伏見の里道探訪

 

せきかねて 涙のかゝる 唐衣(からころも) のちのかたみに ぬぎぞ替えぬる  三位中将 平重衡(しげひら)

ぬぎかふる 衣も今は 何かせん 今日も限りの 形見と思へば  大納言佐殿(すけどの)

 

桓武天皇柏原御陵〜仏国寺〜鴨長明閑居跡(方丈石)〜法界寺(日野薬師)〜誕生院〜鴨長明閑居跡(方丈石)一言寺

 

桓武天皇

光仁天皇の皇子で初め山部親王(やまのべしんのう)と称しました。宝亀元年(770年)、称徳天皇が逝去し壬申の乱以来続いた天武天皇の皇統は途絶え、新たに天皇に即位したのは、天智天皇の孫にあたる光仁天皇でした。新天皇体制も、皇太子が天皇に早く即位したい為、皇后と共に「呪い」をかけた事件から一変し直ちに二人を幽閉、その地位も剥奪されました。新たに皇太子に擁立されたのが、山部親王、後の桓武天皇です。父は光仁天皇、母の高野新笠は渡来系氏族であった為に当初、山部親王の天皇即位には多くの反対がありましたが、時の実力者であった藤原百川らの推挙で皇太子に擁立され、天応元年(781年)、第50代天皇に即位しました。柏原天皇という別称があります。

ミステリーな桓武天皇柏原陵

桓武天皇は、平城京から長岡京を経て延暦13年(794年)に平安京へ遷都しました。御陵は豊臣秀吉の伏見城築城の際に破却されたなど伝えられているが、現在地は明治時代に治定されたもので御陵地には諸説があるミステリーな御陵です。桓武天皇陵は当初、平安京の西北郊の山城国葛野郡宇太野(現・京都市右京区宇多野辺り)に定められましたが、凶事が相次ぎ、山陵が賀茂神社に近い為の祟りだと天皇陵は山城国紀伊郡(京都市伏見区)柏原山陵に改葬されましたが、南北朝〜室町時代の争乱などで朝廷の陵墓祭祀が衰退し、桓武天皇陵の所在地が不詳になりました。江戸時代後期の陵墓探索(元禄年間の修陵)で伏見区深草鞍ヶ谷町浄蓮華院境内の谷口古墳(6世紀後半)に決定。又、伏見区深草鞍ヶ谷町の山伏塚古墳(6世紀後半)や同区桃山町遠山の黄金塚2号墳(5世紀)などの古墳を推す説、伏見区深草大亀谷古御香町の古御香宮社(大亀谷陵墓参考地)とする説、豊臣秀吉の伏見城築城で完全に破壊されたとする説など、諸説があります。幕末に、谷森善臣(平種松)が紀伊郡堀内村字三人屋敷(伏見区桃山町永井久太郎)を桓武天皇陵と考定、明治政府に継承され現在に至ります。

桃山御陵参道 桓武天皇柏原御陵参道(月見ヶ岡越え) 桓武天皇柏原御陵
伏見桃山城は旧伏見城の御花畑山荘跡地にあり山城盆地を一望できる京洛随一の景勝地でしたが平成15年(2003年)1月31日に閉園された。
仏国寺

延宝6年(1678年)、黄檗宗本山万福寺の住職・高泉姓敦(こうぜんせいとん)禅師が御香宮神社・三木(そうぎ)宮司の菩提寺であった永光寺を再興し仏国寺としたものです後水尾天皇や4代将軍・家綱の尊崇を受け当時は多数の堂塔を有する大寺院であった。現在の本堂は昭和時代の再建である。名園家・小堀遠州の分骨された墓などがあります。

仏国寺 仏殿
境内からの宇治方面の眺めとです・・・ 法華塔 仏国寺開山高泉碑
桃水和尚(とうすいおしょう)墓

桃水は筑後国(福岡県)柳川に生まれ、幼少より曹洞宗の門に入って修行に務めた江戸初期の禅僧です。肥前嶋原の禅林寺の住職になったが寺院生活にあきたらず瓢然として旅に出ました。それより京都に来て乞食の群に入り、一切の物慾を忘れ我利を去り無一物の生活を楽しんだ。よって世の人は乞食桃水と呼びました。ある時、近江大津でワラジを作っていた頃、阿弥陀像を描いた大津絵を贈られたが、それを陋屋(ろうや)の壁に掛け、消し墨で「せまけれど 宿を貸すぞや あみだ殿 後生たのむと おぼしめすなよ」と記しました。晩年、洛北の鷹ヶ峰に住み酢屋道全と称し酢を造って売りました。天和3年(1683年)9月寂、年70余才。生前、黄檗の高泉和尚(こうぜんおしょう)と親交があった事で死後、当地に墓を造ったと伝えます。

