花の御所、花の乱遺構『洛中、洛外図』探訪ウォーキング

 

舟岡の 若菜摘みつゝ 君がため 子の日の松の 千代を送らん (家集) 清原元輔

 

船岡山〜西陣〜京都御苑、足利義満が造営した室町殿(花の御所)ウォーキング探訪

 

花の御所『洛中、洛外図』ウォーキング

永和3年(1377年)、足利3代将軍・義満は、柳原、北小路、烏丸、室町に囲まれた場所に室町殿(花の御所)を造営しました。室町通側を正面としたので「室町殿」、「室町御所」とも呼ばれ、室町幕府と呼ばれる由来となりました。康暦元年(1379年)、その北の花亭と呼ばれた邸宅に移りました。鴨川の水を引き、花がたくさん植えられた庭園の美しさから両邸宅を合わせて「花の御所」と呼ばれました。三条坊門万里小路(さんじょうぼうもんまでのこうじ:柳馬場通御池(やなぎのばんばどおりおいけ)にあった南の三条御所(三条坊門殿)と交互に用いられ、足利8代将軍・義政まで将軍邸となりました。明徳3年(1392)、南北両朝の統一に伴い、それまで北朝の皇居であった東洞院土御門殿が内裏となりました。これが現在の京都御所の前身です。公武政庁が現在の上京区東北部に集まり、武家屋敷や公家邸がこの近辺に軒を並べ、特に「花の御所」周辺は一色、細川、畠山などの有力守護大名が邸宅を構えました。室町時代〜戦国時代へ推移する契機となった「応仁の乱」も守護大名の権力争いから始まりました。室町時代末期の京都の様子を描いたと伝える「洛中洛外図」には、これらの邸宅だけでなく多くの寺院、町屋の様子が描かれ活気溢れた京の都を垣間見る事ができます。

室町幕府(洛中風俗図屏風上杉本:上杉博物館蔵)

花の御所(洛中風俗図屏風上杉本:上杉博物館蔵)

細川邸(洛中風俗図屏風上杉本:上杉博物館蔵)

大徳寺

竜宝山(りゅうほうざん)と号する臨済宗大徳寺派の大本山で洛陽十刹の随一として名高く世に知られています。当寺は夢窓国師と並んで南北朝時代に禅林の双璧と謳われた大燈国師妙超が、元応元年(1391年)に赤松則村の帰依を受け雲林院の故地に一宇を建立したのが起こりで、後醍醐天皇は「本朝無双之禅地」辰翰を与えて祈願所となし給い、南禅寺と並んで禅宗五山の上位に列せられました。しかし建武の中興の覇業ならずして世は、足利氏の時代となるや室町幕府の保護するところとならず、足利義満が五山十刹制を定めるに及んで十刹の第九位に寺格を下げられました。永享3年(1431年)には、五山十刹の位を辞し幕府の庇護を受ける天龍寺、相国寺などの五山派に対して在野的な立場をとり世に言う林下の中枢として当代禅界に独自の立場を占め、詩文や学問に傾倒し俗世化した五山派の禅風に対し座禅本位の禅風にメ揚しました。その後、応仁・文明の乱に焼失し一時、寺運は哀徴したが一休禅師が堺の富裕な商人の支持を得て復興に努め、安土桃山時代には、秀吉が織田信長の葬儀を当寺で行い、山内に総見院を建てて菩提を弔い、生母(大政所)の為に天瑞院を営み、寺領を寄進するなど大いに当寺を庇護したので寺運は隆昌に赴きました。江戸時代にも幕府や諸大名の外護を受け、諸堂も多く、この頃に完備し洛北随一の巨刹になりました。明治維新後は、塔頭の大部を廃絶に帰しました。寺地は、北大路通に面して東西800m、南北500mに至る広大な地を占め境内中央に勅使門、三門、仏殿、法堂が南北一直線に建ち、法堂後方に寝堂、方丈、庫裡の一廓があり、浴室、経蔵、鐘楼などはそれらの東側に配置する典型的な禅宗伽藍で北方及び西方に又、多くの塔頭子院を擁し書院、方丈、茶室、庭園、襖絵などに東山時代〜桃山、江戸時代に亘る多くの文化財を有します。

