千代の古道(ふるみち)嵯峨の里散策

 

嵯峨の山 みゆき絶えにし 芹川の 千代の古道 跡はありけり   (後撰集) 行平 朝臣

 

梅宮大社〜広沢池〜大沢池、大覚寺〜嵐山散策

 

嵯峨の里、北嵯峨

嵯峨・・・嵯峨は古来、風光に恵まれ平安遷都後来、当地に閑居する者が多く嵯峨天皇の嵯峨院(大覚寺)を初め貴族の山荘が多く営まれ中でも世に入れず悲憤やる方なくして隠栖した者が多いのが特徴で大覚寺の開祖・恒寂法親王(ごうじゃくほっしんのう)は皇位を継ぐべき人であったにもかかわらず、藤原氏に妨げられ出家されたのを始め兼明(かねあきら)親王、後亀山天皇、祇王、祇女、滝口入道、小督局(こごうのつぼね)など様々な人名が浮かびます。これが為、嵯峨の風光には明るさがなく何となく一抹の心(うら)寂しさが漂っているのは当地が単に山陰となっいるばかりとは言えないとされています。北嵯峨・・・一に上嵯峨ともいい、嵯峨町の北部一帯を称します。広沢池を初め、大沢池、大覚寺、など名所古跡が多く風光明媚な山野と相俟って嵯峨を逍遥するには最も相応しい名所です。北嵯峨は古来、北野とも言い嵯峨天皇は早くから当地に仙洞を営み、しばしば遊猟をされた事が国史に見えます。王朝時代には大宮人は秋の月見に広沢池を訪れ和歌を詠み、詩を賦した観月の地でもありました。

本殿(梅宮大社)

勾玉池(まがたまいけ/梅宮大社神池)

本殿(斎宮神社)

さざれ石(斎宮神社)

広沢池の東にあったとされる千代の古道は、天皇が御所から嵯峨離宮へ行幸された道で、音戸山頂上には「君が代」にも出てくる「さざれ石」があります。現在は京都市の直轄となり立ち入る事が出来ないですが、斎宮神社にも立派な、「さざれ石」があります。

愛宕山(広沢池)

遍照寺山(広沢池)

遍照山は昔、朝原山(ちょうはらやま/千代原山)とも呼ばれ山は円錐形で全山松樹に覆われ、山の中腹に寛朝僧正が座禅に用いた座禅石や天に昇ったという登天松があり広沢池に映る山容も素晴らしいと思います

遍照寺観音堂(観音島)

広沢池観音石仏

広沢池観音石仏は観音島と称される小島にあり高さ1.6mの安山岩製で頭上に十一面の化仏(けぶつ)を表し、両脇に千手をもつ丸彫りの石仏で仏顔は稚気に富み微笑ましいです。背面に寛永18年(1641年)、樋口平太夫が願主となり但称(たんしょう)上人によって造られた銘があるので元、鳴滝の五智山にあった石仏群中の一体を当地に移したとされます。観音島とは、広沢池畔にあった遍照寺の観音堂に因んで名付けられました。

大沢池

心経宝塔(大覚寺)

大沢池石仏群(大覚寺)

菊ノ島と夜泊石(よどまりいし/庭湖石)

名古曽ノ滝跡(大覚寺)

明智陣屋(倉庫、庫裏、伴侍)

緑の山々を表している見事な松(大覚寺)

唐門(勅使門/大覚寺)

渡月橋と小倉山(亀山)、愛宕山

 

高瀬川と酒蔵

恋塚寺

桂川と愛宕山(嵐山サイクリングロード久我橋)

恋塚寺の起源は遠藤武者盛遠(文覚上人)が、上西門院(後白河法皇の姉)に北面の武士(上皇の院御所を守衛する武士)として仕えた。同僚の妻・袈裟御前に横恋慕し、夫・渡辺左衛門尉源渡を殺そうと侵入したが、身代わりとなった袈裟御前を切ってしまった。袈裟御前の首を、付近の池で洗った時、池の水が、まっ赤になったので「赤池」と呼ばれるようになった・・・僧となり文覚と名乗り、赤池の地に墓を作り恋塚と称し一宇を建てたのが当寺の興りと云われています。(古川柳)「女には遠藤武者とあきらめる」(遠藤=縁遠いの意)

三ノ宮社(松尾大社境外摂社)

