伏見歴史蹟チャリン覇(その一)

 

朝戸あけて 伏見の里を(に) 眺むれば 霞にむせぶ 宇治の川波 (長秋詠草) 藤原俊成

 

伏見全域歴史蹟チャリチャリ・・・

今回、私企画の伏見探訪ツアーとしてgodzillaさん、クマちゃんの3名で「伏見歴史蹟チャリン覇」を敢行しました。途中で、お約束?のオプショナルツアー??「突撃〜!」もあったりして・・・まっ、良いっか! σ(^◇^;) どもども 伏見は京都市最大の行政区ですが、他に比して歴史蹟遺構が現存しないのは、軍隊の町として再開発されたというのも大きな要因と言われます。godzillaさん、クマちゃん、管理人の3名で伏見の歴史蹟を「淀、納所界隈〜羽束師、久我界隈〜下鳥羽、竹田界隈〜大手筋界隈〜桃山界隈〜深草、稲荷界隈〜醍醐、日野界隈〜小栗栖、六地蔵界隈〜向島界隈」に大別して伏見歴史蹟チャリン覇予定でスタートしました。しか〜し、残念ながら伏見全界隈歴史蹟を走覇する事ができず伏見桃山城で時間切れになりました。godzillaさん、クマちゃん、朝〜夕方までのチャリチャリ楽しかったとです・・・ありがとうございました!<m(_ _)m> ガバッ 今、思う事・・・やっぱ、伏見は広い! σ(^◇^;) 『未走覇エリア』を走覇して「伏見歴史蹟チャリン覇」の完成とです・・・

★ 伏見歴史蹟チャリン覇コース

淀、納所(のうそ)、横大路エリア⇒羽束師(はづかし)、久我(こが:くが)エリア⇒下鳥羽、竹田エリア⇒三栖(みす)、大手筋エリア⇒桃山エリア⇒

★『未走覇エリア』 ⇒深草、稲荷エリア⇒小栗栖(おぐりす)エリア⇒醍醐、日野エリア⇒六地蔵エリア⇒向島(観月橋界隈)エリア

淀、納所(のうそ)、横大路エリア
唐人雁木(とうじんがんぎ)旧跡

雁木とは、雁行形の階段の事で唐人雁木は、江戸時代に李氏朝鮮王から徳川幕府へ派遣した朝鮮通信使が、上陸した船着場の石の階段でした。道路舗装にあたって撤去されました。

羽束師橋(サイクリングロード) 集合場所の宮前橋(サイクリングロード) 唐人雁木旧跡碑
淀小橋旧跡、千両松慰霊碑(新撰組隊士の幽霊伝説)

淀小橋旧跡・・・昔、淀小橋辺りは宇治川が流れており淀小橋〜伏見まで豊臣秀吉が植えた松が見事だった事から「千両松」と呼ばれました。千両松の激戦で敗れた幕府軍は淀小橋を焼き、淀城付近に退却しました。千両松慰霊碑(戊辰役東軍戦死者:新撰組隊士ら)埋骨地・・・慶応4年(1868年)1月5日、土方歳三率いる新撰組ら東軍(幕府軍)と鳥羽方面から攻めてくる西軍(薩長軍)で淀堤上は大激戦となった。最初は、新撰組などの活躍で優勢だったが、砲兵隊や騎兵隊などの援軍で西軍が、盛り返し東軍は、敗退。同盟であった淀城への入城も拒まれた為に淀堤の戦いで東軍は、戦死者が続出。新撰組幹部・井上源三郎、戦死。副長助勤・山崎烝も重傷を負った。(慶応4年(1868年)1月10日、幕府軍々艦・富士山丸で江戸へ向かう途中、死去し和歌山沖で水葬。)・・・千両松には、激戦で戦死した新撰組隊士と幕臣の慰霊碑が、建てられていました。が、競馬場拡張工事の為に小さな碑が削られました。それから事故が多発し毎晩、誠の旗を持った新撰組隊士の幽霊が「元に戻せ!」と現れた・・・工事関係者は、慰霊碑の管理寺・妙教寺に依頼し盛大に供養を行いました。そして工事終了後、元の場所に碑を戻し墓を整備した。以来、幽霊は出没しなくなったと伝えます。・・・当時、西軍の戦死者は、手厚く埋葬されたが東軍の戦死者は、野ざらし状態だったとか。地元のお寺や村人達が、鳥羽伏見の戦いで廃墟と化した住居の廃材などで東軍の戦死者達を火葬し手厚く埋葬したとも伝えます。下鳥羽、淀界隈の寺院などに慰霊碑、塚、墓、埋骨地、記録文書などが多数ある由縁です。

豊臣秀吉の時に架けられた淀小橋旧跡 千両松慰霊碑「戊辰役東軍戦死者埋骨地」 淀川瀬水車跡碑
与杼(淀)神社

豊玉姫命・高皇産霊(たかみむすび)神・速秋津姫(はやあきつ)命を祀る旧郷社で淀界隈における唯一の式内社です。社伝によれば応和年中(961年〜63年)僧・千観内供(せんかんないぐ)が肥前国(佐賀県)佐賀郡河上神(与度日女(よどひめ)神)を勧進したと伝えます。

