伏見歴史蹟チャリン覇(の二)

 

ふかくさや 竹の葉山の 夕霧に 人こそ見えね うづら鳴くなる (続古今) 藤原家隆

 

伏見全域歴史蹟チャリチャリ「深草、稲荷エリア、(番外:東山区)東福寺」

 

伏見・・・伏水から由来

伏見は、桃山丘陵(伏見山)の西方、宇治川に望む洛南屈指の商業都市で上質な伏流水が豊富で酒造りの町、水運の町として知られますが元は山城盆地の湖水の残る低湿地で常に地下水の湧き出るところから「伏水:ふしみ」とも記しました。住民は主に東方の丘陵台地に生活の場を求め、平安時代に橘俊綱が荘厳な山荘(伏見殿)を構えたのが最も早くそれより景勝地、観月の賞地として知られるようになりました。鎌倉時代には時明院統の御所(伏見殿)が造営されて以来皇室御陵となり伏見上皇は当地の風光を愛されしばしば御幸されました。伏見山は全山青松に覆われ一に「松原山」と称され伏見殿は伏見山の南端に位置し宇治川を脚下に望む景勝地にあり宇治川、巨椋池(おぐらいけ/現存せず)の眺望が良く特に河水に映る月の美は桂川、広沢池に劣らず観月の勝地として絶賛されました。伏見が城下町となったのは文禄年間(1592〜96年)に豊臣秀吉が伏見城を築いてからで城は20余年で破却(二条城へ移築)され、跡地に多くの桃が植えられたので一に「桃山」と称されました。

★ 伏見歴史蹟チャリン覇コース

『未走覇エリア』  深草、稲荷エリア⇒小栗栖(おぐりす)エリア⇒醍醐、日野エリア⇒六地蔵エリア⇒向島(観月橋界隈)エリア

 

深草、稲荷エリア
海宝寺(伊達政宗屋敷跡)

文禄3年(1594年)、豊臣秀吉の伏見城築城時、当地に屋敷をかまえた伊達政宗の屋敷跡で、江戸時代中期の享保年間に黄檗宗管長の隠居所として開かれた。本殿脇にある木斛(もっこく)は、政宗の手植えと伝え樹齢は約400年とされる。今も、町名の桃山正宗や、門前の伊達街道などに、数多く残されています。

海宝寺(伊達政宗屋敷跡) 手入れが行き届いた境内
藤森神社

神社の創建は平安遷都以前に遡り、神功皇后が三韓征伐より凱旋後、この地に纛旗(とうき)と兵器を埋納した事が起こりと伝わります。早良(さわら)親王は天応元年(781年)、蒙古追討にあたり当社に詣で戦勝祈願されたと伝わり、係る伝承などから祭神は神功皇后を初め、武内宿禰(すくね)、素戔嗚尊(すさのおのみこと)、別雷(わけいかづち)神、日本武尊(やまとたけるのみこと)、応神天皇、仁徳天皇、天武天皇、舎人親王、井上内親王、早良(さわら)親王、伊予親王と12柱に及ぶ神々を奉祀しています。祭神の中には怨霊と恐れられた井上内親王、早良親王、伊予親王などの名もあり駈馬、相撲、騎射、猿楽などは御霊会において怨霊を鎮める行事だと伝わります。藤森神社としての社名は室町時代以後で、「真幡寸神社」、「藤尾社」、「塚本社」など諸社を合祀して藤森神社とされました。

政宗手植えと伝える銘木・無二の木斛(もっこく) 本堂 藤森神社南参道
伏見義民一揆(天明義民一揆)、蒙古塚、かえし石(力石)

焼塩屋権兵衛碑・・・安永7年(1779年)11月、伏見奉行・小堀和泉守政方(まさみち)は着任後間もなく、その地位を利用して暴政を振舞うになりました。その為に数万もの伏見住民を窮地に陥れる結果となり、こうした町民を救おうと立ち上がったのが町年寄・文珠九助初め焼塩屋權兵衛ら7人の義民でした。彼等は江戸幕府に命がけの直訴に及び悪奉行を失墜させました。奉行罷免後、權兵衛は京都東町奉行所の再吟味による尋問に遭い、遂に天明7年(1788年)11月4日、獄中にて病臥し非業の最後を遂げました。蒙古塚・・・一に「七塚」とも呼び蒙古の将兵の首を埋めた所と云われ神功皇后が兵器を埋納した所とも伝わります。かえし石・・・別に「力石」とも呼ばれ、大・中・小の三つの餅型の石が積まれています。江戸時代より藤森祭の京都所司代巡検時に当社の神人が拝殿より鳥居迄この石を転がす行事があったとか祭りに集まった力自慢が力試しに石を抱き上げたとも伝わります。