二の鳥居と拝殿

本殿

梅宮大社

嵯峨天皇の皇后・橘嘉智子(たちばなのかちこ/檀林皇后)がその祖神を祀った氏神社で橘諸兄(たちばんもろえ)の母・県犬飼(あがたのいぬかい)橘三千代が相楽郡井出(綴喜郡井出町)に酒解神(さかとけのかみ)、酒解子神(さかとけこのかみ)を祭神として創祀したのが起こりで平安遷都後、現在地に遷した神で大若子、小若子は伊勢国度会郡より遷した神で何れも橘氏の外家に連なる祖神です。皇室の崇敬も篤く醍醐天皇の御代に定められた延喜式では、名神大社に列し、四度の官幣に預かり二十二社の一となりました。当初、橘氏の氏人が奉幣使となり神主を務めましたが橘氏の哀徴により藤原氏摂関のものが管領して代行しました。本殿には祭神四座、相殿に嵯峨、仁明両天皇、檀林皇后、橘清友(皇后父)を配祀し若宮社には橘諸兄、護王社には橘氏公(うじぎみ/皇后弟)を祀ります。

一の鳥居

二の鳥居

楼門

楼門

拝殿

本殿

またげ石

二個の丸い石で、またぐと子宝に恵まれるとされます。詳しい由来は残念ながら定かではありませんが、社伝によると檀林皇后は皇子のないのを憂い当社に祈願し石をまたぎ皇子(後の仁明天皇)を授かったと伝えられ以来血脈相続の石として信仰されます。皇后は出産に際し当社の白砂をしとねの下に敷いて安産されたというので社頭の白砂を請うて帯襟に帯びる風習もあります。いずれも梅宮の梅を産めに通わしたもので産土神(うぶずながみ)にも付会した伝説石とされます。

手水と奉納酒樽

神饌所とお百度石

またげ石

神泉苑入り口門

勾玉池(まがたまいけ/神池)

茶室「池中亭」

茶室「池中亭」内

歌碑

梅苑

熊野影向石

三石とも言われ紀州熊野より三羽の烏(カラス)が飛来し石に化したとの伝説があり熊野社の神体とされます。

熊野影向石

本殿

鳥居(斎宮神社)

斎宮(さいぐう/いつきのみや)神社

昔、伊勢神宮に奉仕する皇女(斎王)が嵯峨に野宮を建てて精進潔斎をされた有栖川禊ぎの旧跡と伝え本殿には天照大神を祀り古来、厄除開運を祈る信仰、特に婦女子の血の道の守護神として崇敬され毎年の5月初卯の日に大堰川に祭舟を浮かべ華やかな恵方祭が行われます。

本殿(斎宮神社)

ご神木の樹齢300年と伝わるムクノキ

さざれ石

広沢池

周囲約1kmにも及ぶ大池で伝説によると宇多天皇の孫・寛朝僧正が遍照寺を建立する時に開削したとされますが修築拡張を行った池で上古嵯峨野が野沢池であった名残を留める池とされます。秦氏のハダはハリダ(墾田)の約言であるというのもこれに因みます。

愛宕山(広沢池)

遍照寺山(広沢池)

児社(ちごのやしろ)

児社(ちごのやしろ)

寛朝僧正に仕えていた侍童が僧正の没後、広沢池に投身したのでその霊を祀ったと伝わり現在、広沢池裏町一帯の氏神と崇められています。

拝殿、本殿

神石

遍照寺跡

寛朝僧正は早くから当地に広沢山荘を構えていましたが永祚元年(989年)10月、山荘を寺とし遍照寺と号しました。池の畔には釣り殿、月見堂などがあり池中の観音島へ橋を架けたとされかかる大寺でしたが惜しくも早くに荒廃し今は池南に旧名を留めるだけです。

愛宕山

遍照寺観音堂(観音島)

風情のある茅葺家(広沢池畔)

遍照寺山(朝原山:ちょうはらやま/千代原山)

広沢池観音石仏

蓮華峯寺陵

後宇多天皇、亀山天皇皇后信子蓮華峯寺陵とも言い、亀山、後二條天皇、後宇多天皇皇后姈 子内親王も分骨祀されています。

蓮華峯寺陵

嵯峨の里

大沢池

嵯峨天皇が離宮嵯峨院の造営にあたり中国の洞庭湖(どうていこ)を模して造られたところから、庭湖とも呼ばれる日本最古の池泉舟遊式庭園(林や泉水などのある庭園)です。天皇在世の頃は池中に龍頭鷁首(りゅうとうげきしゅ)の舟を浮かべ詩歌管弦遊びが行われました。池中には天神島・菊ケ島と庭湖石があり、この二島一石の配置が華道嵯峨御流の基本型に通じているとされます。池畔には茶室・望雲亭、心経宝塔、石仏、名古曽(なこそ)ノ滝跡などがあり周囲約800mで国指定の名勝地になっています。

茶室望雲亭

村岡碑

大沢池

大沢池石仏群(鎌倉中期)

