伏見→八幡〜近江(坂本→飯室谷不動堂→安楽律院→坂本城跡)〜壬生寺・島原探訪

 

唐崎の 松は花より 朧にて   松尾芭蕉

 

城南宮→男山・石清水八幡宮〜近江(坂本→飯室谷不動堂→安楽律院〜坂本城跡)〜壬生寺節分会

 

【映画 るろうに剣心】と【NHK大河D・江】のロケ地・安楽律院 緋村剣心(佐藤健)と鵜堂刃衛(吉川晃司)決闘シーンのロケ地・安楽律院境内
横川飯室谷の別所・安楽谷の安楽律院地図

横川地域は、般若・解脱・兜率・樺尾(かぼう)・戒心・飯室の六谷からなり、天長6年(829年)に円仁が首楞厳院(しゅりようごんいん/横川中堂)を開いたのに始まり、横川中堂(首楞厳院)、四季御堂、恵心院、定心院などがある。他に黒谷別所・青竜寺、安楽院谷別所・安楽律院がある。現在、これら諸院堂舎は、寛永期もしくはそれ以後の再建で、元3000と号した坊舎も70余坊を数えるに留まる。安楽谷は、横川飯室谷の別所。かつては恵心僧都なども隠棲したが、江戸中期に妙立、霊空らが厳しい戒律主義を唱導して安楽律と呼び、安楽律一門が、叡山の三魔所といわれる飯室谷に住んだのが始まりと伝える。律院は戦後の放火でほとんどの建物を焼失したが、境内は幽邃で荘厳な雰囲気が漂っている。映画などのロケ地に使われ、【NHK大河ドラマ 江】 や【映画 るろうに剣心】のロケ地にもなりました。

【伏見・城南宮〜八幡・石清水八幡宮参拝編】
伏見百景・酒蔵と高瀬川 油小路通り
城南宮 ☆地図

城南宮の由緒は、上古の時代、神功皇后は出陣に当たり、軍船の御旗に八千矛神を招き寄せて戦勝を祈願され、戦が終わると御旗は宮中で大切に保管されていました。桓武天皇が平安京に都を定めた時、御旗を城南の当地に御神体として納め、八千矛神(やちほこのかみ=大国主命:おおくにぬしのみこと)、国常立尊(くにのとこたちのみこと)、息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと=神功皇后:じんぐうこうごう)の三柱、伊勢、石清水神社など七社が合祀され、都の南を鎮護する神として祀られた。御旗の日月星の紋章が城南宮の三光の神紋の由来と云われています。平安時代末期、交通の要衝でもあった風光明媚な当地に白河上皇が壮大な城南離宮(鳥羽離宮)を造営し院政を開始、歌会や宴、船遊びや競馬(くらべうま)が、しばしば行われ王朝文化が開花しました。承久3年(1221年)、後鳥羽上皇が流鏑馬揃えと称して兵を集め「承久の乱」を起こし、慶応4年(1868年)正月、城南宮に陣取った薩摩藩のアームストロング砲が鳴り響き、「鳥羽・伏見の戦」が開戦しました。

方避けの社・城南宮
伏見名水「菊水若水」 二の鳥居 御旗には三光の神紋(日月星の紋章)
境内 一年の無病息災を願う神事・湯たて神楽に使われる大釜
本殿 城南宮神苑・源氏物語花の庭
三照宮社(摂社) こま札(城南宮) こま札(鳥羽伏見の戦い)
浄土宗・念佛寺・・戊辰戦争時に旧幕府方の桑名・大垣藩の陣地になり、薩長軍の砲撃で大垣藩士9名が戦死、当寺に四名が葬られている。
石清水八幡宮(男山) ☆地図

