東山々麓「わび、さび」チャリ探訪

 

君が代を 祈る祈り 神楽岡 松も千年の 色や添ふらし (夫木集)衣笠内大臣

 

禅の心と茶の徳を伝える・・・臨済宗開山・栄西禅師と建仁寺

東に東山々麓の緑が映え、西に歩けば鴨の流れ・・・祇園花街の中にあっては、静けさに満ちた荘厳な佇まい・・・800年の歴史と禅の心に悠久の想いを馳せる日本最古の禅寺が建仁寺です。禅の世界では「安心」という事を強調します。質素な生活の中で心を安じてこそ真の豊かさと言われます。心の荒廃が目立つ現代に禅の心が道標を与えてくれる・・・開山の栄西という読みは、寺伝では「ようさい」と言いますが世には「えいさい」と読まれます。字は明庵(みんなん)、号は千光業上(せんこうようじょう)。永治元年(1141年)、備中(岡山県)吉備津宮の社家・賀陽(かや)氏の子として生まれました。建仁2年(1202年)、臨済宗の開祖・栄西禅師は東山綾小路の河原の地に一宇を建て開山とし造営には佐々木定綱、畠山重忠などが工を助け3年の歳月を費やして元久2年(1205年)に完成した建仁寺は、日本で最初の禅宗の本山寺院です。室町時代の最盛期には塔頭寺院が60以上もある大寺院でしたが、応仁の乱などの兵火で荒廃し天正年間(1573〜1592年)に再興され現在に至っています。元、寺域(境内)とされる祇園花街界隈に隣接する境内は、とても静寂で南から勅使門、三門、方丈(仏殿)が一直線に並んでいます。塔頭は、桃山時代の池泉式庭園で有名な両足院と中国(宋)の神・摩利支尊天が祀られる禅居庵等があります。栄西は14歳で落剃し延暦寺で天台密教を修め、二度の入宋を果たし日本に禅を伝えました。帰国時、茶種を持ち帰り日本で茶栽培する事を奨励し喫茶の法を普及した茶祖としても有名です。俵屋宗達の「風神雷神図屏風(国宝)」等の文化財は、京都国立博物館に寄託保管されています。

三十三間堂(蓮華王院)

天台宗妙法院の境外仏堂で正式には蓮華王院と号します。長寛2年(1164年)、鳥辺山麓(阿弥陀ヶ峯)の後白河上皇の法住寺殿に平清盛が一宇を建立し一千一体の千手観音を安置したのが起こりです。鎌倉期の建長元年(1249年)の大火に焼失しましたが、文永3年(1266年)に再建され今に至っています。秀吉が方広寺を建立した際、その一院(千手堂)となり南大門、築地塀(太閤塀)が築かれました。江戸時代には妙法院の管轄となり洛陽三十三所観音巡礼の一として信仰を集めました。室町、桃山、江戸、昭和と4度の大修理により700年間保存されています。本堂は和様の入母屋、本瓦葺きの総檜造りで約120mもあり内陣の柱間が三十三間あるので俗に「三十三間堂」と称されます。これは観音の慈悲が三十三相に示現するという経旨によったものです。堂内には1001体もの観音像が祀られています。正面、三十五間、側面、五間の細長い本堂は国宝(鎌倉期)に指定され境内の南側に太閤塀と呼ばれる築地塀と南大門は共に桃山期の豪壮に満ちた豊臣秀吉所縁の建造物(重要文化財:桃山期)

疎水放水路 旧奈良鉄道の鉄橋橋脚跡(レンガ部分) 南大門(三十三間堂/重文:桃山期)

法住寺(後白河院・法住寺御所跡)

後白河院(上皇、法皇)が御所とした法住寺殿は、右大臣・藤原為光の法住寺の跡地を利用して、永暦元年(1160年)に造営が開始されました。後白河上皇は応保元年(1161年)、この法住寺御所に移りました。寿永2年(1183年)、木曽義仲が攻め入るまでの約23年間、院の御所となりました。法住寺殿の敷地は、北は七条坊門小路(正面通り)から南は観音堂大路(泉涌寺道)、東は東山の山麓から西は法性寺大路(大和大路)までという広大なものでした。法住寺殿には、蓮華王院(三十三間堂)など多くの堂が建てられ寺院と邸宅とが立ち並んでいました。現在の法住寺は、後白河天皇の御陵(法華堂)を守護する為に建立され身代わり不動明王像が有名で「身代わりさん」と崇拝されています。

