比叡坂本〜飯室谷不動堂〜横川・元三大師堂〜大原を歩く

 

月さびよ 明智が妻の 咄しせむ 松尾芭蕉

 

比叡坂本→西教寺→飯室谷不動堂→延暦寺(世界文化遺産)横川・元三大師堂(四季講堂)→せりあい地蔵→大原

【行】の世界! 天台密教の巡拝行・比叡山千日回峰行

『山修山学』という言葉がある。伝教大師の「山家学生式」にある十二年籠山などの修行の事を言う。国家に有用な菩薩僧を要請しようとする天台宗の姿勢で回峰行、四種三昧行、籠山行なとが知られる。

酒井雄哉北嶺大行満大阿闍梨 二千日回峰(道はるかなり・・・)その一

千日回峰行

北嶺修験とも言われ、平安時代の僧・相応和尚(831-918年)により開創された死を厭わない荒行で文字通り比叡山の峰々を縫うように巡拝する不退転の修行である。白一色の装束のいでたちは死出装束で、最後に羽織る白麻の衣を浄衣とよび、腰には死出紐(しでひも)、降魔の剣(こうまのけん)と切腹用の短刀をつけます。回峰行は礼拝行で諸堂だけでなく霊木、霊石、霊水まであらゆるものに礼拝し1日に約30km歩きます。行に入れば休む事は許されず万一、挫折の時は死出紐で首を吊るか、切腹用の短刀で自決すべしという行不退とされます。百日回峰行とは3月下旬の深夜2時に本堂を出発し最初の1日だけは大先輩が先導しますが2日目からは漆黒の闇に閉ざされた比叡山を一人で歩きます。無動寺〜東塔〜西塔〜玉体杉(ぎょくたいすぎ)〜横川〜八王子山〜日吉大社に出て神々に礼拝し坂本を通り無動寺坂の急坂を登って無動寺谷へ帰ってくるコースを百日間休まずに歩き続けます。同じ道、同じ石を踏んで同じ時間に同じ場所を通ります。75日目には京都切廻り、残り25日を終えて葛川参籠(かつらがわさんろう:夏安居 げあんご)に入って満行となります。千日回峰行とは比叡山を千日間歩き続けて不動明王と一体化するという荒行中の荒行ですが、千日は7年間をかけて修行します。まず七百日間(1〜5年間)は、毎日、午前1時より勤行し、午前2時前に本堂を出発します。漆黒の山道を山上から山麓までの約30kmを約7時間で歩破します。第七百日(5年目)は「堂入り」と言われ明王堂に参籠し9日間の断食、断水、断眠、不臥で念誦修法に専念する行は最大の難関で一週間を過ぎると死臭が漂い、瞳孔が開くとされる命賭けの大苦行です。七百日を満行すると「阿闍梨:あじゃり」と称されます。次の百日間(6年目)は、約30kmの他に雲母坂(きららざか)を越えて京都、赤山禅院迄の約60kmを加えた赤山禅院往復となり更に次の百日間(7年目)は洛中、洛外の寺社を巡礼する京都大廻りが加えられ、一日約84kmを歩破します。最後の百日間(7年目)は約30kmの行程に戻って千日を満行しますが最後の百日間は75日をもって満行とし残り25日足りないのは一生をかけての行という意味です。千日回峰行を満行した行者は「大阿闍梨」と尊称され京都御所へ土足で参内し天皇の玉体加持の儀を行う事になっていました。

大手筋商店街 近鉄桃山御陵前駅から京都駅へ・・・ JR京都駅
・・・ まだ湖西線で走ってたんや〜!(^^)! 初代新快速・湘南色113系5700番台堅田行き普通車

『初代新快速・113系&三代目新快速・117系』リバイバル運転!

京阪間過去最速の27分で走破した初代新快速 『113系新快速』

新快速専用車両としてデビューした三代目 『シティーライナー・117系』

網棚や座席など昭和チックで懐かしい! 鴨川と雲に隠れた比叡山 寒々しい霊峰・比叡山(848.3m)
琵琶湖方面 初代新快速停車駅は京都→新大阪→大阪→三ノ宮→明石。時速95kmで京都〜大阪約32分、大阪〜三ノ宮約23分
雪がチラチラ・・・比叡山坂本駅 683系4000番台サンダーバード営業Max:130km 坂本観光案内図
公人屋敷(くにんやしき:旧岡本邸)地図