焼塩屋権兵衛碑 蒙古塚 かえし石(力石)
拝殿 本殿 ★ 伏見名水情報「不二の水井」
旗塚(いちの木さん)、京都歩兵連隊跡

塚(いちの木さん)・・・旗塚の上に「いちいの木」があり今は枯れた株となっているだけですが、 かっては「いちの木さん」と呼ばれて腰痛などの治癒にご利益があり新撰組局長・近藤勇も 「いちの木さん」を信仰し、足しげく通っていたと伝えます。 旗塚の「旗」は 「秦」につながると云う説もあります。 平安遷都以前に当地を治めていたのは 紀氏一族で産土神(うぶずながみ)として深草山々頂に雷神を祀ていたのが最初で、やがて新羅系渡来人の秦氏の勢力が大きくなり守護神として真幡寸(まはたき) 神社と称するようになり神護景雲年間(767〜769年)頃の事で社地も現在地に定まりました。「旗塚」、纛旗(とうき)の埋納説などは秦氏に因んでの伝説です。京都歩兵連隊跡・・・碑文によると藤の森神社東側の台上は50年にわたり郷土歩兵聯隊が駐屯し10万を越える将兵が苦楽を共にし、生死をを誓い、日夜修身練武に精進した深草兵営の跡であるとされます。

旗塚 京都歩兵連隊跡 旧東海道本線跡(名神高速道路高架下道路)
仁明天皇深草陵

陵は、南面する方墳で周囲に空壕をめぐらし陵上に松樹が茂っています。陵は、後世その所在を失い江戸時代には、諸説粉々、容易に決定できなかったが、安永・天明頃に善福寺の住職が東車塚とよぶ荒墳を発掘、石棺や陶壺に入った乾元大宝の古銭を得た事から深草陵と決定し元治元年〔1864年〕修治されました。

仁明天皇深草陵 陪塚 仁明天皇深草陵
浄蓮華(じょうれんげ)院

天台宗妙法院末寺院で洋風建築の本堂には阿弥陀如来像を安置しています。境内の後に俗に谷口古墳と称する一堆の円墳があり江戸時代の頃、桓武天皇御陵と言われていました。文政4年(1821年)、比叡山の僧・尭覚は有栖川韻仁(つなひと)親王を奉戴して一宇を草創し浄蓮華院と号しました。万延元年(1860年)、その弟子・尭雄は御影殿を建てて天皇の菩提を弔ったが明治になり種々検討された結果、御陵は単なる伝説に過ぎないと判定されましたが未だに桓武天皇御陵地には諸説がありミステリーとされています。又、当院は幕末期に勤皇派の飯田忠彦が隠栖し「野史」291巻を執筆した所であり彼が参考資料を移しとり書きとどめた手記などが当寺に保管されています。

仁明天皇深草陵 浄蓮華院 御影殿

桓武帝陵とされていた谷口古墳(浄蓮華院) 山伏塚跡
瓦町(瓦を焼く里)

宝暦5年(1755年)、瓦町には18軒の瓦屋(師)がありました。中には、秀吉の頃、聚楽第付近から移り住み江戸時代初期まで深草で瓦を焼いたとされ伏見城の金瓦もこの里で焼かれたと伝えます。

瓦屋(師)の窯跡(瓦町) 伏見城の金瓦などを焼いた瓦屋(師)が18軒あったと伝えるも今は1軒のみ
深草十二帝陵(深草北陵)

深草北陵とも呼ばれ、陵内に後深草、伏見、後伏見、後光厳、後円融、後小松、称光、後土御門、後柏原、後奈良、正親町(おほぎまち)、後陽成の12帝、栄仁(よしひと)親王のご遺骨を泰安しています。鎌倉〜桃山時代にかけての天皇で多くの天皇が、1ヶ所に奉葬されたところに当時の皇室の衰退を物語っています。

深草十二帝陵(深草北陵) 嘉祥寺
嘉祥寺(かしょうじ)