本堂(三十三間堂) 身代わり不動明王像が有名で「身代わりさん」と崇拝される旧法住寺御陵(法住寺竜宮門)
法住寺(後白河院が御所とした法住寺殿跡) 後白河天皇法住寺陵
御陵参道 法華堂には法体(ほったい)姿の後白河法皇像が祀られています。
後伏見天皇九世皇孫・常胤(じょういん)親王墓 血天井で有名な養源院 白衣弁財天

養源院

豊臣秀吉の側室・淀殿が父・浅井長政の追善の為に文禄3年(1594年)に建立した寺で長政の法号・養源院を採って寺号としました。その後、火災で焼失し淀殿の妹で徳川二代・秀忠の夫人・崇源院(於江与)が伏見城の旧材を用いて再建したと伝え本堂の左右、正面の廊下の天井には世に名高い血天井と称され鳥居元忠以下の将士が城を死守し自決した血痕(関ヶ原合戦前哨戦で落城した伏見城大広間の床板)が残っています。方丈松の間の襖絵、杉戸絵(重文:江戸期)は江戸初期の画家・野村宗達(俵屋宗達)の筆と伝えます。

白衣弁財天 玄関
境内 参道からの三十三間堂

耳塚(鼻塚)

豊臣秀吉の朝鮮出兵に纏わる遺跡で、大陸に派遣された秀吉配下の武将達が、朝鮮の人々を殺し、軍功の証明として首級でなく、死人の耳や鼻をそいで秀吉のもとに送った。その後、秀吉は供養のため一カ所に集め、塚を築いたのがこの耳塚(鼻塚)と伝えます。

京都国立博物館 耳塚(鼻塚) 方広寺石垣

豊国(とよくに)神社

豊臣秀吉を祀り俗に「ほうこく」神社と言われますが正式には「とよくに」神社と言います。慶長3年(1598)8月16日、豊臣秀吉が伏見城で63歳で亡くなると、違命により東山阿弥陀ケ峰の山上に葬られました。当初の豊国神社は、その麓に建てられ秀吉は後陽成天皇から豊国大明神の神号と正一位を与えられました。豊臣家滅亡後、徳川家康は社殿などを破却し祭祀を絶つ事300年にも及び社は荒れ放題でしたが明治元年(1868年)、豊国神社を再興、秀吉所縁の方広寺大仏殿の旧地に、現在の社殿を建立しました。唐門は伏見城の遺構と伝えられ、国宝に指定されています。

豊国神社 唐門(伏見城遺構/国宝:桃山期)

大仏殿(方広寺)

豊臣秀吉が天正14年(1586年)奈良東大寺の大仏殿を模して建立し大仏は奈良の大仏より大きい木造で高さ約19mもあったと伝わりますが、慶長元年(1596年)の大地震で倒壊し、その後再建されるも災厄によって失われ、いまでは大仏も大仏殿もなく残っているのは豊臣家を滅亡させる口実となった大鐘と本堂が残っているだけです。大鐘は家康が秀頼と淀君に勧めて再興させた大仏と共に鋳造されましたが、鐘に刻まれた「国家安康君臣豊楽」の銘が「家康の名を二分し国安らかに豊臣を君として子孫繁栄を楽しむ」意味だと家康に因縁をつけられ大阪冬の陣の開戦原因となりました。鐘内に淀君の幽霊像があり大仏七不思議の一つとされ俗に「淀君恨みの大鐘」とも称されます。

鐘楼(方広寺) 銅鐘 天井画
家康に因縁を付けられた刻銘部分 方広寺 方広寺石垣

六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)

