新撰組幕末回廊散策その四

 

黒谷の 山門高し 冬木立 虚子

 

方広寺〜清水寺〜祇園界隈〜木屋町界隈〜黒谷金戒光明寺〜平安神宮散策

 

京都守護職・第9代会津藩主・松平肥後守容保(かたもり)

美濃高須藩主・松平義建の第六子として誕生。弘化3年(1846年)、12歳で会津8代藩主・松平容敬(かたたか)の養嗣子となり(容敬も高須松平家から養子に入っており、容保の叔父にあたる)、嘉永5年(1852年)2月、容敬の病死により9代藩主に18歳で就任しました。動乱の幕末時に周囲の反対を押し切り京都守護職を勤め、徳川や朝廷に至誠を尽くしますが朝敵の汚名を着せられ、明治維新の人柱とされました。戊辰戦後の明治13年(1880年)2月2日、第5代・東照宮宮司に就任しました。

二年(二寧)坂

三年(産寧)坂

舞妓はんズどすぇ〜

古都燃ゆるが如く・・・

音羽の滝と滝の宮

地主神社(恋占い石)・・・うら若き乙女の願い?!(;^_^A

奥の院の崖下にある滝は三ヶ所の筧から流れ落ち、その前に垢離(くり)堂があります。水源は背後の音羽山々中より流れ出、極めて精冷で古来、霊水とされ昔は諸病に効くとされこの水を汲んで持ち帰ったとされ新撰組1番隊々長・沖田総司も飲んだそうです。拾芥抄に記される所謂五名水の一です。今尚、霊験あらたかと音羽の滝に祈誓する者が多いとされ滝上には延鎮僧都が竜神を勧請し滝の守護神として祀る滝の宮があります。

本堂と清水の舞台(清水寺)

三重塔(清水寺/重文:江戸期)

三重塔(重文:江戸期)は承和14年(847年)の創建と伝え、現塔は古様式に則って寛永9年(1632年)に再建された高さ約31mの日本最大級の三重塔です。昭和62年(1987年)に解体修理され総丹塗りと共に桃山様式で各重横木の極彩色文様を復元されています。一重内部に大日如来像を祀り四周の壁に真言八祖像を描き天井・柱など密教仏画や飛天、竜などの極彩色で荘厳されています。

時雨模様の北山と鴨川(四条大橋から)

石段(黒谷金戒光明寺)

御影堂(黒谷金戒光明寺/会津藩松平肥後守・京都守護職本陣旧跡)

会津藩殉難者墓地(黒谷金戒光明寺)

約300坪の敷地に会津藩殉難者墓地があり文久2年〜慶応3年の5年間に亡くなった237柱と鳥羽伏見の戦いの戦死者115柱を祀る慰霊碑があります。禁門の変(蛤御門の戦い)の戦死者は、一段積み上げられた台上に22柱が3カ所に分祀されています。松平家が神道であった為、7割ほどの人々が神霊として葬られています。

京都一の大鳥居(平安神宮)

応天門(平安神宮)

大鳥居の高さ約24.4m、幅約34mの鉄筋コンクリート造りで昭和天皇の即位を記念して昭和4年(1929年)に建てられた巨大な朱塗りの鳥居は創建当時、国内最大の鳥居だったとされ国の有形文化財に登録されています。当時、周囲の景観を損なうとの反対もありましたが今では京都のシンボル的鳥居です。桓武天皇没後、1200年記念事業としての大鳥居修復工事も平成16年(2004年)10月13日、修復完成行事が行われました。

