深草山探訪

 

われもまた 落ち葉のうえに 寝ころびて 羅漢の群に 入りぬべきかな 吉井 勇

 

悟真寺〜撞木町遊郭跡〜瑞光寺(元政庵)宝塔寺〜七面山〜石峰寺〜稲荷山(稲荷大社)〜藤森神社

 

鳥羽伏見の戦い、旧幕軍(会津藩)戦死者の埋骨地がある悟真寺

鳥羽伏見の戦いで戦死した幕軍(会津藩)戦死者53人の埋骨地があり「戊辰之役東軍戦死者之碑」は、榎本武揚によるもので掘られた二ヶ所の大穴に戦死者を9人と44人に分けて埋葬されたと伝えます。

濠川と酒蔵 悟真寺 戊辰之役東軍戦死者埋骨地之碑
榎本武揚による戊辰之役東軍戦死者之碑 境内
戦死した会津藩士(兵)埋骨地
旧奈良鉄道の鉄橋橋脚跡(レンガ部分) 大石良雄(内蔵助)ゆかりの撞木町遊郭跡
撞木町遊郭跡碑 琵琶湖疏水・墨染発電所付近・・昔、疎水、濠川間をインクラインで船を上げ下ろしていた。
疎水右岸を北上ing・・・
・・・ 茶碗子の水 解説
瑞光寺(元政庵:極楽寺の薬師堂跡)

極楽寺の薬師堂跡と伝わり、明暦年間に元政上人が草庵を建て、父母と共に住し深草山瑞光寺と号した。竹薮を背にした萱葺屋根の本堂と山門は深草一風情があると言われています。この石標は元政の旧跡瑞光寺を示すものである。元政(1623〜68年)は、彦根藩士であったが出家、詩人として有名になりました。元政の墓は境内西隅にあり、遺命により塔を建てず封土の上に元政が好んだ竹を三本(一本は法華経の為、一本は両親の為、一本は人々の苦悩を救う為と伝えます。)立てただけの簡素なものです。毎年3月18日に元政忌が行われ遺品が公開されます。元政上人は戒律と孝道に努められた人で、その孝心は古人の句にも「元政の母のあんまやきりぎりす」と称される程に有名でした。水戸光圀が元政の親孝行と清楚な人柄を知って、「嗚呼孝子元政之墓」という墓碑を建てることを申し出ましたが、時の住職は遺志を尊重してそれを辞退したと伝えられています。元政上人の墓所にて年齢の数を回り酒、タバコ、病気、男女関係等の悪縁を切ってもらう「縁切り」信仰もあります。

瑞光寺 えぇなぁ〜(*^▽^*)
茅葺の庵の風情を醸し出している。・・・ 白瀧大弁財天・帝釈天王
三十番神祠(番神塚(藤原塚)跡) JR奈良線で分断されている。 水戸光圀による「嗚呼孝子元政之墓」墓碑
宝塔寺(ほうとうじ)

縁起は藤原氏の極楽寺に迄遡り、源氏物語にも登場する真言律宗の寺院ででしたが突如として、法華宗(日蓮宗)に改宗したと伝わります。徳治2年(1307年)日蓮の法孫日像は、京都で布教中に洛外へ追放されました。その時、真言寺(向日市)において、時の極楽寺住職・良桂と三日三晩の宗論を行い、良桂が屈服し極楽寺を法華道場に改めました。そして日像を開山とし、自らは二世となりました。室町時代の四脚門の総門(重要文化財:室町期)、本堂(京都府指定文化財:桃山期)、多宝塔(重要文化財:室町期)は文化財を有します。

元政の墓所 宝塔寺総門(四脚門:重要文化財:室町期)
極楽寺礎石(平安期) 極楽寺開創1100年記念石像 参道
日像荼毘処 (深信院、本久院、了性院)廃寺跡 仁王門
仁王門に復元された牡丹の天井画 本堂(重要文化財:桃山期) 多宝塔(重要文化財:室町期)
境内 慈母観音像 えぇなぁ〜(*^▽^*)
七面山へ・・・ ・・・ 日像上人廟
七面社 たつみのお滝場(行場)
・・・ 伏見桃山城遠望 ・・・
石峰寺の五百羅漢めぐりを裏から・・・(^▽^;) 里山らしい風情 京都市深草墓園
えぇなぁ〜(*^▽^*)
・・・ ・・・ キララくん(*^-^*)
石峰寺

