伏見街道散策

 

旧16師団司令本部庁舎跡(聖母学院)

ランプ小屋

唐門(豊国神社)

大鐘(方広寺)

豊国廟の五輪石塔(豊臣秀吉墓所)

耳塚の五輪石塔

通天橋(東福寺)

三門(東福寺)

伏見街道とは・・・

豊臣秀吉が伏見城(指月城)を築いた文禄年間(1592〜96年)頃、京〜伏見を直結する道として開かれたと伝わり「伏見街道」は別名を「大和街道」とも呼ばれ京〜伏見〜奈良へ向かう九里(約36km)の道程の一部で沿道には著名な社寺、景勝地が多く歴史話題を満載した興味深い街道です。街道の始点は五条大橋東詰めから三筋目南の本町通り〜豊国神社〜東福寺〜稲荷大社〜直違橋(すじかいばし)〜藤森神社〜現在の京阪墨染駅を右(西)へ折れ、墨染桜寺〜欣浄寺〜撞木町遊郭跡(国道24号線)が終点となり、かっての伏見城々下町に入ります。ここから南行する道は「京町通り」と名を変え城下町を南行し豊後橋(宇治川)を経て向島へ入り巨椋池(おぐらいけ)の北東隅の池中の土手を行き道の名前も「大和街道」と変わり奈良へ続いていました。

撞木町遊郭跡

慶長9年(1604年)、渡辺掃部、前原八右衛門の両名により開設されました。伏見の発展と共に元禄期(1688〜1704年)全盛を迎え、元赤穂藩家老・大石良雄(内蔵助)が敵の目を欺く為、この地で遊興した事で知られます。

撞木町遊郭跡

大石良雄遊興の地跡碑

遊郭跡碑

欣浄寺(ごんじょうじ)

深草少将の屋敷跡に欣浄寺(ごんじょうじ)はあり、今は清涼山と号する曹洞宗の寺院ですが寺伝によれば応仁の乱(1467年)迄、真言宗の寺院だったと伝わります。鎌倉時代の寛喜2年(1230年)頃、道元禅師が布教に務めた地とも伝わり曹洞宗では道元禅師ゆかりの地でもあり、「深草閑居の史跡」としての聖地と伝わります。

本堂

深草少将と小野小町塚

墨染桜寺

墨染桜寺

貞観16年(874年)、清和天皇の勅創により豊臣秀吉は当寺に信心厚く、姉瑞竜尼も帰依され、整備されました。平安時代、藤原基経の死を悲しんだ歌人・上野峯雄が歌を献じたところ、桜が薄墨色になったとの伝説により墨染桜寺と名付けられました。

本堂(墨染桜寺)

藤森神社

伏見七名水の不二水

直違橋(すじかいばし)

伏見街道の七瀬川に架かる橋を言います。川が道路を斜めに横切っている為に橋が、道路に斜めに架けられた事から由来しています。

本殿

直違橋(すじかいばし:伏水第四橋) 西岸寺

西岸寺

真宗大谷派の寺院で小御堂とも称します。鎌倉時代の文永5年(1268年)、九条兼実の臣・田村采女正(うねめのしょう)光隆は親鸞上人に帰依し出家して有阿弥(ゆあみ)と称し九条家より小御堂の寄進を受け深草山の西麓に建立したのが当寺の起こりで文永年間に現在地に移ったと伝わります。一説に親鸞上人の御台所・玉日姫(兼実女)は上人が北国へ左還された後も当地で教養を守り、後に屋敷を家臣の田村采女正(うねめのしょう)に譲り、往生したとも伝わります。これに因み本堂には姫の自作と伝える上人の「越前国有乳山越の像:草鞋(わらじ)がけの像」、兼実、姫の像を安置され、境内には姫の墓所があります。

親鸞聖人尊像

本堂

旧16師団司令本部庁舎跡(聖母学院)

国鉄最古の建物・ランプ小屋〔JR・稲荷駅〕

明治12年(1879年)8月18日、京都・稲荷・山科(歓修寺)・大谷間13.1kmが仮営業され、JR稲荷駅の歴史が始まる。翌13年6月28日には逢坂山トンネルが開通し、京都・大津間が、開通。大正10年(1923年)、東山トンネルができ現路線に至るまで東海道線の路線でした。鉄道史の名残が赤煉瓦造りのランプ小屋である。

一本松跡碑

ランプ小屋(国鉄最古の建物)

稲荷大社(裏参道)

田中神社〔稲荷神社境外摂社〕

和泉式部が稲荷に詣で、田中明神附近で時雨にあい困っている時に、田を刈っていた一人の童が、あを(雨具)をかしてくれました。帰りには晴れていたので、そのあをを返しました。その翌日、童が式部のところへ艶文を持って来たのを哀れと思い寝所に招き入れたと言う話が残っています。

伏見人形・丹嘉

田中神社(稲荷神社境外摂社)