81系統「京都駅」@竹田街道大手筋バス停 205系統「北大路車庫」@京都駅バス停 大徳寺総門
能登の国守・畠山修理太夫義孝が豊後の大友、周防の大内氏と建立した竜源院 武将・小早川隆景が建立した黄梅院
黄梅院 足利満詮(みつあきら:法号・養徳院)が創建した養徳院
南門 竜光院 林院
利休七哲の一、細川忠興(三斎)が父・藤孝(幽斎)の為に建立し細川ガラシャ(忠興正妻で明智光秀娘の玉)の墓もある高桐院(こうどういん)
近衛家廟 豊臣秀吉が織田信長の菩提を弔う為に創建した総見院(織田信長廟所)
鐘楼(重文:桃山期)
千躰地蔵塚 平康頼塔(鎌倉期) 勅使門(重文:桃山期)
豊臣秀吉の忌諱に触れ千利休を死に至らしめた利休像を安置する「三門(重文:桃山期)」

五間三戸、重層、入母屋造、本瓦葺の唐様建築で左右に山廊を有します。連歌師宗長が一休禅師に帰依し大永6年(1526年)に建立したもので初層のみ完成し中断していたのを天正17年(1589年)、茶人・千利休によって上層を完成し、禅寺三門の内で東福寺三門に次いで古いと伝えます。上層には釈迦三尊、十六羅漢及び千利休像を安置しますが、この利休像は豊臣秀吉の忌諱に触れ、利休を死に至らしめたと伝え利休の死後、久しく岡山の池田候に移されていたのを明治21年、再び三門に安置されました。天井及び柱の雲竜図は長谷川等伯が51才の時の作です。

利休が自像を安置した三門(重文:桃山期) 仏殿(重文:江戸期) 本尊・釈迦如来像@仏殿
狩野元信筆による仏殿の天井画「天人散華」 三玄院(石田三成墓所)
法堂(重文:江戸期) 前田家(前田利家、まつ)菩提寺の芳春院
六角近江守政頼が建立した塔頭の一で開山は、政頼の子・古岳宗且和尚で大徳寺北派の本庵である大仙院
本堂(国宝:室町期) 一休禅師を開祖とする大徳寺塔頭随一とされる特別寺の真珠庵
今宮神社

府社で祭神は、大国主命、事代主命、稲田姫命及び傍らに素盞鳴命を祀ります。上古、京都の民衆が疫病を攘う為に疫神を祀ったのが起こりで「続日本記」によると宝亀元年(770年)6月、疫神を京都の四隅に祀らしめられた事が記されます。平安遷都以来、各地から人々が上洛し都市生活が確立されるにつれて災厄や伝染病も多くなり民衆は自衛上、祇園の社(八坂神社)や神泉苑に疫神を祀って御霊会を営なみました。当社もその一で一条天皇の正暦5年(994年)6月、天下に疫病が流行った時、朝廷では木工寮修理職をして神輿を作り疫神を船岡山に祀って御霊会を行い終わって難波の海に流した事が「日本記略」に記されます。長保3年(1001年)5月、再び疫神の示現があったので現在の地に神殿三宇を造営し、勅使を差遣して東遊走馬を奉り大いに御霊会を営みました。これを今宮祭、紫野御霊会とも言います。その後も疫病は、しばしば猛威をふるって都の人々を苦しめたのでその都度、朝野を挙げて御霊会が修せられました。現在の本殿は明治35年の再建で左にある摂社・疫神社は本社遷座以前よりの鎮座と伝え素盞鳴命を祀り末社・織姫神社は氏子の西陣の機業家が祀ったもので万幡豊秋津姫を祭神とします。斎院は、若宮社とも言い加茂斎院に因んで祀られた思われます。その他、多数の末社、絵馬舎、社務所、参集所があり、古社たる風格を備えています。古来、上下の崇敬も篤く、中世の兵乱の際にも今宮祭は絶えずに続けられ今日に至っています。4月の第2日曜には、疫神社の疫神を鎮める「やすらい祭」が営まれ、鬼を従えた行列が「やすらい花や」と囃しながら踊り花で飾った風流傘も参加し傘の中に入れば1年間、病気に罹らないと言われます。