平安神宮

辰巳大明神

方広寺〜清水寺〜祇園界隈〜河原町界隈〜木屋町界隈〜黒谷金戒光明寺〜平安神宮散策

方広寺

三年(産寧)坂

二年(二寧)坂、三年(産寧)坂、明保野亭事件

二寧坂は大同2年(807年)に整備されたからとする説、坂道で産寧坂の下にあるので二寧坂と呼ばれる説など諸説があります。この坂道で転ぶと二年以内に死ぬという恐ろしき伝説があります。寧坂は清水寺の子安観音にお産が寧(やすら)かであるよう祈願に向かう時に通るから産寧坂と呼ばれる説、大同3年(807年)に出来たからとする説、清水寺の参拝の帰りに願いを強くするから再念坂とも呼ばれるなど諸説がありますが何れも定かではありません。明保野亭事件は幕府が元治元年(1864年)6月5日の池田屋騒動での残党捕縛を命じた5日後の6月10日、料亭明保野に長州系浪人が潜伏するとの情報を得て柴司、常盤常次郎、石塚雄吾、田原四郎、両角太郎の5名の会津藩士と、武田観柳斎ら新撰組隊士15名が踏み込みましたが浪士は集合せず居合わせた武士1名が逃げようとした為、会津藩士・柴司は誤って土佐藩士の麻田時太郎を槍で突き負傷させました。若手土佐藩士は激怒し会津、土佐藩の外交関係に亀裂が入りかねない事態へ発展し会津藩は見舞いの使者として手代木直右衛門、小室金吾左衛門と治療の為に藩医・渋沢昌益を派遣したが土佐藩では麻田を自刃させた為に柴司は、これを聞き自刃して両藩の関係悪化を防ぎました。

明保野亭跡

二年(二寧)坂

竹久夢二萬居跡

竹久夢二は明治〜昭和にかけての詩人、画家で夢路が大正3年(1914年)頃に笠井彦乃と出合いましたが彦乃の父に反対され大正5年(1916年)に京都に来ました。彦乃が夢路を訪ねて来る迄の数ヶ月間を此処で過ごしたとされます。

麗しき舞妓はんズ

霊山護国寺(坂本龍馬などの墓所)

霊山歴史館・・・休館日でした!(T T) またかい!

世界文化遺産・清水寺

北法相楽の大本山で正しくは音羽山観音寺と号し清水寺は俗称です。寺伝によれば鹿狩りに来た坂上田村麻呂が此処で修行中の僧・延鎮に出会い殺生を戒められ延暦17年(798年)、一宇の仏堂を建て千手観音を祀ったのが起こりとされ弘仁元年(810年)、鎮護国家の道場となり奈良の長谷寺、近江の石山寺と並ぶ観音零場として崇められた。霊験談は清少納言を始め更級日記の作者による古典文学、謡曲「田村、熊野(ゆや)」によって紹介されています。中世の南北朝騒乱に巻き込まれ度々兵火の災厄を蒙ったが、その都度再建され現在の建物は寛永6年(1629年)の出火後、徳川三代・家光によって再建されたものが多いです。西門(重文:江戸期)は三間一戸、切り妻造り、桧皮葺の八脚門で正面に一間の向拝、背面に軒唐破風を付け上り勾欄を備えた珍しい形式で鐘楼(重文:桃山期)と共に桃山時代後期の華麗な装飾彫刻が施されています。門前左手の馬駐(うまとどめ/重文:室町期)は馬五頭が繋げる事ができる我が国最古の厩(うまや)です。

仁王門、西門、三重塔

西門(重文:江戸期)から市内、愛宕山を望む

轟門(重文:江戸期)

「仁王門(におうもん/重文:室町期)」は西面する清水寺の正門で応仁の乱後、15世紀末に再建され、平成15年(2003年)に解体修理されました。三間一戸、正面約10m、側面約4.8m、軒高8.5mの、入母屋造り、桧皮葺き(ひわだぶき)で室町様式の遺風堂々たる楼門です。丹塗りで赤門と呼ばれ正面軒下に平安時代の名書家・藤原行成の筆と伝える清水寺の額を掲げ、両脇間に勇壮な大仁王像が祀られています。「西門(さいもん/重文:江戸期)」は寛永8年(1631年)再建の三間一戸の八脚門で単層、切妻造り、桧皮葺きで正面に向拝をつけ木階に高欄を設けて一見拝殿風に作り背面に軒唐破風(のきからはふ)を架ける珍しい優雅な桃山様式です。持国天、増長天を安置します。轟門(とどろきもん/重文:江戸期)は正面軒下中央に月舟禅師の筆による普門閣の扁額を掲げる本堂への中門で、寛永8〜10年(1631〜33年)に再建された三間一戸の八脚門です。切妻造り、本瓦葺で、妻や天井の構造は東大寺転害門を縮小して写しています。左右両脇間に持国天像と広目天像を祀り、背面には阿吽形(あうんぎょう)の狛犬を安置します。門前には梟(ふくろう)の手水鉢が奉納されています。