普陀落山と号する真言宗智山派の寺で西国巡礼の札所として古来、庶民に親しまれている寺ですが、多くの仏像を有する事で美術史上重要な存在となっています。ここは、平家一門の広大な六波羅館があった所で清盛の泉殿を始め頼盛の池殿、重盛の小松殿、教盛の門脇殿などがありました。平治元年(1059年)12月の「平治の乱」で二条天皇が行幸され、娘の徳子が言仁親王(安徳天皇)を出産したのも六波羅ですが寿永2年(1183年)7月、平家都落ちの際に六波羅は一門の手で火をかけられ灰燼しました。又、常盤御前が義経らを連れて清盛の元へ出頭したのもこの辺りと伝えます。応和3年(963年)、空也上人が十一面観音を安置して西光寺と号した事が開基とされ本尊を中信が平家一門の館があった六波羅辺りに移し六波羅密寺と改名した真言宗智山派の寺で西国三十三ヶ所の第十七番札所です。寺内には平清盛の像が安置されています。

西国三十三ヶ所の第十七番札所の六波羅蜜寺 平清盛塚(左)、阿古屋塚
京都七福神の一「福寿弁財天」 石仏群

六道の辻

六道とは地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六種の冥界を意味し一切の衆生が善悪の業因によって必ず行くべき所と言われます。ここは、この六道の分岐路とも言うべきこの世とあの世を結ぶ境(接点)と言われます。このような伝説が生じたのは、かつては京の風葬地・鳥辺町(鳥辺野)の無常所へ行く道程にあたる事と小野篁の地獄行きが付会されたからです。その昔、夥しい数の人骨が出土したので髑髏(どくろ)原と称された時期があり髑髏(どくろ)が転訛して六道になったとも言われます。江戸時代初期までは髑髏(どくろ)町と言いましたが、この辺りに轆轤(ろくろ)挽きの職人が大勢住んでいたので寛永年中に京都所司代・板倉宗重の命により轆轤(ろくろ)町に変更されたと伝えます。

本堂 この世(右側)とあの世の境と伝える六道の辻

西福寺

桂光山と号する浄土宗鎮西派の寺で空海上人(弘法大師)が当地に辻堂を建て自作の地蔵尊を祀ったのが寺の起こりです。この地蔵は六波羅地蔵といい、檀林皇后(嵯峨天皇皇后)が、しばしば参詣され、皇子・正良親王が病気の際、この地蔵尊に祈願したところ無事平癒し後に仁明天皇として即位された。以来、子育て地蔵としても信仰されています。寺宝は、「熊野参詣曼茶羅図」、「熊野観心十界図」や嵯峨天皇の妃であった檀林皇后の亡骸が鳥辺野で風葬され白骨になり土に返っていく九段階の姿を描写した「檀林皇后九相図絵」や「六道十界図絵」など多数を所持しています。昔、六道の辻には六仏堂があったのですが、現在は三仏堂が残り毎年8月8日からのお盆のお精霊迎えの「六道詣り」では大勢の参拝者が訪れ堂内に「檀林皇后九相図絵」や「六道十界図絵」を掲げて説法が行われます。

西福寺 六波羅地蔵(子育て地蔵)

幽霊子育飴

今は昔、慶長4年(1599年)、京都の江村氏妻を葬りし後、数日を経て土中に赤子の泣き声がするので掘り返して見れば亡くなりし妻が産んだ児でした。その当時、夜な夜な飴を買いに来る婦人があったが赤子を掘り出して以後は来なくなりました。この子が8才の時、僧となり修行怠らず成長し遂に高僧になったという。因んでこの飴を誰ともなく幽霊子育飴と言われ京名物になったと伝えます。

本堂 幽霊子育飴(湊屋:みなとや) 珍皇寺(ちんこうじ:小野篁卿舊跡)

珍皇寺(ちんこうじ:ちんのうじ)