応神天皇、神功皇后、比(ひめ)神を祭神とする旧官幣大社で男山八幡宮とも呼ばれ伏見稲荷大社と共に京都南郊屈指の大社として崇敬されています。初め男山々中に湧き出る清泉を神社化したとされますが平安時代初期、貞観元年(859年)、奈良・大安寺の行教という僧が豊前国(今の大分県)の宇佐宮に篭られた時、八幡大神の御託宣(お告げ)を蒙り、同年男山の峯に八幡三所の神霊を奉安し、この年、清和天皇の御命令を承けた木工寮権・允橘良基は、当地に本殿三宇・礼殿三宇から成る六宇(ろくう)の宝殿を造営した事から始まります。翌年の貞観2年(860年)4月3日、八幡三所大神が正式に鎮座されました。創建以来、朝野の崇敬が篤く伊勢神宮に次ぐ第二の宗廟と崇められ天元2年(979年)、円融天皇の行幸以来、歴代天皇の行幸数多く特に源氏は、この神を氏神と仰いだので武家間で大いに広まりました、「延喜式」にその名を見ないのは神社としてよりも寺院として栄えていたからで往時は山上、中、下に多くの堂舎僧坊が瓦を並べ江戸末期においても尚23坊を数えましたが明治の神仏分離によって神社一色に改されました。往時を物語る石灯籠は320余基を数え奈良の春日大社の1800余基、大阪の住吉大社の560余基に次いで多いですが江戸時代以降のものが多く関心を持たれませんでしたが近年、鎌倉後期の石灯籠(永仁(えいにん)の石灯篭(重文:鎌倉期)が見つかりました。社殿(重文:江戸期)は山上と山下の二ヶ所に分かれていますが、主なる社殿は山上にあり上院とも言います。何れも創建以来、度々兵火によって焼失したが寛永11年(1634年)、徳川家光の造営によるもので廻廊に囲まれた中に楼門、幣殿、本殿、神庫などが複雑に入り混じっています。本殿は外陣(外殿)と内陣(本殿)に分かれ両方の屋根が接する所に織田信長寄進の黄金の雨樋を架けその下を合の間とし三間社を一間づつ開けて一棟とする八幡造りの形式になっています。山腹にある石清水社(末社)は当社発祥の所以となった清泉が今も湧き出しています。

東高野街道 石清水八幡宮 参拝前に心身を祓い清めたという影清塚
大扉稲荷社 かつて存在した男山四十八坊の一・豊蔵坊 ・・・
三の鳥居 お百度参りの起点石?「一ツ石」 320余基の灯籠が並ぶ参道
参拝しました!(*゜▽゜)/ 大谷川(放生川) 東高野街道
日蓮聖人の直弟・日門上人が開基と伝える日蓮宗・本妙寺 八幡名物?!カレー中華の小谷食堂
八幡名物?!カレー中華&玉子丼セット!(^^♪ 京阪・淀駅 京阪・中書島駅
【近江探訪編(堅田〜飯室不動堂〜安楽律院〜坂本城跡〜坂本)】
湖族が栄えた町・堅田地図

大津市堅田は琵琶湖の水運、漁業など、湖上の特権を持つ湖族が栄えた町で中世、湖上の交通や漁業の権益を背景に栄華を極めました。堅田漁港は、湖族(堅田衆)の栄華を彷彿させてくれます。古来、湖西は大津〜若狭へ向かう西近江路や若狭街道、敦賀へ向かう敦賀街道や北国街道など陸上交通が整備され、湖上交通による荷物の輸送も行われた為、堅田や大津などは琵琶湖の港湾都市として発展しました。

潮の香りはしないでござるが?!(>▽<;; おろっ。。。琵琶湖一、二の大規模な堅田漁港でござる!(*゜▽゜)/
その昔、琵琶湖の水運、漁業など湖上漁業権などを掌握した湖族(堅田衆)の権勢を彷彿させる漁港
写真では海に見えるでござるが・・・潮の香りはしないでござるよ?!(>▽<;; おろっ
浮御堂(海門山満月寺)地図

近江八景「堅田の落雁」で名高い浮御堂は平安時代、一条天皇の長徳年間(995年頃)、比叡山の恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)が湖上安全と衆生済度を祈願し、自ら一千体の阿弥陀仏を刻んで建立したのが浮御堂の始まりと伝える臨済宗大徳寺派の寺で正しくは海門山満月寺と号します。現在の浮御堂は昭和9年(1934年)の室戸台風で倒壊し、昭和12年(1937年)に再建され往時の情緒を残し観音堂には聖観音座像(重文:平安期)が安置され境内には樹齢約500年と伝える老松があります