出世大黒天

市内を望む

本堂(国宝:江戸期)

地主(じしゅ)神社

当社は清水寺の地主神で清水八坂郷の産土神として信仰されています。創建年月は定かでなく、天禄3年(972年)、円融天皇は臨時祭に行幸された事から鎮座が頗る古いとされ元、地主権現と呼ばれていたが明治維新後に改名し祭神は大己貴命(大国主命:おおくにぬしのみこと)外四柱を祀る旧郷社です。社殿は桃山風の名残を見せ拝殿天井の竜画は狩野元信の筆と伝えます。当社は縁結びの社としても有名で修学旅行生、カップル、女性などには清水寺詣でより地主神社詣での方が人気があるそうです。

地主神社

大国主命と兎

境内の恋占い石

釈迦堂(重文:江戸期)

阿弥陀堂(重文:江戸期)

手水・・・名水でした!(^_^)vまいう〜

清水の舞台、子安塔(重文:江戸期)

本堂(国宝:江戸期)は寄せ棟造り、桧皮葺、寝殿造り風の優美な建物で前面左右に翼廊を出しその間を板張りとしています。世に有名な清水の舞台とはこれを言ったもので数十尺の長材を縦横に組み合わせた束柱に支えられ断崖上に架かっています。堂内には秘仏の本尊・十一面観音立像、脇侍に将軍地蔵と勝敵毘沙門天像を安置します子安塔(重文:江戸期)は本堂の南谷(錦雲渓)を隔てた丘上に建つ高さ約15mの桧皮葺きの軽快な三重塔です。各重とも軒は二軒繁垂木(ふたのきしげたるき)、とぐみは三手先であるが珍しく尾垂木を設けず、縁には組高欄を繞(めぐ)らしています。子安観音(千手観音)を祀り、安産に大きな信仰を集めています。聖武天皇、光明皇后の祈願所とされますが創建時は定かでなく寛永期に再建され明治末年まで仁王門の左手前に建っていました。又、常盤御前は千手子安観音を厚く信仰し吹雪の中を都落ちする際に牛若・乙若・今若の無事を祈ったとも伝えます。

本堂と清水の舞台(奥ノ院から)

子安塔(重文:江戸期)

音羽の滝

辰巳大明神

辰己稲荷とも言われ狐が祭神と思われますが、狸を祭神とします。昔、巽橋にいたずら狸がおり、橋を渡る人(舞妓、芸妓など)を化かしては川の中を歩かせました。難儀した人々はこの狸に祠を建て神として祀ったところ、いたずらは止んだと伝わります。今は芸事の神として祇園の舞妓、芸妓達の信仰を集めています。

辰巳大明神

新橋

小川亭(テイ)跡

近江屋卯兵衛という肴屋・魚卯とし諸藩用足達、肥後藩邸出入りの商人で二代当主死後旅館小川亭に転業し諸藩志士の世話をしました。離れが鴨川に面して逃げやすく勤皇攘夷派の謀議の場として利用されました。小川亭は池田屋騒動での犠牲者の回向を続けたと伝えます。

白川と巽橋(新橋から)

行者橋(一本橋)