与杼(淀)神社 参加者の愛車が並んでいるとです・・・ 境内
本殿 淀城跡石垣 稲葉神社(淀城跡公園)
淀城

享保8年(1723年)5月、春日の局(かすがのつぼね:徳川3代将軍・家光の乳母、大奥総取締役)の子孫である稲葉丹後守正知が城主となって〜明治維新迄の百数十年間、稲葉家10万2000石の居城となりました。天正17年(1589年)、豊臣秀吉は、側室・茶々(淀殿)の産所として弟・豊臣秀長の淀城を修築させました。4ヶ月後に長男・鶴丸を出産したが、鶴丸は3歳で病死しました。文禄4年(1595年)、秀吉は淀城を廃して築城中の伏見城へ建物を移し元和9年(1622年)、徳川幕府2代将軍・徳川秀忠は、伏見城を廃城とし松平定綱が淀に新しく築城しました。伏見城天守閣を淀城に移す計画(二条城へ移築)で広大な天守台を築いたが、二条城の天守閣を移築した為に天守台が大き過ぎて天守の四隅に小櫓が急遽設けられました。宝暦6年(1756年)、落雷で天守閣は焼失しました。慶応4年(1868年)1月3日、鳥羽伏見の戦いが始まった時、淀城主・稲葉正邦は板倉勝静と共に老中職で、淀城は幕府軍の重要拠点の一つでした。この時、正邦は江戸にあり城の留守は家老・田辺権太夫が守っていました。1月5日、富ノ森、千両松の戦いで敗走した幕府軍(新撰組、会津、桑名藩など)は体勢を立て直すべく淀城に入ろうとしましたが、家老は薩長軍の要請を受け幕府軍に対して門を閉ざし彼らを城内に入れませんでした。幕府軍(新撰組、会津、桑名藩など)は仕方なく淀小橋、淀大橋を焼き払い橋本へ敗走します。藤堂藩、淀藩の背信が鳥羽伏見の戦敗を決定づけた一要因とされる所以です。淀城は薩長軍に開城しますが、家老・田辺権田夫は幕府軍兵数人が城内に入った責任を取って弟と共に切腹しました。淀君ゆかりの淀城は、この淀城跡公園から北東へ約500m行った妙教寺辺りで淀古城と言われます。

本丸跡石垣(淀城跡公園)
淀城濠

淀城の三等三角点(点名:淀城標高:17.53m)

淀城跡碑
妙教寺(豊臣秀吉、淀の君ゆかりの淀古城跡)

近世の淀城址から北東に500m程行った所に納所(のうそ)という所に妙教寺があります。この付近が淀古城で天正15年(1587年)、豊臣秀吉が、淀城を修築しその妾・浅井氏を住まわせた事で「淀の君」、「淀の女房」とよばれ後に「淀君」ともよばれ淀は、一躍有名になったとか・・・鳥羽伏見の戦いでは、淀の妙教寺界隈(桂川・淀宮前橋界隈)は、桑名藩砲兵隊が陣取っていた為に薩長軍双方の砲弾が飛び交い本堂に命中し貫徹した跡や慰霊碑があります。千両松の戦いで戦死した新撰組副長助勤六番隊々長・井上源三郎の首を甥の井上泰助が埋めたとされる寺院の門前とは当寺ではないかと推察されています。傍らに太平洋戦争の敗戦直後、南方で逃亡した上官の身代わりに処刑された学徒出陣した18歳の京大生(木村久夫)の時世の歌碑もあります。

妙教寺 淀古城跡碑 歌碑(木村久夫)
鳥羽伏見の戦いの慰霊碑(榎本武揚筆) 鳥羽伏見の戦いで砲弾が貫徹した本堂 戊辰役戦場跡碑(元・愛宕茶屋碑)
愛宕茶屋、草津の湊、魚市場跡碑

愛宕茶屋・・・桂川堤防沿いにあった愛宕茶屋は、戊辰戦争の激戦地でした。桂川堤防下にある銀杏の大木の下に「戊辰役東軍戦死者埋骨地」の慰霊碑が建っています。草津の湊、魚市場跡碑・・・下鳥羽は、古くは草津と言い木津、今津とも言われ船で西国に赴く人達の乗船地で道路交通上重要な遺跡地です。延喜元年(901年)、太宰府へ流された菅原道真、「平家物語」によれば保元元年(1156年)、讃岐国(香川県)へ流された崇徳上皇、治承4年(1180年)、厳島神社へ行幸の高倉天皇、建永2年(1207年)、法然上人が讃岐国へ流された時も当地より乗船したと伝わります。又、瀬戸内海の鮮魚などが陸揚げされ都に運ばれた水路、陸路交通の中継地として重要だった河川港でした。魚市場跡碑は、明治10年(1877)まで生魚市場として賑わった横大路魚市場の記念碑で大正8年(1919年)4月、大橋家が的場正三郎の撰文により建てたものです。現在の碑は台風で倒壊した原碑を復元し昭和60年(1985年)に新たに建立されました。

戊辰役東軍戦死者埋骨地(愛宕茶屋跡) 草津の湊、魚市場跡碑 舟のりば(草津の湊)、柳谷観音道標碑
羽束師(はづかし)、久我(こが:くが)エリア
草津の湊(桂川、鴨川合流点) 伏見でも有数だと思う枝垂桜 古川にある新嘉坡(しんかわ)陥落記念碑
菅原道真ゆかりの北向見返天満宮、羽束師(はづかし)神社

北向見返天満宮・・・延喜元年(901年)、菅原道真公の太宰府左遷の際、草津の湊から出発する前に羽束師神社に参拝し北(京)を向いて見返りの場所(別れを惜しんだ)に建立されたのが、北向見返天満宮です。羽束師神社・・・旧羽束師村の産土神で志水、古川、樋爪、菱川地域を氏子とします。創建は、すこぶる古く大宝元年〔701年〕以前からの鎮座と云われています。羽束師は、羽束首(はづかしのおびと)の居住地で一族は、土器を作り石灰を焼いたりする泥部(はつかしべ)の伴造家であった。羽束氏の祖神を祀った神社と言われています。羽束師は元、乙訓郡に属し古くは羽束師郷とも言いました。境内の森が鬱蒼としているだけで歴史の大きさを感じます。

