|
|
|
酒蔵 |
旧奈良鉄道の鉄橋橋脚跡(レンガ部分) |
大石良雄(内蔵助)ゆかりの撞木町遊郭跡 |
|
|
|
色づく琵琶湖疏水右岸を北上・・・ |
|
|
|
新幹線、JR琵琶湖線 |
花街・宮川町 |
|
|
|
花街・宮川町 |
白川のせせらぎ |
|
|
|
吉井勇の歌碑 |
稲荷社のように見えますが、狐ではなく狸を祀った辰巳大明神
(@_@;) |
|
|
|
巽橋(たつみばし) |
風情がある祇園の町並み |
琵琶湖疏水 |
|
|
|
・・・ |
平安神宮道の大鳥居 |
白川 |
|
|
|
・・・ |
琵琶湖疏水の噴水と動物園 |
カメハメハ〜(^^ゞ
巨大な輝き |
南禅寺、三門(重要文化財:江戸期) |
南禅寺・・・臨済宗南禅寺派の大本山で正式には瑞龍山太平興国南禅禅寺と号します。文永元年(1264年)、亀山上皇が母・大宮院の御所として造営した離宮禅林寺殿を正応4年(1291年)、離宮を大明国師(無関普門)に寄進し禅林禅寺としたのが開基と伝え、建武元年(1334年)、後醍醐天皇は大徳寺と当寺を五山(天竜寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺)の上位に列しました。中世には叡山の僧徒の焼き討ちや応仁の兵火に焼亡し廃絶に帰せんとしたが豊臣秀吉、徳川家康の庇護により復興に及びました。家康の厚い信任を得た塔中・金地院の住持・以心崇伝(いしんすうでん)に負うところが大きく多くの文化財を今に伝えます。三門・・・寛永5年(1628年)、藤堂高虎が寄進した巨大な楼門で天下の大盗賊の石川五右衛門が住まいしたと伝えますが三門は石川五右衛門の死後、約30年後に建てられました。 |
|
|
|
南禅寺 |
歌舞伎・石川五右衛門の「絶景かな、絶景かな〜」で有名な三門(重文:江戸期) |
|
|
|
・・・ |
えぇなぁ〜
(*^▽^*) |
|
|
|
・・・ |
仏堂(本堂) |
えぇなぁ〜
(@^▽^@) |
南禅寺水道橋(水路閣) |
明治22年(1889年)、蹴上に発電所が建設され明治24年(1891年)に送電を開始しました。明治31年(1908年)、水力発電の増強、水道用水確保の為に第2琵琶湖疎水の工事が始まり、明治35年(1912年)に完成しました。同時期に蹴上浄水場も建設され赤レンガのアーチ型の水道橋は、橋上部に疎水分線が流れ上水道の水源として利用されています。 |
|
|
|
南禅寺水道橋(水路閣) |
|
|
|
最勝院 |
|
|
|
本堂 |
奥の院、駒ヶ滝へ・・・ |
狛僧正(道智僧正)の祠 |
|
|
|
「神仙佳境」と呼ばれる幽邃な場所にある狛僧正(道智僧正)の祠 |
行場の駒ヶ滝 |
|
|
|
岩窟内に安置されている将軍地蔵菩薩、厳島社 |
|
|
|
大文字山へ進撃開始o(*^▽^*)o |
爪形観世音菩薩 |
・・・ |
|
|
|
・・・ |
・・・ |
激坂を一気に歩破してハーフタイム(^^ゞ |
|
|
|
速歩で進撃再開!(; ̄ー ̄A |
京都一周トレイル標識・東山42(現在位置) |
・・・ |
|
|
|
京都一周トレイル標識・東山43-1(現在位置) |
・・・ |
・・・ |
|
|
|
・・・ |
京都一周トレイル標識・東山44-2(現在位置) |
・・・ |
|
|
|
京都一周トレイル標識・東山45(現在位置) |
大文字山・三角点、火床へ・・・ |
大文字山三等三角点:465.44m/点名:鹿ケ谷 |
如意ヶ嶽(大文字山:466m) |