「六道さん」とも呼ばれお盆の精霊迎いに参拝する寺として世に名高い。当寺は京都市で最も古い寺院の一で弘法大師の師・慶俊僧都の開創とも小野篁(おののたかむら)の建立とも言われ一説には宝皇寺(ほうこうじ)の後身とも言われます。宝皇寺とは一に鳥部寺とも言い上古、東山阿弥陀ヶ峰(鳥部山)山麓一帯に蟠居していた鳥部氏の建立した氏寺ですが鳥部氏の哀徴により寺も無くなり今はその遺蹟も明らかにしません。当寺はこの宝皇寺の後身と言われ境内から奈良期の瓦を出土した事があるので平安遷都以前既にこの付近に古寺があった事が立証されています。珍皇寺は元、真言宗で東寺に属していましたが中世の兵乱に荒廃し正平12年(1361年)、建仁寺の僧・良聡によって再興され臨済宗建仁寺に属しています。現在の建物は延宝年間の再建で本堂に薬師如来坐像(重文:藤原期)を本尊とし脇檀に地蔵菩薩を安置します。篁堂には衣冠束帯姿の小野篁像(江戸期)と閻魔大王像が安されています。篁は嵯峨天皇に仕えた平安初期の官人であり歌人ですが古来、小野篁には不思議な伝説があり昼は朝廷に出仕し夜は閻魔庁でアルバイトをしていたと伝えます。

篁堂 小野篁像 閻魔大王像

毎年、盂蘭盆(うらぼん)にあたって精霊を迎える為に造られた事から迎え鐘と言いこの鐘の音響が十万億土の冥土に迄届くとされ亡者はその響きに応じ現世に呼び寄せられると伝わります。故人の名前を呼びながら鐘を撞くのですが先祖の多い人は相当時間、労力を要するので寺僧が立会い一人三回限りとされています。古事談によるとこの鐘は慶俊僧都が造らせたとされ慶都が唐国へ行く時にこの鐘を3年間地中に埋めておくようにと寺僧に命じて旅立ちましたが留居の寺僧は待ちきれず一年半ばかりして掘り出し鐘を撞いたところ、遥か唐国にある僧都に聞こえ「あの鐘は3年間地中に埋めておけばその後、人手を要せずして6時になると自然に鳴ったものを惜しい事をしてくれた。」と言って残念がったそうです。本堂背後の庭内には篁が冥土へ通ったいう井戸があり傍に彼の持念仏を祀った竹林大明神という祠があります。

迎え鐘 石仏群 篁が冥土へ通ったいう井戸と竹林大明神
本堂 閉店された幽霊子育飴取次ぎ店(木村茶舗) 新しい幽霊子育飴取次ぎ店(マキノ電気店)

宮川町

松原橋を渡った鴨川の東岸に沿って南北に連なる京都市に於ける花街の一で格子づくりのお茶屋が軒を連ね他の花街に見られぬ風情を呈しています。江戸初期の寛延年間(1748〜50年)、鴨川の積地を開き町地とし北の1丁目〜南の8丁目に至る道路を設けこれを宮川筋と呼びました。宮川とは、四条より五条に至る間の鴨川を称したもので毎年7月10日の夜、四条大橋上に於いて祇園祭の「神輿:みこし洗い」の式に橋下の水を汲んで祓いを行う事から宮川という名が起こりました。

宮川筋で舞妓はんに「自転車は寒おすやろ?」と声を掛けて頂きました!(@^.^@) えへっ 恵美須神社

恵美須(ゑびす)神社

栄西禅師が宋より帰朝の時、海上で暴風雨の難に遭ったが夷神の守護により難を免れたとされ建仁寺創建にあたって寺の鎮守としたのが当社の起こりと伝えます。されば、昔は西海へ赴かんとする者は当社に詣で風波の難がない事を祈りました。応仁の兵乱後に社殿を当地に移して再建され今は八重言代主、少彦名、大国主の三神を祭神とし毎年、1月10日の十日夷と10月12日の夷講には参拝者で大変に賑わいます。

夷さん像 境内 本殿
板を叩いて参拝します・・・夷さんは耳が遠いとか?(>_<)  建仁寺

日本最古の禅宗本山寺院・・・建仁寺

東山(とうざん)と号する臨済宗建仁寺派の大本山です。開山・栄西禅師は鎌倉時代の建仁2年(1202年)、源頼家(開基)の帰依を得、中国の百丈山の殿舎を模して建立したのが起こりで土御門天皇は勅願寺とされ、当時の年号によって建仁寺の号を賜りました。創建当時は天台、真言宗の旧仏教勢力が強く天台、真言、禅の三宗兼学を建前とし比叡山の末寺という形で止観院、真言院を設けたが大覚禅師(蘭渓道隆)の時に禅宗のみの寺に改めました。以来、武家の信仰を集め足利義満が五山制度を設けると当寺は第三位となったが中世の兵乱にしばしば罹災しました。天正年間(1573〜1592年)、豊臣秀吉の信任を得た東福寺の恵瓊(えけい)によって復興されましたが仏殿は未だに再建に至らず法堂(はっとう)との兼用になっています。

