもので掘られた二ヶ所の大穴に戦死者を9人と44人に分けて埋葬され埋骨地とされています。

栄春寺境内、本堂

会津藩々主建立の碑誌(伏見城土塁跡)

インクライン跡

大石内蔵助所縁の撞木町遊郭跡

撞木町遊郭は慶長9年(1604年)、渡辺掃部、前原八右衛門の両名により開設されました。伏見の発展と共に元禄期(1688〜1704年)全盛を迎え、元赤穂藩家老・大石良雄(内蔵助)が敵(吉良家)の目を欺く為、この地で遊興した事で知られます。

撞木町遊郭跡

藤森神社本殿

神功皇后所縁の旗塚(いちの木さん)

旗塚の上に”いちいの木”があり今は枯れた株となっているだけですが、 かっては「いちの木さん」と呼ばれて腰痛などの治癒にご利益があり新撰組局長・近藤勇も 「いちの木さん」を信仰し、足しげく通っていたと伝わります。 旗塚の「旗」は 「秦」につながると云う説もあります。

伏見七名水の不二水

藤森七福神

一本松跡碑

かって樹齢千年を越す老松がありました。昭和9年(1934年)の室戸台風で損傷し枯死し現在は二代目の松が植えられ「旧蹟一本松」の標石があります。常盤御前が三人の子を連れてその下で休んだとか豊臣秀吉が植えたとか参勤交替の道標だったとか諸伝説があります。元治元年(1864年)7月19日、「禁門の変(蛤御門の変)」では大垣藩兵が一本松(宝塔寺に本陣)に布陣し伏見街道を北上してきた長州藩兵と戦闘が勃発し黒門の守備を命じられていた新撰組や会津・桑名藩兵が急行し長州藩兵を撃破しました。付近の住民は七面山などに避難したと伝わります。一の橋は伏見街道(本町通)の今熊野川に架けられた橋で愛宕(おたぎ)郡と紀伊(きい)郡との境界ともされましたが元来、法性寺内の橋で附近を明治2年(1869年)迄、一の橋町と称しました。

稲荷大社(裏参道)

伏水街道一の橋旧址

七条大橋(鴨川)

新撰組不動堂村屯所

新撰組が西本願寺から不動堂村へ屯所を移転したのは、近藤らが幕府直参になった5日後の慶応3年(1867年)6月15日で移転に際し、土方歳三の指示で吉村貫一郎(映画「壬生義士伝」中井貴一が演じた主人公)が西本願寺との交渉の末、建築費並びに諸経費を西本願寺が負担する事になったと伝わります。不動堂村屯所は興正寺の下屋敷ともいわれ屯所の広さは1万uの大名屋敷並の規模を持ち、表門、高塀、玄関、長屋、使者の間、近藤、土方ら幹部の部屋、平隊士の部屋、客間、馬屋、物見中間と小者の部屋を構え大風呂は一度に30人が入れたそうです。ここに居たのは慶応3年(1867年)6月15日〜屯所が伏見奉行所へ移される同年12月12日までの半年足らずでした。近藤勇の妾宅が屯所近くの堀川通塩小路上ル辺りにあったとされます。

不動堂村屯所跡碑(リーガロイヤルホテル辺り)

近藤勇妾宅跡辺り

道祖神社

道祖神社は宇多天皇の亭子院(ていしいん)の鎮守として創祀され中古その沿革を明らかにせず猿田彦、天鈿女の二神を祀ります。明王院不動堂は石造不動明王を安置する西山浄土宗の寺で元、亭子院の封内にあったが同院の廃亡後、院内の一宇を以って建立されたと伝えますが明らかでなく初め真言宗に属したが応仁の乱に荒廃し元禄8年(1695年)、花園金剛院に移るにあたり不動堂のみが残ったと伝えます。新撰組不動堂屯所の地名の由来でもあります。

屯所があった不動堂村所縁の明王院不動堂

東本願寺

西本願寺

西本願寺(世界文化遺産指定)