たくさんの漁船が係留されています。・・・比良山系が冠雪しているでござる。(~ヘ~;)寒い〜 浮御堂(満月寺)楼門
ご朱印を頂戴しました!(*゜▽゜)/ 境内には樹齢約500年と伝える見事な老松と芭蕉の句碑が二基あります。
観音堂(登録文化財)
観音堂の花天井 湖上に迫出している浮御堂
マザーレーク・母なる琵琶湖を一跨ぎする琵琶湖大橋と冠雪する伊吹山 大ムカデ退治で知られる近江富士こと三上山
本坊 マザーレーク・琵琶湖(南湖)!\(●⌒∇⌒●)/潮の香りはしないでござるが?!(>▽<;; おろっ
戦国武将・明智光秀ゆかりの天台真盛宗総本山・西教寺地図

正しくは、 天台真盛宗総本山戒光山兼法勝西教寺 (こうさんけんほっしょうさいきょうじ)と号します。聖徳太子が恩師である高麗の僧・慧慈、慧聡のために創建されたと伝えます。その後、久しく荒廃していましたが、慈恵大師良源上人が復興、念仏の道場としました。恵心僧都も入寺、修業されたところから次第に栄えるようになりました。鎌倉時代の正中2年(1325年)に入寺された恵鎮(円観)上人は、伝教大師が畢生の事業として提唱された大乗円頓戒を復興、その後百有余年を経た文明18年(1486)に真盛上人が入寺されるに至り、堂塔と教法を再興、不断念仏の道場とされました。以来全国に約四百余りの末寺を有する総本山となりました。今も戒律・念仏の道場として、1日も絶えることなく念仏が唱えられている。
比叡山焼き討ちで焼失した後に明智光秀が復興したことから、明智一族の菩提寺となり墓所があります。境内には、総欅造りの本堂(重要文化財)や伏見城の宮殿を移築した客殿があります。

湖族の郷文学(城山三郎)碑 琵琶湖八景・浮き御堂 天台真盛宗総本山・西教寺
明智光秀一族の菩提寺で墓があり、総門は坂本城城門を移築したと伝える。 桜が続く参道
宗祖大師殿
琵琶湖、近江富士遠望!(*゜▽゜)/ 石仏、石塔
石仏、石塔 沐浴場 宝珠丸像(真盛上人幼少像)
明智光秀一族の菩提寺と墓所

元亀2年(1571年)、織田信長の比叡山焼き討ちの際、当寺も災禍を被りました。その後に築かれた坂本城の城主となった明智光秀は西教寺の檀徒となり、復興に大きく力を注ぎました。総門は坂本城城門を移築したもので、鐘楼堂の鐘は陣鐘です。天正10年に逝去した光秀は6年前に亡くなった内室・熙子や一族の墓とともに祠られています。

比叡山東麓に位置する西教寺 明智光秀内室・煕子(ひろこ)の墓 明智光秀一族の墓
二十五菩薩来迎群像 伏見城旧殿を移築し桃山御殿と呼ばれる客殿(重文) こま札
オロっ、、、珍念?ヾ(´Д`;●) てなもんやか?! 紀州徳川家から寄進された本堂 鐘楼は明智光秀が寄進した坂本城陣鐘
こま札 京都の法勝寺が併合された兼法勝西教寺 こま札
本坊 ご朱印を頂きました!(*゜▽゜)/
手入れの行き届いた気持ちいい境内
境内からの琵琶湖俯瞰!(*゜▽゜)/ 観音堂 西教寺をあとに・・・
飯室谷回峰行の拠点・横川飯室谷不動堂地図

比叡山東麓にある飯室(いむろ)不動堂は、横川六谷の一つで、別所飯室谷の山腹にある。横川谷は、ほかに兜率谷(とそつだに、兜卒谷、都卒谷)、般若谷、香芳谷(かぼうだに)、解脱谷、戒心谷と別所安楽谷からなる。また飯室谷不動堂は三塔十六谷といわれる比叡山東塔根本中堂、釈迦堂、横川中堂、無動寺明王堂と並ぶ延暦寺五大堂の一つ とされ、本尊に不動明王立像を安置し、比叡山千日回峰行の基点の一つとされています。当堂は、過酷な修業で知られる比叡山千日回峰行を二度も満行された酒井雄哉北嶺大行満大阿闍梨が住職を努められました。約400年間途絶えていた飯室回峰の千日回峰行を完全復活させたのは酒井雄哉北嶺大行満大阿闍梨で、弟子である藤波源信大阿闍梨も飯室千日回峰行を満行されました。千日回峰行の流派は東塔無動寺谷の玉泉坊流、西塔正教坊の石泉坊流、 千日回峰行を二度満行した酒井大阿闍梨の拠点・横川飯室谷の恵光坊流の三流派があります。横川飯室谷の恵光坊流回峰行の全行程は、午前1時頃に飯室不動堂を出峯−安楽律院−慈認大師墓−坂本の西教寺−生源寺−坂本本町・滋賀院−無動寺坂手前−日吉大社−八王子山−神宮禅院跡−悲田谷−大宮川・ 横川本坂横断−覚運廟−五智院−根本中堂広場−戒壇院−ドラ イブウェイ・西尊院〜建立院坂−無動寺明王堂・宝珠院・大乗院−建立院坂−西尊院−智証大師廟−阿弥陀堂−山王院−浄土院−椿堂−にない堂−釈迦堂−居士林−峰道−玉体杉−横川 中堂−元三大師御廟−恵心院−飯室坂−飯室不動堂 その間260ヶ所の先人たちゆかりの場所、神社、仏閣を巡拝するのが特徴で、全行程の距離は他より10kmも長い40kmです。