桃水和尚墓 八科峠標石と逢坂山の車石 里の秋見っけ!(⌒▽⌒)
伊予親王巨幡(こはた)墓

ここは元、金塚山と呼ぶ西南を正面とする前方後円墳で親王の墓は後円部にあたります。昭和27年(1952年)、府立桃山学園の道路工事中、埴輪円筒を発掘しました。伊予親王は桓武天皇の第三皇子ですが大同2年(807年)10月、謀反を企てたとの理由で捕らえられ母(藤原是公の娘・吉子)と共に川原寺に幽閉され親王位を廃され11月12日、母と共に毒を仰いで自害しました。この事件は妹・薬子を通じて藤原仲成が親王をそそのかした藤原宗成を操って起こした疑獄事件で親王は藤原諸家の勢力争いの犠牲になりました。ちなみに、江戸時代には六地蔵巡りの小野篁に付会して篁の墓と言われました。

伊予親王巨幡(こはた)墓
木幡ノ関跡

木幡ノ関は平安中期以降、旧大和街道の木幡山に設けられた関所で俗に高井戸とも称されました。旧大和街道はここから西北、桃山御陵の北を経て深草清涼庵の伏見北坂に通じ、その間を木幡の関路と呼んだが、豊臣秀吉が伏見築城にあたって通行を禁止し北方に新道を設けたのが今の深草大亀谷を経由する八科峠路(宮谷道、水呑道)です。

木幡ノ関跡(高井戸)あたり 山科川 廃線になった旧国鉄引込み線の橋脚台
萬福寺塔中・法蔵院(墓参り) 鉄眼一切経版木収蔵庫内(江戸期:重文) 霊園からの宇治の眺めとです・・・
親鸞聖人生誕の地・日野

承安3年(1173年)、浄土真宗の開祖・親鸞聖人は、日野の里で生まれました。父は、日野氏一族・皇太后宮大進日野有範(ありのり)卿、母は、清和源氏・八幡太郎義家の孫娘・吉光女(きっこうにょ)であった。当地は代々、藤原北家の一流である日野氏の所領でした。初代・藤原真夏は「ここは、仏法有緑の地である。」という老翁「萓尾の翁」のお告げにより光仁天皇より当地を賜ったと伝わります。7代の孫にあたる藤原資業(すけなり)が別荘を営み、自ら出家して法界寺を建立し日野氏と称するようになった。以来、法界寺には、阿弥陀堂を始め五大堂、三重塔、観音堂、地蔵堂などが次々造営され七堂伽藍に輝く威勢を誇ったが、比叡山を焼き討ちにした織田信長の兵火に焼かれ、往時を偲ばせる現存の建物は、阿弥陀堂のみとなりました。

法蔵院開山塔(江戸期:京都府指定文化財) 火の見櫓とです・・・雨が降りそう?!(>_<) 法界寺山門
法界寺(日野薬師)

真言宗醍醐派に属する法界寺は、日野薬師とも言われ、一般に安産・授乳に霊験のあるお寺として知られています。弘仁13年(822年)、藤原家宗が薬師如来を祀ったのが始まりで、永承6年(1051年)、藤原氏一族、日野資業(ひのすけなり)が薬師堂を建立した寺院で「阿弥陀堂(国宝)」は兵火をかいくぐって残り、藤原時代の遺構として宇治・平等院鳳凰堂、大原三千院・往生極楽院や岩手県・中尊寺金色堂と並び貴重な平安時代の代表的な遺構とされる建物です。本尊の阿弥陀如来坐像も国宝に指定されています。僧によって元旦〜14日間、修正会と称して薬師堂で五穀豊穣、天下大平を祈願し結願の1月14日の夜、群参の内、精進潔斎した青少年、壮年の信徒が二組に分かれ、褌姿で水をかぶり身を清め、両手を上げて合掌しながら「頂礼ちょうらい頂礼ちょうらい」と連呼しながら踊ります。踊りに用いれられた下帯(褌)は、妊婦の腹帯として用いる信仰もあります。当夜は、牛王串(ごおうぐし)の御守が授与され、かす汁の振る舞いもあります。

山門からの法界寺境内 阿弥陀堂 本堂(薬師堂)
誕生院

本願寺第20代・広如宗主の文政11年(1828年)9月、宗主・親鸞聖人の誕生地である日野を顕彰して1つの堂宇が建てられたのが日野誕生院の始まりです。親鸞聖人の父・日野有範(ありのり)卿に因んで有範堂とも宝物堂とも言われた。前代の本如宗主は、宗主の顕彰に熱意を示し、学僧に当地の調査をさせたり、日野家の菩提寺・法界寺との交渉をしました。文久2年(1862年)、講持の為、京都の同行の間に日野誕生講が結ばれました。第21代宗主・明如は、明治11年(1878年)、堂宇を日野別堂と改名、大正12年(1923年)、立教開宗700年記念の慶讃法要が営まれたのを契機に堂宇の一大改宗が計画され第23代宗主・勝如の昭和3年(1928年)5月、着工。昭和6年(1931年)5月、本堂が完成し落慶法要が営まれました。この時に、日野誕生院と改名され現在に至ります。