北向見返天満宮 羽束師神社
久我(こが:くが)神社

8世紀末、桓武天皇の長岡京遷都の延暦3年(784年)頃、都の北東の守護神として鎮座されたと云われる。延喜式内社であり京都市でも最古の神社の一つである。一説には「山城国風土記」逸文にいう賀茂氏が「久我の国」に居をすえ、祖神を祀ったのが当社であり、更に鴨川を北上して今の賀茂の地に鎮まったとも伝えます。又、西方から丹塗り矢が当社(玉依比売命)に飛んできて、別雷神が生まれたとも伝えます。尚、境内には「お唐臼(おからうす)」という石臼が奉られています。これを持ち帰った者に祟り、元に戻したと伝えます。

拝殿 本殿 久我神社
森乃そりばし(大井手川) 境内 お唐臼(おからうす)
京都市指定保存樹「クスノキ」 すずめのお宿?σ(^◇^;) 拝殿
神川(かみかわ)神社

神川座住吉神社と称した。 式内社。鴨川村の産土神で元は、住吉神社と云った。文政年間の当社神主古川為猛の『住吉社之略記』によれば、鴨川、桂川の落ち合う瀬の為ため、度々難破船があり、摂津の住吉社の御神霊を勧請したものとされている。

本殿 神川神社 神門(割り拝殿)
本殿 田園風景の中をチャリチャリするとです・・・
道元禅師ゆかりの妙覚山誕生寺

誕生寺は久我家(道元の父・久我通親:みちちか)の旧跡と伝えられ、大正8年(1919年)、47世日置黙仙(ひおきもくせん)禅師によって曹洞宗の祖・道元禅師誕生地といわれる久我(こが:くが)に越前小松荘にあった妙覚寺の本堂を移築した為、安置されている道元御尊像、50世玄透(げんとう)即中禅師木造も全て妙覚寺のままです。昭和63年(1988年)11月、本堂や庫裡などが、完成し伽藍の整備もされました。

曹洞宗々祖・道元禅師ゆかりの妙覚山誕生寺
道元禅師産湯の井戸 ブッタカヤの仏足跡(水琴窟) 道元禅師幼少像
菱妻(ひしづま)神社

旧久我村の産土神です。平安時代初期〔永久元年(1113年)〕、鳥羽天皇に久我家の祖右大臣・源雅実が奈良の春日大明神から藤原氏の祖神、天児屋根命を勧請し、源氏の安護神・火止津目大明神として祀られました。広大な神鎮社殿であったが、桂川の大洪水で久寿元年には、菱妻大明神と改められ久我の郷の鎮守、学問運筆上達の神として崇拝されています。

本堂 菱妻神社
下鳥羽、竹田エリア
拝殿 本殿 一念寺(鳥羽大仏)
鳥羽の大石

説明碑によると寛文2年(1662年)5月、京都を中心とした大地震が発生し二条城も大被害を受け城郭、石垣の修理を行ったと古文書に記され当時、この辺りに草津の港があり都へ多くの人や物資が行き交う水陸交通の要所でした。この大石も二条城の城郭石材として瀬戸内の石切り場から水運で当地に運ばれ陸揚げ後、修羅なとに乗せ陸路で二条城へ運ばれる途中、何らかの原因で鴨川に沈み最近まで川底に水没していました。二条城の石を調査したところ城門の飾り石に使用されている石と石質、寸法、くさび跡(矢穴痕)などが、この大石と極似し当時の残石と推定されています

鳥羽伏見の戦の東軍戦死者の慰霊塔(法伝寺) 二条城の城郭石材だった鳥羽の大石
恋塚寺(壇の上跡)

遠藤武者盛遠(文覚上人)が、上西門院(後白河法皇の姉)に北面の武士(上皇の院御所を守衛する武士の事)として仕えた。同僚の妻・袈裟御前に横恋慕し、夫・渡辺左衛門尉源渡を殺そうと侵入したが、身代わりとなった袈裟御前を切ってしまった。袈裟御前の首を付近の池で洗った時、池の水が、まっ赤になったので「赤池」と呼ばれるようになった・・・僧となり文覚と名乗り、赤池の地に墓を作り恋塚と称し一宇を建てたのがこの寺の興りと伝えます。「女には遠藤武者とあきらめる(古川柳:遠藤=縁遠い)」

鳥羽街道筋にある酒蔵 恋塚寺の本堂は建て直し中・・・ 供養塔など
鳥羽離宮跡(鳥羽離宮跡公園:秋の山)、鳥羽伏見の戦

鳥羽離宮跡・・・今の城南宮を中心とし、東は竹田〜西は小枝(鴨川畔)まで、北は名神高速道路〜南は久我橋筋に至る東西1km、南北1.2kmにも及ぶ広大な離宮であったと伝えます。白河上皇(法皇)が平安時代後期の寛治元年(1087年)2月、後院として造営した離宮で都の正南にあたるので一に城南(せいなん)離宮とも言い、地名によって鳥羽殿とも城南寺離宮とも言われました。離宮には、仏殿と寝殿を兼ねた壮麗な建物が「南北八丁、東西六丁、水深八尺」と伝える広大な苑池の畔に造られました。鳥羽天皇も譲位後にここを御座所とされ引き続き多くの仏殿や仏塔を建立されたので池水に映じた有様は、さながら極楽浄土をこの世に現したものだったと伝えます。広大な敷地に南殿、 北殿、泉殿、馬場殿、田中殿などが造られました。その光景は広大な池を有する 庭園、舟が行き交う遊園の地、浄土の地とも言われました。鳥羽伏見の戦い・・・慶応4年(1868年)1月3日、東軍(幕府軍)は小枝橋に陣取る西軍(薩摩軍)に通行を迫るが通さない。その場で朝廷工作の成果報告を待つが、使者は、戻らない。夕刻、東軍は武力突破を宣言した時、秋の山から薩摩軍のアームストロング砲が、火を噴きました。薩摩軍が発砲した一発の砲弾で戊辰戦争の開戦となった「鳥羽伏見の戦い」勃発の地です。鳥羽伏見戦跡碑(鳥羽離宮跡公園:秋の山)は、戊辰戦争の発端となった鳥羽伏見の戦いを記念し、明治45年(1912年)2月、有志によって建立され小牧昌業の撰文、小田得多の筆による碑です。