浄土真宗本願寺派の大本山で正しくは本派本願寺と号します。親鸞上人の末女覚信尼が亡父の遺骨を奉じて東山大谷に廟宇を創建し上人の御影を安置して御影堂と称したのが起こりで戦国乱世に会して各地を転々として天正19年(1591年)、豊臣秀吉の寄進により現在地に移り、慶長年間、大谷派分立があったが大きな動揺もなくその後300余年間宗門体制維持に努めました。特に幕末の動乱、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)後の仏教界の指導的立場にありました。元和3年(1617年)の火災で諸堂を焼失しましたが、伏見城、聚楽第から豊臣秀吉所縁の建造物が移築され、華麗な桃山文化を偲ばせます。唐門(伏見城遺構:日暮門/国宝:桃山期)は、伏見城から移築され御影堂(重要文化財)は親鸞聖人の荼毘(だび)の灰を漆に混ぜて塗ったと伝えられる坐像を安置するが現在屋根などを大改修中です。天井や障壁画の絢爛な装飾で知られる書院(国宝)には203畳の対面所、虎渓(こけい)の庭(史跡・特別名勝)、天正9年(1581年)建立の日本最古の能舞台(国宝)がなどがあります。元冶2年(1865年)、寺の北集会所、太鼓楼などを新撰組が慶応3年(1867年)6月15日まで屯所として使用しました。

西本願寺総門

太鼓楼

阿弥陀堂門

新撰組は、蛤御門の変で惨敗して西本願寺に逃げ込んだ長州兵を広如上人が法衣を着せて逃がそうとした事に立腹し会津藩兵と共に西本願寺を焼き払おうとしましたが、一橋卿の仲裁と隊士が130名を越え壬生の屯所が手狭だった事もあり、元冶2年(1865年)、本堂の北にあった600畳の北集会所、太鼓楼などを占拠し壬生屯所から移転しました。西本願寺と長州藩との関係も牽制した一石二鳥の屯所移転とされ北集会所(現在は姫路市(亀山)本徳寺に)、太鼓楼が屯所となり殺生を禁じた寺院内では拷問、切腹、斬首に加え境内では、剣術、大砲の訓練、実弾射撃までもが行われ隊士の体力をつける為に鶏、豚を飼い悪臭が漂い屠殺される家畜の声が寺中に響くなど参拝の門信徒、僧侶らを震撼させ困り果てた西本願寺は会津藩公用方に改善要望を再三に出していました。江戸時代末期に姫路市の(亀山)本徳寺が火災で焼失した為、西本願寺から屯所跡(北集会所)などを移築したので柱には刀傷などが多数残っています。明治維新後、新撰組結成時からの隊士・島田魁が本願寺の守衛を勤めて太鼓番をしていたと伝えます。

阿弥陀堂(総御堂/重要文化財:江戸期)

隊士も見ていた大銀杏の木と本堂

境内から太鼓楼を望む

経堂

虎の間(伏見城遺構/重文:桃山期)東玄関

虎の間(伏見城遺構/重文:桃山期)南玄関

虎の間(伏見城遺構/重文:桃山期)南玄関

白書院(伏見城/国宝:桃山期)南能舞台(重文/江戸期)玄関

大玄関

左女牛井(さめがい/醒ヶ井)

左女牛井は京の三名水の一つとされ源頼義がこの辺りに築いた源氏六条堀川邸内の井戸であったと伝え義経が静御前と一緒に暮らしていた所とも伝えます。茶人の村田珠光が将軍・足利義政に献茶した際に左女牛井の水を汲み千利休らも愛用したとされます。傍らに元和2年(1616年)、織田有楽斎(信長の弟)の建てた碑があったが太平洋戦争中、堀川通の拡幅工事により井戸の消滅と共に何処かへ持ち去られました。この附近を佐女牛井町というのは、この井戸に因むものです。

