Pちゃんズの播磨紀行「源平一ノ谷合戦」

 

浦人の しほくむ袖に くらべみよ 波路へだつる 夜のころもを 源氏物語「須磨の巻」

 

源平一ノ谷合戦・・・一ノ谷(鉄拐山南山腹)坂落としと平家一門、敦盛悲哀の須磨

寿永3年(1184年)、後白河法皇より平家追討の院宣が下され、源氏軍本隊の源範頼(のりより)は、山陽道から平家軍の正面へ、源義経は丹波路を進み一ノ谷北側から平家軍の背後へ向かいました。源氏軍6万、平家軍10万の軍勢で待ち受けていました。義経は一ノ谷手前の三草山に平家軍がいる事を知り、大軍を装って夜襲をかけ平家軍は混乱し大将・平資盛(すけもり)は本陣に戻らず屋島まで逃げました。一ノ谷の崖下の平家軍を見た義経は本陣を安田義定に任せ、西に向かわせ精鋭70騎を率いて一ノ谷背後に向かいました。同年2月27日、東西の城戸口で合戦の火ぶたが切られ源氏軍は平家軍の数に苦戦しましたが、義経が西の城戸口を目指して一気に坂を下った「一ノ谷(鉄拐山南山腹)の坂落とし(鵯越:ひよどりごえの坂落とし説あり)」と言われる奇襲によって、平家軍が混乱し源氏軍が一気に追い詰め平知盛(とももり)は船に逃れたが、平重衡(しげひら)は生け捕りにされ、一ノ谷合戦は源氏軍の大勝利に終わりました。しばらくして、須磨の浜では熊谷次郎直実(なおざね)が一人の若武者を討ち取りました。平敦盛(あつもり)は笛の名手で、わずか16歳、義経が首実検をした時、その様を見て涙を流さぬ者はなかったと伝え、後に熊谷次郎直実は戦の世に無常を感じて法然上人に帰依(きえ:出家)し敦盛の冥福を祈ったと伝えます。

近鉄急行で京都駅へ

特急・スーパーくろしお

快速・播州赤穂行きで神戸駅へ

高速神戸駅(神戸高速鉄道東西線)

阪神方面、阪急方面の分岐駅で「ハーバーランド前」のミドルネームがあり計画当初は、隣の新開地駅との総合駅として開設予定でしたが、予算の都合上、当駅との2つの駅に分けられ山陽電鉄西代駅〜阪急電鉄三ノ宮駅、高速神戸駅〜阪神電鉄元町駅に至る神戸高速鉄道の鉄道路線で神戸市内の阪急電鉄、阪神電鉄、山陽電鉄の各ターミナルをY字に結び花隈〜三ノ宮駅間の約600mを除き全線が地下路線となっています。

JR神戸駅

高速神戸駅〜山陽電車で須磨浦公園駅へ

須磨浦公園駅に到着

敦盛塚(胴塚)

平敦盛(たいらのあつもり)の胴体を埋葬したと所と伝え清盛石塔と同じく鎌倉時代に執権・北条貞時が建てたと記されるが様式は室町後期の作で一説には「あつめ塚」が訛ったと言われます。敦盛の悲話は能や幸若舞などに取り上げられ参勤交代の大名も足を止めて手を合わせたと伝えます。首を埋葬したとされる首塚は須磨寺に祀られています。

敦盛塚(胴塚)

須磨浦ロープウェイ

ロープウェイから海釣り公園の眺め

須磨浦山上遊園(鉢伏山)

ロープウェイ、カーレーターを乗り継いで山上遊園に到着すると360゜の展望が楽しめる回転展望閣があり神戸、播磨灘、明石海峡大橋、淡路島、紀伊半島などが一望でき源平「一ノ谷合戦」の地、須磨界隈も眼下に見る事ができます。