袈裟御前首塚(恋塚) 鳥羽離宮跡公園 鳥羽伏見の戦勃発の地小枝橋碑
城南宮(鳥羽離宮跡)

神功皇后が、朝鮮半島出兵時の勝利の御旗を奉斎したのが、この神社の由来。後に桓武天皇が、平安遷都にさいし王城の南の守護神とし、さらに後、この地に鳥羽離宮が造営されると離宮に組み込まれました。応仁の乱(1467〜1477年)で離宮は荒廃し城南宮のみが、現在に至る。方除(ほうよけ)の神として信仰されている。伏見名水情報『菊水若水』 ちなみに伏見七名水とは、『石井』『常磐井』『春日井』『白菊井』『苔清水』『竹中清水』『田中清水』とされ七つ井とも言われました。

鳥羽伏見戦跡碑(鳥羽離宮跡公園・秋の山) 鳥羽伏見戦跡碑(旧小枝橋) 城南宮
見事な菊花の展覧会とです・・・ 四季折々の花々が美しい・・・楽水苑(城南宮神苑)
拝殿 本殿
金剛心院塚(後宮塚)、鳥羽離宮田中殿跡、白河天皇成菩提院陵

金剛心院塚・・・金剛心院塚は、後宮塚とも言われ詳細は不明ですが鳥羽離宮遺跡の1つで現在陵墓参考地となっています。鳥羽離宮田中殿跡・・・白河上皇没後、鳥羽上皇も継承し28年間に亘り院政を執りました。当時に建てられたのが田中殿でした。田中殿は皇女・八条院の御所として鳥羽上皇が造営し殿内には御堂(金剛心院・阿弥陀堂)などが附属していました。鳥羽離宮跡は国指定史跡です。白河天皇成菩提院陵・・・当地は藤原季綱(すえつな)の領地でしたが応徳3年(1086年)、季綱が白河天皇に献上し白河天皇が退位後の院として鳥羽離宮を造営しました。白河上皇、鳥羽上皇、後白河上皇の院政の地となりました。平清盛が後白河上皇を鳥羽殿に幽閉し院政は一旦中断し源平の争乱、南北朝の争乱など兵火に遭う事が多く急速に衰退したと伝えます。

金剛心院塚(後宮塚:鳥羽離宮跡) 鳥羽離宮田中殿跡碑 白河天皇成菩提院陵
北向山不動院

鳥羽上皇により大治5年(1130年)に建立された。不動明王像を建立し、王城鎮護(平安京鎮護)を祈願し、北向きに安置したと伝わる。応仁の乱ので焼失し、現在の本堂は、正徳2年(1712年)、東山天皇の旧殿が、移築され、ご本尊は、興教大師作不動明王坐像が、都の南にあたる為に北向きの都を守る寺として播磨国大国庄に寺領千石を賜り、北向きに安置したと伝わる。山門を潜ると東側に千手観音、虚空蔵(こくうぞう)、文殊、普賢菩薩が鎮座しています。

手前〜普賢菩薩、文殊、虚空蔵、千手観音 境内 鳥羽上皇寵愛の松
五輪石塔、鳥羽天皇、鳥羽離宮

五輪石塔・・・五輪の石塔は如法経塚とも云われ鳥羽上皇が如法経を埋めたと伝わります。弘安10年(1287年)の年号が刻まれています。約3mもあり鎌倉時代の五輪塔で重要文化財に指定されています。微かに読める刻字から、阿弥陀信仰によって建立されたと言われています。鳥羽天皇・・・鳥羽上皇となり白河上皇の院政を引き継ぎ ました。 籠妃・美福門院が、生み奉った近衛天皇を3歳で即位させ、一方では後白河天皇を擁立するなど保元の乱因を作った事でも史上有名な天皇です。鳥羽離宮の金剛院別当となった所以から鳥羽僧正とも云われカエルやウサギを人物に見立てた絵巻物「鳥獣戯画」を描いた人として有名ですが戯画に鳥が全く描かれず「鳥羽戯画」が正しいという説もあります。鳥羽離宮・・・鳥羽上皇が三代(崇徳・近衛・後白河天皇の御代28年間)に渡って院政を執り行った離宮としても知られ、貴族から使用人に至るまで宅地が設備され、その様は「あたかも都遷 (みやこうつり)の如し」と記されています。広大な敷地に鳥羽殿と云われた東殿、南殿、北殿、泉殿、馬場殿、田中殿などが造営されました。冠石は保延7年(永治元年:1141年)、鳥羽上皇が法皇になった時この石の下に冠を埋めたと伝えます。上皇が出家されると法皇(法王)と称します

本堂 五輪石塔(重文:鎌倉期) 鳥羽天皇安楽寿院陵
三尊石仏

薬師三尊石仏、釈迦三尊石仏は質素な祠にありますが、平安時代(藤原時代)の作で薬師、釈迦、阿弥陀三尊の3面が江戸時代に出土し松香石で創られています。阿弥陀三尊石仏は京都国立博物館に保管されています。これら石仏には石仏の体を削って水で練り、子供の顔や体に塗るとクサが治癒するという信仰、歯痛治癒の信仰があった為に削られ結構傷んでいます。平癒のお礼に土団子を竹の皮に包み供える風習があったとも伝えます。