入り口には、仁王(金剛力士)石像 諸病平癒、健康増進の功徳がある閼伽の水井・明王水
慈覚大師が不動明王の霊感により霊水を発見した閼伽井 穴太衆(あのうしゅう)積みの石垣
比叡山の三大魔所・慈忍和尚霊墓地図

飯室谷の巨木の杉木立の森に、大きな一つ目と一本足という一眼一足法師(慈忍)の幽霊が出るという。幽霊は鉦を打ち金縛りにさせるというので、若い僧はこれを畏れ修行に励んだという。比叡山の三大魔所(東塔東谷・天梯権現社:てんだいごんげんしゃ、横川・元三大師(良源)御廟)の一つとされている。また、東塔・狩籠丘(かりごめのおか)を加えて四魔所ともいわれている。

慈忍和尚は慈慧大師(元三大師)の高弟で 一目一足の妖怪にに姿を変え没後も戒律を厳しく取り締まったと云う。
比叡山四大魔所の一『慈忍和尚墓』 飯室谷不動堂松禅院 飯室谷不動堂
酒井北嶺大行満大阿闍梨と共に千日回峰行を満行した大阿闍梨犬?クロとシロの狛犬(唐獅子)

一願不動尊の前に鎮座している狛犬(唐獅子)二対は、酒井大阿闍梨の回峰行の際に、大阿闍梨に同行したラブラドル種のクロとクロの仔・シロ。二頭は酒井大阿闍梨と共に大廻りにも二回随行、更に赤山苦行にも同行し見事に回峰行を満行した大阿闍梨犬?また回峰行中に酒井大阿闍梨を襲ってきたイノシシを何度も撃退した歴戦の勇士でもあります。クロとシロの功績を称えて酒井大阿闍梨の発願で中国に発注された狛犬(唐獅子)でクロとシロを表敬されています。クロの足跡もコンクリートの地面に残っています。

一願不動尊、御供所との狛犬(中国の唐獅子) ラブラドル種のクロを表した狛犬(唐獅子)
クロの仔・シロを表した狛犬(唐獅子) 酒井大阿闍梨の発願により建立された一願不動明王 酒井大阿闍梨の発願で建立された千手堂(八角堂)
オロッ?!(*^-^*) 横川本坂(元三大師堂道:中尾坂) 安楽律院へ・・・
・・・ ・・・ 穴太衆(あのうしゅう)積みの石垣の切り通し
酒、生臭ものを食したものは立ち入るべからず! 緋村剣心(佐藤健)と鵜堂刃衛(吉川晃司)決闘シーンのロケ地がこの安楽律院参道
安楽律院地図

比叡山北東麓に位置する安楽谷の安楽律院は、千日回峰行(飯室回峰行)の拠点・比叡山十六谷の一つでもある横川飯室谷の別所で恵心僧都も隠棲した場所。江戸時代中期、叡山の三魔所とも呼ばれたこの谷に霊空ら安楽律一門が住み、安逸な風に流れた叡山の僧に反発して、厳しい戒律を唱えた天台宗の教学刷新を目指した四分戒律兼学(四つの小乗律戒法)の安楽律を確立した寺として隆盛を極めた。惜しい事に戦後、放火によって堂宇を焼失し今は山門、本堂などがわずかに残るのみである。【映画・るろうに剣 心】と【NHK大河D・江】のロケ地になりました