平重盛(一説に教盛)の館門を移築した勅使門 境内 浴室
三門 山門からの仏殿(法堂) 開山堂山門(開山堂は、非公開)

法堂「拈華堂」(ねんげどう:仏殿兼用)

明和2年(1765年)に上棟された法堂(はっとう/拈華堂:ねんげどう)は、未だ再建に至らずの仏殿兼用する五間四間、一重、裳階付の堂々とした禅宗様仏殿建築で正面須弥壇には本尊釈迦如来坐像と脇侍迦葉尊者、阿難尊者が祀られています。法堂の天井に平成14年(2002年)、創建800年を記念して小泉淳作画伯筆の「双龍図」が描かれました

茶碑 法堂(仏殿) 庫裏(裡:本坊)
方丈(重文:室町期) 風神雷神図屏風(レプリカ) 中庭 
丸窓は「悟りの窓」とも言われます・・・ 中庭・・・方丈〜大書院への回廊(渡り廊下)
田村月樵筆「唐子遊戯図」 達磨図 白隠自画賛 枯山水「大雄苑」
橋本関雪筆「松韻」 輿(駕籠)があります・・・ 俵屋宗達作「風神雷神図」(レプリカ)
橋本関雪筆「伯楽」 茶室「東陽坊」
北野大茶会で利休の高弟・真如道東陽坊長盛が担当した副席と伝える草庵式二畳台目席 枯山水「大雄苑」
枯山水「大雄苑」@方丈(重文:室町期)・・・しばし、瞑想ing・・・Zzz〜 σ(^◇^;) おいおい
枯山水「大雄苑」 橋本関雪筆「生々流転」
枯山水「大雄苑」 本尊は東福門院寄進の十一面観音菩薩 橋本関雪筆「生々流転」
橋本関雪筆「生々流転」 花頭窓 法堂 須弥壇
平成14年(2002年)、創建800年を記念して小泉淳作画伯筆による「双龍図」が法堂の天井に描かれました。

一力亭

仮名手本忠臣蔵にも登場する伝統のあるお茶屋で暖簾の文字は万とも読め元は万亭という屋号でしたが、いつしか万の字を二分し一力亭と名乗るようになったとされます。文久3年(1863年)、禁門の変で功績のあった近藤勇ら浪士隊は新撰組を拝命し市中取締を命ぜられ、この年、一力亭で行われた諸般周旋方会議に出席し公武合体論を論じたとされます。一力亭は一見さんお断りの店で入店するには常連さんの紹介が必要です。

枯山水「大雄苑」と方丈(重文:室町期) 仮名手本忠臣蔵で知られる一力亭 高さが24.4mある大鳥居

王朝絵巻の再現・・・平安神宮

明治28年(1895年)、平安遷都1100年を記念し桓武天皇、孝明天皇を祭神として創建された旧官幣社で京都市民の氏神として崇敬されています。社殿は大内裏の約2/3に縮小して模造されているのが特徴で平安京創建当時を偲ばせています。応天門は五間三戸、入母屋造り、丹塗りの勾欄を廻らした二層楼門で大極殿(拝殿)は入母屋造り、屋根は碧瓦葺とし棟の両端に燦然たる金色の鵄尾(しび)を載せ中央身屋(もや)の四周に廂間(ひさしのま)を備えます。大内裏八省院の正殿大極殿を模したとされ52本の朱塗りの円柱が整然と列立する様は壮観で本殿は東西に並ぶ二棟の社殿からなり右に桓武天皇、左に孝明天皇を祀り檜の白木造りで四周に透塀を廻らせています。