冠石(かんむりいし) 鳥羽、白河法皇院政之地碑 三尊石仏(左:薬師三尊石仏、右:釈迦三尊石仏)
竹田御所とも称された安楽寿院(鳥羽離宮跡)

平安京の羅城門(正門)から「鳥羽の造り道(つくりみち:鳥羽街道)」を南進すると当地界隈に出ます。この所以から鳥羽離宮を城南(せいなん)離宮と称したと伝わります。鳥羽離宮として往時を偲べるのが安楽寿院です。安楽寿院は、鳥羽離宮の東殿でしたが、保延3年(1137年)、覚行法親王が寺院に改めました。本尊は鳥羽上皇の念持仏と伝わる阿弥陀如来座像(重要文化財)で本堂、諸塔などは 後世の再建ですが、この本尊だけは台座の 修理銘により平安時代後期、造営当時の 本尊と伝わります。胸に卍が刻まれてある事から「卍の阿弥陀」とも知られています。鳥羽上皇が東殿の境内に建立した御堂など「鳥羽伏見の戦い」時、薩長軍の本営となった寺院です。

左から大師堂(本堂)、阿弥陀堂(旧本堂) 鳥羽離宮シメージ説明碑 近衛天皇安楽寿院南陵(多宝塔:桃山期)
竹田のエンザサンザ(延座参座:道切り)

竹田のエンザサンザは「道切り」と伝える風習です。・・・道切りとは、村落に悪霊などが入れないよう縄を張り、村の境界に注連縄などを飾り結界を標す事を云います。村人の生活拠点である為、安全と清浄を祈願しました。昔は、単に耕地や隣村があるというだけでなく悪霊、祖霊、神仏などの住む他界とも考えられていました。特に悪霊、疫病神は道を伝ってやって来ると考らえ、村境に注連縄などを飾って悪霊防除(結界)を祈願しました。注連縄などで道を区切る事を「道切り」と言います。村境を守る標し(結界)は、悪霊、疫病神の侵入禁止の意味で道祖神、御幣、藁細工、縄を張るなどと伝わります。道切りは結界の意味だけでなく、村中の災いなどを排除し五穀豊穣、村内安全などを祈願したと伝えます。以前は全国的に行われていた風習ですが、現在は数少ない地域にしか伝承されず山科区小山に伝わる「小山(こやま)の山の神(京都市登録無形民俗文化財)」は、縄蛇とも呼ばれ市内では数少ない山の神行事があり藁製の長さ13mに及ぶ縄状の蛇と割竹、樒、松、紙垂を用いた足13個を作り地域内を担いで練り歩き、地域内の音羽川沿いの木に奉納します。現在、「エンザサンザ」は、地元9軒(10名)で作って存続されています。

安楽寿院 竹田のエンザサンザ(道きり)・・・切れてますがな!(>_<)
新高瀬川、七瀬川合流地 新高瀬川、疎水放水路合流地 伏見百景でも有名な酒蔵(新高瀬川)
田中神社

下鳥羽、横大路の産土神として冶暦年間(1065年)、八坂神社より、牛頭天王を勧請し、当初は、上流の鳥羽郷田中に社殿があったが、天正年間(1573〜1591年)、この地に大洪水が発生し現在地に神社の本殿のみが無傷のまま流れ着き村人達は、この奇跡に驚きお祀りしたと伝えます。

田中神社 勝馬像
三栖(みす)、大手筋エリア
五輪さん、梅姫塚

五輪さん・・・鎌倉時代の五輪石塔で昔の武人を葬った場所というだけで単に五輪さんと称する。近年、篤信者が神体化し「山城三好竜神」なる木札を建てて崇拝している。永禄年間当地に津田城を築いた三好左京太夫義継に因果があるかと思われますが不詳です。梅姫塚・・・塚は東面する方形墳で梅の老木と一体石像地蔵尊を安置する。「山城名跡巡行志」第5巻に掲げる蓮如上人の息女・妙勝尼の塚とはすなわち此処を云ったものですが「山城志」に記す「女郎塚」がこれに該当するかは不詳です。三栖付近に現存している唯一の古墳です。現在、残念ながら梅の木が枯れています。

本殿 五輪さん 三栖に唯一現存している古墳・・・梅姫塚
三栖神社

横大路下三栖の産土神で天武天皇を祀るところから天武天皇社、単に三栖ノ宮ともいいます。毎年10月に行われる祭礼では、世に炬火(たいまつ)祭りと称され、直径1m以上もある大炬火1対を作り担ぎ回る慣わしがあります。これは、天武天皇が大津行幸にあたり当地を通過された時に村人が、松明を灯して暗夜を照らしたという伝説によります。

三栖神社 本殿 横大路変電所
三栖閘門(みすこうもん)

伏見を水害から守る為に大正11年(1922年)、宇治川右岸の観月橋〜三栖の堤防工事が始まり宇治川と伏見港が分離されました。昭和4年(1929年)、三栖閘門が建設され、宇治川と濠川との約4.5mの水位差を調整して船を行き来させるようにしました。完成当初から、旅客を乗せた蒸気船や石炭の輸送船など年間2万隻以上が通航していましたが昭和30年代に入り、陸上交通の発達で貨物船による輸送が減少し、昭和37年(1962年)、淀川の船運は皆無となり昭和39年(1964年)、宇治川上流に天ヶ瀬ダムが完成してからは水位が大幅に減少し閘門は、その役目を終えました。

高瀬川、宇治川合流地 三栖閘門(後扉室:宇治川)
 三栖閘門(前扉室:伏見港公園) 伏見港公園 濠川(宇治川派流)
金井戸神社(三栖神社御旅所:加藤清正屋敷跡)