焼け残った山門 立派な石段が続く・・・
この参道で緋村剣心(佐藤健)と鵜堂刃衛(吉川晃司)が死闘を繰り広げたでござる! 手水鉢の底から水が湧く手水
焼け残った小堂 石仏、石塔
石仏、石塔 昭和に放火により消失してしまったものの、今も残る礎石に往事の規模が量られる。
解説 大河ドラマ『江〜姫たちの戦国〜』のロケ地
在りし日の安楽律院 かつては金堂、講堂、小金堂、三重塔、弥勒堂など荘厳な伽藍を有する寺だった。
本堂・・・大河ドラマ『江〜姫たちの戦国〜』のロケはこの辺りで行われた!(*゜▽゜)/
建物の傷みが激しいのが気になるところ・・・オロッ。(>▽<;; 見つけにくいところにある藤原定家歌碑
同じく藤原定家の爪塚 苔むした石段が歴史を物語っているようでござる・・・
飯室谷をあとに・・・ 県道R47号線からの眺め!(*゜▽゜)/
・・・ 日吉大社門前・県道R316号線 坂本名物・日吉そば
入母屋造の総二階建の風情ある店構えの坂本名物・鶴喜そば
濡れ縁には折鶴がくりぬかれるなど見事な建築意匠 お品書き
暖かくてホッコリ(*´ο`*)=3ホッ おススメされた坂本の地酒 (^^♪おろっ! 天ざるには・・熱燗でござるよ!(^^♪おろろ〜!
生源寺:しょうげんじ地図

比叡山延暦寺の開祖・伝教大師最澄の生誕地と伝える寺です。山門を入った右手の古井戸は最澄の産湯に使われたという伝説があり、毎年8月18日には盛大な誕生会が行われます。西塔の総里坊で、一山の寺務総括をしていた重要な里坊であった事もあり、叡山文庫に多くの「生源寺記録」が残されています。現在の本堂は文禄4年(1595年)、詮瞬(せんしゅん)によって再建された後、宝永7年(1710年)に改築されました。本尊は十一面観世音菩薩像で、最澄の弟子・慈覚大師円仁の作と伝えます。

伝教大師最澄生誕の地・生源寺 伝教大師最澄が生誕した時に産湯に使ったと伝える産湯井
伝教大師最澄幼少像 伝教大師最澄生誕の絵画 本堂(ご朱印を頂戴しました!)
明智光秀の坂本城跡地図

織田信長の比叡山焼き討ちの後、信長に命ぜられて明智光秀が築いた坂本城跡です。坂本城は、琵琶湖をうまく利用した水城で、豪壮華麗な造りであったと伝えます。この水城の形態は、後の大津城、膳所(ぜぜ)城へと受け継がれました。坂本城は、光秀が織田信長を攻めた本能寺の変のあと、豊臣秀吉軍に囲まれて落城し、後に秀吉により再建されたが、浅野長吉が城主の時に大津へ移され、城跡は田畑になりました。現在は、湖中に城郭跡を残すのみで琵琶湖の水位が下がると一部を見る事ができます。

坂本城跡 坂本城解説
明智光秀解説碑 歌の歌詞碑 明智光秀像
坂本城遺蹟の石 琵琶湖

対岸眺め・・・えぇなぁ〜ヾ(≧▽≦)ノ
近江八景「唐崎の夜雨」・・・唐崎神社地図

日吉大社の摂社。日吉大社の古記によると舒明天皇6年(663年)、琴御館宇志丸宿弥(ことのみたちうしまろのすくね)が当地に居住し唐崎と名づけ彼の妻で現在の祭神である女別當命(わけすきひめのみこと)が日吉大社から持ってきた一本の松をこの地に植え、持統天皇の頃(697年)、別当姫の遺言によって松の下に神として祀ったのが唐崎神社の縁起と伝える古社。女神を祭神としていることから特に女人の信仰が厚く、かつては女別当社と呼ばれ、婦人病に、下の病に著しい霊験がある事で知られ広く信仰を集めました。また平安時代には、天皇の災禍を払う七瀬の祓所の一つに定められていた。近江八景「唐崎の夜雨」としても有名で唐崎神社の湖岸が滋賀県文化財に指定されました。

