ちょっと伏見・宇治自転車ポタ
巨椋(おほくら)の 入江響(とよ)むなり 射部(いめ)びとの 伏見の田井に 雁渡るらし 柿本人麻呂
伏見の船宿・寺田屋は薩摩藩の定宿でした。文久2年(1862年)討幕急進派が寺田屋に集まって、決起を企てた「寺田屋騒動」は有名です。又、坂本龍馬の定宿で、お龍さんとの恋宿としても知られています。慶応2年(1866年)1月21日、龍馬の仲立ちで薩摩藩・西郷隆盛と長州藩・桂小五郎との会談が実現し薩長同盟が締結された。1月24日、坂本龍馬は寺田屋において伏見奉行所の捕吏に襲撃されますが、たまたま入浴中のお龍が気づき裸同然の姿で二階へ急を知らせ、龍馬は短銃を発射してかろうじて逃走しました。お龍は、急ぎ帯刀町(納屋町)〜風呂屋町〜御駕町を走り抜け下板橋を渡り伏見薩摩藩邸へ龍馬の危機を知らせた。その後、濠川沿いの材木小屋に逃げ隠れていた龍馬を下板橋の薩摩藩邸留守居役・大山彦八の差し向けた藩舟に救助された。龍馬の傷は静脈まで傷つく深手で翌日まで出血が止まらなかったと龍馬の手紙にも記されています。龍馬とお龍は1月29日まで伏見薩摩藩邸に滞在し、約1ヶ月後に西郷隆盛らと共に薩摩藩の蒸気船・三邦丸で鹿児島へ向かい、傷の治療を兼ねて霧島温泉に向かった。これが、後に日本で最初の新婚旅行だと言われます。
本名を楢崎 龍(ならさき りょう)というが一般にお龍(おりょう)と呼ばれた。中川宮の侍医であった父が死んで困窮した頃に坂本龍馬と出会い後に妻となる。慶応2年(1866年)1月22日、龍馬と中岡慎太郎の仲介により薩長同盟成立したその翌23日、龍馬は護衛役の長州藩士・三吉慎蔵と寺田屋に投宿していた晩、入浴していたお龍は多数の捕吏に囲まれた事に気付き、咄嗟に袷(あわせ)一枚を羽織って]二階に駆け上がり龍馬と三吉に通報した。お龍の機転により、龍馬と三吉は不意打ちを受けることなく応戦し、負傷しつつも辛うじて脱出できた伏見の寺田屋騒動では彼女の機転により龍馬は危機を脱した。伏見薩摩藩邸へ逃れた龍馬は負傷療養の為、鹿児島の温泉を二人で巡った事は日本初の新婚旅行とされる。龍馬暗殺後は各地を流転し大道商人の西村松兵衛と再婚して西村ツルと名乗る。晩年は落魄し、貧窮の内に66歳で没した。墓碑には夫・西村松兵衛の名ではなく「贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓」と刻まれている。また、龍馬の眠る京都霊山護国神社にも分骨された。
十二支の守り本尊は、千手観音(子)、虚空蔵菩薩(丑、寅)、文殊菩薩(卯)、普賢菩薩(辰、巳)、勢至菩薩(午)、大日如来(未、申)、不動明王(酉)、阿弥陀如来(戌、亥)です。十二支は神様に新年の挨拶に来た順番に動物を割り当てたというもので、牛は足が遅いので早めに行ったものの一番乗りしたのは牛の背中に乗っていた要領のいいねずみ。鶏が猿と犬の間になったのは仲の悪い両者を仲裁したから。挨拶に行く日をねずみは猫に嘘を教えたので猫が十二支に入れなかった。それ以来、猫はねずみを追いかけるようになった。十二支に入れなかったイタチをかわいそうに思った神様は、毎月最初の日を「つイタチ」と呼ぶようになった。また唯一架空動物である龍を実在する動物として『パンダ』に変えるなどという話があったりするらしい・・・マジっすか(@_@;) 自分の守り本尊を拝むことによって運気が上がり無病息災に過ごせるご利益があるといわれる。
『淀川水系「火薬ベルト地帯」弾薬庫群』という旧陸軍の機密文書などで詳細判明した「宇治火薬庫、宇治火薬製造所」が、この引込線の終点と一致する事から、この廃線跡は同施設の引き込み線だと思われます。旧陸軍宇治火薬製造所(火薬庫)遺構だったと思われる辺りに「陸軍省所轄地」と記された石碑が残っており、現在は、「陸上自衛隊宇治駐屯地関西補給処」になっており、施設内には火気厳禁と表示された旧陸軍宇治火薬製造所(火薬庫)遺構と思われる古建物が現存している。