嘉祥寺は天台宗の寺院で、本堂に歓喜天、別名は 聖天を祀ることから「深草聖天」とも称され往時は七僧を置き、朝廷の御願を修する寺院であったと伝わり、貞観3年には西の院、清和天皇の御代には嘉祥寺西院でもって貞観寺を建立、その後の光考天皇の頃には五種の塔を建てたと記録が残るほど、南北に500mにも及ぶ境内を有する大きな寺院であったと伝わりますが「応仁の乱」により堂宇は殆どが焼滅し荒廃してしまいました。現在の嘉祥寺は江戸時代の寛文2年(1662年)に、大僧正空心が、安楽行院の再興にあたり、 聖天像を祀る堂宇を建立し、安楽行院嘉祥寺 と号したことに始まります。 境内にある大きな石塔はかっての安楽行院の十二帝供養塔だと伝えます。

十二帝供養塔 本堂 真宗院
真宗(しんじゅ)院

浄土宗西山深草派・根本山と号し、後深草天皇の発願により宝治年間(1247〜1249年)に円空立信によって建立されました。当時の寺領は後の深草北陵も含み後嵯峨上皇から山門、経蔵などが寄進され後深草天皇が亡くなられると境内の法華堂に納骨され深草北陵(十二帝陵)の始まりとなりました。安政7年(1778年)、伏見義民では文殊九助ら36人が真宗院に集まり将軍(幕府)への直訴が決議されました。裏山の墓地には日本初の人体解剖を行い、その成果を「蔵志」として著した山脇東洋の墓所があります。

本堂 日観亭旧跡 近世の解剖学者・山脇東洋の墓所
後深草陵

現在、その所を明らかにせず円空上人廟(真宗院北方)のある丘陵地と伝えます。清和天皇の女御・藤原高子(二条后)の墓所を言い仁明天皇陵の後(北方)にあたるので後深草陵と言われます。一説には、「延喜式」巻21(諸陵寮)に記されている陵の兆域から現在の深草鞍ヶ谷山中とされ今の円空廟の地より更に東の山中にあるのではと推定されています。

御堂 うずらの里 中門
瑞光寺(元政庵:極楽寺の薬師堂跡)

当地は極楽寺の薬師堂跡と伝え、明暦年間に元政上人が草庵を建て、父母と共に住し深草山瑞光寺と号した。竹薮を背にした萱葺屋根の本堂と山門は深草一風情があると言われます。元政の墓は境内西隅にあり、遺命により塔を建てず封土の上に元政が好んだ竹を三本(一本は法華経の為、一本は両親の為、一本は人々の苦悩を救う為と伝えます。)立てただけの簡素なものである。毎年3月18日に元政忌が行われ遺品が公開されます。元政上人は戒律と孝道に努めた人で、その孝心は古人の句にも「元政の母のあんまやきりぎりす」と称される程に有名でした。水戸光圀が元政の親孝行と清楚な人柄を知って、「嗚呼孝子元政之墓」という墓碑を建てることを申し出ましたが、時の住職は遺志を尊重してそれを辞退したと伝えられています。元政上人の墓所にて年齢の数を回り酒、タバコ、病気、男女関係等の悪縁を切ってもらう「縁切り」信仰もあります。

参道 キララと土壁 瑞光寺(元政庵)
風情ある茅葺の山門 境内 本堂
宝塔寺(ほうとうじ)

縁起は藤原氏の極楽寺に迄遡り、源氏物語にも登場する真言律宗の寺院ででしたが突如として、法華宗(日蓮宗)に改宗したと伝わります。徳治2年(1307年)日蓮の法孫日像は、京都で布教中に洛外へ追放されました。その時、真言寺(向日市)において、時の極楽寺住職・良桂と三日三晩の宗論を行い、良桂が屈服し極楽寺を法華道場に改めました。そして日像を開山とし、自らは二世となりました。室町時代の四脚門の総門(重要文化財:室町期)、本堂(京都府指定文化財:桃山期)、多宝塔(重要文化財:室町期)は文化財に指定されています。

元政墓所 宝塔寺 塔頭の紅葉
塔頭の紅葉 日像荼毘処 仁王門
多宝塔(重要文化財室町期)

深草山鶴林院と称する日蓮宗妙顕寺派の寺で境内に日蓮、日朗、日像三代の遺骨を納めた多宝塔が、ある事から宝塔寺と言います。応仁の乱で荒廃しましたが、天正18年〔1590年〕日銀上人によって再興されました。京都市内に現存する最古の多宝塔で重要文化財(室町期)に指定されています。

天井に描かれた牡丹(仁王門) 痔疾快癒祈願信仰がある秋山自雲居士墓 多宝塔(重要文化財:室町期)
本堂(京都府指定文化財:桃山期) 境内 参道からの眺め
茶碗子の水