小川亭跡

南座、北座跡

我が国最古の劇場で江戸時代に四条河原町で行われた歌舞伎芝居が発展し常設芝居を設けたのが起こりで延宝4年(1676年)頃、四条通りの南側に3軒、北側に2軒、縄手四条上る西側に1件、都合6軒ありましたが幕末頃に南、北座の2軒となり明治27年(1894年)、四条通りの第一次拡張によって北座を廃し南座のみが残りました。現在の建物は昭和4年(1929年)の改築による鉄筋コンクリート造りです。

南座

北座跡

古高俊太郎邸(枡屋)跡

古高俊太郎は当地で諸藩御用達の枡屋を継ぎ古道具、馬具を扱い早くから宮部鼎蔵(みやべていぞう)らと交流し長州の間者として情報活動、武器調達をしていました。元治元年(1864年)6月5日、新撰組に踏み込まれ武器弾薬、諸藩浪士との書簡や血判書が発見され前川邸(壬生屯所)で近藤勇、土方歳三ら直々の厳しい取調べを受けました。 土方の命で、屯所の二階から逆さ吊りにされ鞭で打たれ、更に足の甲から五寸釘を打たれて足を突き抜けた釘に百目蝋燭を立てられ火をつけられる残酷な拷問だったそうです。古高が自白したのは8月18日の政変で京を追われた長州が6月下旬の強風の日に御所に火を放ち、佐幕派の公家・中川宮を幽閉し京都守護職・松平容保らを殺害し天皇を長州へ連れ去るという恐ろしき陰謀でした。浪士らが多数上洛しており近々同志の集会があると判明し、その計画を阻止したのが世に新撰組の名を一気に高めた池田屋騒動です。同7月20日の禁門の変での兵火が六角獄舎に迫り古高は脱獄を企てたとして斬首刑にされました。

坂本龍馬、中岡慎太郎遭難之地碑

慶応2年(1866年)11月15日、京都の近江屋で中岡慎太郎と共に刺客(見廻組・佐々木只三郎ら)に襲われて暗殺されました。中岡慎太郎は天保9年(1838年)4月、土佐国北川郷庄屋・中岡小伝次の長男として生まれ、文久元年(1861年)8月、土佐勤王党に加わり文久3年(1863年)9月5日、土佐藩を脱藩しました。慶応3年(1867年)6月22日、京都の薩摩藩邸で、坂本龍馬と共に立会い薩土盟約が結ばれました。同年11月15日、京都の近江屋で坂本龍馬と共に襲われ重傷を負い、11月17日に死去しました。

中岡慎太郎萬居地

坂本龍馬、中岡慎太郎遭難之地(近江屋跡)

土佐稲荷社

本殿と龍馬像

二之舟入り跡

山門(法雲寺/久坂玄端潜伏地)

本堂(法雲寺)

木戸孝允(桂小五郎)邸跡

女紅場跡

黒谷 金戒光明寺(会津藩主松平肥後守・京都守護職本陣旧跡)

浄土宗鎮西派四ヶ本山の一で紫雲山と号し世に黒谷と称します。元延暦寺の白河禅房があったが法然上人に付与されたので承安5年(1175年)、西塔黒谷より移り念仏道場としたのが当寺の起こりでその後、上人は洛東吉水に移ったが此処の草庵を捨てず叡山黒谷と共に相往来し説法に務めたので世人から新黒谷と称され後に、黒谷と称しました。五世・恵(えがい)の時に寺としての伽藍が整備され浄土宗の興隆によって大寺となり後光厳天皇より金戒の二字を賜り、後小松天皇より浄土真宗最初門の勅額を賜りました。応仁の乱など度々の兵火にかかったがその都度公武の庇護によって再建され今日に至ります。