楼門 拝殿 織姫神社
疫神社 本殿 阿保賢(あほかし)堂
叩くと怒る石?今宮の奇石「阿保賢さん」 「阿保賢さん」の説明 東門
平安京のランドマーク(基点)、応仁、永正戦乱の船岡山

大徳寺の西南に横たわる一丘陵で東西200m、南北100m、高さ120m程ですが、全山松樹に蔽われ山頂からの眺望は、絶景です。山形が船を俯むけた様に見えるので船岡山と言われますが、実際は一向に似ていません。山の東側を古来、犂ヶ鼻(からすきがはな)と言います。「からすき」とは、農具の鋤(すき)を言ったもので、ここの地形が、から犂(すき)に似ているからとも言われますが地名付会説とされます。船岡とは昔、山の東麓に大池があり山の東麓が岬のように池中に突き出て、あたかも海湖に浮かんだ大船に似ていたからで「からすき」は唐崎の転訛で鼻は端(はた)の意と思われます。淳和天皇の離宮紫野院(雲林院)は、この池を取り入れたもので後に梶井宮御所の苑池にもなりました。清少納言をして「岡は船岡」と言わしめたが、古来、清浄地として祭祀を修された所です。貞観元年(859年)、陰陽寮に命じて五穀を喰い荒らす害虫を攘う祭を当地で行われた事が「三代実録」に記され今宮神社の疫神も初めは、船岡山に祀られました。船岡山は平安中期頃から同末期に至る160余年間、葬地であったが中世における兵乱期には、要害の地ともなり、しばしば山の争奪戦が行われ一に船岡城と言われました。応仁の乱では山名宗全は逸早くこの山に城砦を築いて清蔵口(新町鞍馬口)を握する東軍を牽制しました。応仁2年(1468年)9月、東軍の将・細川勝元は、丹波守護代・内藤備前守元貞をして嵯峨方面より西軍を攻撃したが、同時に安富香川の一隊をして芝野薬師(大宮五辻)、安居院口(あぐいぐち:大宮寺の内)へ、又、山名是豊、薬師寺与一、浦上美作守則宗などの一隊は船岡山に打向わしめ、以って西軍を挟撃しようと計りましたが西軍の反撃を喰らって丹波勢は大江山(老ノ坂)に退却したが船岡山は背後の攻撃により落城しました。「応仁記」によると東軍の将・浦上美作守則宗の一兵卒の一若という足軽は僅か5、60人の手兵と共に船岡山の背後に忍び寄り城壁を飛び越え、石築地を飛び上がり敵陣の片脇に火をかけたので守護防戦にあたっていた西軍・一色勢は大いに驚き後退し守将・小鴨安芸守は戦死したと伝えます。これより40年後の永正8年(1511年)、再び当山の争奪戦が起こりました。船岡山から大徳寺、今宮一帯に布陣する足利義澄、細川澄元の一万騎の軍勢と丹波より長坂口を経て京都へ攻め寄せた足利義稙を擁する大内義興、細川高国などの軍勢三万騎が、船岡山を中心に戦い激戦の末、細川澄元軍は三千余人の戦死者を出して敗退しました。この合戦は、足利官領・細川政元の養子・澄元と高国の2人が惣領制を巡って争った事で起こり、加えて前将軍・足利義稙と義澄の内紛も絡み澄元は足利義澄を擁し、高国は足利義稙を擁して永正4年(1507年)以来、両軍が争いました。建勲神社背後山中に深さ一、二間内外の長い溝のような堀りくぼんだ所があり応仁、永正時代の塹壕跡、陣屋跡とも伝えますが定かではありません。天正10年(1582年)6月、織田信長が本能寺に倒れるや豊臣秀吉は同年10月、大徳寺に総見院を建立し盛大な葬儀を営みました。次いで、船岡山を古渓和尚に寄進し山上に天王寺を建立し信長の菩提を弔らわんとしたが実現しませんでした。それより後、山の大半は大徳寺領となり現在に至ったが、昭和6年(1931年)、京都市の都市計画により当山に公園を設け船岡山公園と称しました。平安京の北の基点で、北方の守護神・玄武にも擬され、この山から真っ直ぐに南に朱雀大路(千本通)が造られたと思われています。