都のある茶人が使用人の失敗により大変気に入った水に出会えました。それ以降、茶の湯に使用した井戸水で石峰寺門前近くにありますが、現在は、使用されていません。この下方に農家の野菜置き場か洗い場があると思われます。

茶碗子の水井 石峰寺参道 赤門(竜宮造り)
石峰寺

石峰寺は百丈山と号し黄檗宗の寺院で、薬師如来を本尊とします。平安中期の武将源満仲が摂津多田郷に建立した石峰寺が起源と伝えます。正徳3年(1713年)、黄檗宗・万福寺の六世・千呆(せんかい)によって創設されました。江戸中期、創建時は諸堂も有する大寺院でしたが大正15年(1915年)、昭和54年(1979年)に失火、現在は本堂、竜宮造りの赤門などを残すのみです。現在の本堂は昭和60年(1985年)の再建です。本堂背後の山中には多くの石仏が並び、釈迦の誕生から涅槃(ねはん)に至るまでの一代を表現しています。これらは、江戸中期の画家・伊藤若沖(じゃくちゅう)が石峰寺の七代住職・蜜山(みつざん)の協力を得て下絵を描き、6〜7年余の歳月をかけて石工に彫作させたと伝えます。

境内 歌碑 羅漢参道赤門(竜宮造り)
石仏群(五百羅漢)巡り

本堂背後の山中にあり石造釈迦如来像を中心に十大弟子、五百羅漢、禽獣鳥魚(きんじゅうちょうぎょ)などを配し釈迦の誕生〜涅槃(ねはん)迄の一代を表しています。この石仏群は伊藤若沖が下絵を描き作らせたと伝えます。江戸時代の作ですが、その表情はいずれも奇抜軽妙、洒落味があって微笑ましく洛西五智山の石仏と供に京都市石仏群の双璧と称されています。

釈迦誕生 耒迎諸菩薩 出山釈迦
出山釈迦 十八羅漢 説法(釈迦・文殊・普賢)
説法場(釈迦・文殊・普賢) 羅漢参道
托鉢修行
托鉢修行
諸羅漢坐禅窟 羅漢参道 賽(さい)の河原
羅漢参道 釈迦涅槃(ねはん)の場 耒迎諸菩薩
伊藤若沖(じゃくちゅう)

境内に墓地があり墓石表面には「斗米庵若中居士墓」と記しその右には貫名海屋(ぬきなかいをく)の撰文による筆塚があります。若中は江戸時代中期の画家で錦小路の青果問屋「桝屋」の長男として生まれましたが幼少より画を好み、狩野派の画を学び中国の古蹟を真似、光琳の図案風の筆致を取り入れて人物山水花鳥画を描きました。特に鶏画を得意とし絵を求める人は白米一斗を謝礼としたので「斗米庵」と称されました。市井の生活を嫌い晩年は深草に閑居し清貧の中で画筆に親しみ寛政12年(1800年)、9月10日、85歳で没しました。

羅漢参道 卒塔婆石塔 伊藤若沖墓所
参道の紅葉 つるし柿
境内 本尊・薬師如来像 本堂
ぬりこべ地蔵尊

明治3年(1870)の深草村絵図には、この場所は「ヌリコベ墓」と記されており、江戸時代から信仰があったようです。由来は、歯の痛みを封じ込める意味、または土壁で塗り込まれたお堂に祀られていたので、その名になったとも言われます。現在も歯の治癒を願って参詣者は絶えません。

参道からの眺めとです・・・ ぬりこべ地蔵尊
伏見稲荷大社、楼門(重要文化財:桃山期)

伏見稲荷大社・・・欽明天皇が即位(531年又は539年)される前の事について、「日本書紀」では次のように書かれています。稲荷大神のご鎮座は秦(はたの)伊呂巨(具)(いろこ(ぐ))によって和銅4年(711年)2月初午の日に、なったと伝えられており、秦大津父とこの伊呂巨(具)との200年たらずの脈絡についてはほとんど不明です。太秦の秦氏族は、記録の上では大宝元年(701年)、桂川畔にそびえる松尾山に松尾神を奉鎮、深草の秦氏族は、和銅4年(711年)、稲荷山三ケ峰の平らな処に稲荷神を奉鎮し、山城盆地を中心にして、御神威赫々たる大神があたかも鼎立する結果となりました・・・一千年前に清少納言も足を運んだと伝わります。楼門(重要文化財:桃山期)・・・天正17年(1589年)、豊臣秀吉の造営とされています。秀吉の母・大政所の病悩平癒祈願が成就すれば一万石奉加すると記した"大病平癒の願文"が伝来し神社の楼門規模としては最も大きいものに属します。昭和49年(1974年)12月14日に解体修理されました。