肥後橋の東南、濠川(宇治川派流)の畔にあり天武、応神両帝、伊弉諾(いざなぎ)命を祀る旧村社で通称、三栖神社と呼ばれます。元は、横大路下三栖の三栖神社の御旅所として付近の新中町にありましたが、氏子区域の発展により分離、地名にちなんで金井戸神社と改名しました。神社前の橋を肥後橋というのは、この辺りに虎退治、地震加藤で有名な肥後守・加藤清正の屋敷があった事に因みます。清正は朝鮮出兵(慶長の役)時に石田三成の讒訴により本国に召還された後、蟄居を余儀なくされていた慶長元年(1596年)閏7月13日伏見に大地震が起こりました。清正は蟄居中にも関わらず、手勢300名を率いて秀吉、秀頼父子の警護を務め秀吉は清正の忠義を賞賛して蟄居処分を解いたと伝えます。

金井戸神社(三栖神社お旅所) 本殿 濠川(宇治川派流)遊歩道
角倉了以と高瀬川

角倉了以が開削したのが高瀬川でした。慶長16年(1611年)、工事着手し慶長19年(1614年)、二条から伏見まで全長約10.5km程の運河を開削しました。完成した高瀬川の造りは合理的で、底の浅い高瀬舟(舟底の浅い、浅瀬用の舟)に合わせて浅く作られており、川幅も舟が通れば舟分だけ水位が上がるように計算された幅で作られていました。高瀬川を利用して高瀬舟が運んだものは、米、炭、材木、塩等でした。政治の中心が江戸に移り活気を失っていた伏見の町に活気を復活させました。

角倉了以水利記功碑 濠川、高瀬川合流地 であい橋
御大典記念埋立工事竣工記念碑

今富橋が現在の竹田街道の京橋〜中書島のちょうど中間地点にありましたが、この水路が埋め立てられられました。当時の宇治川の流れは年毎に変化が激しく蓬莱橋の畔辺りには広い空閑地(中州)ができたので夏の夜に納涼相撲なども催されました。昭和3年(1928年)〜5年の年月をかけて柳町一帯の埋立護岸工事が23万2295円の工費をかけて行われ現在の町を形成しています。

宇治川派流遊歩道 御大典記念埋立工事竣工記念碑 寺田屋浜
三十石船(寺田屋浜)
西岸寺(油懸地蔵尊)

昔、大山崎から一人の油商人が油桶をになって西岸寺の門前にさしかかった時に転んでしまい油桶がひっくりかえり油は、ほとんど流れ出てしまいました。大切な油を失った商人が、これも災難とあきらめて気をとり直して桶の底に僅かに残っていた油を地蔵尊にかけて帰りました。その後、商人の商売が繁盛し大金持ちになったという事です。地蔵尊は「油懸地蔵尊」と呼ばれ、この辺りの地名の由来になっています。この地蔵尊は、この鎌倉期に作られたものです。

芭蕉句碑 本堂 電気鉄道(チンチン電車)発祥地の石碑
坂本龍馬ゆかり船宿・寺田屋

伏見の船宿・寺田屋は薩摩藩の定宿でした。文久2年(1862年)、討幕急進派が寺田屋に集まり決起を企てた「寺田屋騒動」は有名です。又、坂本龍馬の定宿で、お龍さんとの恋宿としても知られています。寺田屋の女将・お登勢は大津の船宿・大本重兵衛の次女で、18歳の時に寺田屋伊助に嫁した。伊助は放蕩者で店は女将お登勢が切り盛りし、二人の娘に加え五人の孤児まで養育した。義侠心が強く志士達にも援助を惜しまなかったと伝えます。

坂本龍馬ゆかりの寺田屋 坂本龍馬像と薩摩九烈士(寺田屋騒動)顕彰碑 酒蔵に杉玉
伏見は、「伏水」とも記された銘酒処

伏見は「伏水」とも記され良質の地下水に恵まれ古来、酒造りが盛んで兵庫県の灘と並ぶ二大銘酒処として知られます。文禄3年(1594年)、豊臣秀吉が伏見城を築き淀川を巨椋池から切り離し城の外濠として構築させました。酒蔵の多くは、この濠川に接して建てられ明治の終わり頃まで米、薪炭、樽材などの原材料がこの濠川を上下する十石船で運ばれました。伏見名水情報『伏水:キザクラカッパカントリー』『白菊水:鳥せい本店』『さかみず:月桂冠大倉記念館』

伏見と言えば、やっぱ酒蔵でっす・・・
酒蔵(宇治川派流) 十石舟
長建寺

紅柄塗りの唐模様山門で知られ真言宗醍醐派の寺で東光山と号する。元禄11年(1698年)、時の伏見奉行・建部内匠頭が、中書島を開拓するにあたり深草大亀谷の多聞院を移しその姓の一字をとり長建寺と改めたと伝える。本堂に安置する本尊弁才天は、世に音楽を司る神とし古来花柳界の信仰を集めました。桜と椿の花名所です。伏見名水情報『閼伽(あか)水』

長建寺 境内
弁天型灯篭(伏見奉行・建部内匠頭奉納) 伏見名水「閼伽水:あかすい」、蛙石 本堂
松林院陵(舟戸御所(下御所)跡)