1.2mの超低い京阪電車のガード・・上空じゃなく前方注意でしょ?!(>_<)
宇治市北部に位置する宇治市内最大の木幡池はかつて宇治川中流域に散在していた池群の一つで山科川北側にまでも広がっていましたが、六地蔵駅周辺の開発によって縮小、現在は北池・中池・南池の三つの池で形成されている。北池に堂ノ川が注いでますが湿地帯なので水鳥の姿はほと んど見られませんが、中池と南池には多くの水鳥が生息したり渡来しています。かつて、この辺りには巨椋(おぐら)池という大池があり ました。3つの川の合流地点にあり、現在の木幡池 もその中に含まれていました。しかし、その大部分 が昭和8年(1933年)に干拓され、広大な干拓田となりました。巨椋(おぐら)池の名残として唯一残っているのが、木幡池です。現在は堂の川が流入しており、洪水時に堂ノ川の溢水を貯留する遊水池としての役割も果たしています。
桓武天皇の第三皇子(異説あり)で官位は三品・中務卿、贈一品。大同元年(806年)中務卿兼大宰帥に任ぜられるが翌、大同2年(807年)謀反の首謀者であるとして母・藤原吉子(藤原是公の娘)とともに川原寺に幽閉され、絶食した後毒を飲んで自害した。異母兄・平城天皇の側近であった藤原式家・藤原仲成に操られた藤原宗成に謀られて失脚させられたと伝える(伊予親王の変)。後に親王の無実が判明し、承和6年(839年)に一品が追贈された。一説に伊予国の橘氏や越智氏の祖とされる藤原為世(浮穴四郎)は伊予親王の子であり、嵯峨天皇が勅して皇子に準じられ、藤原の姓を受けたとも伝える。
延宝6年(1678年)、黄檗宗本山万福寺の住職・高泉姓敦(こうぜんせいとん)禅師が御香宮神社・三木(そうぎ)宮司の菩提寺であった永光寺を再興し仏国寺と号しました。後水尾天皇や4代将軍・家綱の尊崇を受け当時は多数の堂塔を有する大寺院であった。現在の本堂は昭和時代の再建である。名園家・小堀遠州の分骨された墓などがあります。
伏見のシンボル的存在の城で昭和34年(1959年)に有志の人々によって建設が着手されました。大天守閣、小天守閣を並べた連結式城郭で鉄筋コンクリート造、大天守閣は姫路城を参考に名古屋城と同規模で小天守閣は彦根城を模して建造され内部外観共に旧伏見城を偲ぶに足るべく城です。当地は旧伏見城の御花畑山荘があった桃山の西北丘陵台地にあり山城盆地を一望できる京洛随一の景勝地でしたが平成15年(2003年)1月31日に閉園され38年間の歴史に幕を下ろしました。天守閣などは運動公園として予定され京都市によって公的保存されています。
南北朝〜室町時代の争乱などで朝廷の陵墓祭祀が衰退し、桓武天皇陵の所在地が不詳になりました。江戸時代後期の陵墓探索(元禄年間の修陵)では伏見区深草鞍ヶ谷町浄蓮華院境内の谷口古墳(6世紀後半)に決定。又、伏見区深草鞍ヶ谷町の山伏塚古墳(6世紀後半)や同区桃山町遠山の黄金塚2号墳(5世紀)などの古墳を推す説、伏見区深草大亀谷古御香町の古御香宮社(大亀谷陵墓参考地)とする説、豊臣秀吉の伏見城築城で完全に破壊されたとする説など、諸説があります。幕末に、谷森善臣(平種松)が紀伊郡堀内村字三人屋敷(伏見区桃山町永井久太郎)を桓武天皇陵と考定、明治政府に継承され現在に至ります。
陸軍大将だった乃木希典(まれすけ)と妻・静子を祀る神社です。日清戦争では歩兵第一旅団長として参加。日露戦争では第3軍司令官として旅順攻撃をし多くの犠牲者を出し作戦に対する非難が生じたが明治天皇の信任厚く明治40年に学習院院長に任命され明治天皇の大喪には静子婦人とともに殉死。境内に、ロシアのステッセル将軍から贈られたという愛馬「璞号(あらたまごう)」と「寿号」の銅像があり、希典の生家や旅順の第3軍司令部舎も復原されています。伏見五福の一・勝運・勉学の神。
国歌・君が代にも出てくるさざれ石
本殿
大手筋商店街
Tourist 2011.09.26(M)
関連サイト
Pちゃんズの古都珍道中記
「伏水物語」2011年伏見探訪コラム