解説によると江戸時代に延暦寺の僧侶でありながら妻帯と名字帯刀(みょうじたいとう)を認められた公人(くにん)が住んでいた住居の一つ。内部が原型を留めていないほど改装されている住居が多い中、岡本家家屋は全体に公人屋敷としての旧状をよく留めた社寺関係大型民家の特徴を示す住宅として残されてきました。平成13年に坂本地域の歴史的遺産の保存を目的として大津市に寄贈されたもので、主屋、米蔵、馬屋等は平成17年3月に大津市指定文化財に指定されています。

日吉大社参道 旧状をよく留めた社寺関係大型民家の公人屋敷(旧岡本邸)
日吉御田神社 京阪電車石坂線・坂本駅 坂本名物の蕎麦屋さん
生源寺:しょうげんじ地図

比叡山延暦寺の開祖・伝教大師最澄の生誕地と伝える寺です。山門を入った右手の古井戸は最澄の産湯に使われたという伝説があり、毎年8月18日には盛大な誕生会が行われます。西塔の総里坊で、一山の寺務総括をしていた重要な里坊であった事もあり、叡山文庫に多くの「生源寺記録」が残されています。現在の本堂は文禄4年(1595年)、詮瞬(せんしゅん)によって再建された後、宝永7年(1710年)に改築されました。本尊は十一面観世音菩薩像で、最澄の弟子・慈覚大師円仁の作と伝えます。

伝教大師最澄生誕の地・生源寺 最澄が生誕した時に産湯に使ったと伝える産湯井
伝教大師最澄幼少像 読経が聞こえる本堂 日吉大社参道
穴太衆(あのうしゅう)積みは自然のままに石面を巧みに用いて石積み面を構成する自然美 県道47号線
流護院神社 芙蓉園別館 穴太衆(あのうしゅう)積みの石垣
棚田や琵琶湖を眺めながら速歩モードでテクテク。。。(; ̄ー ̄A 琵琶湖の眺めが美しい山の辺の道
八講堂千体地蔵

山の辺の道沿いに祀られている八講堂千体地蔵は、かつて八講堂があった付近からたくさん発見された石仏と伝える。坂本の町は石仏が大切に祀られているのに目を魅かれるが「心無い無頼な輩が、形の良い石仏を庭石などとして持ち去る者がいる・・・」罰当たりな話を聞きました。合掌

戦国武将・明智光秀ゆかりの天台真盛宗総本山・西教寺地図

正しくは、 天台真盛宗総本山戒光山兼法勝西教寺 (こうさんけんほっしょうさいきょうじ)と号します。聖徳太子が恩師である高麗の僧・慧慈、慧聡のために創建されたと伝えます。その後、久しく荒廃していましたが、慈恵大師良源上人が復興、念仏の道場としました。恵心僧都も入寺、修業されたところから次第に栄えるようになりました。鎌倉時代の正中2年(1325年)に入寺された恵鎮(円観)上人は、伝教大師が畢生の事業として提唱された大乗円頓戒を復興、その後百有余年を経た文明18年(1486)に真盛上人が入寺されるに至り、堂塔と教法を再興、不断念仏の道場とされました。以来全国に約四百余りの末寺を有する総本山となりました。今も戒律・念仏の道場として、1日も絶えることなく念仏が唱えられている。
比叡山焼き討ちで焼失した後に明智光秀が復興したことから、明智一族の菩提寺となり墓所があります。境内には、総欅造りの本堂(重要文化財)や伏見城の宮殿を移築した客殿があります。

秀郷の大ムカデ伝説がある近江富士(三上山) 明智光秀一族の菩提寺で墓がある天台真盛宗総本山・西教寺。総門は坂本城城門を移築
・・・ 200mはあるだろうか・・まっすぐ伸びる参道 勅使門
琵琶湖、近江富士遠望!(*゜▽゜)/ 宗祖大師殿 唐門
宝珠丸像(真盛上人幼少像) 宗祖大師殿 萬日供養塔(宝篋印塔)
明智光秀一族の菩提寺と墓所

元亀2年(1571年)、織田信長の比叡山焼き討ちの際、当寺も災禍を被りました。その後に築かれた坂本城の城主となった明智光秀は西教寺の檀徒となり、復興に大きく力を注ぎました。総門は坂本城城門を移築したもので、鐘楼堂の鐘は陣鐘です。天正10年に逝去した光秀は6年前に亡くなった内室・熙子や一族の墓とともに祠られています。