伏水第三橋

伏見街道第ニ橋跡

かって伏見街道に架かっていた「ニの橋」が九条跨線橋下の東側に復元されています。石柱に「伏水街道第ニ橋」の字が刻まれています。この橋は、二の橋川に架けられた石橋でしたが、川が暗渠になり撤去されました。伏見街道には4つの石橋が架かっていました。現存するのは三の橋川に掛かる第三橋と七瀬川に架かる第四橋の2つだけです。

塚本社跡

藤森神社の本殿内に合祀されている塚本社の旧鎮座地は、東山区本町通り16丁目で民家の裏側にあります。塚本とは、古墳の下方をいい、広くその付近をいう。古墳を信仰形態化し神として祀ったのが、塚本社です。藤森神社の縁起によれば延暦4年(785年)、廃太子早良親王(さわらしんのう)を崇道天皇と称し塚本の地に斎き祀るとあり当地は早良親王を祀る神社とされますが伝説に過ぎず平安時代に流行った御霊信仰によって崇道天皇を祀ったとされます。後に淡路廃帝(淳仁天皇)、九条廃帝(仲恭天皇)を祀るとも言われたが、いずれも廃太子、廃帝によせた庶民の同情心にかかる伝承を生み出し御霊は後に御陵となり廃帝の御陵と言われ現在、陵墓参考地に指定されています。

塚本社跡

伏水第ニ橋跡

瀧尾神社

「源平盛衰記」にその名を残す事から、創建は平安期とされます。元、洛東聾ノ谷にあり、武鶏(たけう)の社と称され、応仁元年(1467年)に兵火にかかった為に移転し多景(たけ)の社として再建されました。後の天正14年(1586年)、豊臣秀吉が東山に方広寺大仏殿を建立するにあたり、現在地に移されました。宝永年間(1704〜11年)に社殿を修理し、瀧尾神社と改称して今日に至っています。

瀧尾神社

牛若丸所縁の遥向(ようこう)石

本殿

伏水第一橋跡

伏見街道寸断地点(東海道本線、新幹線)

伏見街道を寸断している東海道新幹線

伏見街道を寸断している東海道本線

京都国立博物館

豊国神社

豊国(とよくに)神社

豊臣秀吉を祀り俗に「ほうこく」神社と言われますが正式には「とよくに」神社と言います。慶長3年(1598)8月16日、豊臣秀吉が伏見城で63歳で亡くなると、違命により東山阿弥陀ケ峰の山上に葬られました。当初の豊国神社は、その麓に建てられ、秀吉は後陽成天皇から豊国大明神の神号と正一位を与えられました。豊臣家滅亡後、徳川家康は社殿などを破却し祭祀を絶つ事300年にも及び社は荒れ放題でしたが明治元年(1868年)、豊国神社を再興し、秀吉所縁の方広寺大仏殿の旧地に、現在の社殿を建立しました。唐門は伏見城の遺構と伝え、国宝に指定されています。

拝殿

唐門

鐘楼(方広寺)

大仏殿(方広寺)

豊臣秀吉が天正14年(1586年)、奈良東大寺の大仏殿を模して建立し大仏は奈良の大仏より大きい木造で高さ約19mもあったと伝わりますが、慶長元年(1596年)の大地震で倒壊し、その後再建されるも災厄によって失われ、いまでは大仏も大仏殿もなく残っているのは豊臣家を滅亡させる口実となった大鐘と本堂が残っているだけです。大鐘は家康が秀頼と淀君に勧めて再興させた大仏と共に鋳造されましたが、鐘に刻まれた「国家安康君臣豊楽」の銘が「家康の名を二分し国安らかに豊臣を君として子孫繁栄を楽しむ」意味だと家康に因縁をつけられ大阪冬の陣の開戦原因となりました。鐘内に淀君の幽霊像があり大仏七不思議の一つとされ俗に「淀君恨みの大鐘」とも称されます。

淀君恨みの大鐘

大仏殿跡の石垣

石垣に祀られている石仏

新日吉(いまひえの)神社

後白河上皇の御代の永暦元年(1160年)に創建されたと伝えます。「新日吉」を「いまひえの」と読みます。後白河上皇が法住寺殿を造営するにあたり滋賀県坂本にある日吉山王神社より祭神を勧請したもので元今熊野瓦坂にあったと伝わります。明治31年(1898年)、豊国廟参道改修時に現在地に移されました。

新日吉神社

仁王門

拝殿

豊国廟(豊臣秀吉墓所)

慶長3年(1598年)8月18日、豊臣秀吉は伏見城で63才の生涯を閉じました。遺命により、阿弥陀ケ峰の山上に密に葬られ、廟と社殿が建立されましたが元和元年(1615年)、豊臣氏の滅亡と共に、徳川家康によって廟は破壊されて以来300年もの間、参拝者もなく虚しく風雨にさらされました。明治30年(1897年)、秀吉の300年忌に際し廟宇が再建され、墳上には巨大な五輪石塔が建てられました。明治37年(1904年)、御廟参道入り口の傍らに秀頼の子・国松丸と秀吉の側室・京極竜子(松丸殿)の墓を改葬した五輪石塔があります。

本殿

34段の階段を上ると豊国廟参道です・・・

拝殿

国松丸と松丸殿の墓所

ここから523段ある石段の御廟参道 (;^_^A

まず、313段の石段を登った参道 (;^_^A

更に4段+172段の石段が続きます! (;^_^A大汗!