中世、この辺り一帯に御宇多上皇が創建した舟戸御所がありました。宇治川に臨んで船着場があった事から舟戸御所、舟津御所とも言いました。桃陵指月の森にあった伏見殿を上御所と呼ぶのに対して舟戸御所を下御所とも言いました。吉野時代の延文元年(1356年)8月、宇治川の氾濫によって舟戸御所は水没しました。祀られているのは御崇光太上天皇で伏見宮貞成親王です。伏見を大変に気に入られていたので康生2年(1465年)、当地に葬られ陵墓となりました・・・伏見宮家の二代目貞成(さだふさ)親王時に皇子彦仁王が後小松天皇の養子になり弥光天皇後、後花園天皇になりました。伏見宮は家格が上り天皇の補佐的な地位に就きました。この時代の伏見は、伏見宮家の貞成親王の「看聞御記」に深草郷との草刈争、炭山(宇治)との境界争、竹田との水争など近隣との紛争などが記されています。伏見の人々は、伏見庄の荘官であり伏見宮家と深い繋がりを持つ小川氏、三木(そうぎ)氏(現・御香宮々司)などの有力士豪の元、御香宮などに結集して事にあたりました。

松林院陵 桃陵団地(伏見奉行所跡)の歴史碑
伏見奉行所跡、常盤御前拿捕之地

伏見奉行所跡・・・慶長5年(1600年)に設置された徳川幕府の出先機関で伏見町の民政、宇治川の船舶の監督、京都御所や西国大名の監視にあたった。幕末の動乱下では、徳川方の根拠地となり慶応3年(1867年)12月に新撰組が移り、慶応4年(1868年)1月、鳥羽伏見の戦いに薩長軍と激戦を交わしたが、薩摩軍の砲撃により奉行所は焼滅しました。常盤御前拿捕之地・・・平治の乱(1159年)で源義朝が敗死、常盤御前は3人の子供(今若8歳〔阿野全成〕、乙若6歳〔愛智円成、後に義円と改名〕、牛若2歳〔源義経〕)を連れ大和街道を逃げ落ちる時に当地で平清盛の追っ手に捕まったと所と伝えます。源氏の棟梁(義朝)の子を産み、後に平家の棟梁(清盛)の子を産むという波乱万丈な人生を送りました。

伏見奉行所跡 伏見工兵第16大隊跡碑(伏見奉行所跡) 常盤御前拿捕之地碑
鳥羽伏見の戦い

伏見奉行所は慶応3年(1867年)12月16日、新撰組が屯所として布陣したのを始め幕府軍の本営(布陣地)となりました。御香宮神社に薩摩軍が陣取りました。同神社には幕府軍が陣取っていましたが、三木(そうぎ)宮司が退去させ仕方なく幕府軍はすぐ南側の伏見奉行所に入りました。御香宮と伏見奉行所の攻防戦は伏見戦のなかでも最も激戦となりました。3日早朝、薩摩、長州、土佐の各藩兵が御香宮に入り大砲四門を設置、薩摩軍は伏見奉行所が見下ろせる龍運寺にも大砲を据えた。幕府軍は伏見奉行所で軍議を開き、表門は会津藩兵、南北門は伝習兵、新撰組を京町筋に配備する布陣などが決められました。夕刻、鳥羽方面の砲声が合図となり御香宮より大砲が打ち掛けられ、砲撃戦が繰り広げられました。幕府軍の新撰組、会津藩など奮闘しましたが、長州軍の援軍を得た薩摩軍と最新の銃や大砲などの兵器に撃破され体制を整えるべく淀城を目指して退却しました。

京町通りに新撰組が布陣し薩長軍と戦ったが・・・鳥羽伏見戦の弾痕のある窓格子 御香宮の大鳥居(大手筋)
御香宮

貞観4年〔862年〕9月、境内に清泉が、湧き出し四方に水が香り病者はこの水を服用すればたちどころに病気が、完治すると言われました。清泉を神格化した神社の1つです。祭神は、神功皇后および仲哀、応神両天皇とされています。旧伏見町の産土神で古来から信仰されている洛南屈指の大社です。

徳川頼房(水戸藩祖)が寄進した表門(重文:桃山期) 境内 伏見戦跡碑
伏見義民(天明義挙)

伏見義民は天明義挙とも言われ、天明5年(1785年)伏見奉行・小堀政方(まさみち)の悪政に抗議、伏見町民を救わんと死を賭して、直訴をした文珠九助など7名の義挙でした。直訴は成功し小堀政方(まさみち)は失脚、一万余石の大名を失い祖先の名園家・小堀遠州の名を汚しました。

 伏見義民石碑(勝海舟筆) 徳川頼宣が寄進した割拝殿(府指定文化財:桃山期) 常盤御前、牛若ゆかりの常盤井々筒の石橋
桃山エリア
大光明寺(光明、崇高天皇、冶仁親王)陵・・・徳川家康が創立した伏見学校(円光寺)跡

室町時代初期、この辺りに北朝の御願寺として七堂伽藍を完備した大光明寺がありました。文和年間(1352〜55年)、後伏見天皇の皇后・広義門院藤原寧子(やすこ)の発願で夢窓疎石(むそうそせき)を開山し建立された臨済宗の寺であったが応永8年(1401年)、失火で消失しました。伏見城築城時に相国寺に移転し現在は、光明天皇、崇光天皇の陵墓と崇光天皇の孫の治仁(はるひと)親王の陵が東西に並んでいます。この辺りは、徳川家康が慶長6年(1602年)、指月の丘(土俗月光)に「伏見学校(円光寺)」を創立。伏見学校(円光寺)があったとされる月橋禅院の後丘辺りで大光明寺御陵参道〜東北(参道横)辺り。円光寺は、寛文7年(1667年)に一乗寺に移りました。

大光明寺(光明、崇高天皇、冶仁親王)陵
乃木神社

陸軍大将だった乃木希典と妻・静子を祀る神社です。日清戦争では歩兵第一旅団長として参加。日露戦争では第3軍司令官として旅順攻撃をしたが、多くの犠牲者を出し作戦に対する非難が生じたが明治天皇の信任厚く明治40年に学習院院長に任命され明治天皇の大喪には静子婦人とともに殉死。境内に、ロシアのステッセル将軍から贈られたという愛馬「璞号(あらたまごう)」と「寿号」の銅像があり、希典の生家や旅順の第3軍司令部舎も復原されています。