暑いにゃ〜(;^_^Aけど・・・\(^o^)/気持ち良か〜

日本で唯一のカーレーターで更に山上へ・・・乗り込みにビビるPちゃん?!(>_<) 動いてますから〜

源平合戦

平家都落ち・・・寿永2年(1183年)7月25日、安徳天皇と三種の神器(鏡(ヤタノカガミミ)、剣(アマノムラクモノツルギ)、勾玉(ヤサカニノマガタマ)と共に都を離れ九州の地で体制を立直し神戸の一ノ谷に陣地を築きました。一ノ谷合戦・・・寿永3年(1184年)2月7日、義経の奇襲などにより平家軍は大敗し平忠度(ただのり)、経正(つねまさ)、経俊(つねとし)、敦盛(あつもり)など多くの武将が討ち死、重衡は捕らわれ鎌倉に送られました。藤戸合戦・・・元暦元年(1184年)9月26日、佐々木盛綱ら源氏軍は児島を攻めて勝利。屋島合戦・・・元暦2年(1185年)2月19日、義経ら源氏軍が阿波の国から屋島を攻め平家軍は九州へ敗走。壇ノ浦合戦・平家滅亡・・・元暦2年(1185年)3月24日、戦に敗れた平家軍は三種の神器の剣(アマノムラクモノツルギ)と共に安徳天皇始め多くの平家武将、女官などが入水し平家滅亡。義経が三種の神器の鏡と勾玉の二種を取り戻し都へ持ち帰りました。

須磨浦山上公園(鉢伏山)からの神戸、須磨(一ノ谷合戦場跡)、播磨灘(大阪湾:遠く紀伊半島)、淡路島、明石海峡大橋の絶景とです・・・

一ノ谷の坂落としと伝える鉄拐山の南山腹

義経は、こんな傾斜を馬で駆け下りた?!(;@_@)

淡路島と神戸市垂水に架かる明石海峡大橋

源平合戦・戦いの濱(一ノ谷合戦)

源平一ノ谷合戦において多くの平家の軍勢が討たれ海上の船へ逃れました。義経の奇襲攻撃の一ノ谷(鉄拐山南山腹)の坂落とし(鵯越:ひよどりごえの坂落とし説あり)で義経軍は意気揚々となり一ノ谷の西城戸の戦いで平家軍を総崩れさせ平家敗北の引き金となり東、北城戸の平家軍が敗走した源平最大の激戦地がこの辺りとされます。

阪神大震災のモニュメント

みどりの塔

戦いの濱碑とです・・・

安徳帝内裏跡伝説地(あんとくていだいりあと:安徳宮とモルガン灯籠)

源平の戦で源氏に追われた平家は安徳天皇を奉じ西走の途中、一ノ谷に陣を構えましたが義経の奇襲に敗れ船で屋島に逃れました。このときに一ノ谷に内裏(だいり:行在所)が置かれたと伝え、方24町、免税地などと書かれています。寿永4年、安徳天皇は下関の壇ノ浦の戦にて祖母・二位の尼(清盛の妻、建礼門院徳子の母)に抱かれて剣(アマノムラクモノツルギ)と共に8才で海中に身を投じました。この地に安徳天皇を供養する為に祀られたのが安徳宮で本殿前にはアメリカの大財閥モルガンと結婚した元舞子の雪は、モルガンお雪と呼ばれ明治43年(1910年)2月〜翌年秋頃まで、この近辺に住まいし一対の灯籠を寄進しました。結婚12年目に夫が急死、ヨーロッパを転々とし昭和13年(1938年)、日本に帰り晩年を京都で過ごしたと伝えます。