樹木を背にして二十体ばかりの大小の石仏がズラリと並び中央のに一列に並ぶ七体の石仏が大きく高さ約1.2m前後、花崗岩の自然石を光背形に荒く作り上げ前面に肉厚彫りされている様は壮観です。石仏は向かって右から薬壺を持った薬師、右手を上げた施無畏印、左手を膝上にのべた与願印の釈迦、宝冠を戴き両手を膝上に重ねて法界定印を結ぶ胎蔵界大日、上品上生の定印の弥陀(二体)、少し離れて左手に蓮華を持つ菩薩像が並びます。この内、二つ目の弥陀を除く五体は真言密教の曼荼羅にみる胎蔵界五仏として作られたとされます。左端の菩薩像は観音にも見えますが弥勒像とされます。これらの石仏はいずれも堂々とし顔は平安期の系統を引き継ぎ700余年の星霜を経てかなり風化していますが満月相が残っています。

心経宝塔

天神島

大沢池石仏群(地蔵立像、薬師、施無畏印釈迦)

大覚寺

嵯峨山と号する真言宗大覚寺派の大本山で正しくは旧嵯峨御所大覚寺門跡と称します。元、嵯峨天皇の離宮でしたが貞観18年(876年)、離宮を改め寺となし淳和(じゅんな)天皇の第二皇子の恒寂法親王(ごうじゃくほっしんのう)を開祖として大覚寺と号したのが当寺の起こりです。鎌倉時代に後嵯峨、亀山両天皇も譲位後に当寺に入られたが後宇多法皇が第二十二代門跡となるに及び大いに伽藍造営に務め中興開山され、院政を当寺で執られたので嵯峨御所と呼ばれました。これより後宇多上皇の皇統は大覚寺統(後の南朝)と呼ばれ皇位継承などを巡って後深草上皇の持明院統(後の北朝)と対立、南北朝分立の原因となりました。明徳3年(1392年)南北朝講和となるや亀山天皇は当寺で北朝の後小松天皇に譲位されました。その後も皇室の帰依と武門の信仰により時運変る事なく明治初年に至るまで皇族の法親王が法脈を継がれ今も市中の大寺院とは違った貴族的な雰囲気が境内に漂っています。嵯峨天皇の「般若心経」書写に因んで写経の本山、道場としても知られます。生け花「嵯峨御流」の総司所も大覚寺に設立されています。

大沢池石仏群(与願印の釈迦、胎蔵界大日、定印の弥陀(二体)、)

大沢池石仏群(菩薩像(弥勒像))

嵯峨天皇歌碑

荼毘塚

名古曽(なこそ)ノ滝跡

藤原公任が滝跡を訪ねて「滝の音は 絶えて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ」と詠んで歌の名所となった名古曽の滝跡は旧滝殿(嵯峨院)の邸内に設けられた滝でしたが水は早くに涸れ石組みの一部が残っています。

嵯峨の梅林

菊ノ島と夜泊石(よどまりいし/庭湖石)

名古曽ノ滝跡

心経宝塔

閼伽井

大日堂(左)と聖天堂

明智門、明智陣屋、表門(江戸期:木造切妻造本瓦葺)

明智門と明智陣屋は丹波亀山城(亀岡城/明智光秀居城)の一部と伝え切妻部分を正面とし、そこに瓦葺唐破風造りの差掛屋根を設け玄関とし内部は天井を張らず、大寸丸太で梁組され、西屋根に煙出しが設けられています。表門は門全体を素木造りとし、屋根は切妻造りの四脚門で屋根には鬼瓦を配しています。

明智門

明智陣屋(倉庫、庫裏、伴侍)

表門(山門)

式台玄関(江戸期:木造入母屋造瓦葺)

銅板葺きの唐破風を備え妻飾りは木連格子懸魚附きです。東福門院の女御御所、長局の一部と推定され玄関部屋は「松の間」とよばれ、正面北側の広大な2面の壁貼付を中心として、西側の襖6面、東側襖4面にわたって豪華な金碧画の「松に山鳥図」が描かれています。図様は正面の壁貼付2面に、老松の巨幹が根を張り山鳥のつがいが羽を休めている。松の左右には楓が1本ずつ配され、これが東西両側にも連続し、巨大な老松を主軸とする統一的構図法が雄大豪壮です。寺伝では狩野永徳筆とされ、桃山金碧画のなかで重要な位置を占めるとされます。

緑の山々を表している見事な松

式台玄関と「松の間」

風情ある嵯峨菊と屋根

唐門(勅使門)

愛宕山

嵐山

渡月橋と小倉山(亀山)、愛宕山

JR京都線

宵闇が迫る西山

名神高速のイルミネーション

Tourist  2004.11.08(M)

 

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