日吉大社の鳥居(七本柳)・・・破風鳥居、合掌鳥居、日吉鳥居とも言われ天台宗が唱えた山王一実神道(さんのういちじつしんとう)に由来する珍しい神仏習合型の鳥居

唐崎神社
境内 社殿 歌碑
近江八景「唐崎の夜雨」
見事な唐崎の松(滋賀県指定文化財名勝)
【壬生・島原探訪編】
新撰組屯所跡・前川邸(非公開) 地図

近藤勇、芹沢鴨達は当初、八木邸を宿舎としました。その後、京都守護職御預となり隊士が増え、八木邸だけでは手狭になりました。次に屯所となったのが、近所の前川邸でした。池田屋事件の発端となった、古高俊太郎を拷問した土蔵があります。局中法度に触れ、切腹を命じられた隊士も多く、総長・山南敬介は局を脱走し沖田総司に連れ戻され前川邸で切腹しました。山南敬介は、島原の明里に会いたいと永倉新八に頼み駆けつけた明里と出窓越しに別れを惜しんだと伝わりますが当時の出窓は現在ありません。前川邸は非公開です。総長・山南敬介他2名の墓と松原忠司他11名、副長助勤・大石鍬次郎の実兄・大石造酒蔵(非隊士)の3つの墓が光縁寺にあり何れも些細な事が隊規に触れて切腹、断首の憂目にあった隊士らで新撰組の局中法度がいかに峻烈を極めていたかを物語っています。

新撰組屯所跡・前川邸(非公開) 壬生寺の節分会へ・・・
新撰組屯所跡・八木邸 地図

文久3年(1863年)、将軍警護の為に組織された浪士隊(新徴浪士組)として上洛した近藤勇、芹沢鴨ら13名の宿舎として、前川荘司邸、南部亀二郎邸と共に、慶応元年(1865年)2月に西本願寺へ屯所が移るまでの2年間、新撰組屯所として使用されました。現在、八木邸は一般公開されています。門を入って右側の式台のある奥座敷が、芹沢鴨等が暗殺された部屋で、刀傷が鴨居に残っています。慶応元年(1865年)2月頃、西本願寺・集会所に屯所を引っ越す時に近藤勇、土方歳三らは主なる郷士の家々へ挨拶回りを行い二年間の部屋代の謝礼として八木家に金子5両、前川家へ金子10両を差し出し郷士の人達をア然たらしめたと伝えます。

新撰組壬生屯所跡(八木邸) 厄除け節分会の参拝者で賑わう壬生寺・・・(>▽<;; おろろっ〜
壬生寺 地図

宝憧三昧寺、心浄光院と号し地蔵菩薩立像を本尊とする律宗の大本山です。寺伝によれば奈良時代の創建で正暦2年(991年)、三井寺の快賢僧都により復興され小三井寺と称されました。火災により堂宇を焼亡しましたが正元元年(1259年)、平政平によって再興され正安2年(1300年)、円覚上人が「壬生大仏狂言(壬生狂言)」を創始しました。「壬生さんのカンデンデン」とも称され古来から庶民に親しまれています。新撰組の近藤勇、土方歳三ら隊士も壬生狂言を鑑賞したり沖田総司が子供達とよく遊んでいたと伝えます。

たくさんの出店と参拝者で賑わっています!(*゜▽゜)/
本堂 壬生狂言開催時限定の厄除け朱印も一緒に頂戴いたしました!(^-^)v
壬生狂言拝観希望者の長蛇の列(@_@)おろっ 厄除け節分会の参拝者で賑わう境内
放生池(壬生塚) 壬生塚(新撰組隊士墓など)
「あゝ新選組」の歌碑 供養塔と新撰組隊士慰霊塔 新撰組顕彰碑
俳優・上田吉二郎寄贈、局長・近藤勇胸像 芹沢鴨と平山五郎の墓(左)、七隊士合祀墓 新撰組勘定方・河合耆三郎
炮烙(ほうらく)や厄除だるまを求める人 ・・・ 京都清宗根付館(旧神先家住宅)
島原(西新屋敷)