左京区浄土町、鹿ケ谷町の東に聳える東山の首峰。東山三十六峰の北端に位置し海抜・466m、北は比叡山・四明ヶ嶽に相対し東は滋賀の大津・長等山に接する。『諸社根元記』によると「天照大明神が天の岩戸から出られるや、その光が当山に差し渡ったので、八百万神々は悦び給うて、皆意の如くなるとの給もうてより如意山と名付けた。」と伝える。山の大部分は古生代に属する岩石で形成され熊笹なとが一面に繁茂している。山頂からの眺望は京洛随一とも称され、足下に京都市街を見下ろし北は比叡山の大嶽、南は山科、醍醐の山々の稜線を一望できる。この山を一に大文字山と称するのは、毎年の8月16日夜に当山の中腹で精霊の送り火を転ずるからである。 |
|
|
|
三角点の展望台からの眺望\(●⌒∇⌒●)/
ヤッホ〜 |
大文字送り火 |
盂蘭盆会の行事の一で、元は7月16日に行われた。起源については諸説があり定かでなく、昔、この山麓にあった浄土寺が炎上した時、本尊・阿弥陀如来が山頂に飛び上がって、大光明を放ったので、以来、盂蘭盆会の精霊送り火を山上に点ずるに至ったと伝える。大の字を選んだのは仏教で大の字は人体を表し、人体の心に潜む七十五法という煩悩性を焼き尽くすという事から大の字に模ったと伝える。また送り火の点火場として如意ヶ嶽が選らばれたのは洛中の何処からも眺められたという事、山麓一帯が葬送地の一であった事が精霊の送り火の行事に相応しかったからと思われる。現存の大文字は、室町時代に時の将軍・足利義政が相国寺の僧・横川景三(おうせんけいざん)に託して復旧させたと伝え、年中行事として行われるようになったのは江戸初期と思われている。規模は、山頂北西部に各3.6m隔てた75の火床よりなり、第一画の長さ81m(45間・19床)、第二画の160m(88間・29床)、第三画の138m(68間・27床)という大規模なものです。点火に当たっては、浄土寺町の有志の人々などの奉仕により、16日午後から一束三貫目の松割木五百束を山上に持ち運び、火床の上に井桁に組んで点火します。大きな大の火炎文字が夏の夜空に燃え上がる様は壮観の極みです。大文字の送り火は、精霊の送り火だけでなく、悪疫平癒、王城鎮護を祈願する宗教行事でもあり古来、これに付随して色々な俗信が行われた。丸盆に水または、酒を注いで送り火を映し飲むと中風に罹らないとか、当日、松割木(護摩木)に自分の名前と年齢を書いて山上の火床の松割木と共に焚くと厄除けになるとも言われる。その消し炭は疾病除け、盗難除けなどにご利益があると言われる。大文字と同じく松ヶ崎の「妙法」、西加茂の「舟」、衣笠大北山の「左大文字」、奥嵯峨の「鳥居」の送り火も点火され、正しくは大文字五山の送り火と言う。 |
|
|
|
・・・ |
大文字の火床(第二画最上部) |
|
|
|
大文字の最上部からの眺望\(●⌒∇⌒●)/
ヤッホ〜 |
|
|
|
大文字の中心の火床は金尾(かなわ:第一画、二画、三画の交点)と言います。 |
斎場所 |
千人塚 |
太平洋戦争の終戦直前、陸軍が大文字山々腹近くで塹壕(穴)を掘ってい.る時に、人骨の入った多くの骨壺を発見。地元の人々が改めて埋葬し、千人塚碑を建て供養しました。これは、天文19年(1550年)に足利義輝が山頂に城(中尾山城)を築き、三好、松永軍が戦って戦死した兵の遺骨と思われています。あまりの遺骨の多さに千人塚と名付けられたとも伝える。 |
|
|
|
作業用リフト |
戦で戦死した多くの兵の遺骨を埋葬した千人塚 |
こま札 |
|
|
|
・・・ |
銀閣寺側の登山口 |
湧き水(中尾山城・篭城用水源)ゲット! |
|
|
|
行者の森 |
世界文化遺産・慈照寺(銀閣寺) |
哲学の道 |
|
|
|
・・・ |
・・・ |
・・・ |
|
|
|
永観堂 |
南禅寺で待機したキララくんと再会!(0
^〜^)ノ |
Tourist.2009.11.9(M) |