日野誕生院 親鸞聖人の誕生之地碑 親鸞聖人童形の像(発心の像)
誕生院本堂の回廊
産湯の井戸、胞衣(えな)塚

親鸞聖人の誕生時に産湯に使われた閼伽井(あかい)の水で「産湯の井戸」と伝えます。聖人の「えな」(胞衣:胎児を包む膜と胎盤)を埋納したという胞衣塚(えなづか)もあります。

親鸞聖人産湯の井戸、胞衣塚(えなづか) 産湯の井戸 胞衣塚(えなづか)
日野家廟所

誕生院の北東傍に日野家の墓所があり日野家の先祖である真夏卿、有範卿、吉光女(きっこうにょ)などの五輪塔婆が並んでいます。

日野家廟所
鴨長明閑居跡(方丈石)

口碑によると鴨長明が方一丈(3m余り)の小庵を営み「方丈記」を著わした場所と伝えます。長明は元加茂社の神官として和歌、琵琶に優れました。後鳥羽院に認められ和歌所の寄人になったが父祖の後を継いで神官になる事を望んだが果たせず年50の元久元年(1204年)出家し、洛北大原に隠棲しました。平安末期〜鎌倉初期の激しい変革期の中で幾多の天災地異を体験し自分の不遇、貴族社会の没落を併せて世の無常を痛感し建暦元年(1211年)、日野の外山に移り草庵を結び、「方丈記」を著しました。この地にある事、5年におよび建保4年(1216年)、64歳で没しました。

あまりの急坂なので門柵に立てかけたキララ 方丈石(閑居跡)を目指して急坂の山道をテチテチ・・・
方丈石(閑居跡)は、3m四方の巨岩とです・・・思っていた以上にデカイ!
方丈石(閑居跡)碑 急坂な山道を下るとです・・・ ゲゲッ!桜が咲いてます!!
なんとも言えない棚田の風情とです・・・
萱尾(かやお)神社

大己貴命(大国主命:おおくにぬしのみこと)を祭神とする日野の産土神で法界寺の北東に位置し江戸時代まで法界寺の鎮守社でした。現在の本殿は法界寺坊中、在所年寄、近住の氏子などによって慶安5年(1652年)に再建されその後も屋根葺き替えや彩色などの修繕が繰り替えされた事が当社所蔵の多数の棟札に記されています。建物は大賀だの一間社流造で醍醐寺清滝宮本殿(重文)に相通じる雰囲気があります。本殿の建築年代がはっきりしており造営後の修繕に関しても明らかで近世日野の建築活動を知る上で貴重とされます。

萱尾神社 拝殿 本殿
従三位平重衝(しげひら)卿墓

平清盛の五男三位中将・平重衝は、一の谷の合戦で捕らわれ文治元年(1185年)6月、大津〜醍醐路を経て大和に向かう途中、日野へ立ち寄り北の方(妻)と今生の別れを惜しんだ。同年6月23日、大和・木津河原で処刑され遺骸は当地に埋葬されたと伝える。二人が相会した河原を阿以波川(現、合場川)、重衝が別離の情を琴の音に託した所以から琴弾山と称すると伝えます。

従三位平重衝(しげひら)卿墓 一言寺参道 山門
一言寺

千手観音を本尊とする真言宗醍醐寺派の寺で正式には金剛王院と言います。少納言信西の女、阿波内侍が清水寺本尊の霊告によって建立したと伝わる。明治になって「金剛王院」と合併し現在に至っています。本堂には千手観音、不動明王像、阿波内侍像が安置されています。本尊・千手観音菩薩は本堂に安置され、ただ一心に祈ると言下に願いが叶うとされ、一言寺という名の由来になっている。境内に大きなヤマモモの木があり、天然記念物に指定されていて春に見事な花が咲き、6月頃に赤い実をつけます

山門からの日野、小栗栖の眺め 天然記念物・ヤマモモ 本堂
頼政道

摂津源氏の棟梁である源頼政は、平治元年(1159年)、平治の乱では源義朝を裏切り平清盛に加勢し、従三位となり源三位頼政と称した。治承4年(1180年)、以仁王に平家追討の令旨を出させ挙兵したが敗れ、南都に逃れる途中の宇治平等院で自刃しました。この時、醍醐〜宇治に通り抜けた山道を里人は「頼政道」と称しました

頼政道 京阪宇治線 山科川と宇治川合流地
酒蔵

伏見は古来、名水処として酒造りが地場産業となっています。伏見の酒造りが開花したのは安土・桃山時代で豊臣秀吉の伏見城築城時に城下町として大きく栄え酒の需要が高まる中、全国にその名を知られるようになりました。江戸時代には宿場町・港町として水陸交通の要所として発展、酒造家も急増し酒処として益々発展しました。往時に比べ酒蔵も減りましたがこの界隈は往時を偲ぶ事ができます

平戸樋門と澱川鉄橋(宇治川) 酒蔵

Tourist  2005.10.17 (M)

 

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