一ノ谷の急勾配な階段を上るとです・・・(;^_^A

安徳宮・・・本殿前にはモルガンお雪が寄進したモルガン灯籠

安徳帝内裏跡伝説地碑

近辺の山中に埋められていた皇女・和宮像

源平一ノ谷合戦があった辺り

源平合戦800年記念モニュメント

須磨浦公園駅から須磨寺駅へ

須磨寺駅

平重衡(しげひら)捕らわれの松跡

平重衡は平清盛の五男で本三位中将と称されました。寿永3年(1184年)2月7日、一ノ谷合戦の時、形勢が不利と生田の森から副大将・平重衡は須磨まで逃れましたが源氏軍総大将・源範頼(のりより)の配下・梶原源太景季(かげすえ)によって捕虜となり無念の涙を流して腰掛けた大きな松があった所と伝えます。土地の人が哀れに思い名物の濁酒を勧めると重衡は大いに喜び「ささほろや 波のここもと打ちすぐて 須磨でのむこそ濁酒なれ」と一首を詠んだと伝えます。その後、京で引き廻され鎌倉へ送られ頼朝に厚遇されましたが後に南都僧徒(東大寺、興福寺など)の請で奈良に送られて山城の木津川の河原で断首されました。

平重衡捕らわれの松跡碑

義経、静御前と記念撮影!(^o^)v

須磨の霊泉

どごぞの童が気持ち良さげに水浴び?(;^_^A

須磨寺塔頭寺院・正覚院

お児童さんがお地蔵さんに水掛け?(*≧m≦) プッ

須磨寺

真言宗須磨寺派の本山で須磨寺略歴縁起によれば兵庫県和田岬海中より出現した聖観世音菩薩を安置する為に淳和天皇の勅命により、兵庫県の背山恵偈山北峰寺を建立し、後の仁和2年(886年)、光考天皇の勅命により開祖・聞鏡上人が須磨に上野山(じょうやさん)福祥寺を建立しました。南北朝時代〜江戸時代にかけて歴代住職が書継いだとされる当山歴代(県指定文化財)によれば、本尊聖観音は嘉応元年(1169年)源頼政が安置したと伝える。現在の本堂は慶長7年(1602年)、豊臣秀頼が再建し内陣の宮殿は応安元年(1368年)の建造で重要文化財(室町期)です。

龍華(りゅうげ)橋

仁王門

弘法岩「五鈷水」

源平の庭

当時16歳の無官太夫・平敦盛(あつもり)は笛の名手で美少年と伝え一ノ谷合戦で一ノ谷の浜辺で源氏軍武将の熊谷次郎直実(なおざね)に討たれ若くして命を落としました。海に向かって逃れようとする平敦盛に「敵に後を見せるとはお見苦しい、お戻りなさいませ!」と叫び首をとろうと冑を押し上げ顔を見ると十代の若者ではないか、思わず逃がそうとするが敦盛の「早く討て!」との言葉にやむなく討った悲話は平家物語の中で最も美しく、悲しい物語とされます。源平の庭は謡曲「敦盛」で歌われる場面を再現し馬上から名乗りを上げ一騎打ちを挑む熊谷次郎直実と、受けて立つ平敦盛の像があります。

源平の庭(左:平敦盛、右:熊谷次郎直実像)

「わらべ地蔵」

亀の背の七福神を回し拝む「七福神マニコロ」

弁慶のつり鐘

鐘銘に「摂津矢田部郡丹生山田庄原野村 安養寺之鐘」とあり、弁慶が長刀の先に掛けて安養寺から担いで来て一ノ谷合戦で陣鐘の代用にしたと伝えます。

弁慶のつり鐘

平敦盛(右)、熊谷次郎直実の文楽人形

平敦盛像(熊谷蓮生坊:熊谷次郎直実作)

敦盛愛用の青葉の笛(右)、高麗笛

敦盛が着用していた鎧兜

本堂

義経腰掛の松と敦盛首洗い池

この池で平敦盛の首を洗い池の上に横たわる松ノ木に義経が腰掛けて首実検をしたと伝えます。

義経腰掛の松

敦盛首洗い池

五石仏

五猿、金浦敦(きんぽとん)童子

五猿見ザル、言わザル、聞かザル、怒らザル、見てごザルの五ザル・・・金浦敦(きんぽとん)童子は金太郎(金=きん)のように健康で、浦島太郎(浦=ぽ)のように夢を持って、敦盛(敦=とん)のように心優しく音楽を愛して欲しいという意味らしい・・・

