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坂本龍馬ゆかりの旅籠「寺田屋」 |
柳と酒蔵 |
紫陽花と十石舟 |
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島の弁天さん・長建寺 |
伏見奉行所跡 |
御香宮・大鳥居 |
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御香宮 |
JR奈良線・桃山駅 |
明治天皇御陵参道 |
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桓武天皇御陵へ・・・桓武天皇柏原御陵参道(月見ヶ岡越え) |
鎧武者の亡霊伝説がある治部池 |
桓武天皇柏原御陵 |
桓武天皇は,長岡京を経て延暦13年(794年)に平安京へ遷都。南北朝〜室町時代の争乱などで朝廷の陵墓祭祀が衰退し、桓武天皇陵の所在地が不詳になりました。江戸時代後期の陵墓探索(元禄年間の修陵)では伏見区深草鞍ヶ谷町浄蓮華院境内の谷口古墳(6世紀後半)に決定。又、伏見区深草鞍ヶ谷町の山伏塚古墳(6世紀後半)や同区桃山町遠山の黄金塚2号墳(5世紀)などの古墳を推す説、伏見区深草大亀谷古御香町の古御香宮社(大亀谷陵墓参考地)とする説、豊臣秀吉の伏見城築城で完全に破壊されたとする説など、諸説があります。幕末に、谷森善臣(平種松)が紀伊郡堀内村字三人屋敷(伏見区桃山町永井久太郎)を桓武天皇陵と考定、明治政府に継承され現在に至ります。 |
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桃山城の天守閣の屋根 |
桓武天皇柏原御陵 |
伏見城花畑跡に建てられた伏見桃山城・・・姫路城(大天守閣)、彦根城(小天守閣)を模して造られた?! |
昭和39年(1964年)、伏見城花畑跡に遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」と模擬天守「伏見桃山城」が大天守閣は姫路城、小天守閣は彦根城を模して建設された。平成15年(2003年)1月、伏見桃山城キャッスルランドが、閉園。伏見桃山城は京都市民の運動によって伏見のシンボルとして保存され現在は運動公園として整備されている。京都市が無償で譲り受けたが天守内部は非公開・・・因みに伏見城は、3回も建替えられました。
★『指月山伏見城』
文録元年(1592年)8月、指月の森に豊臣秀吉が自身の隠居所として築城(指月城)。
★『木幡山伏見城』 (創建時である豊臣期、関ヶ原の戦災後に再建された徳川期に二分)
※慶長元年(1596年)、慶長の大地震によって倒壊し慶長5年(1600年)に現在の明治天皇陵付近に再建(木幡山城)。この城も関ヶ原の戦いの前哨戦として炎上。
※慶長11年(1606年)、覇権を握った徳川家康は、伏見城を修復するが寛永2年(1625年)三代将軍・徳川家光により破却され、天守を始め多くの建物が二条城、常寂光寺etc、福山城には、櫓、城門、殿舎、湯殿、多聞櫓、土塀など多くの施設が移築された。 |
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伏見のシンボル・伏見桃山城・・大天守閣(右)と小天守閣の連結式 望楼下に虎の装飾が無くなっている`s(・'・;)
現在、天守閣は耐震工事中 |
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キャッスルランド(遊園地)跡地は、運動公園に整備 |
伏見城の北城堀を利用した北掘り公園 |
乃木神社(勝運・勉学の神) |
陸軍大将だった乃木希典(まれすけ)と妻・静子を祀る神社です。日清戦争では歩兵第一旅団長として参加。日露戦争では第3軍司令官として旅順攻撃をし多くの犠牲者を出し作戦に対する非難が生じたが明治天皇の信任厚く明治40年に学習院院長に任命され明治天皇の大喪には静子婦人とともに殉死。境内に、ロシアのステッセル将軍から贈られたという愛馬「璞号(あらたまごう)」と「寿号」の銅像があり、希典の生家や旅順の第3軍司令部舎も復元されています。 |
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乃木神社へ・・・ |
乃木神社 |
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境内 |
装甲巡洋艦「吾妻」主錨、海軍犠牲者慰霊碑 |
学習院院長時代の乃木希典胸像 |
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日露戦争での日本軍第三軍司令部 |
乃木希典が少年時代に住んでいた家 |
乃木神社創立者・村野山人像 |
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約60年ぶりに復活した伏見名水・勝水 |
山城えびす神社 |
幸せになり鯛?!♪♪v(⌒o⌒)v♪♪ |
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拝殿 |
JR奈良線・みやこ路快速 |
観月橋 |
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平戸樋門と澱川鉄橋(有形文化財:昭和期/宇治川) |
近鉄京都線@宇治川派流 |
京阪・中書島駅 |
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十石舟弁天橋乗船場@宇治川派流 |
伏見の風景T・・・酒蔵 |
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伏見の風景U・・・酒蔵 |
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伏見の風景V・・・酒蔵 |
Tourist
2009.06.22(M) |