東参道と「あぶり餅」 今宮神社一の鳥居 船岡山公園北口
「応仁永正戦跡」石碑 山道沿いには、幾多の石仏が祀られていまつ・・・戦乱供養?葬地の名残??
線彫りの石仏「弘法大師爪彫の像 この辺り船岡山城跡
船岡山山道からの洛北の眺望・・・吹雪いていまつ。。。寒うぅぅ〜
顕彰碑、歌碑 船岡山々頂

船岡山三等三角点(標高:111.89m)

磐座(いわくら)と平安京造営時のランドマーク(基準点)と思われる船岡山々頂からの市内の眺望 石碑
建勲神社(たていさおじんじゃ)

織田信長は、永禄、天正の戦乱に大義を唱え皇威を回復し皇居を造営し朝儀を再興したので明治天皇は、その業績を追賞し社殿を創建しました。初め、羽州天童藩主・織田氏邸内にあったが、明治13年(1880年)、船岡山の東麓に移し、次いで現在地に遷したもので本殿に織田信長を主神とし子・信忠を配祀ます。社宝に有する銘刀(重文:室町期)一口は、永禄3年(1560年)5月19日、桶狭間で信長に討たれた今川義元の指料(さしりょう)と伝えます。

顕彰碑?風化が激しく文字が読めません?!(>_<) 石仏 建勲神社境内外略図、説明札
織田信長が舞った「敦盛」の一節 遠くに大文字山が見えまつ・・・境内
甲冑を纏った?いかつい狛犬と紅白梅 拝殿 本殿
猫寺(称念寺)

正しくは、称念寺と言い本空山と号します。称念上人が慶長年間に開創した浄土宗知恩院派の寺で寺伝によると三代目住職は猫を愛し、寺が貧乏になっても猫だけは、手放さなかった。その頃、寺と不和になっていた檀家・松平家の姫が亡くなったが、臨終の間際に猫がのり移り「自分が死んだら称念寺で葬式をして欲しい」と遺言しました。それで再び、寺は栄えるようになったが、これは猫の報恩によるものと言われ、以後、寺では猫の霊を厚く守護し、本堂前の老松は猫を偲んで植えたものとされ、因んで猫寺と言いいます。

「史跡 船岡山」石碑 建勲神社南参道 猫寺(称念寺)
本堂 猫が伏せている様に見えるので猫松 京都市考古資料館・・・休館日!(>_<)
応仁の乱

嘉吉元年(1441年)、足利6代将軍・義教が播磨守護・赤松満祐(みちすけ)に殺害され(嘉吉の変)、幕府体制が揺らぎ始め、7代将軍・義勝の病死後、足利義教の子・義政が僅か9歳で8代将軍となるが、実権は細川、山名、畠山、斯波(しば)などの有力守護大名が握り政治は混乱しました。長禄3年(1459年)、年明けから天候異変が続き、9月には山城、大和に大暴風雨が襲来し京都では鴨川が大氾濫し多くの溺死者が出るなど甚大な被害が出ました。更に飢饉によって洛中の飢死者8万余人と言われ、都は一大葬地と化しました。米価は高騰し各所で徳政一揆が激発しましたが、幕府はこうした事態に何一つ手を打てませんでした。更に将軍家では相続問題が起こり、政治を細川、山名、畠山ら守護大名に任せた義政は隠居して風雅の道に生きる事を考えました。正室・日野富子との嫡子が幼くして亡くなった為に浄土寺門跡であった弟・義尋(義視)を還俗させ次期将軍職に就け、義政に男子が産まれても僧侶とする事も約束し、後見に細川勝元を据えました。しかし翌年、富子が義尚を出産し情勢は一変しました。富子は山名宗全を後見としたので、細川勝元は日野一族や義尚の補佐役・山名宗全らと対立しました。特に、細川勝元と山名宗全の対立は、足利将軍家、管領・畠山、斯波(しば)両家の家督争いや守護や在地武士の利害関係と結びつき、一層深まり遂に幕府を二分して争う事となり以後、11年にも及ぶ「応仁の乱」が勃発し京都の街殆どが、焼け野原になりました。文明元年(1469年)、戦局が地方に広がり両軍とも大軍を率いて京都に押し寄せましたが、合戦は膠着状態になり文明5年(1473年)、山名宗全と細川勝元が相次いで亡くなりました。その後も戦が続きましたが、文明9年(1477年)、畠山義就(よしなり)が河内(大阪府)に、大内政弘(まさひろ)も周防(山口県)に兵を引き揚げた後、他大名も領国に引き揚げたので乱が終結しました。乱後の室町幕府は統治力を失い、全国各地で戦闘が繰り広げられる戦国時代へ移りました。