解説札 坂本城主・明智日向守光秀と一族の墓
解説札 案内札 松尾芭蕉の句碑
明智光秀内室・煕子(ひろこ)の墓 解説札 明智光秀一族の墓
二十五菩薩来迎群像 解説札 伏見城旧殿を移築し桃山御殿と呼ばれる客殿(重文)
解説札 名号石 本堂
鐘楼は明智光秀が寄進した坂本城陣鐘 境内と比叡山 坂本の町中には石仏も多い
県道47号線 飯室谷へ・・・テクテク(; ̄ー ̄A 松禅院近道(飯室谷奈良坂)
飯室谷奈良坂・・・倒木など山道は、少し荒れている。。。
・・・ 分岐を左に取ったらどんどん荒れた山道・・栢木坂か?下方から犬の遠吠えが!(^^)! 左×
分岐に戻り、今度は分岐を右へ・・・ 右○ 谷川に架かる小橋を渡ります・・・犬の遠吠えのお陰で飯室谷に出ました!(*´ο`*)=3ホッ
比叡山の三大魔所・慈忍和尚霊墓

飯室谷の巨木の杉木立の森に、大きな一つ目と一本足という一眼一足法師(慈忍)の幽霊が出るという。幽霊は鉦を打ち金縛りにさせるというので、若い僧はこれを畏れ修行に励んだという。比叡山の三大魔所(東塔東谷・天梯権現社:てんだいごんげんしゃ、横川・元三大師(良源)御廟)の一つとされている。また、東塔・狩籠丘(かりごめのおか)を加えて四魔所ともいわれている。

比叡山四大魔所の一『慈忍和尚墓』 一目一足の妖怪に姿を変え『山僧よ、僧の本分を忘るるなかれ』と没後も戒律を厳しく取り締まったと云う。
慈忍和尚は慈慧大師(元三大師)の高弟であり、後に19代・天台座主になった高僧 苔生した穴太衆(あのうしゅう)積みの石垣

飯室谷回峰行の拠点・横川飯室谷不動堂地図

比叡山の東麓にある飯室(いむろ)不動堂は、横川六谷の一つで、別所飯室谷の山腹にある。横川谷は、ほかに兜率谷(とそつだに、兜卒谷、都卒谷)、般若谷、香芳谷(かぼうだに)、解脱谷、戒心谷と別所安楽谷からなる。また飯室谷不動堂は三塔十六谷といわれる比叡山東塔根本中堂、釈迦堂、横川中堂、無動寺明王堂と並ぶ延暦寺五大堂の一つ とされ、本尊に不動明王立像を安置し、比叡山千日回峰行の基点の一つとされています。当堂は、過酷な修業で知られる比叡山千日回峰行を二度も満行された酒井雄哉北嶺大行満大阿闍梨が住職を努められていました。約400年間途絶えていた飯室回峰の千日回峰行を完全復活させたのは酒井雄哉北嶺大行満大阿闍梨で、弟子である藤波源信大阿闍梨も飯室千日回峰行を満行されました。千日回峰行の流派には東塔無動寺谷の玉泉坊流、西塔正教坊の石泉坊流、 千日回峰行を二度満行した酒井大阿闍梨の拠点・横川飯室谷の恵光坊流の三流派があります。横川飯室谷の恵光坊流回峰行の全行程は、午前1時ごろに飯室不動堂を出峯−安楽律院−慈認大師墓−坂本の西教寺−生源寺−坂本本町・滋賀院−無動寺坂手前−日吉大社−八王子山−神宮禅院跡−悲田谷−大宮川・ 横川本坂横断−覚運廟−五智院−根本中堂広場−戒壇院−ドラ イブウェイ・西尊院〜建立院坂−無動寺明王堂・宝珠院・大乗院−建立院坂−西尊院−智証大師廟−阿弥陀堂−山王院−浄土院−椿堂−にない堂−釈迦堂−居士林−峰道−玉体杉−横川 中堂−元三大師御廟−恵心院−飯室坂−飯室不動堂 その間260ヶ所の先人たちゆかりの場所、神社、仏閣を巡拝するのが特徴で、全行程の距離は他より10kmも長い40kmです。

飯室谷不動堂松禅院・・・酒井雄哉北嶺大行満大阿闍梨が亡き後、藤波源信大阿闍梨が住職を務められ松禅院が住房と聞きました・・・
山内 苔生した穴太衆(あのうしゅう)積みの石垣 飯室谷不動堂
飯室谷不動堂案内図 参道の石段 境内
諸病平癒、健康増進の功徳がある閼伽の水井・明王水