合計523段の階段を上ると御廟の五輪石塔(豊臣秀吉の墓所) 秀ちゃんを身近に感じます?!(;^_^A 

耳塚

豊臣秀吉の朝鮮出兵に纏わる遺跡で、大陸に派遣された秀吉配下の武将達が、朝鮮の人々を殺し、軍功の証明として首級でなく、死人の耳や鼻をそいで秀吉のもとに送った。その後、秀吉は供養のため一カ所に集め、塚を築いたのがこの耳塚と伝えます。

社殿跡地の太閤坦(だいら)

耳塚

太閤塀と南大門(重要文化財)

妙法院三十三間堂

正式には蓮華王院(国宝)と号し長寛2(1164年)、鳥辺山麓(阿弥陀ヶ峯)の後白河上皇の法住寺殿の一画に平清盛が造進しました。鎌倉期の建長元年(1249年)に焼失しましたが、文永3年(1266年)に再建されました。室町、桃山、江戸、昭和と4度の大修理により700年間保存されています。本堂は和様の入母屋、本瓦葺きの総檜造りで約120mもあり内陣の柱間が33間あるので俗に「三十三間堂」と称されます。これは観音の慈悲が33相に示現するという経旨によったものです。堂内には1001体もの観音像が祀られています。境内の南側に太閤塀と呼ばれる築地塀と南大門は共に豊臣秀吉所縁の桃山期の豪壮に満ちた建造物(重要文化財)です。

三十三間堂

東大門

南大門

新熊野(いまくまの)神社

平安時代末期の永暦元年(1160年)、後白河法皇は平清盛に命じて京都に紀州熊野の神を勧請、新熊野神社を創建させましたが応仁の乱後荒廃しました。熊野本宮の証誠殿と同じ造りになっており京都市の文化財に指定されています。後白河法皇は最も多く熊野詣をした上皇として有名で、熊野の神々に篤い信仰心を傾けていました。新熊野神社の社紋は梛(なぎ)の木に三本足の八咫烏(やたがらす)が描かれ八咫烏は神武天皇の東征の時、熊野から大和への悪路の先導役をしたとされ、旅の安全を守る大鳥と言われています。後白河法皇は社殿の造営に熊野の土砂や材木を使い、神域には那智の浜の小石を敷き詰めるほど熊野に愛着したと伝えます。

新熊野神社

樟龍弁財天

拝殿

夢の浮橋

古の時代、一ノ橋川(今熊野川)に長さ四間(約7.3m)巾二間一尺(約3.8m)の夢の大路橋(浮橋)が架かっていました。鎌倉期の仁治3年(1242年)、四条天皇が没すると東山泉涌寺の寺内に埋葬し、月輪陵を築造し同寺が香華院(こうげいん)となって以来、幾多の葬送の列がこの橋を渡りました。後世にあの世へ通じる橋は渡らない方が良いとされ橋が壊れても改修されず落橋とも呼ばれました。現在は泉涌寺の僧・道円の詠んだ歌「ことはりや 夢の浮橋心して 還らぬ御幸 志ばし止めむ」を自然石に刻した石碑があるだけです。

本殿

夢の浮橋跡碑

通天橋(臥雲橋より)

東福寺

臨済宗東福寺派の大本山で慧日山(えにちざん)と号します。平安中期以来、藤原氏の氏寺として栄えていた法性寺(ほっしょうじ)内に延応元年(1239年)、前関白九条道家が仏殿を上棟、奈良・東大寺、興福寺になぞらえて寺名を東福寺とし開山に円爾弁円(えんにべんねん)を迎えました。当初は天台、真言、禅の三宗兼学院でしたが後に臨済禅寺となり京都五山に列せられました。道家没後も九条、一条家の庇護を受けて仏殿、法堂など多くの伽藍が整備され法性寺を凌ぐ大寺院となりました。その後、応仁の乱や度々の兵火に掛かり荒廃しますが権門勢家の援助により復興されました。明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)と大火でも荒廃しますが現在の法堂が竣工したのは昭和9年(1934年)で塔頭25、末寺院370ヶ寺を統括します。国宝の三門は日本最古で最大です

方丈

偃月橋(重要文化財・桃山期)

三門(国宝・鎌倉期)

仏殿(本堂)

往時の東司の様子絵

東司(とうす:重要文化財・室町期)

禅僧の便所で、百雪隠(せっちん)とも言います。室町時代唯一の東司の遺構として貴重なもので、桁行七間(約35m)、梁間四間(14m)、一重切妻造の建造物で化粧屋根裏の廂、鏡天井、正背面の切妻飾りは身舎が二重虹梁大瓶束となっており古い禅宗様式です。禅僧は用便も修行であり、東司へ行くにも厳しい作法が定められていました。

東司内部の便壺

東司

禅堂

Tourist  2004.9.13(M)

 

戻る 2004年伏見探訪コラム

 

inserted by FC2 system