西軍が布陣したので西陣・・・「西陣碑」 西軍の将・山名宗全邸跡
百々橋(どどばし)

宝鏡寺門前、寺之内通小川に架かっていた長さ7.3m、巾3.7mの石橋を言います。百々御所(宝鏡寺)の傍にあるから、そう呼ばれますが「今昔物語」に「どどの辻」とあって、古くから呼ばれていました。この小さな橋が特に有名になったのは、応仁の乱で西軍の山名宗全と東軍の細川勝元が、この橋を隔てて激戦をしたからで永正4年(1507年)8月に細川澄之の臣・香西又六元近が、細川澄元の小川宿所を襲撃せんとして百々橋を挟んで両軍が合戦をしたからで、この時に香西又六は、流れ矢に中って戦死し、その本拠・嵐山城は落城しました。(巻二「嵐山城址」参照)

百々御所(どどごしょ:宝鏡寺)の門前傍にあった百々橋(どどばし) 百々橋の礎石
本法寺

叡昌山と号し永享8年(1436年)、日親上人の創建する日蓮宗本山の一で本阿弥家の菩提寺です。日親は室町中期の僧で若くして京師にのぼり教義弘通に努めました。「立正治国論」を足利6代将軍・義教に献じて禅宗を信ずる非をいさめたが、怒りに触れて投獄されて種々の拷問を受け遂に灼熱された鍋を冠らされました。これにより世の人々は鍋冠(なべかぶ)り日親と呼び、その不屈の精神を称えました。嘉吉の乱で義教が殺された後、赦されたが、在獄中、たまたま同じ獄舎だった本阿弥清信と相識った。清信は日親に深く帰依し、出獄した後に上人の為に一宇を営んだのが当寺の起こりと伝え初め四条高倉にありましたが天文法華の乱後、天正年間に豊臣秀吉の命により現在地に移されました。現在の堂宇は天明の大火後の再建で本堂、開山堂、多宝塔、仁王門を備えています。

本法寺 多宝塔 叡昌松
日親説法石 開山堂 本阿弥光悦手植えの松
本堂 千利休の子・少庵が千家再興を許された時、利休遺席の不審菴(表千家)を移しました。
千少庵の子・宗旦が北裏に隠居所として建てたのが今日庵(裏千家:細川典厩邸跡) 細川晴元邸跡辺り
足利将軍室町邸(室町幕府)

「洛中洛外図屏風」に描かれた室町幕府が、あった所で南は今出川、西は室町、北は上立売、東は烏丸という東西一町、南北二町の区画に足利義満は、室町御所を造営しました。その庭に美しい花木がたくさん植えられたので「花の御所」とも呼ばれました。室町御所は足利将軍家の屋敷ですが、ここで政務を執る事から室町幕府と呼ばれました。後に、守護大名の勢力が強くなると将軍は名ばかりとなり幕府内の対立から起こった応仁の乱に焼亡しました。室町幕府は滅亡し織田信長、豊臣秀吉や徳川家康が登場する戦国の乱世へと推移しました。