唐門(伏見城遺構:日暮門/国宝:桃山期)

左女牛井(さめがい)跡

伊東甲子太郎遭難の地(本光寺)

油小路の変跡(油小路、七条通り四辻辺り)

天満屋事件碑(中井庄五郎碑)

北小路の変跡(油小路、北小路四辻辺り)

天満屋事件は慶応3年(1867年)12月7日夜、宿屋の天満屋で斎藤一ら新選組隊士7名が坂本龍馬暗殺の嫌疑をかけられた紀州藩々士の三浦休太郎の護衛に就き三浦らと酒宴をしていた時、陸奥宗光ら海援隊、陸援隊々士ら16名に襲撃された事件で三浦休太郎が新撰組や見廻組に指示をして竜馬を暗殺させたという情報から坂本龍馬暗殺の報復騒動でした。居合いの達人とされる中井庄五郎が三浦に斬りかかり剣先が頬をかすり三浦は軽症を負いながら屋根伝いに逃げ激しい乱闘となったが灯が消えると真っ暗で「三浦を討ち取った!」の新選組隊士の機転の一声で陸奥宗光らは一斉に逃げ去り乱闘は短時間で終わりました。新撰組は三浦警護に成功しましたが隊士の宮川信吉(近藤勇の甥)が討死、もう一名の舟津釜太郎も重傷を負って後日に死亡し海援隊々士の中井庄五郎(十津川郷士)も討死しました。この時、天満屋に援軍として向かった新撰組隊士らと紀州藩士らが互いを敵と錯覚し油小路と北小路の四辻辺りで双方が斬り合いとなりました。幸いにも死者は出ませんでした。

本能寺本堂

信長御廟

信長と本能寺の変戦死者(左)供養塔

高瀬川一之舟入り跡(角倉了以邸跡)

高瀬舟で運んだ荷物の積み降ろし、高瀬舟の離合、待機など運行調節をする為に設けられた舟溜所を舟入りと称し、二条〜五条間に九つの舟入りがあったと伝わります。高瀬川の基点にあたる木屋町通り二条下ルに一之舟入跡が現存し十五石積の復元された高瀬舟が係留され、当時を偲ぶ事ができます。史跡に指定されています。池田屋事件の際に逃走した土佐の望月亀弥太がここで自害したと伝えます。

徳川家重夫人、管中納言局庸子、島津義久夫人供養石塔

角倉了以邸跡

一之船入跡

佐久間象山大村益次郎遭難之碑

公武合体、開国、遷都論を主張し尊攘派の反感をかい三条小橋から木屋町に入ってすぐの所で家影から二人の刺客に左右から斬りかけられ鞭で刀を払い除けて馬を走らせ御池通りを越えたが、8、9人の刺客に行く手を阻まれ応戦したが足を斬られ落馬し全身に13ヵ所の傷を受けて絶命しました。肥後の河上彦斎らに暗殺されたとされます。大村益次郎は周防出身の兵学者で戊辰戦争の軍事指導、明治政府の兵部大輔としても活躍した人物だが、明治2年(1869年)、長州の刺客に木屋町の宿舎で襲撃を受けて二ヵ月後に負血症で亡くなりました。

佐久間象山(左)、大村益次郎遭難之碑

桂小五郎、幾松寓居跡碑

桂小五郎像(長州藩邸跡)

「禁門の変」で長州敗走後、乞食に変装して鴨河原に潜んで京都脱出の機会を待っていたとされ、その陰には恋人・幾松(後の松子夫人)の献身がありました。

キレイなX'masイルミネーション

武市瑞山寓居跡碑(四国屋跡)

吉村寅太郎寓居跡碑

池田屋事変の際に土方隊が乗り込んだ旅館「四国屋」があった場所です。武市瑞山の住んでいた料亭「丹虎」は現在「金茶寮」となっていますが、幕末には丹虎という名前でその離れの部屋が瑞山の住まいでした。隣に住んでいた吉村寅太郎宅と裏手で行き来ができ志士達の出入りも激しく密議もしていました。