「五猿」+子ザル(動かザル)の六猿?(*≧m≦)プッ

「金浦敦(きんぽとん)童子?!(@_@)

六地蔵+童地蔵で七地蔵?!(*≧m≦) プッ

敦盛の首塚

首塚(五輪塔)は、寿栄3年(1184年)2月7日、一ノ谷合戦で、源氏軍武将の熊谷次郎直実(なおざね)に討たれ戦死した無官太夫・平敦盛の菩堤を弔う為に建立されました。胴体を埋葬したとされる胴塚は須磨浦公園にある敦盛塚に祀られています。

敦盛の首塚

三重塔

境内

神戸市立須磨海浜水族園

神戸市須磨区の須磨海浜公園内にある水族館です。昭和32年(1957年)に開園し、昭和62年(1987年)現在の建物にリニューアルされました。大型水族館のバイオニアとなった施設です。バンドウイルカのライブは必見です。 須磨海浜水族園ではイルカたちの生き生きとした姿、ありのままの姿を見ていただき楽しく遊ぶイルカの姿を見て、お客様も楽しんでいただくという願いからイルカショーとは言わずにイルカライブと言います。

弁慶の鐘(レプリカ)をガンゴン・・・(;^_^Aどもども

参道の石段

須磨海浜水族園

メイン大水槽

Pちゃん、熱心に何を見ているとですか?・・ゲゲッ!本物のホオジロザメの頭部ですがな!(@_@;)

綺麗とです・・・

マダイ・・・おいしそう!(;^_^A どもども

ウツボやんか〜・・こわぁ〜!(@_@)

ミノカサゴ

ニモ見っけ!・・・クマノミやんか〜o(*^▽^*)o

アナゴの一種

シオマネキとムツゴロウ

デカ〜60cmのロブスター・・・おいしそう!(;^_^ゞ

タカアシガニ・・おいしそう!(;^_^A

絶滅危惧品種のカブトガニ

タコ・・・おいしそう! (・_・)ヾ(^o^;) オイオイ

クラゲの一種

マンボウちゃんズ?!(*≧m≦) プッ

情緒がある納涼金魚展

ピラニア軍団・・昔に飼ってたな・・・

アマゾン館のチューブ型水中トンネル

デカ〜!(@_@) 世界最大の淡水魚ピラルク

これまたデカ〜!(@_@) オーストラリアハイギョ

イルカライブ館

ドルフィンジャンプ・・・\(●⌒∇⌒●)/スゲ〜

ライブにマゼランペンギンさんがテチテチ・・・

ドルフィンキック!

ドルフィンシュワッチ! o(o|o)/

ドルフィンジャンプ!!

スゲ〜!一回転!!ドルフィン宙返り!!!

あらよっと!