満寺跡辺り 足利将軍室町第址 近衛殿跡(D大学新町キャンパス)
近衛殿解説バネル(D大学新町キャンパス) 室町殿(花の御所)跡(D大学キャンパス)
花の御所と言われた室町殿菊亭(今出川殿)跡・・・発見された室町殿の石敷き遺構解説パネル(D大学キャンパス)
応仁の乱勃発地・・・上御霊(かみごりょう)神社

早良(さわら)親王らの怨霊の祟りを鎮める為に八所の御霊を祀り、正しくは御霊神社と言い京都市における最も古い著名な神社の一です。祭神は、早良親王、井上内親王、他戸(おさべ)親王、藤原吉子、橘逸勢(たちばなのはやなり)、文屋宮田麻呂(ふんやのみやたまろ)、吉備真備(きびのまきび)、火雷神(ほのいかづちのかみ)の八座とします。このうち、井上内親王(聖武帝皇女)は、宝亀3年(772年)、呪詛をした罪で御子・他戸(おさべ)親王と共に大和国宇智郡に幽閉されたまま、崩じられました。早良親王(桓武帝同母弟)は、延暦4年(785年)9月、藤原種継(たねつぐ)暗殺事件に連座し捕らえられて淡路に移される途中、食を断って亡くなりました。このような事件後、桓武帝皇后・高野新笠(にいがさ)、藤原乙牟漏(おつむろ)が相次いで亡くなり長岡京に疫病が流行し皇太子・安殿親王(平城天皇)も長く病気に罹り絶えず怨霊に悩まされ、いつしか早良親王などの祟りと言い出され親王らの霊を宥める為に延暦19年(800年)、崇道天皇と追号し井上内親王は再び、皇后と追称し墓を共に山陵と称されました。怨霊宥め祀る為に廟を建て御霊社と号されたのが当社の起こりと伝えますが、創祀年月は明らかでないが延暦年間と思われます。・・・応仁元年(1467)1月7日夜、山名宗全の策謀により将軍・義政から出仕を禁じられた管領・畠山政長は失脚し自邸に火を放ち上御霊林(かみごりょうばやし:上御霊神社の森)に布陣しました。畠山義就は同月18日早朝、上御霊林の政長勢を奇襲し社殿などが火に覆われ、政長勢は細川邸へ逃れました。この戦いが口火となり、細川勝元を将とする東軍は花の御所を本陣とし、山名宗全を将とする西軍は宗全邸を本陣として戦った「応仁の乱」へと発展し以後11年にも及ぶ戦となりました。神社前には「応仁の乱勃発地」、「花御所八幡宮跡」の石碑があります。

百々橋(どどばし)の礎石 猿田彦神社 「応仁の乱」勃発の地、上御霊神社
「応仁の乱勃発の地」碑 楼門 源氏の氏神・八幡神が勧請された「花御所八幡宮」跡碑
拝殿 本殿 清明心の像
相国寺(しょうこくじ)