池田屋事件

文久3年(1863年)8月18日の政変後、京都では公武合体派が勢力を伸ばし尊王攘夷派が圧迫され、長州・土佐・肥後藩などの尊王攘夷派達が勢力回復をめざして中川宮や京都守護職・松平容保の暗殺計画を企てた。元治元年(1864年)年6月5日(祇園祭宵々山)、近藤、沖田、永倉、藤堂、谷、近藤周平(養子)、原田の7人は三条小橋西入ルの旅籠・池田屋において会合中の尊王攘夷派達30余名を襲撃。後、縄手付近を探索していた土方歳三らも加勢し2時間ほどの斬り合いだったという。新撰組に襲撃され長州藩の吉田稔麿、杉山松助、土佐藩の望月亀弥太、肥後藩の宮部鼎蔵、松田重助ら多数の死傷者が出ました。会合に参加するはずだった長州藩の桂小五郎は近くの対馬藩邸にいて無事だった。新選組では奥沢栄介、新田革左衛門、安藤早太郎が亡くなり、藤堂平助と永倉新八らが負傷しました。この時に沖田総司が吐血したとも伝わります。主人・池田屋惣兵衛も翌日捕まり、六角獄舎で獄死しました。捕縛された古高俊太郎も、六角獄舎で獄死しました。1ヶ月後の禁門の変を誘発する一因となり、その後の政治情勢に多大な影響を与える事件となった。維新が1年遅れたとも1年早まったとも言われています。世に新撰組の名を一気に高めた事件となりました。

「佐久間象山、大村益次郎遭難之地北へ約一丁」の導碑

池田屋騒動之碑

角倉了以翁顕彰碑

高瀬川

扇塚

牛若丸と弁慶(五条大橋西)

扇塚は高山京都市長の筆になる「扇塚」なる二字を刻みます。御影堂扇に因んで扇を生産するものが五条大橋近辺に多くこれを顕彰する為に昭和35年(1960年)3月に有志により建立されました。

梅小路蒸気機関車館

鉄道開業100周年を記念して昭和47年(1972年)に開設しました。鉄道開業以来1世紀にわたり活躍した蒸気機関車を貴重な交通文化財として末永く後世に伝えることが目的でわが国唯一の蒸気機関車専門博物館で蒸気機関車の事なら「何でもある」「何でもわかる」博物館として、蒸気機関車と供に歴史を刻んできた日本の鉄道文化を実際に体験し、蒸気機関車の魅力を再発見できる生きた鉄道の博物館です。梅小路公園は平安建都1200年を記念して造られた公園で2.5haにも及ぶ「芝生広場」、水遊びのできる「河原遊び場」、大型の遊具が揃う「ふれあい広場」などがあり人々が憩える公園として整備され京都で培われた造園技術と日本庭園では使われない洋花を見事に調和させた「朱雀の庭」は必見の価値あり。

梅小路蒸気機関車館

チンチン電車停留所(梅小路公園)

チンチン電車々庫(梅小路公園)

平家居館跡西八条

平家一門の代表的な居館は六波羅館でしたが洛中における平家の拠点となったのは梅小路公園を中心に六町歩(720m四方=約518400u)にも及ぶ広大な一帯に清盛が西八条館を造営し主に妻の時子が住み、光明心院という御堂も建立しました。治承3年(1179年)のクーデター(鹿ケ谷の謀議)の際、首謀者の西光法師が清盛の厳しい詰問を受けた所で白拍子の祇王・祇女や仏御前の物語の舞台ともなりました。福原から上洛した清盛は西八条館を拠点にして朝廷などに圧力をかけていました。西八条館も六波羅館同様に寿永2年(1183年)7月の平家都落ちに際し一門の手で火をかけられ灰燼しました。

五重塔(東寺)

西山の夕焼け

鴨川

Tourist  2004.11.15&11.22(M)

 

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