慈覚大師は不動明王の霊感により霊水を発見したと伝える。以来、本尊などに献じる閼伽の霊水として使われている。明王水ともいわれ、諸病平癒、健康増進の功徳があるという。千日回峯行の堂入りの際には、深夜に行者が不動明王に供えるための水を汲みに来る。

諸病平癒、健康増進の功徳がある閼伽の水井・明王水 ペットボトルに頂戴しました!m(__)m
静寂な境内 1994年に建立された水掛け観音

酒井大阿闍梨と共に回峰行を満行した大阿闍梨犬?クロとシロの狛犬(唐獅子)

一願不動尊の前に鎮座している狛犬(唐獅子)二対は、酒井大阿闍梨の回峰行の際に、大阿闍梨に同行したラブラドル種のクロとクロの仔・シロ。二頭は酒井大阿闍梨と共に大廻りにも二回随行、更に赤山苦行にも同行し見事に回峰行を満行した大阿闍梨犬?また回峰行中に酒井大阿闍梨を襲ってきたイノシシを何度も撃退した歴戦の勇士でもあります。クロとシロの功績を称えて酒井大阿闍梨の発願で中国に発注された狛犬(唐獅子)でクロとシロを表敬されています。クロの足跡もコンクリートの地面に残っています。

一願不動尊、御供所との狛犬(中国の唐獅子) ラブラドル種のクロを表した狛犬(唐獅子) クロの仔・シロを表した狛犬(唐獅子)
酒井大阿闍梨の発願により建立した一願不動明王像 飯室谷不動堂
酒井雄哉大阿闍梨が履きつぶされたワラジ 鎮護社・赤山明神 日吉権現十禅師日吉権現など
天台宗権大僧正・酒井雄哉(さかい ゆうさい:1926-2013年) 北嶺大行満大阿闍梨

大正15年(1926年)、10人兄弟の長男として大阪に生まれる。昭和6年(1941年)、旧制中学卒業後、慶応義塾商業学校に入学したが、落第生で卒業が危ぶまれたため、慶應義塾の教授に薦められ、昭和19年(1944年)に熊本県人吉の予科練に入隊。そこで半年間の訓練を受けた後、宮崎の宮崎海軍航空隊所属を経て、鹿児島県の鹿屋飛行場に移り終戦を迎えた。戦後、事業の度重なる失敗など職を転々とし、結婚ニヶ月目に妻が自殺した後、比叡山に上がり、40歳で得度。当初は無動寺谷・弁天堂の輪番・小林隆彰師、その後、小寺文頴師に師事、雲仙院に入る。昭和42年(1967年)、叡山学院本科、昭和45年(1970年)、叡山学院研究科に進学し首席にて卒。昭和46年(1971年)、三年の籠山に入る。昭和47年(1972年)、無動寺で百日回峰行、90日の常行三昧を行う。昭和48年(1973年)、明治時代に死者が出たため途絶していた「常行三昧」の行を達成した後に千日回峯行に入る。昭和50年(1975年)、飯室谷・長寿院に移る。昭和55年(1980年)10月に満行。半年後に2度目の行に入り昭和62年(1987年)7月、60歳という最高齢で達成した。この時の様子はNHK特集で放送され、反響を呼んだ。記録の残る織田信長の比叡山焼き打ち後、2度の回峰行を達成したのは3人のみという大偉業。昭和49年(1974年)、無動寺谷・宝珠院の住職になる。その後、飯室谷不動堂長寿院住職を務め平成25年(2013年)9月、心不全にて87歳で逝去される。

山内 飯櫃童子霊石 酒井雄哉北嶺大行満大阿闍梨石像

寺伝によると、円仁が当地に庵を結び、修行に励んでいると、ある日、生身の不動明王が現れました。円仁が、その姿を彫刻しようと霊木に向かっていると、ひとりの翁が現れて、「あなたの身の回りのお世話がしたい」と言う。その日から翁は不動明王を彫る円仁の食事など身の回りの世話をするようになりました。 やがて本尊とお堂が完成すると、翁は「私は弁財天の命令でお仕えした飯櫃童子(ばんきどうじ)です。」と言い残して姿を消しました。ちなみに飯櫃童子は弁財天十六(十五とも)童子の一人で、食を司る神とされます。