足利義満が創建した禅宗五山の一として今尚、寺名は高く世に知られます。永和4年(1378年)、花の御所室町殿を造営し天下の耳目を衝動した義満は、その付近に一大禅苑を建立せん事を兼ねてより念願していました。永徳2年(1382年)10月、晋明国師、義堂和尚らと相謀り、翌年7月、起工し自ら土を運び工事を進め、10ヵ年の年月を費やして明徳3年(1392年)に竣工したのが、当寺の起こりと伝えます。臨済宗相国寺派大本山で山号を万年山と号し、寺名を相国承天禅寺と言います。本尊に釈迦如来三尊を安置し夢窓国師を以って開山としました。義満は、中国の制に倣って禅宗寺院を統制し、僧侶の出処進退を管理する為に僧録司職を置き、妙葩を任じ寺内に鹿苑(ろくおん)院を建てて住持させました。足利義教の時、鹿苑院内に一院を設け蔭涼軒(おんりょうけん)と称しました。軒主は本来、将軍の兼ねるところでしたが留居役の僧が、もっぱら任にあたり後に将軍に親近し政治にも介入するなど、一時は鹿苑院の僧録司を凌ぐ勢力がありました。「蔭涼軒目録」は蔭涼軒代々の軒主が筆録した公用日記で室町中期の五山関係や幕府を中心とする政治、経済、文芸、美術などを知る上の貴重な記録とされます。竣工後間もなく、応永元年(1394年)9月24日、失火によって炎上し、翌年に再建に着手し同6年には高さ360尺に及ぶ七層の宝塔を建立しました。応仁元年(1467年)10月、西軍・山名宗全が室町御所附近の相国寺奪還を目論み、畠山、大内、土岐、六角、一色などで挙兵し東軍の相国寺を攻め、激戦となり堂宇は、尽く兵火に掛かって焼亡し百数十年の間全く荒廃に委せられましたが、慶長年間に豊臣氏が再興し、徳川氏も三門を寄進しました。特に後水尾天皇は旧殿を下賜して方丈、宝塔、開山堂を再興されたので旧観に復するに至りました。しかし天明の大火で再び類焼し法堂を残して他は、全て鳥有に帰しました。以来、再建に努めますが、未だに三門、仏殿は再建に至らず礎石のみが残っています。

「清明心の像」の駒札 南門 相国寺北参道口
塔頭が並ぶ参道 浴室 大光明寺
文化4年(1807年)に再建された方丈、庫裡 後水尾天皇歯髪塚
豊臣秀頼が再建した法堂(重文:桃山期) 仏殿跡 晋広院
三門跡 庫裡への参道 相国寺外略図
総門 勅使門(桃山期) 今出川門@京都御苑
足利8代将軍・義政邸跡辺り(近衛邸跡@京都御苑) 京都御苑外略図、説明札
冷泉家屋敷

現存する唯一の典型的な公卿屋敷で白壁の築地塀を廻らし門前正面に建つ玄関前には目隠しの蔀格子(しとみごうし)の衝立があり内部の座敷、台所の一部に昔の公卿生活の面影を留めています。

冷泉家屋敷 乾御門@京都御苑 皇后門@京都御所
京都御所

元、土御門内裏と言って里内裏の一でしたが、南北朝時代に北朝の皇居となり両朝が統一されてから正統天皇の御座所として明治維新まで続きました。中世には兵乱と皇室の衰徴によって大いに荒廃したが、織田信長によって永禄年間に修理され次いで豊臣秀吉、徳川家康によって周囲を整備拡張されるなどしてようやく旧観に復しました。しばしば、火災に掛かったので光格天皇は寛政2年(1790年)、平安京内裏の古制に則って本格的に再建しました。今の建物は、安政3年(1856年)の再建で寛政造営の旧規に拠って造られています。但し、平安京内裏そのままではないですが、主要な部分は如実に再建され建築史的に注目すべきものがあります。東西約249m、南北約448mに亘る広域内に、紫宸殿を始め優雅な寝殿造の建物があり、内部の調度品と共に王朝時代の宮廷生活を彷彿させています。

清所門@京都御所 宣秋門@京都御所 遠くに大文字山・・・建礼門方面@京都御所
旧二条城(足利義昭御所)跡碑

織田信長が、永禄12年(1569年)に造営した室町幕府最後の足利15代将軍・義昭の御所で規模は、東は烏丸通、西は新町通、南は丸太町通、北は下立売通の約二町四方を占めました。天正元年(1573年)、足利義昭が信長に追放された後に取り壊されました。

元治元年(1864年)7月19日、禁門の変で蛤御門の梁木には、当時の弾痕が残る・・・ 旧二条城跡
京都府庁(京都守護職屋敷跡) 京都守護職屋敷跡碑 9系統「京都駅」@堀川下立売バス停
9系統「京都駅」@京都駅バス停 京都駅ビル 81系統「竹田街道大手筋」下車

Tourist  2006.03.13(M)

参考資料 「上京を歩く その弐」(京都市上京区役所)、他

 

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新撰組幕末回廊散策その2

平安京道「鳥羽の造り道:羅城門編」

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新撰組

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幕末(維新)回廊

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