拝殿、本殿 乃木神社 装甲巡洋艦「吾妻」主錨、海軍犠牲者の慰霊碑
学習院院長時代の乃木希典胸像 中国の柳樹房から移築された日露戦争での日本軍第三軍司令部
宝物館、日本軍第三軍の司令部 山口・下関から移築された乃木希典が少年時代に住んでいた家
拝殿 本殿 桃山御陵参道・・・怪しい陰が?!σ(^◇^;) 
明治天皇桃山御陵(伏見城本丸跡)、昭憲皇太后桃山東(伏見城名護屋丸跡)

桃山丘陵の頂に明治天皇陵、昭憲皇太后陵がある。伏見桃山陵は、明治天皇が生前からこの土地(指月丘陵)を大変に気に入られていたとの事で御陵地となりました。明治天皇陵は、伏見城本丸跡を陵墓としたとされ、少し離れて名護屋丸跡には昭憲皇太后御陵があります。明治天皇陵前(四の丸跡)には230段もある石段があり眺望絶景のポイントです。

桃山御陵参道 明治天皇桃山御陵(伏見城本丸跡) 昭憲皇太后桃山東(伏見城名護屋丸跡)
御陵階段上(伏見城四の丸跡)からの眺め なぜか?モスラ号で階段下へチャリチャリ・・・ なぜか?230段の大階段を上るとです・・・
桓武天皇柏原陵

南北朝〜室町時代の争乱などで朝廷の陵墓祭祀が衰退し、桓武天皇陵の所在地が不詳になりました。江戸時代後期の陵墓探索(元禄年間の修陵)では伏見区深草鞍ヶ谷町浄蓮華院境内の谷口古墳(6世紀後半)に決定。又、伏見区深草鞍ヶ谷町の山伏塚古墳(6世紀後半)や同区桃山町遠山の黄金塚2号墳(5世紀)などの古墳を推す説、伏見区深草大亀谷古御香町の古御香宮社(大亀谷陵墓参考地)とする説、豊臣秀吉の伏見城築城で完全に破壊されたとする説など、諸説があります。幕末に、谷森善臣(平種松)が紀伊郡堀内村字三人屋敷(伏見区桃山町永井久太郎)を桓武天皇陵と考定、明治政府に継承され現在に至ります。

桓武天皇柏原陵参道(月見ヶ丘越え) 鎧武者(三成?)の幽霊伝説がある治部池 桓武天皇柏原陵へチャリチャリ・・・
伏見桃山城は姫路城(大天守閣)、彦根城(小天守閣)を模して造られた。

伏見のシンボル的存在の城で昭和34年(1959年)に有志の人々によって建設が着手されました。大天守閣、小天守閣を並べた連結式城郭で鉄筋コンクリート造、大天守閣は姫路城を参考に名古屋城と同規模で小天守閣は彦根城を模して建造され内部外観共に旧伏見城を偲ぶに足るべく城です。当地は旧伏見城の御花畑山荘があった桃山の西北丘陵台地にあり山城盆地を一望できる京洛随一の景勝地でしたが平成15年(2003年)1月31日に閉園され38年間の歴史に幕を下ろしました。天守閣などは運動公園として予定され京都市によって公的保存されています。

桓武天皇柏原陵 今回は・・・伏見桃山城までgodzillaさん、クマちゃん、お疲れ様でした!σ(^◇^;) 伏見は広い!
 伏見城の北濠にできた北堀公園・・・公園に整備される前は水源地でした。 八科峠道標石と車石
清涼院(徳川御三家・尾張大納言義直生家)

徳川御三家筆頭の尾張徳川藩祖の徳川義直は、幼名を五郎太丸と称し、生母お亀の方が住いしたのが清涼院です。お亀の方は、石清水八幡宮神官・志水宗清の娘で家康に見初められて側室となり、この地で五郎太丸を生みました。現在も五郎太町の地名として残っています。

清涼院 車止石
Close up! 木幡山伏見城

平成15年(2003年)1月31日に閉園された伏見桃山城キャッスルランドは運動公園に整備され公的保存が決定しました。公園整備される事前に伏見城本丸の北曲輪(くるわ)跡で古図に大蔵丸:長束正家(ながつかまさいえ)郭、徳善丸:前田玄以(まえだげんい)郭と記される所などで発掘調査が行われ南東側に濠(現、北堀公園など)と出丸などがあり本丸を守る前衛だったと推察されました。伏見城は、豊臣秀吉が文禄元年(1592年)8月に指月(現、桃山泰長老付近)に隠居所として伏見屋敷を構えた事に始まり文禄3年(1594年)、淀城の天守閣、楼を移築し本格的な城郭を造り「伏見指月城」と呼びましたが慶長元年(1596年)閏7月13日、伏見を襲った大地震で倒壊しました。明国からの使者と謁見する予定で整備進行していましたが、秀吉は大急ぎで北東側の木幡山上に新たな城を築き「木幡山伏見城」と呼ばれました。慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦の前哨戦で石田三成率いる西軍の攻撃で灰燼し合戦後、徳川家康によって再建されました。元和元年(1623年)、徳川家光の将軍宣下の儀式を最後に廃城され天守閣など重要な建物は二条城へ移築され部材、石垣、植木に至るまで完全に破壊され他所へ移した事が記されています。後に全山(伏見城跡地)に桃の木が植えられ「桃山」の地名になった事は有名です。

栄枯盛衰・・・伏見桃山城の斜陽三景(伏見城の大蔵丸、徳善丸、御花畑山荘跡地)

Tourist  2005.11.07(M)&14(M)

  

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