当地は上古は東鴻櫨(とうこうろ)館の北にあたり、中古には観喜寿院の封境に接し近世は、葛野朱雀野と呼ばれる茫漠たる広野でしたが忽然と不夜城が出現しました。我が国最初の公許遊郭として公認されたのは天正17年(1589年)と伝え、当初は二条柳馬場にあったので柳町と称した。慶長7年(1602年)、六条に移転し寛永17年(1640年)、現在地に移転しました。当時、肥前国(長崎県)島原に吉利支丹(キリシタン)一揆が勃発し城郭に立て篭っていたが、この郭の造りが似ていたところから戯れに島原と称したのが通名になったと伝えます。一説には急な移転の為に遊郭中が大騒ぎとなり島原の乱の様な騒ぎだったからとも伝える。
江戸初期の寛永18年(1641年)、京都所司代・板倉重宗の命によってで六条三筋町から移転された公許の花街で、正しくは「西新屋敷」というが、通称の島原の呼び名が有名になり現在に至る。東西99間、南北123間で、町のまわりは土塀と堀で囲まれていた。当初は大門のみだったが享保17年に千本通り側に裏門が出来、その西門も天保13年に現在の島原住吉神社の地に移された。かつては置屋が約50軒、揚屋が約20軒あったが、現在では揚屋の角屋と置屋の輪違屋(現在は、お茶屋として営業中につき非公開)の二軒が在りし姿で現存している。

千体仏塔 ええ感じやな〜(*゜▽゜)/ 高麗門型門と伝える島原西門跡
島原案内標 島原住吉神社 ・・・
東鴻櫨(とうこうろ)館跡 長州藩尊王派・久坂玄瑞の密議の角屋 新撰組刀傷の角屋

角屋(角屋もてなしの文化美術館) 地図

角屋は遊廓ではなく、今の料亭にあたる揚屋(あげや)という業種の店で江戸時代、京都において民間最大規模の饗宴場でした。江戸初期〜中期までの揚屋は、間口が狭く、奥行きのある小規模の建物であったので、一階を台所および居住部分とし、二階を主たる座敷としました。その二階へお客様を揚げることから「揚屋」と呼ぶようになりました。木造二階建て、表全体を格子造りとした揚屋建築の唯一の遺構で座敷、調度、庭に至るまで社寺の書院、客殿と同等の設えがなされ、表、裏、台所の三部からなっています。表二階は緞子(どんす)の間を主室に翠簾(みす)の間、扇の間があり奥二階には草花の間、馬の間、孔雀の間、囲いの間など諸室があり一番奥に壁を始め随所に青貝を散りばめ数奇を凝らした青貝の間があります。これらの部屋は電灯を用いず行灯を使い階下にある台所は三十畳敷きの大部屋で古民家の台所遺構として最も注目されるべきとされます。幕末期、新撰組や長州の久坂玄瑞などが密談をしたと伝え勤皇、佐幕派双方の志士の会合場所となり、維新のステージといえますが、この場で乱闘になったことは一度としてありません。置屋とは太夫や芸妓などを抱えているので置屋と言います。揚屋(あげや)は太夫や芸妓などを一切抱えず置屋から派遣してもらって遊客を上げて歌舞音曲の遊宴を楽しませる所を揚屋と言います。

島原開基以来の揚屋で、揚屋建築意匠を唯一留めている元揚屋・角屋(角屋もてなしの文化美術館)
こま札 島原らしいお茶屋建築意匠を唯一留めているような建物
濡れ縁や格子や簾がええ感じや〜ヾ(≧▽≦)ノ
置屋・輪違屋(現在も、お茶屋として営業中につき非公開) 地図
知恵の輪のような輪違屋の屋号紋 濡れ縁や格子がええ感じやな〜(*^▽^*)
島原大門 地図

当時を偲ばせる島原大門脇には用水手桶があり、昔火事があっても門が閉じられたままで大勢の遊女が焼死したことから手桶など用水桶が設置されるようになったと伝える。また大門脇の柳は「見返り柳」と呼ばれ、柳の下には「サラバ垣」と呼ばれる垣根がある。
幕末期、新撰組の壬生屯所に近く隊士らもよく利用しなじみの遊女がいたという。新撰組局長・近藤勇と深雪大夫、総長・山南敬介と天神の明里、副長・土方歳三と東雲大夫などが世に知られる。また置屋・木津屋という名もよく出てくるが正確な場所は限定されていない。

歌舞練場跡 ・・・ 島原大門と見返り柳、常夜灯
島原大門 用水手桶とサラバ垣 解説碑

Tourist 2014.01.20&27&02.03(M)

 

☆参考資料:比叡を歩く、比叡山延暦寺、比叡山、比叡山歴史の散歩道、滋賀県の歴史散歩道・上下巻、京阪ウォーキングマップ『大津・坂本編』、Wikipedia、他

 

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