声援ありがとう!ドルフィンバイバイ (^^)/~~~

ラッコちゃん

クジラのモニュメント

市バスでJR須磨駅へ

須磨駅から快速で明石駅へ

車窓から明石海峡大橋が見えるとです・・・

たこフェリー(明石フェリー)乗り場

Pちゃんズ、おススメ! たこフェリー(明石淡路フェリー)に乗って世界一の明石海峡大橋を間近で見よう!!(^o^)v

たこフェリーは明岩(めいがん)フェリーとも呼ばれ昭和29年(1954年)に設立された明石フェリーが前身です。国道28号線をつなぐ海の国道として道路公団によって運航された航路で公団フェリーと呼ばれ明石海峡大橋が着工された昭和61年(1986年)に現在の会社(明石市、淡路町などが出資する第三セクター)に引き継がれました。たこフェリーは明石港と岩屋港を約20分で結び船からは明石海峡大橋の全景を間近に見る事ができ橋の真下を航行します。徒歩客も深夜便しか乗船不可でしたが現在、全便の乗船可となり往路はフェリー、復路は高速船というように明石海峡の船旅も楽しめます。現在3隻を保有し「あさしお丸」は船体には明石名物の「蛸(タコ)」が描かれたタコフェリーで総トン数:1295トン、全長:65.02m、巾(最大)14.00m、航海速力:15.0ノット(約28km)です。「あさなぎ丸」は船体に「イルカ」が描かれたイルカフェリーで総トン数:1381トン、全長:65.02m、巾(最大)14.00m、航海速力:15.0ノット(約28km)です。「あさかぜ丸」はオレンジ色の船体であさしお丸と同型船であさしお丸(タコの船体)、あさなぎ丸(イルカの船体)のいずれかが整備中の時に運航されます。ちなみに運賃(片道)は一般旅客(徒歩の人)大人:320円、子供:160円、特殊手荷物旅客(自転車の人)大人:520円、子供:360円です。詳細は、たこフェリー(明石淡路フェリー)のサイトにアクセスして下さい。⇒http//www.taco-ferry.com/

パパたこ神社

たこペイントのフェリー(あさしお丸)とです・・・

車より先に歩いて乗船しまつ・・・

たこフェリー船内(車両デッキ)

たこフェリーからの明石海峡大橋の眺望

明石港を出航したとです・・・

明石市立天文科学館

おっと、左舷前方11時の方向に太陽が・・・

サンフラワー

明石海峡大橋

兵庫県淡路市と神戸市垂水区を結ぶ明石海峡を横断する吊り橋で全長3,911m、中央支間1,991 m(建設当初は全長3,910m、中央支間1,990mでしたが、平成7年(1995年)1月17日の阪神・淡路大震災で1m伸びた。)で世界最長の吊り橋ですが現在計画が進行中のメッシーナ海峡連絡橋(イタリア)は中央支間3,330m以上の吊り橋が予定されており、完成すれば世界一の座を明け渡します。明石海峡大橋の主塔の高さは海面上約300mで東京タワー(333m)や横浜ランドマークタワー(296m)に匹敵します。平成10年(1998年)3月21日に開通し建設費は約5000億円です。(@_@)

明石海峡大橋・・・パールブリッジとも言われます。

明石海峡大橋を間近に見ると圧倒されます・・・さすが世界一の吊り橋!

明石海峡大橋をバックに記念撮影

岩屋港を出港・・・いるかフェリー(あさなぎ丸)

明石海峡大橋の眺め・・・右は淡路島

明石港に着岸しました・・・

見るからに、たこフェリー

明石の漁港(錦江橋から)

明石城跡公園

元和3年(1617年)、信州松本から徳川家康の曾孫・小笠原忠政(忠真)が明石に派遣され、段丘の先端部を巧みに利用して明石城を築きました。明石藩は明石、三木、賀古、賀東の四郡10万石を領し徳川将軍家と姫路藩本多家の強い支援を受けて築かれた城です。六代目城主・松平信之の時、儒学者・片山兼山に命じて明石城内十景を撰んだ時に喜春城の雅名が生まれ縁起の良い城とされました。本丸に天守閣は作られなかったが、穴太(あのう)積みの石垣は扇の勾配とされる美しい反りを持ち、本丸の四隅に建てられた隅櫓のうち坤(ひつじさる)櫓、巽(たつみ)櫓が現存し坤櫓は伏見城から移築されたと伝えます。

有名な魚の棚商店街

明石城跡公園の坤櫓(左:伏見城遺構)と巽櫓

明石駅から新快速長浜行きに乗りまつ・・・

明石市立天文科学館

明石は東経135度に位置し日本標準時子午線が通る町です。明石市立天文科学館は子午線上に建てられ日本時間の基準になる場所に時間と天文をテーマにした展示がされています。

明石市立天文科学館

京都駅

近鉄桃山御陵前駅に着いたとです・・・

Tourist  2005.08.01(M)

 

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