百丈山と号し黄檗宗の寺院で、薬師如来を本尊とします。平安中期の武将・源満仲が摂津多田郷に建立した石峰寺が起源と伝わります。正徳3年(1713年)、黄檗宗・万福寺の六世・千呆(せんかい)によって建立された禅道場です。江戸中期、創建時は諸堂も有する大寺院でしたが、大正15年(1915年)、昭和54年(1979年)に失火、現在は本堂、竜宮造りの赤門などを残すのみです。現在の本堂は昭和60年(1985年)の再建です。本堂背後の山中には多くの石仏が並び、釈迦の誕生〜涅槃(ねはん)に至るまでの一代を表現し諸菩薩、羅漢を一山に安置しています。長年の風雨を得て丸み、苔寂びて風化に伴う表情や姿態に一段と趣きを深めています。これらは、江戸中期の画家・伊藤若沖(じゃくちゅう)が石峰寺の七代住職・蜜山(みつざん)の協力を得て下絵を描き、6〜7年余の歳月をかけて石工に彫作させたと伝えます。

石峰寺 こま札 伏見俯瞰@赤門
赤門(竜宮造り) 鈴鹿野風呂の歌碑
・・・ 本堂と本尊・薬師如来像 伊藤若沖墓所で撮影ing
六体地蔵尊 歯痛封じに霊験があるという「ぬりこべ地蔵尊」 珍しい和合?チュッチュッ狐?(^▽^;)
伏見稲荷大社

欽明天皇が即位(531年又は539年)される前の事について「日本書紀」では次のように書かれています。稲荷大神のご鎮座は秦(はたの)伊呂巨(具)(いろこ(ぐ))によって和銅4年(711年)2月初午の日に、なったと伝えられており秦大津父と伊呂巨(具)との200年足らずの脈絡についてはほとんど不明です。太秦の秦氏族は、記録上では大宝元年(701年)、桂川畔にそびえる松尾山に松尾神を奉鎮、深草の秦氏族は、和銅4年(711年)、稲荷山三ケ峰の平らな処に稲荷神を奉鎮し、山城盆地を中心にして御神威赫々たる大神があたかも鼎立する結果となりました・・・一千年前に清少納言も足を運んだと伝えます。

鳥居のトンネル・・・朱の世界へ
千本鳥居は朱の世界
奥社奉拝所(命婦社) 稲荷大神(御神石) ぬば玉の歌碑
神占石・おもかる石 白キツネの奉納絵馬 有名人の名前が・・
・・・ 稲荷神遣いのキツネさん
拝殿 本殿
秀吉が造営した楼門(重文:桃山期)は改修中 伏見稲荷大社神幸道(裏参道) 伏見街道
藤森神社

神社の創建は平安遷都以前に遡り、神功皇后が三韓征伐より凱旋後、この地に纛旗(とうき)と兵器を埋納した事が起こりと伝わります。早良(さわら)親王は天応元年(781年)、蒙古追討にあたり当社に詣で戦勝祈願されたと伝わり、係る伝承などから祭神は神功皇后を初め、武内宿禰(すくね)、素戔嗚尊(すさのおのみこと)、別雷(わけいかづち)神、日本武尊(やまとたけるのみこと)、応神天皇、仁徳天皇、天武天皇、舎人親王、井上内親王、早良(さわら)親王、伊予親王と12柱に及ぶ神々を奉祀しています。祭神の中には怨霊と恐れられた井上内親王、早良親王、伊予親王などの名もあり駈馬、相撲、騎射、猿楽などは御霊会において怨霊を鎮める行事だと伝わります。藤森神社としての社名は室町時代以後で、「真幡寸神社」、「藤尾社」、「塚本社」など諸社を合祀して藤森神社とされました。

旧16師団本部司令部庁舎跡(聖母学院) 藤森神社 近藤勇によって外されたままの鳥居の扁額
駈馬、騎射が行われる参道(馬場) かえし石 割り拝殿
手水 石川五右衛門が盗んだと伝える台石 伏見名水「不二の水井」
旗塚(いちの木さん) 藤森七福神 境内
菊花 本殿 この付近、近藤勇遭難の地と伝えるが・・・
旧京都市電・1800系・・・地域の集会場として綺麗に保存されています。(*^-^*)
寺田屋で襲われた龍馬が匿われた薩摩藩伏見藩邸跡 薩摩藩邸跡碑
濠川 大手筋商店街

風呂屋町商店街

Tourist.2010.11.15(M)

 

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