平安神宮 応天門 大極殿@応天門
白虎の手水 蒼竜の手水 大文字山

大極殿(だいごくでん:拝殿)

平安神宮内の建物は平安京大内裏の正庁である朝堂院を2/3に縮小して模造したもので大極殿は政治を司った所です。碧瓦は、国家の重要な施設でしか使用を許されなかったと伝えます。

白虎楼 大極殿(拝殿) 蒼竜楼
参拝中でつ・・・内拝殿、本殿 白砂敷きの龍尾壇 金戒光明寺
京都大学医学部(解剖学)の巨大供養塔 真如堂 大文字山
比叡山 琵琶湖疎水分線、哲学の道@銀閣寺橋 銀閣寺参道

「わび、さび」の東山文化の代表・・・世界文化遺産・銀閣寺(東山慈照寺:じしょうじ)

金閣寺(鹿苑寺:ろくおんじ)の北山文化の華やかさに比べ東山文化の「わび、さび」の世界を漂わせる銀閣寺は室町幕府8代将軍・足利義政が、祖父の義満が建てた北山殿金閣(鹿苑寺:ろくおんじ)にならって文明14年(1482年)に隠栖生活を過す為に山荘の東山殿を造営したのが始まりです。義政の死後、遺言により臨済宗相国寺派の禅寺に改められ義政の法号・慈照院に因んで東山慈照寺と号しました。東山殿は義政を中心に形成された東山文化の発祥地で近世的生活文化の発端を成し今も東山文化と禅宗文化の結合が見れます。銀閣(観音殿/国宝:室町期)は、観音殿として質素高貴な建築意匠です。義政の持仏堂である東求堂(とうぐどう)は日本最古の書院造りで国宝に指定されています。東求堂内の北面東側にある四畳半の茶室は同仁斎(どうじんさい)と呼ばれ草庵茶室の原型とされます。特別名勝、特別史跡の庭園は西芳寺(苔寺)の庭園を模して義政と善阿弥によって作庭されたものです。白砂を段形に盛り上げ中国・西湖を模した銀沙灘(ぎんさだん)や向月台(こうげつだい)が、月光を反射して銀閣を照らすと言われます。

銀閣寺垣 中門 向月台(こうげつだい)
白砂を段形に盛り上げ中国・西湖を模した銀沙灘(ぎんさだん)
本堂 錦鏡池
観音殿(銀閣/国宝:室町期) 先月泉 樹齢五百年と伝える千代の槇

相阿弥の築いた漱蘚亭(そうせんてい)石組み

銀閣寺俯瞰

哲学の道

大正時代、京都帝国大学(京都大学)の哲学者・西田幾太郎や経済学者・河上肇などが散策しながら思索にふけった事に因んで命名されたと伝えます。北は銀閣寺参道に架かる銀閣寺橋から琵琶湖疏水分線に沿って南は若王子橋までの全長約1.8kmの散策路として市民や観光客に親しまれています。春は桜の名所としても知られ見事な桜並木は日本画家・橋本関雪画伯の夫人が絵画が売れた時、桜の苗木を買い当時、荒れていた小道沿いに植樹され現在の見事な桜並木道に至るとも伝え「日本の道百選」にも選ばれています。

観音殿(銀閣/国宝:室町期) 哲学の道@銀閣寺橋から南下しまつ・・・ 春は桜並木が美しい散策路
哲学の道をチャリチャリ・・・疎水分線は京都では珍しく南から北へ流れます。 昭子内親王(後水尾天皇皇女)御墓

新撰組副長・土方歳三?の喫茶店

司馬遼太郎の「新撰組血風録」、「燃えよ剣」で新撰組副長・土方歳三役を演じ土方と言えば栗塚とまで評された俳優の栗塚旭(あさひ)氏が経営する喫茶店です。学生時代に訪ねてお会いしてサインを頂きました。久し振りに訪ねたのですが残念ながら今は休業されているようです。

「新撰組血風録」、「燃えよ剣」で新撰組副長・土方歳三役を演じ土方と言えば栗塚とまで評された俳優の栗塚旭さん経営の喫茶店
今は営業されていない? 猫ちゃんでつ!(@_@;) 哲学の道と琵琶湖疎水分線@若王子橋