飯櫃童子、弁財天、宇賀神を祀る飯室弁天堂 弁財天閼伽水井? 蛇と一体化している宇賀神
滝行をおこなう不動瀧

加行之滝・・右は比良八講の再興に貢献した酒井大阿闍梨の師・箱崎文応師座像

酒井大阿闍梨が可愛がった甲斐犬のチャコ 酒井大阿闍梨が可愛がった鯉が泳ぐ放生池 開梆(かいぱん:魚鼓)を叩いて知らせます!
貴重な話を伺いご朱印も頂きました!(*゜▽゜)/ 不動明王石造 こちらの従事の方に先達して頂きました。
元三大師堂道(中尾坂:横川本坂) 分岐まで案内して頂きました!多謝!!m(__)m 中尾坂を横川へ急ぎます・・・

『横川 元三大師堂道』への道標、西教寺〜不動堂までを『奈良坂』、飯室谷不動堂〜横川、覚超僧都廟〜元三大師堂までを『中尾坂』といい、約5.1km、一般的に2時間半の行程と言われますが、早い人なら1時間前後で到達できると思います。

・・・ ・・・ 九十九折れの坂道
・・・ 屋根に大木が倒れ掛かっている休憩小屋の中で腰掛けてのランチタイム〜!(^^)!
聖観音石像 休憩小屋をあとに 先を急ぎます・・・
山上には積雪が・・・滑り止めのスノーグラバーを忘れました。( ̄□||||!!おろろ〜
アイスバーンでのスリップに気をつけて積雪の部分をしっかりと踏みあがります・・・ 小僧さんの看板が横川〜飯室谷への登山口の目印
上り坂はいいけど、下り坂はスリップが怖いな〜(~ヘ~;)山上に着いたようです・・(*´ο`*)=3ホッ 覚超僧都墓
覚超僧都は最勝講講師や東三条法華八講の聴衆を務め長元2年(1029年)権少僧都に任じられ密教教学に秀で、密教関係の著作を多残し覚超流派は台密川流と称された。
元三大師御灯明 ☆地図
元三大師の修行中、比叡山が女人禁制の為、大師に会いに来れない坂本の町に住ませた母親に達者である証として松明を燈した所と伝える。
正月にさ迷ったルートへ・・懲りずに??(^^ゞ 元三大師御灯明 積雪が凄いのでスリップ厳禁(>_<)
この先で落し物をしたので探しに再来したけど積雪してるから見つけられないかな・・・

第一関門?!崩落現場を向う側へ。。。(>▽<;; 

左側は、奈落のような危険な谷底!( ̄□||||!! 獣も通らん獣道?行者も通らない行者道?? 荒れ道に積雪! 超MAXの慎重歩行や〜(>_<)爆
落し物1つ回収できたけど・・限定品の曽我蕭白の雲龍図の朱印カバーは見つからなかった。。。懲りずにまた再訪か?!(>_<) 執念や〜?!(爆
上から覗くとマジで奈落のような谷底やな〜(>_<) また探しに来るのかな〜(^▽^;)爆 ・・・
恵心堂地図

恵心僧都源信の旧跡であり、阿弥陀如来を祀り、念仏三昧の道場です。恵心僧都はここに籠もり仏堂修行と著述に専念し『往生要集』や『二十五三昧式』などを著わし、後の浄土宗や浄土真宗などの源となる日本浄土教の基礎を築きました。

無事に戻ってきました!(*´ο`*)=3ホッ 恵心院 源氏物語・宇治十帖の横川僧都遺跡碑
恵心堂 内部非公開 凍てつく横川中堂参道 凍てた鐘を三度撞かせて頂きました!(^-^)v

比叡山横川・元三大師堂(がんざんだいしみみょう:四季講堂:滋賀県指定文化財) ☆地図

比叡山横川は、比叡山の最北に位置し、修行地に相応しい深山幽谷の地です。元三大師堂は、第18代天台座主・慈恵大師良源(元三大師)が開いた棲身修行・厄除け・息災祈願の根本道場です。天長3年(829年)に慈覚大師円仁が日本天台の根本経典である法華経八巻を納められた事が、比叡山横川の始まりと伝えます。それから100年あまり後、元三大師(良源)が、当地に定心坊という住房を結び、多数の弟子を輩出しました。そして康保4年(967年)以来四季に五部の大乗経を議論する四季講を始めた事から「四季講堂」といわれています。また元三大師が遷化された永観5年(985年)1月3日にちなみ元三大師と称し、お堂を「元三大師堂」としました。またこれより2年後、一条天皇より「慈恵」の諡(おくりな)を賜りました。現在の建物は承応元年(1652年)、後水天皇によって再建されました。元三大師は如意輪観世音菩薩あるいは不動明王の化身ともいわれ、卓越した法力であらゆる魔を祓い、厄を落とすことで古来より信仰を集めたと伝える。

