|
|
|
あまりの急坂なので門柵に立てかけたキララ |
方丈石(閑居跡)を目指して急坂の山道をテチテチ・・・ |
|
|
|
方丈石(閑居跡)は、3m四方の巨岩とです・・・思っていた以上にデカイ! |
|
|
|
方丈石(閑居跡)碑 |
急坂な山道を下るとです・・・ |
ゲゲッ!桜が咲いてます!! |
|
|
|
なんとも言えない棚田の風情とです・・・ |
萱尾(かやお)神社 |
大己貴命(大国主命:おおくにぬしのみこと)を祭神とする日野の産土神で法界寺の北東に位置し江戸時代まで法界寺の鎮守社でした。現在の本殿は法界寺坊中、在所年寄、近住の氏子などによって慶安5年(1652年)に再建されその後も屋根葺き替えや彩色などの修繕が繰り替えされた事が当社所蔵の多数の棟札に記されています。建物は大賀だの一間社流造で醍醐寺清滝宮本殿(重文)に相通じる雰囲気があります。本殿の建築年代がはっきりしており造営後の修繕に関しても明らかで近世日野の建築活動を知る上で貴重とされます。 |
|
|
|
萱尾神社 |
拝殿 |
本殿 |
従三位平重衝(しげひら)卿墓 |
平清盛の五男で三位中将・平重衝は、一の谷の合戦で捕らわれ文治元年(1185年)6月、大津〜醍醐路を経て大和に向かう途中、日野へ立ち寄り北の方(妻)と今生の別れを惜しんだ。同年6月23日、大和・木津河原で処刑され遺骸は当地に埋葬されたと伝える。二人が相会した河原を阿以波川(現、合場川)、重衝が別離の情を琴の音に託した所以から琴弾山と称すると伝えます。 |
|
|
|
従三位平重衝(しげひら)卿墓 |
一言寺参道 |
山門 |
一言寺 |
千手観音を本尊とする真言宗醍醐寺派の寺で正式には金剛王院と言います。少納言信西の女、阿波内侍が清水寺本尊の霊告によって建立したと伝わる。明治になって「金剛王院」と合併し現在に至っています。本堂には千手観音、不動明王像、阿波内侍像が安置されています。本尊・千手観音菩薩は本堂に安置され、ただ一心に祈ると言下に願いが叶うとされ、一言寺という名の由来になっている。境内に大きなヤマモモの木があり、天然記念物に指定されていて春に見事な花が咲き、6月頃に赤い実をつけます。 |
|
|
|
山門からの日野、小栗栖の眺め |
天然記念物・ヤマモモ |
本堂 |
頼政道 |
摂津源氏の棟梁である源頼政は、平治元年(1159年)、平治の乱では源義朝を裏切り平清盛に加勢し、従三位となり源三位頼政と称した。治承4年(1180年)、以仁王に平家追討の令旨を出させて挙兵したが敗れ、南都に逃れる途中の宇治平等院で自刃しました。この時、醍醐〜宇治に通り抜けた山道を里人は「頼政道」と称しました。 |
|
|
|
頼政道 |
京阪宇治線 |
山科川と宇治川合流地 |
酒蔵 |
伏見は古来、名水処として酒造りが地場産業となっています。伏見の酒造りが開花したのは安土・桃山時代で豊臣秀吉の伏見城築城時に城下町として大きく栄え酒の需要が高まる中、全国にその名を知られるようになりました。江戸時代には宿場町・港町として水陸交通の要所として発展、酒造家も急増し酒処として益々発展しました。往時に比べ酒蔵も減りましたがこの界隈は往時を偲ぶ事ができます。 |
|
|
|
平戸樋門と澱川鉄橋(宇治川) |
酒蔵 |
Tourist
2005.10.17 (M)
|