熊野若王子(くまのにゃくおうじ)神社

社伝によると永歴元年(1160年)、後白河法皇が近くの永観堂の守護神として熊野権現を勧請して建立した若王子の鎮守社で社名は天照大神の別称の若一王子に因んで社名とされました。以後、室町幕府及び武家の信仰を集めると共に花見の名所としても知られ、 寛正6年(1465年)3月、足利義正により花見の宴が催されました。後の応仁の乱により社殿は荒廃したが、豊臣秀吉により再興され社殿及び境内が整備された現在の社殿は昭和54年(1979年)、一社相殿に改築されたもので以前は本宮、新宮、那智、若宮の四棟からなっていた。

熊野若王子 末社・夷川恵比須社(左)と本殿 御堂屋根の宝形

永観堂

聖衆来迎山禅林寺と号する浄土宗西山禅林寺派の総本山です。斎衡2年(855年)、弘法大師の高弟・真紹(しんしょう)僧都が仁明天皇の聖恩に報いる為に平安朝前期の文人・藤原関雄の山荘を関雄亡き後、寺院とし貞観5年(863年)に禅林寺と名を賜ったのが起こりです。その後、衰徴したが平安時代末期の承暦年間(1077〜1081年)、 盛んに念仏を広めた永観律師が住持となり念仏道場を開き、寺を中興し中興開山と呼ばれ寺名も永観堂と呼ばれるようになりました。鎌倉時代中期に浄土宗西山禅林寺派の本山の基礎を固めました。その後、応仁の乱に焼亡し久しく荒廃しましたが、明応6年(1497年)後土御門天皇の勅によって諸堂が再建され現在の伽藍が整えられました。本尊の阿弥陀如来立像は、首を左に見返った世にも珍しい優美な尊像で「見返りの弥陀」と言われ永観律師が念仏行道をしている時、阿弥陀仏が先に立って共に念仏行道を始めたのに驚き躊躇している永観律師に振り返り「永観遅し」と言われたと伝える京都六阿弥陀仏の一です。寺宝は、長谷川等伯筆の金地諸色「竹虎図」八面、「松に水禽図」など八面の襖絵等を所蔵。東山随一の紅葉の名所とも言われ全山が錦に染まる晩秋の頃は、美しい景観を楽しめます。

若王子橋 永観堂 三門@南禅寺

三条大橋

最初の三条大橋は何時頃掛けられたか定かではなく天正18年(1590年)、豊臣秀吉が増田長盛を奉行として改築したと伝わります。紫銅で作られた擬宝珠(ぎぼし)を冠した長さは101m、幅約7mの石柱木造大橋でした。現在も風情のある橋として広く親しまれ欄干の擬宝珠14個は当時のものが使われています。東海道五十三次の起点であり、西詰にはその事を示す里程元標や弥次郎兵衛、喜多八像もあります。明治元年(1868年)、新撰組局長・近藤勇は下総国(千葉県)流山で大久保大和と名乗って倒幕軍に出頭したが薩長軍にいた元・御陵衛士(元・新撰組隊士)によって近藤勇だと発覚し板橋の刑場で斬首刑になり首は京都に送られて三条大橋の河原に晒されました。現在の橋は昭和25年(1950年)に改修された。

南禅寺 白川 三条大橋

七条河原

七条河原も往古は戦場になり中世以降は処刑場となり天慶3年(940年)2月14日、平将門(たいらのまさかど)は天慶の乱(将門の乱)で討死し京都七条河原に将門の首が晒されました。その首は三ヶ月が過ぎても腐食せずに目を見開き続け、ある晩に胴体を求め怒りの声をあげながら東の空を目指して飛び去ったと言われます。慶長5年(1600年)10月1日、関ヶ原の戦いで敗れた西軍の将・石田三成、小西行長、安国寺恵瓊(えけい)そして大坂の陣後に捕らえられた豊臣秀頼の遺子・国松も斬首刑となり晒し首にされました。

七条大橋 京都タワー 知人に勧められていたケーキ屋さんへ σ(^◇^;) どもども

Tourist  2006.01.23(M)

 

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