梁川星巌・紅蘭旧居跡

総門

参道と石垣

文久2年(1862年)、徳川幕府は京都の治安維持を目的で京都守護職を新設しました。同8月1日、会津藩主・松平容保(かたもり)は14代将軍・徳川家茂から京都守護職・正四位下に任ぜられ役料5万石、金3万両を与えられました。京都守護職に任命され幾度か固辞をしたが、藩祖・保科正之(三代将軍・家光の異母弟)の家訓(かきん)に順じ容保が守護職拝命を決意し家老・西郷頼母(たのも)、田中土佐らは、「薪を背負って火を防ぐようなもの」と反対するが容保の意は変わらず家臣も「君臣唯京師の地を以て死所となすべきなり」と肩を合わせて泣き崩れたという。松平容保は家臣1000名を率いて同12月24日、三条大橋に到着し京都所司代、京都町奉行所などの出迎えを受け本陣となった黒谷金戒光明寺に至るまでの間、会津藩兵の行軍が一里余りも続いたとされ、町衆も両側に列をなし大歓迎したと伝わります。幕府は文久2年、14代将軍・家茂上洛警備の為、浪士組を結成し文久3年(1863年)2月8日、江戸小石川伝通院に集合した240余名の浪士組は中山道を通り京都へ出発、同23日、京都の壬生へ到着、清河八郎が尊王攘夷を表明した事で200余名は江戸へ帰る事となりましたが清河と意見を異にした近藤勇、土方歳三、芹沢鴨らは京都残留を希望し近藤らは京都残留の嘆願書を守護職に提出し3月10日、老中・板倉勝静は京都守護職・松平容保に浪士差配を命じました。同12日、京都守護職御預かりとなり同16日、近藤、土方、芹沢らは黒谷で松平容保に拝謁が叶い、8月18日の政変(七卿落ち)の時に武家伝奏より新撰組の命名と共に市中警護を拝命した事で当寺が新撰組発祥の地とされる所以です。

山門への石段

山門

御影堂

本堂(阿弥陀堂)

熊谷直実が、着ていた鎧をかけた熊谷直美鎧掛けの松

文殊塔(三重塔)

侠客の会津小鉄の墓もあります。会津小鉄は本名を上阪(こうさか) 仙吉といい、会津藩・松平容保が京都守護職在職中、家業は口入れ屋として新撰組の密偵として活躍をしたが鳥羽伏見の戦いで会津藩が政略的に朝敵の汚名を着せられ戦死者の遺体が鳥羽、伏見の路上に野ざらしに放置されていたのを子分200余名を動員して収容し近くの寺院で荼毘に付し回向供養したとされ、以後も容保の恩義に報いる為に黒谷会津墓地を西雲院住職と共に死守し、清掃や整備の奉仕を続けたという逸話があります。

会津藩殉難者墓地

大鳥居

応天門

平安神宮

明治28年(1895年)、平安遷都1100年を記念し桓武天皇、孝明天皇を祭神として創建された旧官幣社で京都市民の氏神として崇敬されています。社殿は大内裏の約2/3に縮小して模造されているのが特徴で平安京創建当時を偲ばせています。応天門は五間三戸、入母屋造り、丹塗りの勾欄を廻らした二層楼門で大極殿(拝殿)は入母屋造り、屋根は碧瓦葺とし棟の両端に燦然たる金色の鵄尾(しび)を載せ中央身屋(もや)の四周に廂間(ひさしのま)を備えます。大内裏八省院の正殿大極殿を模したとされ52本の朱塗りの円柱が整然と列立する様は壮観で本殿は東西に並ぶ二棟の社殿からなり右に桓武天皇、左に孝明天皇を祀り檜の白木造りで四周に透塀を廻らせています。

白虎楼

大極殿

蒼竜楼

天皇が南向して座す為に建築物も南に構え大極殿を中央にして右に白虎楼、左に蒼龍楼、大極殿の奥には内拝殿、本殿があり前庭には右近の橘、左近の桜が植えられています。紫宸殿の前庭の右近衛兵が控える場所に橘、左近衛兵の控える場所に梅が仁明天皇の御世から桜に替ったとされ右近、左近の木々が示す裏が禁裏と云い、その奥が内裏とされます。

Tourist  2004.12.06(M)

 

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