伏見稲荷大社表参道 伏見稲荷大社 楼門(重要文化財:桃山期)
本殿(重要文化財:室町期)

応仁2年(1468年)、応仁の乱により、境内の殿舎堂塔の全てが焼亡し、やがて仮殿の復興があったようですが、その後諸国へ勧進が行われ明応8年(1499年)に再建されました。社殿建築としては大型に属し、装飾、特に懸魚の金覆輪や垂木鼻の飾金具、それと前拝に付けられた蟇股等の意匠に安土桃山時代の気風、豪放にして優華な趣があります。

拝殿、本殿 お山詣へテチテチ σ(^◇^;) キララは秘密のアジト?で待機するとです・・・
義経千本桜「鳥居前」の舞台は千本鳥居

歌舞伎演目で特に人気の高い「義経千本桜」二段の口「鳥居前」の鳥居とは稲荷大社の千本鳥居を指しています。主役は義経ではなく滅び行く平家の武将達を描いています。義経が静に形見として「初音の鼓」を与えた後、静を助ける佐藤忠信が登場しますが実は狐が忠信に変化していました。狐(忠信)は鼓の皮に使われた狐の子である事を明かし親を慕う子の心を思った義経は狐に初音の鼓を与えました。

面白いチュッチュ狐像? σ(^◇^;) 鳥居のトンネル 義経千本桜「鳥居前」舞台の千本鳥居
命婦社(みょうぶしゃ:奥の院奉拝所)

本殿の東方、千本鳥居を抜けたお山への上り口、通称「命婦谷」にあり一に「奥の院」の名で知られています。この奥の院奉拝所はお山を遥拝する所で、稲荷山三ケ峰は、この社殿の背後に位置しています。参道は左右二本あってその両側には鳥居が林立し、あたかもトンネルの有様で「千本鳥居」と称され稲荷大社の名勝となっています。

千本鳥居をテチテチ σ(^◇^;) 命婦社(奥の院奉拝所)
おもかる石、膝松さん(根上りの松)

おもかる石・・・灯篭の前で願い事の成就可否を念じて石灯篭の空輪(頭)を持ち上げ、そのときに感じる重さが、自分が予想していたよりも軽ければ願い事が叶い、重ければ叶い難しとする一種の神占石です。膝松さん(根上りの松)・・・枯れた松の根で左右二股になっていて、この木股をくぐると神経痛、腰痛、肩コリなどが治ると言われ奇妙大明神とも言います。

おもかる石 四つ辻、山頂への参道 膝松さん(根上りの松)
★ (番外:東山区)東福寺

臨済宗東福寺派の大本山で慧日山(えにちざん)と号します。平安中期以来、藤原氏の氏寺として栄えていた法性寺(ほっしょうじ)内に延応元年(1239年)、前関白九条道家が仏殿を上棟、奈良・東大寺、興福寺になぞらえて寺名を東福寺とし開山に円爾弁円(えんにべんねん)を迎えました。当初は天台、真言、禅の三宗兼学院でしたが、後に臨済禅寺となり京都五山に列せられました。道家没後も九条、一条家の庇護を受けて仏殿、法堂など多くの伽藍が整備され法性寺を凌ぐ大寺院となりました。その後、応仁の乱や度々の兵火に掛かり荒廃しますが、権門勢家の援助により復興されました。明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)と大火で荒廃しましたが、現在の法堂が竣工したのは昭和9年(1934年)で塔頭25、末寺院370ヶ寺を統括します。国宝の三門は禅宗寺院三門中では日本最古で最大です。

千本鳥居 日本最古の鉄道遺蹟・ランプ小屋 東福寺南門
日下門 三門(国宝・鎌倉期) 仏殿(本堂)
偃月橋(えんげつきょう:重要文化財・桃山期) 紅葉(@偃月橋:えんげつきょう) 紅葉・・・通天橋(@臥雲橋:がうんきょう)
紅葉・・・通天橋(@臥雲橋:がうんきょう) 旧16師団本部司令部庁舎跡(聖母学院)
Tourist 2005.11.21(M)

 

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伏見のご紹介

市電〔伏見・稲荷線〕

 

 

 

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