積雪で凍てつく元三大師堂参道 元三大師堂(四季講堂) 角大師(つのだいし)、おみくじ発祥之碑
春夏秋冬の四季に法華経を論議する事から四季講堂とも言う元三大師堂(四季講堂)
ここでは、角大師(つのだいし)と称するお札を授与しており、魔除けの護符になっています。また、ここはおみくじ発祥の寺としても有名。
未来を体現するという横川中堂地図

舞台造りの中堂(本堂)で慈覚大師作と伝えられる聖観音菩薩が本尊として祀られています。横川は伝教大師・最澄の教従で慈覚大師円仁が開基したと伝える場所です。嘉祥元年(848年)、円仁が根本観音堂として創建したとされるのが横川中堂です。元亀2年(1571年)、織田信長による比叡山の焼き討ちにより、横川中堂も全焼した後、豊臣秀頼により再建されました。その後、昭和17年(1942年)に落雷により焼失し現在の中堂は昭和46年(1971年)に鉄筋コンクリートで再建されました。奇跡的に焼失を免れた「木造聖観音立像(本尊)」は平安期作と伝わり、重要文化財に指定されています。下から横川中堂を見上げると天空に浮かぶ船のように見えなくもないです。

朱印と角大師の護符などを頂きました!(^-^)v 西国三十三ヶ所の石仏が並ぶ参道 円仁の入唐帰国後に創建された横川中堂
横川の中心堂宇で昭和17年の落雷で焼失し昭和46年に復元された懸造り風の横川中堂
竜ヶ池弁財天 凍てた参道でスリップしないよう横川をあとに先を急ぎます。。。(; ̄ー ̄A
横川案内図 東海自然歩道へ・・・ 凍結でスリップ厳禁!
幻想的やな〜 ・・・ ディープインパクト?!ヾ(´Д`;●) 欧米かっ?!
・・・ ハイウェイ下のトンネルへ スリップ厳禁!
京都一周トレイルと峯道が合流するせりあい地蔵に着きました〜!(*゜▽゜)/ 京都一周トレイル標識・北山12
せりあい地蔵〜八瀬ルートで下山・・八瀬ルートは荒れ道で回避すべし!By小阿闍梨?(^^ゞ 比叡山山頂
このルートは急斜面で落石や倒木などで道がかなり荒れているので気持も歩きも荒れるので危険!・・; ̄ロ ̄)!!おろろ〜
/
峯道のせりあい地蔵から八瀬への下山ルートは、荒れて踏み跡を見失うので回避すべし!!! あ〜また日が暮れた〜
この辺りからルートが全くわからん。。。(~ヘ~;) シカなど獣除けのネットに沿って歩くと小滝があったので汗をぬぐいました〜(; ̄ー ̄川 こわっ?!
丸太橋を渡り作業道?を強引に下山中・・ 下山して空を見上げたら綺麗な満月!(^▽^;) 京都駅行きのバスが来た!(*´ο`*)=3ホッ
車内は暖かくてありがたい!(*´ο`*)=3ホッ 京阪電車・出町柳駅 中書島駅で下車!(*´ο`*)=3ホッ

Tourist.2014.01.13(M)

 

☆参考資料:比叡を歩く、比叡山延暦寺、比叡山、比叡山歴史の散歩道、滋賀県の歴史散歩道・上下巻、Wikipedia、他

 

関連サイト

比叡山・延暦寺三塔初詣

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京都一周トレイル東部(比叡山〜大原・戸寺)コースを歩くT

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秋の東山三十六峰(哲学の道・鹿ケ谷〜瓜生山〜比叡山)を歩くW

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秋の東山三十六峰(南禅寺〜真如堂〜黒谷金戒光明寺)を歩くV

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秋の東山三十六峰(清水寺〜南禅寺)を歩くU

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秋の東山三十六峰(稲荷山〜清水寺)を歩く

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古都の秋・東福寺、清水寺〜ローム、京セラX'masイルミ

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古都の秋・洛東

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秋の古都・東福寺、清水寺

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錦秋の古都・東福寺

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はんなり雅な古都迷走案内「名をきけば・・・」

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錦秋の伏見界隈を歩く・・・

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晩秋の東山々麓わびさび歩く

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東福寺、泉涌寺山内七福神めぐり

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新撰組幕末回廊散策その3

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